あの人は、遠い時の中に のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

22 チャプター

第11話

湊は話を終えると、誰にも振り返らず、ざわめく会場をまっすぐ後にした。結婚式でのスキャンダルは一晩で瞬く間に拡散し、どれだけ湊が情報を封じても、あの写真はあっという間にネット中に広まった。倫理に反するゴシップは特に注目を集め、まして湊自身が今や話題の人。ライブ配信の切り抜きやスクショがあちこちで拡散され、湊の会社の評判は急降下、取引先も次々と取引を停止した。会社を守るため、湊は毎日必死に走り回った。一方で、こういうスキャンダルは女性へのダメージがより深刻だった。綾香は、両家の親戚や知人から責められ、パーティーに出れば社交界の奥さまたちから冷ややかな視線や皮肉を浴び、時には街ですれ違う人からも指をさされる始末。まるで、世界中から見捨てられたようだった。だが、そんな日々も――今はもう、遠く海外にいる詩織には何の関係もなかった。夜になり、詩織はホテルのベッドでスマホの電源を入れる。すると、一気に大量の着信とメッセージが画面を埋め尽くす。――きっと今ごろ、結婚式場は大混乱になっているだろう。そう思っていると、いきなり誰かにスマホを取られた。我に返ると、目の前にはまだ濡れた腹筋が飛び込んでくる。悠生がバスタオル一枚で片手をベッドにつき、もう片方の手で詩織のスマホをチェックしていた。髪からは水滴が垂れていて、それが首筋から鎖骨、引き締まった腹筋のラインを伝い、腰に巻いた白いタオルに消えていく。顔が一気に熱くなり、詩織は慌てて悠生を押しやった。「悠生、ちょっと!なんで裸で出てくるの?」「どうせまた脱ぐのに、着ても意味ないだろ」悠生が身を乗り出してきて、湯上がりのあたたかい息が急に近づく。髪から落ちた水滴がそのまま詩織の襟元に入り込み、ひやりと冷たくて思わず身震いした。詩織は思わず身を引いて、声まで震えてしまう。「悠生、や、やめて……ちょっと待って」詩織が抵抗する間もなく、彼は詩織の手首をそっと掴む。「何をそんなに逃げるんだよ」そう言って薬のチューブを開け、親指で薬を取ると、そっと詩織の手の甲に塗り広げていく。その細やかな指先の感触が、腕を伝って、耳の先まで熱くなる。……自分で勝手に意識しすぎだ。二人の間に、しばらく静かな時間が流れる。黄色い照明の下、悠生は伏し目がちに薬を塗っていた。長いまつ
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第12話

悠生がいきなり詩織のすぐ横、ベッドの端に手をつき、彼女を半ば腕の中に閉じ込めた。その熱い視線が、まっすぐ詩織の唇へと落ちる。詩織は体を強張らせて動けないまま、悠生が顔を近づけてきた瞬間、とっさに彼の肩を押し止めた。「悠生、や、やめて。まだ心の準備が……」その言葉で、部屋に漂っていた熱っぽい空気が一気に冷えた。悠生は両手を詩織の横に置いたまま、冷たい目で詩織を見下ろす。「詩織、入籍する前から言ってたよな。俺は子どもごっこするつもりはないって……なに、他の男に未練でもあるの?」誤解だと分かり、詩織は必死で首を振った。「違うの!」眉をひそめて、しばらく黙り込んだあと、詩織は言葉を選びながら話し始めた。「ただ……ずっと幼なじみだったし、今さらこういうの、なんだか変な感じで……だって悠生が小さい頃、よく私の前でパンツ一丁で走り回ってたの、思い出しちゃうんだもん……」詩織がまだグダグダと昔話を続けていると、悠生はすっかり不機嫌になっていた。「……お前、ほんとにさ……」我慢できず、悠生は詩織の頬をむにっとつまんだ。「なあ詩織、今そういう話する!?頭おかしいんじゃないの?」詩織は懐かしそうにくすっと笑い出す。「そういえばさ、幼稚園の頃、悠生のお母さんが女の子が欲しくて、しばらくずっとお人形みたいな格好させられてたじゃん。あのとき、クラスの誰も悠生が男の子って知らなかったんだよね……たしか、オネショしたときにバレて――ん!」「うるさい、黙れ」悠生は詩織の口を手で塞ぎ、そのままベッドに倒れ込んだ。「もう寝ろ」長い腕で電気を消し、部屋は暗闇に包まれる。静かな闇の中で、詩織は時々思い出し笑いを漏らしていた。悠生が小さく舌打ちするたび、慌てて口をつぐむ。「子どもの頃はあんなに可愛かったのに、どうしてこう育っちゃったかな……今じゃすっかり偉そうで、全然素直じゃないし」「詩織、寝る気ないんだろ?」悠生が急に詩織をぐいっと腕の中に引き寄せ、彼女の手を自分の下腹へと誘導する。「じゃあ、今の俺を、もう一度ちゃんと教えてやるよ」手のひらから伝わる熱さに、詩織の体はビクッと震えた。思わず手を引こうとしたけど、しっかり押さえられて逃げられない。そのまま悠生が詩織に覆いかぶさり、何も言わせず唇を重ねてくる。頭の中が真っ白になり、気付けば悠生の
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第13話

どんなに演技だったとしても、一瞬だけ、湊の胸に溜め込んできた感情が爆発しそうになる。もう一度電話をかけても、電源は切れたままだった。その様子に、湊は思わず苦笑いする。――こんな手で俺をイラつかせて、出てこさせようっていうのか?でも、彼女が必死に気を引こうとすればするほど、自分はどんどん冷めていくのを感じた。ここまで事態をこじらせておきながら、まるで自分には何の責任もないかのような態度。――いいさ。どこまで持つか、見せてもらおう。湊はソファに仰向けに倒れ込み、ぐったりと目を閉じる。しばらくしてようやく気持ちが落ち着いてから、眉間を押さえて秘書に尋ねた。「綾香の様子は、最近どう?」「綾香さんは、もう何日も家から出ていません。お子さんも林家に引き取られて……」秘書が言い終わらないうちに、湊はすでにデスクの車のキーを掴んでいた。車を飛ばして綾香の家へ。大きな門の前でしばらくノックを続けても反応がなく、仕方なくパスコードを入力して中へ入る。部屋はカーテンが閉め切られ、ひどく暗い。その不気味な静けさに、湊の心臓が強く締め付けられる。慌てて階段を駆け上がり、寝室のドアを開ける。綾香はベッドに横たわり、髪が頬に乱れて張りついていた。ベッドサイドには空になった薬瓶。すぐに彼女を抱きかかえて車に運び、病院へ向けて赤信号をいくつも無視して走った。検査が終わると、医者が告げる。「幸い安定剤だけだったので、すぐ運ばれてきたのが良かったです。薬が抜ければ、すぐに目を覚まします」湊は礼を言い、彼女のそばに椅子を引き寄せて座った。しばらくして、空がだんだん暗くなっていく中、綾香がゆっくりと目を開ける。湊は身をかがめて、静かに声をかけた。「気分、どう?どこか辛くない?」綾香は突然、湊の胸に飛び込んできた。「湊……家に帰りたい。もうここにいたくない。連れて帰って……」嗚咽混じりで、湊をしがみつくように抱きしめてくる。その感触に、湊の心臓がぎゅっと締め付けられる。力いっぱい抱き返し、片手で綾香の腰を、もう一方で髪を優しく撫でた。「わかった、家に帰ろう」退院の手続きを終え、彼女を家まで連れて帰る。リビングのソファに座らせてから、湊はキッチンで彼女の好きな料理をいくつか作った。食欲がない綾
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第14話

綾香を寝かせた後、湊は窓辺に立ち、スマホを取り出して秘書に電話をかけた。「詩織が今どこにいるか調べてくれ。それと、最速でその街に飛べるチケットを取ってくれ」「かしこまりました」――湊は、まさか自分がこんなストーカーまがいの真似をする日が来るなんて、夢にも思っていなかった。詩織が、他の男と過ごす姿を、陰からこっそり覗き見るなんて。本当は詩織を見つけ次第、すぐにでも連れ戻すつもりだった。でも、彼女の顔に偽りのない笑顔が浮かんでいるのを見た瞬間、なぜかその場から動けなくなってしまった。悠生が手作りのネックレスをそっと詩織につけてやる。詩織は手でそのネックレスに触れて、嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。その瞳に宿る光は演技なんかじゃない、本当に幸せそうな輝きだった。昔は、詩織もよく自分にこんなふうに笑いかけてくれていた。でも、自分はいつも仕事や会食にかまけて、その笑顔を見過ごしてきた。こんなふうに、心の底から無邪気に笑う彼女を見るのは、いつぶりだろう。――それでもなお、湊はどこか自虐的な気持ちで、二人の後をつけてしまう。海辺へ向かう二人。悠生は飽きずに何度も写真を撮り、詩織は陽の光の下でスカートを揺らしながら、楽しそうにくるくる回る。詩織は食事中、嫌いなパクチーを悠生の皿に移す。悠生は困ったように笑いながらも、それを当たり前のように食べてあげている。そのささいなやりとりが、湊の胸にぐさりと突き刺さる。詩織がどれだけパクチー嫌いか、自分が一番よく知っている。付き合っていた頃は、いつも自分が彼女の皿から取り除いてあげていた。今はその役割すら、別の男に譲ってしまったのだ。人で賑わう古い街並みで、詩織は下を向いてアクセサリーを選んでいた。悠生はすぐ後ろに立ち、混雑した人波から彼女をすっぽりと守るように腕を伸ばしていた。そして、詩織はその腕の中で、ほんの少しも身を引くことなく、自然に彼にもたれていた。――もしこれまで、これが全部「芝居」だと思っていたとしても。今目の前で見ている光景は、そんな言い訳を一瞬で粉々に壊してしまう。何も感じないはずなのに、胸の奥がズキズキと痛む。――男だからわかる。二人の間にはもう、そういう関係が何度もあったのだろうと。思わず湊は拳を握りしめる。指の骨が白く浮かび上がるほど、力が入
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第15話

湊の声はあまりにも自然で、まるで何もなかったかのようだった。まるで、詩織がただ友達と旅行にでも来ていたかのような、そんな軽さだった。でも、誰の目にも――もう、すべては元通りにはならないことは明らかだった。詩織はその場でじっと黙りこくっていた。でも湊は、まるで何も気づいていないふりをして、「詩織、迎えに来たよ」と、ごく当たり前のように告げた。その目には、どこか懐かしい優しさが滲んでいる。――湊がこんな目で自分を見つめたのは、一体いつぶりだっただろう。街のざわめきが、厚いガラス越しに遠ざかるみたいにぼやけていく。ここにいるはずのない湊の姿を見て、詩織はようやく気づく。――この二ヶ月、自分は一度も、湊のことを思い出さなかった。「湊……あなた、私がもう結婚したの、知ってるよね」湊はゆっくりと近づき、詩織の目の前に立った。長距離フライトの疲れが混じった、あの懐かしい冷たい香りが鼻先に届くほどの距離だ。「詩織、もう十分だろ。家に帰ろう。何もかもなかったことにして、また一緒にやり直せばいい。ちゃんと、幸せになろうよ」詩織がまだ返事もできずにいると、悠生がさっと前に出て、彼女を背中で守った。「瀬川さん、人の妻にばかり執着する趣味でもあるのか?いい加減にしたほうがいいぞ。脳の検査でも受けてみたらどうだ?」「詩織がどうして君と一緒になったのか、自分で分かってるんでしょう?勢いで決めた結婚を理性的だなんて、俺には思えないけど」湊は口元に静かな笑みを浮かべた。「彼女は君を愛してなんかいない。それに君は、彼女が一番弱っているときに横からかっさらっただけだ」悠生の口元から笑みが消える。「それが何か?少なくとも、俺たちは正式に夫婦として認められてるし、やましいことなんて何もない。ま、瀬川さんとは違って、こそこそ隠れて禁断の恋を楽しむ趣味はないんで」わざとらしく詩織の腰に腕を回しながら、続ける。「それじゃ俺たちは、これから夫婦の時間なんで。瀬川さんも空気読んでくれると助かる」そのまま詩織を連れてホテルに入る。詩織は思わず後ろを振り返ろうとするが、悠生に顎をクイッと掴まれる。「ダメ。後ろなんて振り返るな」親指で詩織の口元についたクリームを拭い取る。「ちょっと……彼が本当に帰ったかどうか見たかっただけ。言わなきゃいけないこ
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第16話

詩織は悠生のスマホを奪い取り、慌ててスマホの画面を消した。「悠生、本当に頭おかしいんじゃないの?」勢いでベッドに押し倒された悠生は、そのまま詩織の腰を抱き寄せる。「あいつにお前の声なんか聞かせる必要ないだろ。万が一、あんなの聴いて喜ばれたら最悪じゃん……」その言葉の途中、詩織は悠生の唇を手でぴたっと塞いだ。「なに言ってんの、バカじゃないの?」手のひら越しにくすくすと低い笑い声が漏れてくる。悠生は詩織の手首を掴んで、その手のひらにキスを落とす。びりっと電流が走ったみたいに、詩織は反射的に手を引っ込めた。「もう……こんな無茶苦茶な人、見たことない」その直後、悠生の腕の力がぐっと強くなり、詩織はまたたく間に抱き寄せられる。反応する間もなく、悠生が身を乗り出して詩織の唇にキスを落とす。からかうような笑みを浮かべながら。「どうしたの?そんなに照れて……ん?」詩織はまつげを震わせながらも、一歩も引かずに、逆に悠生の腰にそっと手を添え、ゆっくりとそのまま上に滑らせていく。「悠生ってさ、力技で押し切ることしかできないの?」その瞬間、悠生の呼吸が止まり、筋肉がぴくっと強張る。その反応を見て、詩織の口元に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。こんな風に攻め返されるのは初めてで、悠生の瞳から余裕がすっと消えていく。彼は詩織の手をぐっと掴んで低く囁く。「……詩織、それ自分で招いたことだからな」悠生の手がシャツの裾からゆっくりと忍び込む。――その時、ドアがノックされた。詩織が悠生を押しのけ、悠生は不機嫌そうにドアを開けに行く。そこには、制服姿の警察官が二人、きっちりと立っていた。「こちらのお部屋で不審な取引があるという通報がありまして、念のため確認させてください」悠生が流暢な英語でやり取りする間に、詩織は何が何だかわからずバスローブを羽織って廊下に出た。ふと顔を上げると、隣の部屋のドアにもたれる湊の姿と視線がぶつかる。バスローブ姿で平然とこちらを眺めている湊。その表情はどこか冷ややかで、他人事のような薄い笑みを浮かべていた。詩織は一瞬でピンときて、何か言い返そうとしたが、警察はすでに確認を終えて、軽く頭を下げて帰っていく。湊は顎で軽く挨拶し、悠生の背後に目を走らせてから、また詩織を見て、口元にわずかな皮肉の笑みを浮
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第17話

湊は一言も発せず、詩織にじりじりと近づいていく。その目には、もう隠しきれない激しい炎が宿っていた。思わず詩織は後ずさりし、背中がトイレの個室のドアにぶつかる。「出てって!」声を張り上げたものの、わずかに震えが混じっていた。湊は無言のまま、詩織の肩ごしに手を伸ばし、ドアのロックを下ろす。個室のドアが勢いよく開き、詩織はバランスを崩して後ろへ。その隙に湊が中に入り込み、背後からドアを「カチッ」とロックした。狭い空間の空気が、一気に熱を帯びる。湊の吐息に混じるタバコの香りが、詩織を包み込む。「もう観客はいない」低くしわがれた声が、耳元に熱く触れる。詩織は逃げようとするが、手首を湊に掴まれ、冷たいドアに押さえつけられる。力は強くないのに、不思議なほど逃げられなかった。「私たちのこと、そんなに見張ってて楽しいの?」詩織は顔をそむけて、湊の熱い視線を避ける。胸は怒りで大きく波打っていた。「楽しいさ」湊は鼻先を詩織の首筋に寄せ、そこに走る鼓動の速さを確かめる。「君たちが俺の前で芝居してるのを見るのが、最高に面白い」「演技なんかしてない!」詩織は冷たいドアに背中を押しつけたまま、湊を睨みつける。「ちゃんと籍も入れて、式も挙げて、今はハネムーン中よ。何か問題ある?まさか結婚まで、あなたに許可もらわなきゃいけないの?」「でも、君は彼を愛してない。こっちを見ろ、詩織」湊は命令口調で、もう一方の手を伸ばし、指先で詩織の唇を乱暴になぞった。そこはさっき悠生にキスされたばかりの場所だ。「教えてくれ。ここは……本当に、あいつにしか反応しないのか?」そのまま指先を胸元まで滑らせ、まるで彼女を独占するように触れる。詩織の体がびくっと震え、怒りに声を荒げる。「やめてよ!ストーカー、最低!」詩織は反射的に膝を上げようとしたが、湊がすぐに脚で押さえ込み、二人の体がさらに密着する。もう、逃げ場なんてなかった。「そうさ、俺は最低だ」湊はあっさりと認め、その目で詩織を逃さないようにじっと見つめる。まるで心まで射抜かれるような視線だった。「君たちのそばに張りついてるのは、あいつを困らせたいからじゃない。君の心が、まだ誰のものか……忘れさせないためだ」湊は額を詩織の額に寄せ、互いの呼吸がまじわるほど距離を詰める。「この一週間、ずっと
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第18話

悠生は個室のドアにもたれていた。どうやら、全部聞いていたらしい。詩織は思わず苦笑する。「やっぱり女性トイレのマークって『男は入るな』って意味ないのね。悠生みたいな人には」悠生は眉を上げて、低く笑った。その目には、どこかふざけた色気と、言葉にしきれない優しさが混ざっている。熱い視線に、詩織の耳がほんのり赤くなる。彼女は軽く咳払いして目をそらし、そのまま外へ歩き出す。悠生はすぐに追いかけてきて、後ろから詩織の手を取り、指をしっかり絡めて握った。トイレを出ると、「使用中止」の札がかかっている。詩織は悠生を見上げて、挑戦的に眉を上げる。――入ってこれるもんなら、やってみなさいよ?悠生はニヤリと笑い、耳元でささやく。「じゃあ今度は、個室の中で試してみる?」その瞬間、詩織の肘が悠生のみぞおちに命中。悠生はお腹を押さえ、わざとらしく苦しんだふりをする。「夫殺しはやめてよ。お前の幸せがここで終わっちゃうじゃん」詩織は呆れたように彼を横目で見て、黙ってレストランを出た。二人はそのままハネムーンを終えて帰国することに。悠生は絶対にまず両親へ挨拶をとこだわり、林家では佳乃と晴人も喜んで歓迎してくれた。誠一は、もともと湊のことを気に入っていた。湊は落ち着いていて仕事も真面目、それに比べて悠生は、せっかくのグループ経営を放り出して、なんだかレーシングクラブなんて道楽に夢中になっている。最初は、そんなふうに見えていたからだ。でも、二人が結婚したあと、誠一はこっそり悠生のクラブのことを調べさせていた。そしたら、なんと国の代表として何度も世界大会で優勝していて、国の名誉まで背負っていたと知り、「自分の見込み違いだった」と考え直すようになった。やがて誠一の心配も消え、最後に出した条件はただ一つだけ。「必ず、地元の北湖市で盛大に結婚式を挙げてほしい。林家の娘なんだから、きちんと皆に祝ってもらい、堂々と送り出したい」この申し出に、両家ともすぐに賛成した。詩織ももう止めきれず、成り行きに身を任せた。そんな折、大学時代の親友・真帆(まほ)から、ふっくらした赤ちゃんの写真とパーティーへ招待される。自分と湊がまだ交際しはじめた頃、気まずさを和らげようといつも真帆を食事に連れていっていたら、湊の友人が何度か混ざり、そこで大輔(
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第19話

詩織と湊が目を合わせた瞬間、彼女の口元の笑みが一瞬だけ凍りついた。真帆が驚いた顔で駆け寄ってくる。「湊さん。どうして……出張で戻れないんじゃなかったの?」「仕事が早く片付いたから、どうしても顔を見たくてさ。俺の親友の娘に会わないわけにいかないでしょ?」湊はごく自然に詩織が抱いていた赤ちゃんをあやす。その場の空気が、どこか重くねっとりとまとわりつく。詩織と湊の周囲には、さりげないけれど確かに多くの視線が集まっていた。二人の過去を知らなければ、今のこの光景は、まるで小説の男女主人公が現実に現れたみたいに、どこか絵になる組み合わせに見えただろう。けれど、湊が一歩近づいた瞬間、あのほのかなシダーウッドの香りがふわりと広がり、詩織の体は無意識にこわばる。そんな空気を察して、真帆が気を利かせて赤ちゃんを詩織の腕からそっと受け取り、「みんな、席につこう」と自然に声をかけてくれた。席に着いた詩織はほとんど何も食べられずにいた。それに気づいた大輔が「詩織ちゃん、ここの蟹、おいしいよ。食べてみて」と勧めてくる。返事をする前に、対面から湊の冷たい声が響いた。「彼女、海鮮アレルギーなんだ」詩織は反射的に顔を上げ、湊の静かな瞳と真っ直ぐに目が合った。分かったような顔で気を遣われるのが、今はどうしようもなく嫌だった。その優しさが、今はただただ気持ち悪かった。そんな重たい空気を変えようと、大輔が「あっ、そうだ!」と大げさに頭を叩いた。詩織はにこりと笑って「大丈夫、ちょっとくらいなら平気だよ」と言い、あえて蟹の身を自分の皿に取り分けた。湊が何か言いかけたその時、入口から聞き覚えのある女性の声が響く。「大輔、どうして赤ちゃんのお祝いの席に、呼んでくれなかったの?勝手に来ちゃったけど、よかったしら?」詩織は声のする方を振り向き、綾香と視線がぶつかった。久しぶりに会う綾香は、前よりずっとやつれていて、きっちりしたメイクでも隠しきれない疲れが滲んでいた。大輔は湊と詩織をちらりと気にしながら、ぎこちなくも「どうぞ、どうぞ」と綾香を席に招いた。綾香はためらいなく詩織の隣に座り、ごく自然な声で「詩織ちゃん……」と話しかけてくる。詩織はさっとグラスを持ち上げて立ち上がり、メイン席にいる真帆と赤ちゃんに向かって笑顔で言った。「真帆、赤ちゃん
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第20話

詩織は何が起きたのか分からないまま、強引に車へ引きずり込まれた。必死に抵抗するが、首筋に鈍い衝撃が走り、意識が遠のく直前、どこかで聞き覚えのある女の声が耳元に響く。「動画が撮れたら林家と篠崎家に送って。条件を飲まなかったら、そのままネットに流して。あの女にも、人生がめちゃくちゃになる味を教えてやりなさい……」その言葉が終わる前に、詩織の意識は完全に暗闇へ沈んでいった。再び目を覚ますと、全身がバラバラにされたみたいな痛みと重さが、四肢の隅々まで広がっていた。しばらくして、ようやくホテルの天井にぶら下がるシャンデリアがぼんやり見えてくる。がばっと起き上がろうとしたが、体が痛みに悲鳴を上げ、腰のあたりには何か重たいものが圧し掛かっている。硬直したまま横を見ると――そこには、眠っている湊の横顔が、こんなにも近くにあった。断片的な記憶が蘇る。暗闇の中で聞いた歪んだ男の声、無理やり引き裂かれるような恐怖、そして、綾香の冷たい声――「この女の一番みっともない姿を録画してやる」と、あざけるような響き。なのに、なぜ自分は湊のベッドの上にいるの?まさか、あの女に協力して動画を撮った男って――湊、あなたなの?――バカみたい。大企業の社長が、女のためにここまで身を持ち崩すなんて、滑稽としか言いようがない。胸の奥の、何か大切なものがパキッと音を立てて砕ける感覚。心の奥が凍りついたように、何も感じなかった。詩織は静かにベッドを降り、裸足のまま冷たい床に立ち、一枚ずつ、無造作に散らばった服を拾い集める。それは、まるで魂を抜かれた人形のような動作だった。ふと気づくと、湊が起きてベッドのヘッドボードに寄りかかり、じっとこちらを見つめている。詩織が最後の一枚を羽織るのを見届けてから、湊がゆっくりと口を開いた。「目が覚めたのか。昨夜は……」「湊」詩織は静かに、でもどこか冷たく言葉を遮った。かつては星のようにきらめいていたその瞳は光を失い、今はただの深い湖のような静けさしか残っていない。「私は、別に何も気にしない。でも……あなたたちを絶対に許さない。必ず、刑務所にぶち込んでやる」湊はその言葉にも動じる様子はなく、むしろうっすらと口元に皮肉な笑みさえ浮かべた。「おかしいな。昨夜はあんなに俺に夢中で服まで脱がせてた
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