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第16話(4)

** 元日から、なんとも気が重くなるような仕事だった。 和彦の本来の仕事は美容外科医で、患者のコンプレックスを取り除き、幸せになる手助けをするのが仕事だ。普段は、こういった理想や理念を意識することはなく、患者の望みに近づけるよう努めるだけだ。 しかし長嶺組の専属医となってから、和彦はいくつかの不本意な手術を手がけていた。 初詣をした神社の駐車場で賢吾と別れ、組員が運転する車で向かったのは、『池田クリニック』だ。さすがに元日だけあってビル全体に人気はなく、こんな日に慌しく動いているのは、後ろ暗いところがあるヤクザと、そのヤクザに手を貸す美容外科医ぐらいかもしれない。 そんな皮肉っぽいことを考えた和彦が引き合わされたのは、中年の男だった。凡庸な顔立ちながら、一目で筋者とわかる険しさが顔に張り付いている。 その男が何者なのか和彦は尋ねもしないし、同行している組員たちも話そうとはしない。組絡みの仕事は、これが普通なのだ。 和彦への依頼は、男の顔を変えてほしいというものだった。それがどういう意味なのか、考えるまでもない。 顔の骨を削れるほどの時間も人員もないとなると、取るべき手段は限られる。顔に異物を入れて、形を変えるしかないのだ。 いつだったか千尋に言ったことがあるが、美容外科医としての和彦は、骨を削る技術に自信を持っている反面、安易に異物を入れる手術があまり好きではなかった。これが自分のプライドだと思っていた時点で、驕っていたのだろう。 今の立場は、そういうプライドを徹底的に砕いてしまい、相手の要望に短時間で応える技術や要領が、否応なく身についてきていた。 あとで取り出すことを前提に、あごや鼻に異物を入れて、大まかに顔の印象を変える。さすがに瞼にはメスを入れたが、これはあえて、二重の目を重く見せるための処置だ。点滴を含めて三時間ほどの処置だが、男の顔の印象は大きく変わる。 男は最後まで口を開かなかったが、その代わりに、付き添いの組員から大げさなほどの労いと賞賛の言葉をもらった。だからといって嬉しいわけではないが、長嶺組の専属医として評価されないよりはよほどいい。 手術室を片付けた和彦がクリニッ
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第16話(5)

 着替えて少し休みたいと思っていたが、本宅の前を通りかかったとき、それは無理だとすぐに諦めた。大晦日ほどではないが、本宅の前には高級車がずらりと並び、いかつい男たちが辺りを睥睨するように視線を向け、警戒している。 午後から夜にかけて、長嶺組から盃を受けている組が、新年の挨拶のため本宅を訪れるのだという。当然、組長である賢吾は、そのすべてに応対しなければならない。 昔は三が日が明けてから、新年の挨拶を受けていたそうだが、〈働き者〉揃いの総和会のおかげで、慌しい正月につき合う習慣になったのだという。 混乱を避けるため、長嶺組の身内扱いである和彦は裏口に車を回してもらい、そこから家の中に入る。 その足で客間に向かおうとしたが、待ちかねていた組員に呼び止められ、応接間へと案内される。着物姿の賢吾がソファに腰掛けていた。「ご苦労だったな、先生。楽しい正月だっていうのに」「……表の光景を見たあとで、あんたのその言葉を聞くと、笑えない冗談としか思えない」「俺は、人望があるんだぜ。誰も彼も、正月に俺に会いたがる。正月に俺への挨拶を許されるってことは、長嶺組が今年一年、しっかり面倒見てくれる証なんだそうだ」 手招きされた和彦が賢吾の側に歩み寄ると、組員たちの視線を気にかけた様子もなく、腰を抱き寄せられた。「そう言われるということは、あんたは面倒見のいい組長なんだな」「なんだ。お年玉代わりに褒めてくれるのか?」 上目遣いに見上げてきた賢吾の意味ありげな表情を見て、和彦の顔は熱くなる。大晦日の夜、〈お年玉〉だと言われて賢吾に何を求められたのか、思い出したのだ。 和彦の動揺する姿を見られて満足したらしく、賢吾は腰から手を離した。「ちょっと遅くなったが、昼メシを食ってくるといい。大広間は、挨拶に来た連中が集まって飲み食いしている。顔出して、挨拶してくるか?」 本気とも冗談とも取れる賢吾の言葉に、和彦は遠慮なく首を横に振る。「疲れてるんだ。……新年早々、こんな不景気な顔を人前に晒したくない」「不景気どころか、疲れているときの先生は、なかなかのも
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第16話(6)

 賢吾なりに、和彦との会話は気分転換だったのだろう。楽しげに喉を鳴らして笑ったあと、軽くあごをしゃくった。「うちの連中は、ダイニングで交代で昼メシを食ってる。もうほとんど食い終わっただろうが、先生が楽しみにしていたおせちが残ってるはずだ。食ってくればいい。夜から、俺や幹部たちと一緒にまた出かけてもらうが、それまではゆっくりと過ごせ」 わかった、と応じて和彦は応接間を出ていこうとしたが、大事なことを思い出して足を止める。「予定が狂ったと言ってたが、総和会の会長への挨拶は――……」 こう切り出したとき、自分の声にわずかな期待が込められていることを、和彦はよく自覚していた。賢吾は大仰に片方の眉を動かす。「俺たちは済ませたが、先生だけ、また日を改めるしかないだろうな。いつになるかはわかんねーが。何しろ、気まぐれなジジイだ。残念だったな、先生。〈楽しみ〉にしていたのに」「まったくだ」 賢吾の当て擦りを、まじめな顔で和彦は躱した。 総和会会長との顔合わせがキャンセルとなり、ダイニングへと向かう和彦の足取りは、どうしても軽やかなものとなる。何より、ようやくおせち料理が食べられると、楽しみにしていた。朝食では雑煮が振る舞われたが、それもまた美味しかったのだ。 正月らしく、ようやく浮かれ気分に浸った和彦だが、それも、ダイニングに向かうまでの間だった。 何げなくダイニングを覗き、意外な人物の姿があることに目を丸くする。相手もすぐに和彦に気づき、優雅に微笑みかけてきた。「――お先にいただいています、先生」 そう言って秦が、手にした小皿を軽く掲げて見せてくる。その小皿の上には、和彦が味見した伊達巻がのっていた。 給仕をしている組員に呼ばれ、和彦は渋々、秦の隣の席につく。「……ここがヤクザの組長の家だってことを、一瞬忘れそうになった。元ホストのイイ男が寛いで、おせち料理をつついているんだからな」「組長への挨拶を済ませたら、すぐにお暇するつもりだったんですが、せっかくだからおせちを食べていけと言っていただけたので、遠慮なく。それに、食べている間に、先生も戻
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第16話(7)

 ようやくおせち料理を味わいながら、秦と他愛ない話をする。一見、優雅な新年を送っているように見える秦だが、明日から仕事始めだそうだ。「経営者も大変だな」 そう相槌をうった和彦に対して秦は、艶やかすぎるからこそ胡散臭く感じる眼差しを向けてくる。「先生だって、クリニック経営者でしょう」「どこがだ。表向きの経営者は別の人間になっているし、実質的にも、すべてを決めるのは長嶺組だ。ぼくは、言われるままに患者を診るだけだ」「でも、先生がいないと、あのクリニックは動きませんよ」 思わず箸をとめた和彦は、秦の指摘の正しさを認める。長嶺組の意向が強く反映してはいても、自分のクリニックだという意識は、確かに和彦の中にあるのだ。「……自分の力で手に入れたものなら、胸を張れるんだがな」「まあ、わたしも、実業家という肩書きを手に入れた経緯は、人に誇れるものじゃないんですが」 首を傾げた和彦に、秦はそっと声を潜めて教えてくれた。「父の〈隠し財産〉を使ったんです」「表にできない金というやつか?」「そう、わかりやすいものならよかったんですけどね。――長嶺組長が非常に興味を持たれているものです」 艶やかな存在感を放つ秦は、見た目の華やかさとは裏腹に、謎が多くて胡散臭い。帰化して国籍が変わったという告白もあってか、和彦には想像もつかない業を背負ってもいるようにも思える。 それに、中嶋に対する倒錯した執着や、捻くれた欲情を知ってしまうと、端麗な容貌のこの男から、獣の素顔が透けて見えそうで、不気味だ。だからこそ、ヤクザとの親和性が高いといえるのかもしれない。 もしかすると、ヤクザの〈オンナ〉とも――。 和彦は箸を置くと、両耳を塞ぐ仕草をする。「物騒な話なら、聞きたくない。君の過去は、ヤクザとは種類の違う、危ない匂いがプンプンするんだ。聞いたら、嫌でも関わることになる」「今のような環境にいて、その姿勢を貫こうとするのは、すごいですね」「……そういうことで褒められても、嬉しくない」「でも、先生自身が危ない連中を引
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第16話(8)

 当の秦は、組員にしっかりコーヒーまで淹れてもらい、こちらも美味そうに啜っている。明らかに、和彦が食事を終えるのを待っている様子だ。  最初は気づかないふりをして席を立とうかとも思ったが、和彦と秦はまだ、交わすべき会話を交わしていなかった。  秦のせいで和彦は、不可解な衝動を胸の内に抱えてしまった。これはきっと、和彦の特別な男たちといくら会話を交わし、口づけをして、体を重ねたところで消えはしない。和彦自身、扱いかねている、欲情だ。  この欲情と、早々に折り合いをつけてしまいたかった。理解するのはもちろん、どうやって〈散らす〉べきなのかということも。  和彦が食べ終えると、お茶と一緒に出されたのは、グラスに入ったオレンジジュースだった。こんなときでも忘れないのだなと、密かに苦笑を洩らしてから、一気に飲み干す。 「――先生、よければ、近所を散歩しませんか?」  絶妙のタイミングで秦が切り出し、和彦は頷いた。**「正月に、ヤクザの組長の本宅から、その組長のオンナを連れ出すなんて、度胸があるな」  和彦はコートのポケットに両手を突っ込んで歩きながら、呆れた口調で言う。隣を歩く秦は、様になる仕草で肩をすくめた。 「なんといってもわたしは、組長公認の〈遊び相手〉ですから。先生を散歩に連れ出すのに、度胸なんて必要ありません」 「護衛も断った」 「体を張って、わたしが先生を守りますよ。それに何かあれば、組員の方たちが駆けつけられる距離ですから、安心してください」  和彦は、歩いてきた道を振り返る。秦の言う通り、本宅と、目的地であるという広場までは、わずかな距離だ。散歩と表現するのもはばかられる。 「……別に本気で、自分が誰かに襲われるとは思ってない。本当は、いつも張り付いている護衛の組員も必要ないと思っているぐらいだ」 「それは仕方ないでしょう。なんといっても先生は、長嶺組にとって大切な人だ。それに今は――いろいろあるでしょう?」  和彦は横目で秦をうかがう。口にはしないが、和彦が強い拒絶を示したことを察したらしく、秦はそれ以上、佐伯家のことを匂わせなかった。 「わたしとしても、先
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第16話(9)

 薄い笑みを浮かべた秦が、自分の口元を指さす。ああ、と声を洩らした和彦は、顔をしかめる。「君に避けられ続けて、少し落ち込んでいるようだったぞ、中嶋くん。ぼくとしては、困惑する彼の姿を想像して、君は楽しんでいるんじゃないかと思っているんだが――」「残念ながら、本当に忙しかったんです。しかし中嶋は、先生に対しては素直なんですね。少し妬けますよ」「……自分の素性を明かしもしないくせに、相手の心の内は知りたいなんて、ずいぶん都合がいいな。それだけで愛想をつかされても、仕方ないぞ」「手厳しい」「ぼくだって、彼に隠し事をしていて、心苦しい思いをしているんだ。少しぐらい言わせてくれ」 苦笑した秦に促され、広場に入る。初めて立ち寄ったが、住宅街の中にあるこの場所は、広場とはいっても、整備されたグラウンドがあるわけでもなく、子供がボール遊びをできる程度のスペースと、こじんまりとした遊具がいくつかあるぐらいだ。しかし、景観はいい。花壇や植木はきれいに手入れされ、ゴミ一つ落ちていない。この辺りの住人たちに大事にされている場所のようだ。 ただし、元日の昼下がりに、寒さに震えながら広場で過ごそうという物好きは、和彦と秦の二人しかいない。 和彦はジャングルジムに歩み寄り、パイプに手をかける。ここで、マフラーをしてきたものの、手袋を忘れたことに気づいた。両手を擦り合わせて温めようとすると、すかさず秦に両手を挟み込まれた。 驚いて目を丸くする和彦にかまわず、秦は鼻歌でも歌い出しそうな表情で、優しく手をさすり始める。 武骨さとは無縁のこの手が繊細に動き、どんな快感を生み出すのか、和彦は知っている。それに、この手を本当に欲している男のことも。「……君がどれだけすごいホストだったのか、よくわかるな」「相手が先生だと、尽くすほうとしても身が入りますよ」「どうせ尽くしてくれるなら、下心のない相手のほうがいい」「三田村さんのような?」 和彦がジロリと睨みつけると、秦はおかしそうに声を洩らして笑う。正月ともなると、誰も彼も機嫌がよくなるものなのだろうかと、和彦は少し不思議だ
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第16話(10)

「彼を振り回している元凶が、何言ってる。……知らん顔はできないだろ。それにぼくも、彼とはちょっと込み入った事情がある」「その口ぶりだと、わたしのキスをしっかりと、中嶋に教えてくれたということですか」 どう答えるべきなのかと、本気で和彦は悩む。それが何より雄弁な返事になっていたらしく、秦はくっくと声を洩らして笑う。「おい――」 和彦が声を荒らげようとした瞬間、握られていた手がパッと離される。秦の両腕が体に回され、しっかりと抱き締められていた。「……ぼくは、君が抱きたい男の〈教育係〉なんて、やる気はないからな」 甘く絡みつくような抱擁が、しっかりと寒さを防いでくれる。秦の腕の中で強気な発言をするのは、なかなか至難の業だ。 自分の美貌の威力をよく知っている秦は、容赦なく和彦の顔を覗き込んでくる。「先生に接することで、嫌でも中嶋は変わらざるを得ない。貪欲で淫弄な〈オンナ〉の本質に触れて、中嶋はリアルに感じますよ。男と体を重ねるということを。それが決して、綺麗事とは相容れない行為だということも。そういう意味で先生は、生きる教本みたいな存在です。いろんなことを中嶋に教えて、刺激してやってください」 秦の腕に力が込められ、和彦はわずかに身じろぐ。柔らかく艶やかな存在感を放ってはいても、こうしていれば、秦がそれだけの男ではないと感じ取ることができる。明け透けな欲望を知っている分、〈雄〉という表現がしっくりくる。「ぼくは、ヤクザと、ヤクザに近い連中の言うことは信じないようにしている。ウソの中に事実を紛れ込ませているのか、事実の中にウソを紛れ込ませているのか、それすら読ませない、食えない奴ばかりだからな。だけど、これだけは信じられるんだ」「なんです?」「――肉欲。その点は、わかりやすい男ばかりだ。ぼくも含めて。もちろん、君も」 この瞬間、秦の顔から柔らかさが消える。少し余裕を失ったほうが、人間味が増して好感が持てると思いながら、和彦は秦の頬にてのひらを押し当てた。「本気で、抱きたいと思ってるんだな、中嶋くんを。純粋に、欲望の対象にしている」 甘くぬ
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第16話(11)

「あいつを組に紹介したわたしが言うのもなんですが、ヤクザなんて生き物になってくれたせいで、苦労しますよ。矜持だ誇りだと、高尚なものばかり身につけて、それを支えに野心を燃やしている男ですから、中嶋は。力ずくでわたしの〈オンナ〉にした途端、あいつの何もかもを壊してしまいそうで。だから、あいつ自身が変わるのを待つしかない――。先生に出会うまでは、これでもけっこう、気長に待つつもりだったんですよ」「一応、中嶋くんを大事にしているということか。組長に言わせると、性癖が歪んでいる男なりに」「いろんな愛し合い方を知っているだけです。それに、実践もしてみたい。こういう性質の悪いわたしにお似合いなのは、やっぱりヤクザという人種かもしれません」「……中嶋くんのほうから、逃げ出すかもしれないぞ」「そのときは、先生がサポートしてくれますよね?」 秦にぶつけた言葉が、自分にそのまま返ってきたようだった。 秦と中嶋の関係は、和彦を惑わせる。自分が、どちらの立場に立って興奮と快感を覚えているのか判断がつかなくなる。 この曖昧な感覚に身を委ねたら、胸の内に息づく不可解な衝動を散らせるのだろうか。 ふとこう考えた瞬間、和彦の中を甘美な感覚が駆け抜ける。誘われたように、秦が和彦の唇を軽く塞いできた。「――先生、今、感じている顔をしてますね」 間近で秦がそう囁き、舌先で唇をなぞる。心地よさに、和彦は喉の奥で声を洩らした。 この口づけも中嶋に教えるべきなのだろうかと思いながら、秦と舌先を触れ合わせ、緩やかに絡める。 昨夜、布団の中で繋がりながら、賢吾に言われた言葉が蘇っていた。 大蛇の化身のような男は、何もかも知っている。和彦にさまざまな男の思惑や欲望が絡みつく様を、楽しんでいるぐらいだ。和彦の中で妖しく息づく感覚も見抜き、より大きく育てようとしていても、不思議ではない。 秦を〈遊び相手〉として和彦にあてがい、その一方で、中嶋との特殊な交友関係を認める意図は――。 淫らな想像のせいか、それとも寒さのせいか、大きく体を震わせると、秦にきつく抱き締められる。和彦もおずおずと、秦の背に両腕を回した。
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第16話(12)

** 靴を脱いだ和彦は、熱くなっている頬を手荒く撫でてから、唇を手の甲で何度も拭う。頬以上に、たっぷり秦に貪られた唇が燃えそうに熱かった。 その秦は、本宅まで和彦を送り届けて、すぐに帰ってしまった。賢吾に睨まれるのが怖いと、冗談っぽく言っていたが、案外本音なのかもしれない。本当に慌しく裏口から出ていってしまったのだ。 出迎えてくれた組員に促されて廊下を歩きながら和彦は、今度は唇に指を押し当てる。 秦との口づけは、麻薬めいた中毒性がある。それはきっと、秦という男の向こうに、中嶋の姿を見てしまうからだ。一方の秦も、和彦の向こうに同じ姿を見ているはずだ。 倒錯的な欲情に魅せられる反面、厄介なことに巻き込まれたくはないと、理性が警鐘を鳴らしている。 中嶋と距離を取るべきなのかもしれないと思った。本来であれば中嶋は、もう和彦と会う必要のない人間だ。 誘いさえ断ってしまえば、関係など簡単に断てるだろう。漠然とそんなことを考えていた和彦の目に、廊下の向こうから歩いてくる男たちの姿が飛び込んでくる。 先頭を歩く男は、偉丈夫という表現がしっくりとくる大柄な男だった。他者を圧倒しそうな逞しい体をダークスーツで包み、三十代後半に見える顔に、儀礼的な笑みを浮かべている。特別整った顔立ちをしているわけではないが、浅黒い肌と、剣呑とした鋭い目つきが印象的だ。威嚇しているわけでもないのに物騒な雰囲気が漂い、何かの拍子に荒々しい力を振るい始めても不思議ではない危なさがある。そのくせ、仰々しいほど物腰は礼儀正しい。 こちらに気づくと、軽く会釈をしてくれた。それは男だけではなく、男が引き連れている数人の若者たちも同様だ。 統制がよく取れた様子からして、男の舎弟だろうかと思いながら、廊下を曲がっていく彼らを見送っていた和彦だが、最後の若者の顔を見た瞬間、ドキリとした。中嶋がいたからだ。 つまりこの一団は、総和会の男たちというわけだ。 他の男たち同様、ダークスーツを着込んだ中嶋は、今日はきれいに髪を撫でつけ、引き締まった表情をしていた。こうして、同じような格好をした男たちの中にいると、やはり中嶋の外見の〈普通っぽさ〉は際立っている。普通の
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第16話(13)

**** 小気味いい衣擦れの音が室内に響く。なんとなく足を崩せる空気ではなく、和彦は畳の上に正座したまま、姿見の前に立つ男の後ろ姿を見上げていた。 賢吾は長襦袢の上から、慣れた手つきで腰紐を結ぶ。いままで和彦の周囲には、着物を着こなす男はいなかった。そのせいか、無駄のない所作で着付けていく姿に、つい見入ってしまう。「――先生、着物を取ってくれねーか」 ふいに賢吾に声をかけられ、和彦はピクリと肩を揺らす。熱心に見つめる和彦の視線に気づいていたのか、姿見に映る賢吾はニヤニヤとしている。 急いで立ち上がり、衝立に引っ掛けられている着物を取って賢吾に手渡した。ついでに帯を手にして、傍らに立つ。「元日に先生が見かけたのは、総和会の第二遊撃隊の連中だ。中嶋は、そこの所属だろ。知らなかったのか?」「さあ……。遊撃隊云々というのは前に教えてもらったが、詳しくは聞いていない」 元日に、本宅の廊下を歩いていた一団について、ずっと気になっていた。正確には、その一団の中にいた中嶋の態度が、なのだが。 元日早々、中嶋のことについて尋ねるのはためらわれ、結局、三日になってからやっと、世間話を装って賢吾に問いかけたというわけだ。 中嶋から向けられた冷たい一瞥が、脳裏に焼きついている。あの一瞥を見てまっさきに和彦が考えたのは、広場での秦との行為を見られたかもしれないということだ。かつて和彦は、中嶋が見ている前で秦にキスをされた。あのときの中嶋は、和彦に敵意を向けることはなかったが、現在とは状況が違っていた。 もしかすると、広場での行為は関係なく、秦が和彦の〈遊び相手〉だということが知られたのかもしれない。 中嶋に隠し事をしているのは事実で、だからこそ、何が理由なのか見当がつかなかった。和彦は一人うろたえ、あれこれと思い悩んだ挙げ句に、賢吾に遠回しな質問をするしかないのだ。 和彦の様子に気づいているのかいないのか、組織の説明をする賢吾は、どこか楽しそうだ。「第二遊撃隊ってのは、けっこう血の気の多い、荒っぽい連中が揃ってる。元は、ある組の直系傘下の小さ
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