千雪は社長室に長居せず、自分の荷物を手早くまとめると、背を向けた。背後から洵の優しい声がした。「ファッションウィーク、頑張れよ」「うん」千雪は振り返って微笑み、社長室を後にした。洵の顔から柔らかさが消え、徐々に冷ややかなものへと変わっていった。彼はデスクに伏せてあったスマホを取り上げ、通話履歴を開いた。一番上の履歴は澪からの着信だった。だが、澪と通話した記憶はない。彼が折り返すと、すぐに澪の声が聞こえた。「洵?」「ああ、俺だ。さっき電話してきたようだが、何か用か?」電話の向こうで、澪は驚いているようだった。千雪が電話のことを洵に話したのだろうか?澪は内心訝しみながらも本題に入った。「今、慈愛老人ホームにいるの。母が……あなたに会いたいって。来られる?」澪は少し緊張していた。この頼みを洵が聞いてくれるか分からなかった。むしろ、もうすぐ離婚するというのに、母の見舞いに来てくれと頼むこと自体がおかしい。だが、母は本当に洵に会いたがっており、彼女の耳元でずっと洵の話をしていたのだ。「分かった」電話が切れる直前、澪の耳に届いたのはその一言だけだった。彼が本当に来るのか来ないのか、判断がつかなかった。一時間後、洵は慈愛老人ホームに姿を現した。洵が到着すると、明乃は目に見えて興奮し、口数も増え、目には光が宿り、意識もはっきりしてきた。明乃の大きな変化を見て、澪はとても嬉しかった。しかし、その変化をもたらしたのが洵であることに、無意識のうちに深い憂慮を覚えずにはいられなかった。二人は明乃に付き添い、夕方の帰宅ラッシュの時間になるまで老人ホームに長居した。夕日が沈み、車や人が行き交う時間。慈愛老人ホームの入り口で。澪は洵と向かい合い、言葉を濁して躊躇していた。「俺との離婚はあんなにすらすら言えたのに、まだ俺に言えないことがあるのか?」洵から聞いてきた。澪は顔を上げ、洵の整った、しかし冷たい顔を瞳に映した。「一つ……お願いがあるの……」「どんなお願いだ?」「離婚した後も、たまにでいいから一緒に母に会いに来てくれない?母を喜ばせるために、少しだけ演技をして……」この頼みは、澪にとって非常に言い出しにくいものだった。本来なら、洵と離婚した後は一
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