LOGIN鈍色の空がカーテン越しにぼんやりと滲んでいた。
夜の余熱がまだ残る室内はしんと静まり、聞こえるのは外から時折差し込む車の走行音と、珈琲が落ちる機械的な音だけだった。岡田は薄いシーツを片手で払ってから、ゆっくりと体を起こした。背中から肩にかけてじんわりと重さが残っていて、昨夜のことが現実だったのだと、身体の感触が教えてくる。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、時間が朝なのか昼なのか、一瞬だけ曖昧に思えた。けれど、窓の外を見れば雨は止んでいて、濡れた街路樹が朝の光を吸い込んでいるのが分かる。雨上がりの匂いは窓の隙間から微かに流れ込み、どこか目が覚めきらない感覚の中に、現実味を与えた。
岡田は髪をぐしゃぐしゃと乱暴にかき上げながらベッドを出た。体にまとったままのTシャツが少し汗ばんでいて、それを一度脱ごうと手をかけたが、そのままやめた。気を抜くと、昨夜の情景が頭の中で繰り返されそうだった。
リビングの扉を開けると、珈琲の香りが鼻をくすぐった。
小さな音で湯が落ちる音。静かすぎるほどの静寂の中で、そこだけが生活の証のように響いている。
晴臣はキッチンの前に立っていた。白いシャツにスラックス、首元はまだ開けたままで、袖口をラフに折っている。ベルトも締めていないせいか、まだ完全に“会社の顔”にはなっていない。
音に気づいたのか、晴臣がゆっくりと振り向いた。
目が合った瞬間、岡田の胸にふっと風が吹いたような感覚が走った。
その視線は、どこまでも穏やかで、優しかった。
「おはようございます」
晴臣がそう言って微笑んだ。どこか照れ隠しのように、けれど迷いのない笑みだった。
岡田は瞬間、何か返そうとして、喉がつまった。
言葉がうまく出てこなくて、唇を一度噛む。それから、ようやく声を出した。
「…なんや、その営業スマイルは」
晴臣は笑った。少しだけ肩をすくめてから、カップを持って振り返る。
「癖なんです。朝はまず表情から整えるって決めてるんで」
「…朝から意識高いな」
岡田はそ
クローゼットの前で、株式会社東都商事の営業二課の課長、岡田 佑樹はシャツの袖口を整えながら、ブルーのネクタイを片手に持って立ち尽くしていた。朝の陽光が、窓の向こうから淡く差し込み、ワイシャツの白地を柔らかく照らす。外はまだ曇天で、雨上がりの湿気がほのかに残っている。カーテンの隙間から見える街路樹の葉が、しずくごとゆるやかに揺れていた。深く息を吐き、岡田はネクタイを見下ろした。いつもの朝なら自分で結ぶその作業を、なぜか今日はためらっている。指が結び目のあたりを撫でると、布のひんやりとした冷たさが手のひらに伝わる。明日からまた、取引先との商談、売り上げの数字、部署メンバーのフォロー――そのすべてが待っているはずだ。それなのに、なぜ少し胸が高鳴るのか、自分でもわからなかった。背後で穏やかな足音がして、主任の牧野 晴臣が横から近づいた。晴臣は白いシャツにネクタイ。だがその第一ボタンは少し緩められていて、まだ完全に“職場モード”から切り替わっていないような表情があった。晴臣の目が、そっと岡田に向けられた。「結びますよ」声は静かで控えめだったが、それが逆に岡田の胸に温かく響いた。ネクタイを手にしたまま立っている自分に、誰かが手を差し伸べてくれたような気がした。岡田は視線を伏せたまま、口元をわずかに開いた。「……毎朝これやったら、変にドキドキしてまうな」その言葉には冗談半分、けれどどこか真実の味が含まれていた。心臓が少し、いつもより早く鼓動していることを意識した。晴臣は、そのまま視線を合わせた。明るさの中に、確かな暖かさと決意が混じった瞳があった。「いいじゃないですか、毎朝ちゃんと惚れ直せる」言いながら、晴臣の指先がネクタイに触れた。ふたりの距離が、一歩だけ近づく。その指の腹が布を掴み、結び目を整えるように滑っていった。無音の時間に、布と布の擦れる音だけが微かに混じる。晴臣の手が岡田の指と触れた瞬間、わずかな振動が指先から伝わってきて、岡田は思わず息を吞んだ。ネクタイを結ぶその動作は、実はそんなに特別なものではないことを、岡田は知っていた。けれど今、
鈍色の空がカーテン越しにぼんやりと滲んでいた。夜の余熱がまだ残る室内はしんと静まり、聞こえるのは外から時折差し込む車の走行音と、珈琲が落ちる機械的な音だけだった。岡田は薄いシーツを片手で払ってから、ゆっくりと体を起こした。背中から肩にかけてじんわりと重さが残っていて、昨夜のことが現実だったのだと、身体の感触が教えてくる。カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、時間が朝なのか昼なのか、一瞬だけ曖昧に思えた。けれど、窓の外を見れば雨は止んでいて、濡れた街路樹が朝の光を吸い込んでいるのが分かる。雨上がりの匂いは窓の隙間から微かに流れ込み、どこか目が覚めきらない感覚の中に、現実味を与えた。岡田は髪をぐしゃぐしゃと乱暴にかき上げながらベッドを出た。体にまとったままのTシャツが少し汗ばんでいて、それを一度脱ごうと手をかけたが、そのままやめた。気を抜くと、昨夜の情景が頭の中で繰り返されそうだった。リビングの扉を開けると、珈琲の香りが鼻をくすぐった。小さな音で湯が落ちる音。静かすぎるほどの静寂の中で、そこだけが生活の証のように響いている。晴臣はキッチンの前に立っていた。白いシャツにスラックス、首元はまだ開けたままで、袖口をラフに折っている。ベルトも締めていないせいか、まだ完全に“会社の顔”にはなっていない。音に気づいたのか、晴臣がゆっくりと振り向いた。目が合った瞬間、岡田の胸にふっと風が吹いたような感覚が走った。その視線は、どこまでも穏やかで、優しかった。「おはようございます」晴臣がそう言って微笑んだ。どこか照れ隠しのように、けれど迷いのない笑みだった。岡田は瞬間、何か返そうとして、喉がつまった。言葉がうまく出てこなくて、唇を一度噛む。それから、ようやく声を出した。「…なんや、その営業スマイルは」晴臣は笑った。少しだけ肩をすくめてから、カップを持って振り返る。「癖なんです。朝はまず表情から整えるって決めてるんで」「…朝から意識高いな」岡田はそ
シーツの中でふたりの体温が緩やかに重なり合い、静けさだけが部屋を満たしていた。深く深く潜っていったあとの、底に降り立ったような静寂だった。呼吸の乱れはゆっくりと収束し、互いの胸が上下するリズムが似通っていく。窓の外では、変わらず雨が降り続いていた。カーテン越しに伝わる夜の湿度と、遠くで車のタイヤが水たまりをかすめる音が、ときおりふたりの世界に小さな波紋を落としてくる。晴臣は、シーツを引き寄せながら、岡田の髪に指を滑らせた。しっとりと汗を含んだ髪は、熱を帯びたまま額に貼りついている。その一本一本をなぞるように、丁寧に撫でる。触れるたび、岡田の体がわずかに反応を見せた。「…くすぐったいわ」囁くように岡田が言った。けれどその声には、どこか名残惜しさと甘さが含まれていて、晴臣の胸にじんわりと染みた。「寝ちゃいそうですか」「…せやな。ちょっとだけ、もう落ちかけてた」晴臣は笑って、岡田の額に唇を落とした。ふれてみると、岡田の肌はまだ少し火照っていた。熱が残っているのか、それとも照れ隠しの名残か。どちらでもよかった。ただ、こうしていることが、何よりも自然に思えた。岡田は、ゆっくりと身体を寄せてきた。そのまま、晴臣の肩に額を預ける。濡れた髪が頬に触れ、皮膚と皮膚がまた静かに溶け合っていく。距離という言葉を感じさせないほど、ぴたりと寄り添った岡田の体は、さっきまでとは違う重みを持っていた。力が抜けている。けれど、頼るというよりも、受け入れるような重さだった。晴臣はその身体を両腕で包み込んだ。「…晴臣」「はい」「こういうの…夢みたいやな。信じられへんくらい、気ぃ抜けてる」岡田の声は、低く掠れていた。けれどその響きは確かで、言葉の端に漂う微かな震えが、むしろ強さに感じられた。「さっきまで、正直な。どっかで、また心閉じてまうんちゃうかって、自分で怖かった」「うん」「でも今は…こうしてる
シーツの軋む音が、静まり返った部屋に細く響いた。雨はまだ降っていた。窓を打つ粒のリズムが微かに変化しながら、夜の深さを際立たせる。オレンジの照明は枕元に落ちて、輪郭を滲ませたふたりの身体をやさしく照らしていた。晴臣の指が、岡田の首元に触れる。緩められたシャツの隙間に滑り込む指先は、肌の温度を慎重に探るようだった。ゆっくりと、焦らず、襟を広げ、布を外していくたび、岡田の喉がかすかに震える。岡田のシャツがベッドの端へと押しやられ、素肌が露わになる。肩から鎖骨へ、そこから胸元へと、やわらかに繋がる線を晴臣は目で追った。視線の先で、岡田の肌がほんのりと赤みを帯びている。その赤は、羞恥とも緊張とも言えない、いくつもの感情が染み込んだ温度だった。晴臣は、自分のシャツのボタンにも手をかける。岡田がそれを止めはしないことを確認してから、ゆっくりと脱いでいく。自分の肌も、熱を帯びていた。火照るほどではないが、岡田のぬくもりに引き寄せられるように、芯の方から静かに熱が湧いてくる。肌と肌が触れ合った瞬間、岡田の身体がぴくりと震えた。「…大丈夫ですか」晴臣が囁くと、岡田は黙って頷いた。視線を落としながら、唇を噛むようにして呼吸を整えている。「痛くしない。…怖くなったら、すぐ言ってください」岡田はまた、頷いた。その仕草があまりにも繊細で、晴臣は胸の奥を締めつけられるような気持ちになった。ふたりは、ゆっくりと、互いの身体を確かめるように触れ合っていった。肌に触れる指先は滑らかで、緊張をほぐすように丁寧だった。喉元から胸へ、肋骨に沿って指が這い、指先の腹で何度も肌の感触を確かめていく。岡田の目が潤んでいた。言葉を飲み込むように、まぶたを閉じたまま、唇をかすかに震わせている。吐息は細く、熱い。晴臣の手が腹部を撫でたとき、岡田は声にならない声を喉に詰まらせ、ベッドシーツを握った。晴臣は何度も、岡田の表情を見た。快楽と不安がせめぎ合うその顔を、見逃さぬよ
指先が震えていたのは、晴臣の方だった。布越しに感じる熱と重み、そしてそれ以上に、いま目の前にある岡田という存在の輪郭が、あまりにも柔らかく、壊れそうで。結び目をほどくだけの動作に、手のひらの温度がじわじわと奪われていくような錯覚があった。岡田の首元に結ばれたままのネクタイは、さっきよりも少しだけ緩んでいる。けれど、まだきちんと結ばれているそれは、まるで最後の砦のように喉元を守っていた。ゆっくりと、慎重に、晴臣はネクタイに指をかけた。岡田は、何も言わなかった。けれど、視線がわずかに伏せられていく。睫毛の影が頬に落ち、唇はきゅっと引き結ばれていた。無意識のこわばりのように、肩に力が入っているのが分かる。ネクタイの布をひと引きすれば、ほどける。それだけのことなのに、晴臣は指先で何度もその滑らかな質感をなぞった。まるで相手の意志を問うように、慎重に、その結び目を緩めていく。カチャリ、と金具がわずかに鳴り、布が擦れる音が寝室の静寂に小さく響いた。それは、まるで封印を解く音のようだった。岡田の喉が、かすかに動いた。伏し目がちのまま、肌の内側の鼓動まで伝わってくるような気がした。シャツの間から覗く鎖骨が、呼吸に合わせて小さく上下している。ネクタイを完全に外し終えると、晴臣はそれをベッドの横にそっと置いた。音を立てないように気をつけながら、まるで何かの儀式を終えたかのような慎重さで。再び岡田の方へ視線を向けると、彼は微かに眉を寄せていた。羞恥とも、戸惑いとも、覚悟ともつかない感情が混じりあったその顔には、もう拒絶の色はなかった。晴臣は、ゆっくりと身を乗り出した。岡田の喉元へ、唇を落とす。すぐに離さず、少しだけ吸い寄せるようにして、その柔らかさと温度を確かめる。唇に触れた肌は熱を持ち、わずかに汗ばんでいた。岡田の身体がふっと揺れる。続けて、唇を鎖骨へ。ワイシャツの隙間に口を滑らせるたびに、岡田の呼吸が浅くなっていくのが分かる。シャツの布を押しのけるようにして、胸元へと唇を這わせる。岡田は何も言わ
雨音が、夜を優しく叩いていた。窓の向こうでは、街灯が淡く滲んでいる。薄いカーテンを通してぼんやりと浮かぶオレンジ色の光が、寝室の壁に柔らかな陰を落としていた。時折、風に揺れるカーテンの影が壁を撫で、まるでこの静けさすらも何かを許しているようだった。ベッドの上、岡田と晴臣は毛布の上に並んで座っていた。肩と肩が触れるか触れないかの距離。エアコンの風が肌を撫でていくのに、部屋の空気はどこか緊張に満ちていた。岡田の視線は、まっすぐに晴臣の目を見ていた。けれど、その奥にはまだ残る戸惑いと、逃げ場を探すような色が薄く浮かんでいた。晴臣もまた、息を浅く整えながら、黙って岡田を見つめていた。どちらからも言葉は出なかった。いや、言葉にしてしまえば壊れそうで、互いの気持ちが手のひらから零れ落ちそうで…ただ黙っていることしかできなかった。岡田の喉が、小さく鳴った。そのわずかな音が、雨音の中ではっきりと響いた。晴臣のまぶたが、ほんの少しだけ落ちる。それから、ごく自然な動きで、指先を岡田の前髪に滑らせた。しっとりとしたその髪の感触は、ほんの少し前まで雨の中にいた名残を思わせた。晴臣の指は、前髪をそっとかきあげるだけで、すぐに離れた。触れたのはほんの一瞬だったのに、岡田の肩が小さく揺れた。「…もう逃げへん」岡田が、ぽつりと呟いた。その声は小さかったが、きっぱりとした響きを持っていた。「たぶん、また不安になることもある思う。勝手に塞ぎ込んだり、ややこしいこと考えたり…でも、それでも、逃げへんて決めた」晴臣の喉が、かすかに鳴った。一度目を伏せ、それからそっと笑った。「逃げるなら、今のうちですよ」その言葉に、岡田はかすかに口角を動かした。「遅いな」「…じゃあ、もう手遅れですね」晴臣は、静かに体を傾けた。岡田の胸元に手を伸ばす。ワイシャツの第一ボタン、そのすぐ下に結ばれたままのネクタイの結び目へ