All Chapters of 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした: Chapter 351 - Chapter 360

371 Chapters

第351話

カナは焦りのあまり声を荒らげた。「紬さんからファイルを受け取った後、ローカルにコピーを保存した時は、データは確かに正常でした!」直輝は不快そうに眉をひそめた。「では、君が保存した時点でデータが改ざんされていなかったという証拠はあるのか?」カナは言葉に詰まった。彼女のメール権限は部署の共有アカウントに紐づいており、送信履歴には「送信済み」と表示されるだけで、紬の個人メールのように詳細な時間や添付ファイルの内容まで正確に追跡することはできなかった。紬から転送されたメール自体は残っていたが、彼女がローカルに保存していたファイルは、麻衣から「バージョンを更新しろ」と指示された際に上書きされてしまっていた。紬は麻衣に向かって問いかけた。「あなたがカナから最後にドキュメントを受け取ったのは、何時?」「五時半ごろだったかしら」麻衣は臆することなく答えた。麻衣は以前から「紬の息がかかった」カナを快く思っておらず、この機会にカナを紬の側から排除しようと目論んでいた。カナさえいなくなれば、自分がのし上がる機会はいくらでも増える。「あなたのパソコンを開いて、そのドキュメントを出して」紬の視線が、麻衣のデスクに置かれたノートパソコンを射抜いた。麻衣は躊躇いながら直輝に視線を送った。直輝は安心させるような眼差しを返し、紬をなだめるように口を挟んだ。「紬さん、この件はもう結論が出ている。君には関係のないことだ。執行層のミスだよ。君はまだ体調が戻っていないんだ、これ以上無理をしてまで――」「直輝さん」紬は強い口調で彼の名を呼んだ。「事実を語るには証拠が必要だとおっしゃるなら、そう急いで結論を出さないでください。まずは、真実が何なのかを確認しましょう」直輝の表情が強張った。これ以上引き止めれば、かえって誰かを庇っているように見えてしまう。麻衣は、内部の痕跡はすべて消去してある、何も見つかるはずがないと自分に言い聞かせ、平静を装ってパソコンを開いた。紬は麻衣のローカルに保存されていたバージョンのドキュメントを見つけ出すと、プロパティから「編集履歴」を呼び出した。これは会社で統一導入されている共同作業システムで、すべてのローカルファイルの変更記録が自動的にクラウド上のログと同期される仕組みになっている。そこに刻まれたタイムスタ
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第352話

「……では」紬は自分のスマホを取り出し、カナとのチャット履歴をさかのぼった。昨日の午後、悠真がキッチンを爆発させたときのことだ。怒りと可笑しさが入り混じった気分のまま、紬は真っ黒になったキッチンの写真を部署のグループチャットに送っていた。その時、カナは励ましのメッセージを送りながら、腹を抱えて笑っているようなボイスメッセージを返してきていた。そして午後六時九分。カナは弥生と一緒に回転寿司店で食事をしている動画を送ってきていた。画面の中の彼女は、楽しそうにこちらへ呼びかけている。「紬さん!早く来て!ここのお寿司、最高に美味しいですよ!不運な息子さんのことは忘れて、ぱーっと楽しみましょう!」彼女の背後の壁には時計が掛かっており、はっきりとは見えないものの、短針が六時を回っているのが確認できた。紬は直輝に向き直り、不可解そうに問いかけた。「教えていただけますか。店で食事をしながら動画を撮り、チャットをしている最中に、どうやって同時に会社のドキュメントを修正できるのかしら?」麻衣の顔は土気色に変わり、言葉を失ってしどろもどろになった。オフィスは水を打ったように静まり返る。カナはその動画を見て、その場で涙をこぼした。――私がおしゃべりで食いしん坊でよかった!突然の出来事に動転し、自分が撮った動画が証拠になることなど、すっかり忘れていたのだ。「そうです!私は五時半に退勤して、弥生さんと一緒に回転寿司店に行きました!六時十分の時点で、私は会社にいませんでした!スマホにはほかにもたくさん写真があります。その時間に社内にいなかったことは証明できます!」カナは涙を拭い、胸を張って紬の傍らに立った。ほかの社員たちも、危うく誰かの駒にされるところだったと、ようやく事の重大さに気づき始めた。「直輝さん、これらの証拠で十分でしょうか?」紬は視線を直輝へと向けた。直輝の顔は、この上なく不機嫌に歪んでいた。「……紬さん、たかが小さなミスだ。そこまで目くじらを立てることもあるまい」紬の胸に、冷たい風が吹き抜けた。権力のないカナのような社員には、即座に解雇やインターン期間の延長という罰を下そうとしたくせに、真相が明らかになった途端、今度は「目くじらを立てるな」と言うのか。紬は冷ややかに笑い、問い返した。
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第353話

「紬先輩、ううっ……ありがとうございます!一生ついていきます!」普段はおおらかなムードメーカーのカナが、ここまで泣きじゃくる姿を紬が見るのは初めてだった。紬は冗談めかして彼女をからかった。「これからは『泣き虫カナ』って呼ばなきゃね」「違います!私は『紬信者カナ』です!」カナは紬の肩を抱き、ゆさゆさと揺さぶった。紬は思わず吹き出してしまった。「おじさん、あの人たち、私が新人だからって寄ってたかって……!ううっ、みんなで私をいじめるのよ!」オフィスで、麻衣は直輝の胸に飛び込んだ。直輝もこれにはほとほと手を焼いていた。本来なら、データの書き換えなど些細な問題であり、彼が直接もみ消して、人知れず身代わりを立てることもできたはずだ。だが麻衣は肝心なところで、提出されたドキュメント自体に問題があったと言い張り、あろうことか矛先を真っ先に紬へ向けてしまったのだ。「君は、まだ子供のような気性だな」直輝の口調には、困り果てた響きが滲んでいた。麻衣は泣きながら訴えた。「分かってるわ、私が役立たずなのは!会社に利益ももたらさないし!全部私のせいでいいわよ。明日にはA国に帰って、さっさと誰かと結婚して専業主婦にでもなるわ!」「麻衣、投げやりなことを言うな!」直輝は冷ややかな表情のまま、暴れる麻衣を再び腕の中に押さえ込んだ。「この件はもう終わりだ。引かれた分の給料は、僕が倍にして補填してやる。それでいいな?」「ふん、そんなふうに私に貢いでるって、奥様が知ったらまた焼きもちを焼くんじゃない?」麻衣は急に話題を変え、不機嫌そうに言った。「今日もあの人と一緒にご飯を食べて、そのまま帰って寝るつもりなのかしら」直輝は愛おしげに彼女の頭を撫でた。「今日は帰らない。君のそばにいよう。いいだろう?」「別に嬉しくなんてないわ!今日は減給で、明日は追い出されるんじゃないかって、不安でたまらないの!」麻衣は甘えるように詰め寄った。直輝の家は男兄弟ばかりで、娘はいなかった。直輝の兄が親戚から養子として迎えたのが、この麻衣である。麻衣は蝶よ花よと育てられ、卒業後は直輝の会社に入り、数年間彼の秘書として働いてきた。直輝は結婚してからも、麻衣を最優先にしてきたのだ。美咲は、彼が妹を可愛がっているだけだと思い込み、
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第354話

リビングでは、ふくらはぎまで浸かるほどの水がキッチンから絶え間なく溢れ出していた。新調したばかりの家具は水に浸かり、ベランダで育てていた花までもが無惨な姿になっている。そんな中、二人の子供は水鉄砲を手に、全身びしょ濡れのまま、一歩も引かずに水を掛け合っていた。「年貢の納め時だ!今日こそ僕の軍門に降らせてやる!」悠真は水鉄砲を突きつけ、勝ち誇ったように言い放った。ドサッ。手に提げていた買い出しの袋が床に落ちた。紬はあまりの惨状に目眩を覚えた。――この子、殴っていいかしら。そんな衝動が頭をよぎる。目ざとい唯は、玄関先に立つ影に気づいた。彼女は水鉄砲を構えたまま、わざと足を滑らせて水の中に転び、泣きじゃくりながら手で涙を拭った。「ううっ……あんたの勝ちよ、あんたの勝ちでいいわよ!もう私を叩かないで!」勝利の喜びに浸っていた悠真は、鼻で笑いながら歩み寄る。「降参しても無駄だ!敗北者め!二度と僕のママの家に足を踏み入れるな!さもないと、もっと痛い目を見せてやるからな!」「……ずいぶん威勢がいいわね?」聞き覚えのある女の声が響いた。悠真の背筋が凍りつき、水鉄砲を掲げていた手がぴたりと止まる。床に転がったままの唯は、彼に向かってニヤリと舌を出し、ウィンクしてみせた。――私と勝負しようなんて百年早いわよ、べーだ!悠真はその時になって、ようやく自分が嵌められたことに気づいた。先ほどまでの威風堂々とした姿は一瞬で消え失せ、狼狽しながら振り返る。「マ、ママ……帰ってきたの?」紬は引きづった微笑みを浮かべた。「あと少し遅かったら、家ごと取り壊すつもりだったのかしら?」「ち、違うんだ!全部僕のせいじゃないんだ、あの子も……あの子がやったんだ!」悠真が後ろの唯を指差すと、そこには心細そうに縮こまり、いかにもいじめられたと言わんばかりの哀れな少女がいた。紬は溜息をついた。「悠真くん、唯ちゃんはあなたより一歳下なのよ」悠真には、もはや弁解の余地がなかった。――先に水鉄砲を撃ってきたのはあのおデブちゃんだ!僕は正当防衛をしただけだ!それなのに、二人が水を入れようと蛇口を奪い合った拍子に、キッチンの水道が壊れてしまった。ママに連絡する間もなく、二人が帰ってきてしまったのだ。
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第355話

関わりたくないのも無理はないわね。この泣き声を聞かされるだけで、疲れ果ててしまうもの。外の人間にまで聞かれていたと気づき、悠真はとっさに泣き声を飲み込んだ。「……何がおかしいんだよ」「別に?私、生まれつき笑い上戸なだけよ」カナは茶目っ気たっぷりにウインクした。悠真はさらに惨めな気分になった。――絶対、僕のことを馬鹿にして笑ってるんだ!彼は結局、ふてくされたまま自分の部屋に戻り、着替えを済ませた。紬は水道業者に連絡を取り、特急料金を上乗せして修理を依頼した。キッチンの浸水はようやく止まったものの、家の半分は使い物にならない惨状だった。「紬先輩、いっそのこと私の家に引っ越してきませんか?空いている部屋もありますし」カナは床の水を掃き出し、雑巾がけを手伝いながら提案した。トラブルを起こした当の二人は、その後ろをおずおずとついて回りながら、タオルで床を拭いている。紬は苦笑いを浮かべた。「ありがとう。でも大丈夫よ。見たところ、被害がひどいのはリビングとキッチンだけみたいだから。後でリフォーム業者を探して、修繕できるか相談してみるわ」カナには交際相手がいる。自分一人でさえ遠慮があるのに、今は悠真まで連れているのだ。それに、天野家側の態度は依然として不透明だった。悠真が突然現れた理由も、彼が口にしていることがすべてだとは到底思えなかった。「きれいなおねえちゃん、私の家に来ればいいよ!空いてるお部屋、たくさんあるもん!きれいなおねえちゃんと物乞いのお兄ちゃんに、一つずつ貸してあげる!」唯はタオルを置くと、太っ腹な様子で言い切った。悠真はその「物乞いのお兄ちゃん」という呼び名に、怒りで震え上がった。ママを騙して家に入り込んだあの日の黒歴史を、ことあるごとに蒸し返してくるのだ。「そんな気持ち悪い呼び方をするな!僕とママには家があるんだ!君たちの家みたいなボロ屋になんて住まないよ!ママ、うちへ帰ろう!」悠真の言う「うち」とは、天野家の本邸のことだ。天野家の人間は今、全員海外にいるが、管理人は常駐している。特に、成哉と紬の新居だった場所なら、今でも整えられているはずだ。もしこの機会にママをあの家に連れ戻せれば、結果オーライになる……!悠真は密かにそんな期待を抱いていた。ところが、唯はすでに泣き出
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第356話

紬は悠真を一瞥すると、冷ややかな視線を収め、彼を立たせた。新浜の本宅に確認したところ、崇は二日前にA国へ発ったという。征樹たちも不在で、凛花までもが海外旅行に出かけていた。今、悠真を帰そうと思えば、A国まで送り届けるしかない。いくら彼がませているとはいえ、六歳の子供を一人で国際線に乗せるわけにはいかない。実の母親として、彼を保護する義務があるのもまた事実だった。「二度と今日のような愚かな真似はしないで。私にはあなたの尻拭いをする時間なんてないの」紬の声は硬かった。「分かってる。もう二度としないよ」悠真は驚きと喜びに包まれた。今日のところはこれで許されたのだと確信した。――でも、ママはやっぱりあの家に帰るのを嫌がってる……結局、その日の夕食は神谷家のキッチンを借りて作ることになった。カナの料理の腕前は相当なもので、四品一汁をあっという間に作り上げた。二人の子供たちが夢中で食べるのはもちろん、紬も思わず感嘆の声を漏らした。「美味しいわ、カナ。料理人にならなかったのが惜しいくらいね」紬はシャキシャキとしたジャガイモの千切り炒めを口に運び、その絶妙な味付けに舌鼓を打った。カナは頬杖をつき、幸せそうに皆を見つめた。「へへっ、でしょ!実家がそういう商売をしてるんです。でも、私はやっぱり芸術を追求したくて」紬は微笑んだ。「それも素敵ね。自分の好きなことに情熱を注げるのは、とても幸せなことだわ」「お考えが同じとは、さすがですね!さあ、紬先輩、もう一杯いきましょう!」カナが豪快に笑ってグラスを掲げた。「いっちゃうよー!」隣で唯も、ピンク色のジュースが入ったコップを一丁前に掲げ、乾杯に加わった。紬とカナは思わず吹き出した。悠真も、柄にもなく真面目な顔で立ち上がり、カナにグラスを向けた。「カナさん、会社でママを支えてくれて、ママを笑顔にしてくれてありがとう。これは僕からのお礼だよ」「あらまあ」カナは少し気恥ずかしそうに言った。「紬先輩、この子、なかなか世渡り上手ですね」紬は悠真をちらりと見たが、その表情はどこか晴れなかった。――いったい、誰にそんな口の利き方を教わったのかしら。賑やかな夕食の時間は、あっという間に過ぎていった。カナは最終電車に間に合わせるため、先に帰宅した。紬は
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第357話

紬は口を開き、何でもないと言おうとしたが、唯はマシンガンのような勢いで、事の経緯を理玖にまくし立てた。「なるほど、そういうことか」理玖は眉をひそめ、紬に向き直った。「すまない。君の家がこんなことになったのは、うちのこのお転婆娘にも責任がある。リフォームが終わるまで、ここに泊まればいい。遠慮はいらないよ」紬はとっさに断ろうとした。「いえ、それではあまりにご迷惑です。大丈夫ですよ。もし本当に支障があるようなら、別に部屋を借りて一時的に住みますから」「それでは余計に手間がかかるだけじゃないか。お互いの部屋は目と鼻の先だ。ここなら日常生活に何の支障も出ないだろう?」理玖は言葉巧みに紬を説得した。悠真は紬が迷っている様子を見て、内心気が気ではなかった。――もし本当にこのチビの家に引っ越したら、あいつらに付け入る隙を与えるだけじゃないか!忌々しい……やっぱり最初からそこが狙いだったんだ!悠真は紬の手を揺らした。「ママ、大丈夫だよ。寝室までは水が入ってきてないから、夜は寝られるもん」「水に浸かった壁は剥落する危険があるし、細菌も繁殖しやすい。病気の原因にもなる」理玖が淡々と言い添えた。紬からキッチンを借りたいという連絡を受けた時点で、理玖はすでに状況を把握していた。ちょうど今夜は仕事が立て込んでいなかったため、様子を見るべく早めに切り上げて戻ってきたのだ。紬はついに折れた。「……分かりました。では、お言葉に甘えて」もし病気にでもなれば、悠真の存在はさらに大きな火種になる。今の会社の厳しい状況では、頻繁に休みを取れば確実に「目くじらを立てられる」だろう。悠真は理玖を忌々しげに睨みつけた。――この男、いつも甘い言葉ばかり並べて……絶対にママに下心があるんだ!いいことばかり言って、ママを騙して連れ込んで、何をするつもりだか!理玖はその視線に気づき、眉を上げた。「坊や、病院にはもう行ったのかい?」その一言で、悠真はまるで負け戦の雄鶏のように、逆立てていた毛を一瞬で萎ませた。理玖に、正確に急所を突かれたのだ。夜、部屋割りを決める段になると、悠真は「怖いからママと一緒に寝たい」と甘えだした。唯がそれを嘲笑う。「あははは!恥ずかしくないの!こんなに大きいのに一人で寝られないなんて!」「怖いんだからしょうがないだ
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第358話

翌日、紬はタクシーで出勤した。ひどい渋滞に巻き込まれ、一時間も足止めを食らった。危うく遅刻するところだった。――新しい車の購入と家のリフォーム……早急に手を打たないと。会社に到着し、タイムカードを切ったのは、始業時間ぎりぎりだった。「あら紬さん、お見事ですこと。私があんなふうにギリギリ出勤をしたら、一ヶ月に三十日は遅刻してクビになってしまいますわ」白湯を汲みに行く途中の麻衣が、通りざまに嫌味を投げつける。昨日の今日で、紬は彼女に一片の期待も抱いていなかった。相手にするのも馬鹿らしく、黙ってバッグを置くと、そのまま無視して席に着いた。麻衣は鼻で笑う。――清純ぶって。いずれ必ず、チーフデザイナーの座は私が奪ってみせる。麻衣は腰をさすりながら、上機嫌で社長室へと向かった。「あの麻衣の毒舌ときたら、何でもかんでも犯罪みたいに言い立てるんですから」見かねたカナが、紬がデスクに戻るなり愚痴をこぼしに来た。「一日中、社長室に出入りして!事情を知らない人が見たら、社長とデキてるって思われちゃいますよ」「しっ」紬は周囲を見渡し、誰も注意を払っていないことを確かめてから口を開いた。「あなたね、何気ない一言が大きな火種になることもあるのよ」カナは素直に頷いた。「紬先輩、昨夜はどこで寝たんですか?」昨日別れ際、あの小さな女の子が紬に必死で「うちに来て」と誘っていたのを思い出したのだ。「唯ちゃんの家よ。家が直るまであそこに居させてもらって、それから悠真を連れて戻るわ」カナはほっとした表情を浮かべた。「よかった。私、自分が行く先々で災難が起きるんじゃないかって思っちゃいましたよ」「そんなわけないでしょ。変なこと言わないで。私の方こそ、どこへ行っても不運に見舞われる気がしてるんだから」「あはははは!」二人は笑い合いながら洗面所へ向かい、戻ってくると、会議室の前に人だかりができていた。「どうしたの、何かあったの?」カナが身を乗り出して尋ねる。「クライアントが来てるみたい。みんな見てるのよ。秘書か何かかしら、あの女性、すごく美人なの!」「ええっ、社長ったら本当に偏愛ね。大塚さんっていうインターン、昨日あんな不始末をしたばかりなのに、今日はもう会議に同席させてもらえるなんて」カナと紬は顔を見
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第359話

その言葉が落ちた瞬間、会議室は水を打ったように静まり返った。麻衣の顔から笑みが消え、強張る。今回の作品は、わざわざ高名なデザイナーに依頼して描き上げてもらった自信作だった。それなのに、目の前の女はあろうことか、こんな結論を下したのだ。今日が初対面でなければ、最初から自分に悪意を抱いているのではないかと疑いたくなるほどだった。蘭は手荷物をまとめ、そのまま席を立とうとする。この種のデザインなら、A国のデザイン業界で嫌というほど見てきた。そして、そのどれもが彼女の好みではなかった。この国なら、理想のウェディングドレスに出会えると思っていた。だが、この会社が提示してきた素材やシルエットは、A国で発注した原稿にさえ及ばない代物だった。「藤岡様、ご期待に沿えず申し訳ございません。我が社には他にも経験豊富なデザイナーが多数在籍しております。どうか今一度、ご検討いただけませんでしょうか」直輝が必死に引き留める。昨日、提携話を一つ潰してしまった麻衣は、ずっと自責の念に駆られている様子だった。今日になって紬に代わり、クライアントに会わせてほしいと泣きついてきた際、当初、直輝は首を縦に振らなかった。だが麻衣は、会社に一億円の損失を与えてしまったことが心苦しくてたまらないと訴え続けた。そのうえ、入念な準備を重ね、ウェディングドレスのラフ画まで持参していた。その原稿は強い熱量を帯び、完成度の高いデザインだったため、直輝も一定の満足を覚えていた。だからこそ、彼女を先に同席させることを許可したのだ。まさか、ここまで一蹴され、弁解の余地すら与えられないとは思ってもみなかった。今の言葉は、暗に麻衣を「価値なし」と断じたに等しかった。「結構です」蘭の決意は揺るがない。その時、オフィスのドアにノックの音が響いた。「失礼します。遅くなりました」紬が書類を抱え、ドアを押し開けた。真っ先に目に飛び込んできたのは、上座に座る美しい女性だった。情熱的な赤いドレスを見事に着こなし、その顔立ちはまるでCGモデルのように、非の打ち所のない完璧な美しさだった。紬は心の内で感嘆の息を漏らす。先ほど他の社員たちの噂を耳にした時は、それほど気にも留めていなかった。だが、実際に目の当たりにすると、その美しさはあまり
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第360話

蘭は一瞬呆気に取られたが、先ほどのようにそのまま立ち去ることはなかった。「つまり、今私が見たデザイン画は、あなた自身が描いたものだとおっしゃるの?」「そうです!その図面も彼女が作ったんです!」麻衣が思わず声を張り上げた。紬がこの場を収めに来た以上、この案件を逃したくないはずだ――彼女なら否定しないだろう。そう踏んでの発言だった。紬は冷ややかな視線を麻衣に向ける。「いいえ。私はそんなもの、一度も描いたことはありません」その一言で、麻衣の顔色は瞬時に土気色へと変わった。蘭は眉をわずかに上げ、鼻で笑う。「悪いけれど、私の時間は貴重なのです。あなた方の醜い身内揉めに付き合っている暇はありませんわ」そう言い残し、蘭は踵を返そうとした。だが紬は追いすがらない。代わりに、おもむろに図面を手に取り、静かに言い放つ。「ですが……それを、あなたのお好みのデザインに書き換えることはできます」「紬さん、自信があるのは結構ですけれど」蘭は足を止め、嘲るように微笑んだ。振り返ると、紬はすでにペンを手にし、迷いなく図案の上へと線を走らせていた。重たくもたついた印象だったロングトレーンのウェディングドレスは、容赦なくカットされ、ふくらはぎ丈へと変わる。それでいて、華やかさは一分たりとも損なわれていない。紬が修正を重ねるごとに、蘭の表情から嘲笑が消え、やがて真剣な眼差しへと変わっていった。その発想は大胆で革新的、次々と提示される改良は、いずれも予想を裏切るものばかりだった。この場でなければ、思わず拍手を送っていたに違いない。やがて紬は描き終えたデザイン画を差し出す。蘭は興味深げにそれを受け取り、しばらく見つめたのち、口を開いた。「いいでしょう。あなたとなら提携を続けても構いません。ただし――あなた個人とだけ、ですわ。私のドレスに、得体の知れない人間を介入させないでいただきたい。それに、私が求めているのは完全な新作。この図面とは何の関係もないものです」そう言って、蘭は図面を机に置き、指先で無造作に軽く叩いた。麻衣は顔を真っ赤にし、屈辱に震えていた。助けを求めるように直輝を見る。直輝は小さく溜息をつき、表情を引き締めた。「藤岡様、麻衣はまだ新人です。図面にも改善の余地はございますが……
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