協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた のすべてのチャプター: チャプター 411 - チャプター 420

520 チャプター

第411話

祐一郎は軽く首を振った。「俺は別に済ませたい用事があってね。大したことじゃないから気にしなくていい。朝登にはすでに連絡を入れてあるから、そのまま中に入ってフロントで呼んでもらえば、すぐに会えると思う」「わかったわ」頷いて車を見送ってから、杏奈はビルの中へ足を踏み上げた。大理石のフロントデスクでスタッフが顔を上げ、洗練された礼儀正しい笑みを浮かべた。「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか」杏奈が訪問の旨を簡潔に説明しかけた、その時だった。横から、人を馬鹿にしたように鼻で笑う声が割り込んできた。「はあ?あんたが?うちの社長に会うですって?ジュエリーを見に来たなんて適当な嘘をついて、どうせうちの企業秘密でも盗みに来たんじゃないの?」声のしたほうへ視線を向けると、けばけばしい化粧をした女が、品定めするような嫌らしい目で、頭のてっぺんからつま先までじろじろと杏奈をなめ回すように見た。その目には露骨な侮蔑の色が浮かんでおり、隠そうとするそぶりすら見せない。杏奈の眉がすっと冷たくひそまり、その声が凍りついていった。「口は言葉を話すためにあるのであって、毒を吐くためにあるわけじゃありませんよ。ご存知でした?」まさか、こんな場所で面と向かって痛烈に言い返されるとは思っていなかったのだろう。女は数秒間目を丸して固まり、それから顔を真っ赤にして詰め寄ってきた。「この小娘、誰に向かって口をきいてるの!私が誰だか知ってるの!?」杏奈は、振り上げられた手をひらりとかわし、涼しい顔で言った。「あなたが誰かなんて、興味もありませんし知りません。自分のお母様にでも聞いてみたらどうですか?あいにく、私はあなたのお母さんではないので、あなたの面倒を見る義理はありませんから」「きゃあっ!!」女はヒステリックな悲鳴にも似た怒声を上げ、目は血走っていた。「よくも言ったわね!覚えてなさい、あんた、もうこの業界じゃ終わりよ!」杏奈はわざとらしく大げさにうなずいてみせた。「わあ、怖~い」「あんたっ!」女は激しく肩を上下させ、杏奈の鼻先に指を突きつけて怒鳴ろうとした。その瞬間、見かねたフロントのスタッフが眉をひそめて凛とした声で口を挟んだ。「月島様。社長は、社内でのいかなる揉め事も固く禁じておられますよ」その静か
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第412話

朝登は純白のスーツを身に纏い、胸元には白薔薇のピンバッジを光らせていた。その物腰はどこまでも落ち着き払っており、名家の当主らしい洗練された品のある佇まいだった。しかし、その穏やかだった瞳が有朱へと向けられた瞬間、恐ろしい圧が漂い、有朱の額にじわりと冷や汗が滲む。足が、恐怖で笑い出しそうだった。朝登は怯える妹を完全に無視し、まず杏奈のほうへ視線を移した。その声は、有朱が今まで聞いたこともないほど、優しいものだった。「いらしていたのなら、早く連絡してくださればよかったのに。下まで俺がお迎えに上がりましたよ」杏奈は小さく笑って首を振った。「どうせ上の階へ行く予定でしたし、直接社長室へ伺おうと思いまして。そうしたら、ここで少し……」言葉を濁して、有朱のほうをちらりと流し見た。有朱は心の中で絶望の呻き声を上げた。こうなることはわかっていても、もはや避けようがない。恐怖のあまり涙をこらえながら、半泣きで必死に口を開いた。「お、お兄ちゃん、誤解よ!私、この人がお兄ちゃんの知り合いだなんて本当に知らなかったの!もしも、この方が私のお義――」「ね」の字が彼女の口から滑り出る前に、朝登の顔色が険しくなった。「馬鹿なことを言うな。黙れ!」鋭く、冷酷な声で叩き斬るように遮る。こんなところでそんな妄言を吐いて、もし万が一、祐一郎の耳にでも入ったら、大変なことになる!有朱はビクッと肩を震わせて口をつぐみ、恨みがましい目で兄を見つめた。朝登は深々と眉間を指で押さえた。本当に、心底頭が痛そうだ。「いいから。杏奈さんにちゃんと心を込めて謝罪したら、お前はもう真っ直ぐ家に帰りなさい」本来ならば、こんな愚かな妹とはとっくの昔に縁を切っていたところだ。ただ、月島家の本流として、表向きだけでも家族の体裁を保っておかなければならないという義務感があればこそ、こうして会社に出入りすることを許して残してあるに過ぎない。本当に、どこまでも愚かで、底知れず手を焼く女だ。すでに自分の頭の中だけで杏奈を「未来の義姉」だと勝手に認定してしまっている有朱は、これ以上兄に逆らうこともできず、くるりと杏奈のほうへ向き直って深々と頭を下げた。「ごめんなさい。さっきの無礼な態度は、私が全部悪かったです。どうか許してください」上辺の態度だけは、申し
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第413話

丁寧に断ろうとした杏奈に、朝登は付け加えた。「祐一郎さんからは、妹のように気にかけてやってほしいときつく言われていましてね。もしきちんともてなせなかったと知れたら、あの過保護なお兄さんのことですから、後で間違いなく長文の文句を言ってきますよ」そこまで言われてしまっては、杏奈も無碍には断りにくい。彼女は諦めたように苦笑して頷いた。「……じゃあ、お言葉に甘えます。余計な気を遣わせてしまって、すみません」朝登は軽く手を振った。「いえいえ、近所で軽く食べるだけですから」「ですね」オフィス街からほど近い、こぎれいなレストランに落ち着き、手早く注文を終えた。料理が運ばれてくるまでの間、初対面のふたりの間で沈黙が続くのも気まずい。何か話題を探そうと杏奈が口を開きかけた、その時だった――隣のテーブルから、声のトーンこそ低いものの、妙に熱を帯びた不穏な会話が漏れ聞こえてきたのだ。「あなたは吉川家のご令嬢でしょう。他人の家で肩身の狭い思いをして生きる惨めさなんて、わかるはずないわ。私はね、毎日毎日、顔色をうかがって生きてるのよ」「月島家ももう人数が減ってることだし、もっと強気に出てもいいんじゃないの?あの『お兄ちゃん』とやらをうまく追い出して、自分が仕切ればいいじゃない。そしたら何でも思い通りにできるのに」「……したいのは山々よ。でもできないから困ってるんじゃない」「手伝えなくもないわ。ただし、ひとつ条件を飲んでくれるならね。どう?」「…………」杏奈と朝登は思わず顔を見合わせ、無言のまま、そっと席の脇に置かれた観葉植物の鉢をずらした。遮るものがなくなると、少し離れた窓際の席に陣取るふたりの姿が、はっきりと見えた。――美南と有朱だった。あのふたりが、なぜ一緒に……?しかも漏れ聞こえた会話から察するに、何やら良からぬことを企んでいるようにしか見えない。杏奈が眉をひそめ、もう少し聞こうと耳を澄ませた瞬間、不意にウェイターがやってきた。「お待たせいたしました。ご注文のお料理でございます」ウェイターの声は決して大きくはなかったが、それでもふたりには届いたようだった。会話を止めて振り返った彼女たちの目と、まだ様子を探るために視線を向けていた杏奈の目が、正面からぶつかった。三者の視線が交差し、しばし凍りつくよ
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第414話

「あんたっ!!」美南は、導火線に火がついたように激昂した。「吉川家の奥様という立場でありながら、素性の知れない男と白昼堂々――あんたは……!」ヒステリックな罵倒を聞いていられず、杏奈はそれを冷たく切り捨てるように遮った。「朝から歯を磨いていないなら、トイレで口をゆすいできたらどう?ここでまき散らさないで」美南に口を挟む隙を与えず、杏奈はさらに一歩、前へ踏み出した。相手を見下ろすような視線には、じわりと滲む嫌悪がある。「その肩書きを持ち出すのはもうやめて。私は一切気にしていないし、必要ともしていない。それから――私が顔向けできない相手がいるとすれば、それは自分に対してだけよ」ぐうの音も出ず、美南は屈辱に唇を噛み締めて黙り込んだ。杏奈がいなくなったこの数日間。吉川家において彼女の不在がいかに大きく、致命的な穴を開けているかを、美南は身に染みて感じていた。少なくともジュエリーデザインの面においては、杏奈の代わりになる人間など、社内のどこを探しても見当たらなかったのだ。国際大会での名誉挽回のことを考えると、焦りばかりが募る。美南は大きく息を吐き出し、煮えたぎる怒りをどうにか押し込めながら言った。「……もう、十分騒いで気が済んだでしょう」それから、朝登をひと睨みして、さらに投げやりな態度で続けた。「こんな素性の知れない男とわざと食事をして私の気を引こうとしてたんでしょ。謝ってほしいなら、そう言えばいいじゃない。ごめんなさい、私から折れてあげるから、これで終わりでいい?」その自己中心的で傲慢な態度に、さすがの朝登も見ていられなくなった。「あの……人に謝罪を要求するなら、最低限の誠意というものは必要でしょう。土下座しろとは言わないまでも、せめてお辞儀くらいはすべきでは?」杏奈は間髪入れずに深く頷いた。「ええ、まったくその通りだと思います」見事なまでに息の合ったふたりの掛け合いに、美南は屈辱で顔を真っ赤にし、今度こそ大声で怒鳴り散らそうと息を吸い込んだ。そこへ、慌てて駆けつけてきた有朱が彼女の口を後ろから必死に塞いだ。「やめて!うちのお兄ちゃんなのよ!本気で怒らせたら私も庇えないから!」有朱が朝登を骨の髄まで本気で恐れているのは、誰の目にも明らかだった。今も、冷ややかな朝登の視線と一瞬目が合
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第415話

朝登は、楽しそうに笑った。「むしろ敵に回せないほうが困りますよ」月島家はすでに取り戻した。かつての執念はもう消えている。濱海市の老舗名家などと言われても、今の朝登には何の重みも持たない。いっそ吉川家と対立できるなら、そこから何かを削り取れて、それはそれで悪くないゲームだ。その底知れぬ凄みを帯びた表情に嘘がないと見てとった美南は、完全に怒りの行き場をなくした。最後は負け犬のように、虚勢を張った捨て台詞を吐くだけだった。「……覚えてなさい!これで終わりだと思わないで!」ギリッと踵を返し、憤然と歩き去ろうとした瞬間、朝登がその無防備な背中へ向かって、呑気に声をかけた。「お待ちしていますよ. あまり長く待たせないでくださいねー!」その余裕たっぷりの言葉の追撃を受けた美南の足が、まるで石でも踏んだかのように無様にもつれてよろめき、あわや床に転びかけた。なんとか体勢を整えると、今度はいっそう早足で逃げるように去っていった。嵐のように去っていったのは美南だけで、有朱はまだそこに石像のように固まって残っていた。朝登のじっとりとした冷たい視線を正面から受けながら、今にも泣き出しそうな顔をしている。「たっぷりと話してもらおうか」朝登は杏奈と向かい合わせに座り直しながら、有朱を見据えた。獲物を観察するような冷徹な視線だった。「彼女に何を唆され、俺に対して何を企むよう持ちかけられたの?何を俺に対してするよう頼まれて、一体どんな裏取引をしたのかな」有朱は口をもごもごと動かし、消え入りそうな声で言った。「言わないと……やっぱり、ダメ……?」「別に構わないよ」朝登があっさりと頷いたのを見て、有朱がほっと安堵しかけた瞬間、続きが来た。「すべては自分で決めたことだから、仕方ない。今夜家に帰ったら、すぐにお前の母と一緒に荷物をまとめて――」「言います!言いますから!」有朱は慌てて口を開いた。「頼まれたことがあるんです!それを済ませたら、吉川家の力を使って、私が月島家を乗っ取れるように手を貸してくれるって……そう言われたの!」朝登は鼻で笑った。「野心だけは一人前で、頭は空っぽだな」誰もが知っているように、今の吉川家を束ねているのはあの冷徹な蒼介だ。他家の財産を横取りするような真似が、絶対にできないわけではない。た
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第416話

長年にわたって、政夫が自分へ向けてくれた確かな優しさを思うと、どうしてもその破滅を見過ごす気にはなれなかった。杏奈は長く息を吐き出し、その瞳に静かな決意を宿した。「私がすべきことはひとつです――あのふたりを阻止しないといけない」朝登は少し残念そうではあったが、彼女の意思を拒む気はなかった。「どうしたいかは、杏奈さんに一任します。祐一郎さんからも、君自身が望むことなら、全力を尽くして力を貸すようにと命じられていますので。もちろん、君自身の手でひとりでやり遂げたいというなら、それでも構いません。何か俺にできることがあれば、いつでも言ってください」「ありがとうございます」杏奈は深く頷いた。食事を終えてから、ふたりはその場で別れた。車に乗り込んだ杏奈はスマホを手に取り、蒼介に直接電話をかけるべきかどうか迷っていた。そこへ、思いがけない着信が入った。元からだった。不思議に思いながら通話ボタンを押すと、聞こえてきたのはモモの、ふわふわとした甘い声だった。「もしもし〜」杏奈の眉がすっとほどけ、自然と優しい笑顔が浮かぶ。「ふふ、こんにちは。モモちゃん、いきなりどうしたの?」「えっとね!」モモは弾んだ声で答えた。「今日ね、学校お休みなの。ねえ、一緒に遊んでくれる?」「今日は、ちょっと……」今日は用があるから、と言いかけた。政夫のことに関しては、一刻も早く動かなければ時間が経つほどに危険が増す。しかし、元と蒼介の深い関係を考えれば、元に一言事情を耳に入れておけば、彼から蒼介に伝えてすぐに動いてもらえるかもしれない。そう気づいた途端、杏奈は言葉を変えた。「いいよ。今、どこにいるの?」「おうち〜」「じゃあ、そこで待っててね」電話を切り、杏奈は急いで高岡家へと車を走らせた。……一方、吉川グループの本社ビル。最上階にある広々とした社長室では、洸平が困り果てた様子で入室し、デスクに向かう蒼介へ報告していた。「社長。美南様が下の会議室でお待ちです。社長に会えるまでは絶対に帰らないとおっしゃっていて……」蒼介は手元の書類から目も上げなかった。「用件は?」洸平がため息をつきながら答えた。「それが、ご用件をお聞きしても、お会いするまでは何も話さないと……」「わかった」短く冷淡に返したき
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第417話

少し間を置いてから、美南は意味ありげに続けた。「それに、万が一聞かれてたとしても、私たちが諦めたと思うでしょう。まさか私たちが本当に実行に移すなんて、読めるはずがないわ」まったくもって頑固で、自信過剰だ。有朱は彼女を説得することを諦めた。朝登からの「うまく乗れ」という指示もあることだし、調子を合わせて乗っていくしかない。「……で、私は何をすればいいの」「うちの兄さんはこの二日間、用事で帰らないし、屋敷にも顔を出さないわ。その間に急いで済ませて。株の件がうまくいったら、あんたへの見返りはちゃんとするから」「……わかった」……一方――高岡家の門の前に車を止めた杏奈がドアを開けた瞬間、弾むように小さな女の子が飛び込んできた。「えへへ、モモ、来たよ〜!」杏奈は笑いながら身をかがめ、その小さな体を受け止めた。「モモちゃん、ここ数日ちゃんといい子に過ごしてた?」モモは杏奈の腕の中にすっぽりと収まりながら、こくこくと力強く頷いた。「うん!毎日いっぱいごはん食べて、ちゃんと夜も早く寝ててね……」小さな体いっぱいに甘えながら、庭できれいな花を見つけたことまで、一生懸命に報告してくる。話し終えると、上目遣いで杏奈を見上げた。その瞳には「えらいでしょ、褒めて」とはっきりと書いてある。杏奈は愛おしそうに、その柔らかい頭をくしゃくしゃと撫でた。「ふふ。モモちゃん、えらかったね」モモのふっくらとした頬がぽっと赤くなり、照れくさそうに目を細めた。その愛らしさといったらなかった。少し離れた場所でその光景を見ていた元は、胸の奥がじんわりとあたたかいもので満たされるのを感じた。「……こんな瞬間が、ずっと続けばいいのに」気づいた時には、無意識に口に出していた。言った瞬間、「しまった」と後悔した。すぐさま杏奈のほうへ目をやる。緊張と、うまく言葉にできないもどかしさが、胸の中でぐるぐると混ざり合っていた。しかし杏奈はそれを聞いていなかったようで、顔を上げることもなく、腕の中のモモと楽しげに話し続けている。モモはぱちぱちと目をしばたたかせ、杏奈の耳元へ顔を寄せて内緒話のように耳打ちした。「ねえ、おじちゃんはなんでずっとこのままがいいって言ったの?おじちゃん、大人になりたくないの?」幼いモモには言葉の深い
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第418話

杏奈は静かに頷き、それ以上はその話題に触れなかった。少し離れた場所で待っているモモのところへ戻ると、小さな体をそっと抱き寄せて優しく聞いた。「ふふ。どこに行くか、もう決まった?」モモは花が咲いたような満面の笑みを向けた。幼い声は、甘く弾んでいた。「じゃあ、モモはメリーゴーランドに乗りたい!」「いいよ」杏奈は目を細めて笑った。「じゃあ、モモちゃんを一番きれいなメリーゴーランドに連れていってあげようね」「やったぁ〜!」無邪気にはしゃぐふたりの光景を少し離れた場所から見ていた元の目が、ふっと柔らかく和らいだ。しかし、先ほどの杏奈の言葉を思い返すと、また胸の奥で何かがざわめくように揺れた。もしも杏奈が政夫を助けるために動くことになったら、蒼介はそれを知って、一体どう出るだろうか――元は長く重い息を吐き出し、頭を振ってその先の思考を無理やり断ち切った。ポケットからスマホを取り出し、蒼介に電話をかける。たった二コールで繋がった。「何の用だ」彼の冷たい声が伝わってきた。元は手短に知り得た情報を話し、最後に真剣な声で付け加えた。「情報がここまで漏れているってことは、向こうもすでに動き出す寸前だってことだ。この二日間、とにかく気をつけてくれ」「……わかった」電話越しの声は相変わらず平坦で、いかなる感情も読み取れない。けれど、長年の付き合いがある元には、その短い返答の裏にわずかな感情の乱れがあることがはっきりとわかった。そして、杏奈とモモの楽しげな笑い声がこちらの電話口に届いた瞬間――電話の向こうの、氷のように静かだった息遣いが、ほんの一瞬だけ不自然に乱れた気がした。「他には?」「あっ、いや、もうない」と元が答えると、電話はあっさりと一方的に切られた。無機質な音を聞きながら、元はぼんやりと思った。あいつ、へそを曲げて八つ当たりしてきやがったな……「なぁなぁ!おじちゃん!」モモの明るい呼び声が、元の意識を現実へと引き戻した。元は気持ちを切り替えて、いつもの気さくな笑顔を作り、ふたりのほうへ歩いていった。「どうした?行き先が決まったか?」モモは杏奈の腕の中にすっぽりとおさまり、小さな手で彼女の細い腕をぎゅっと抱え込みながら、白い歯を見せて嬉しそうに笑った。「うん!きれいなおばさんが、
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第419話

だが、きっぱりと断れるかというと――吉川家と高岡家は、とうの昔に根深い協力関係を結んでいる。血の滲むような権力闘争を経て、吉川が絶対的な主君であり、高岡がそれに従うという形は、もはや暗黙の了解として両家の間に深く根付いていた。いくら幼馴染みというよしみがあっても、あの蒼介が自分の勝手な振る舞いを大目に見てくれるなどとは、元には到底思えなかった。杏奈が抱いている冷徹な見立てと、まったく同じだ。あの男は、血の通った心を持たない、冷血な怪物なのだ。そこまで思い至ると、元は深く重いため息をついて観念した。「……わかった。今、家にいるから、こっちに来てくれ」「了解。三十分くらいで着く」電話を切ってから、元は渋い顔をしたまま、車の中でモモと無邪気にじゃれ合っている杏奈のほうへ重い足取りで歩いていった。近づいてきた彼の様子がどこかおかしいと気づき、杏奈が不思議そうに小首を傾げて聞いた。「どうかしたんですか?何かありました?」元は躊躇うように唇をわずかに引き結んでから、事の次第を手短に説明した。「もし顔を合わせるのが嫌なら、先に行っていただいても構いませんよ」杏奈はしばらく黙り込んだ。まさか、こんな休日に紗里まで一緒にやって来るとは、まったく思ってもみなかったのだ。けれど、腕の中にいるモモが、大好きな杏奈がこのままどこかへ行ってしまうのではないかと、不安げに揺れる瞳で見上げている。その小さな温もりを感じると、どうしてもがっかりさせる気にはなれなかった。杏奈は、波一つ立たない静かな声で言った。「来るのは構いません。でも、お互いに一切干渉しないこと。それだけ守っていただければ」思いがけない答えに、元の顔がぱっと明るく輝いた。「わかった!俺がしっかり目を光らせているから、あいつらには絶対に邪魔なんてさせない」「ええ」と、杏奈は短く答えた。そうして待っていると、やがて控えめながらも威圧感のある黒塗りの高級ミニバンが、音もなくゆっくりと近づいてきた。ドアが開き、涼平が気取った手つきで前髪をかき上げながら降りてくると、さっさと反対側へ回り込み、まるで壊れ物にでも触れるかのように、仰々しく紗里へ手を差し伸べた。「紗里さん、まだ本調子じゃないんだから、足元に気をつけてよ。もし君に何かあったら、俺が蒼介に何を言わ
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第420話

肌を刺すような冷ややかな沈黙が、場に降りた。重く淀んだ空気が、その場にいる全員を息苦しく包み込んでいるようだった。涼平は一瞬言葉を失い、呆然と立ち尽くした。杏奈に言葉で言い込められたのは、これが初めてではない。以前は、彼女の親友である円香と一緒になって徹底的に言い負かされたこともあった。けれど、今日ほど彼女の言葉に一切の容赦がなかったことはなかった。完全に、正面から喧嘩を売られているのだ。紗里でさえ、いつもは無抵抗な杏奈がここまで遠慮なく牙を剥いてくるとは思っていなかったようで、少し驚いたように丸くした目を瞬かせた。一瞬の空白の後、涼平はようやく頭に血が上り、怒りが頂点に達した。顔を真っ赤にして怒鳴り返す。「犬はお前のほうだろ!お前の底辺の家族なんか――」パンッ――!!空気を切り裂くような乾いた鋭い破裂音が、静かな空間に響き渡った。強烈な平手打ちの一撃に、涼平の頭がぐらりと大きく横へ傾いた。その乱れた髪の隙間から、みるみるうちに赤く腫れ上がっていく頬が見えた。頬を張った杏奈は、それで終わりにはしなかった。まだ放心状態で固まっている涼平の目の前まで静かに歩み寄り、ひとことひとこと、氷のように冷たく言い放った。「昔のことは、もう蒸し返さない。あれは、私がただ馬鹿だっただけだから。あなたたちのような人間に好き勝手やられたのも、自業自得とも言えるわ。でもね」ここで、彼女の声のトーンが一段と低く、重く変わった。その瞳に宿った冷たさは、あの蒼介が激しい怒りを限界まで抑え込んだ時のそれに、どこか酷似していた。その凄みに当てられ、涼平は思わずゾッとして身を竦めた。「これから先は、あなたも、あなたのろくでなしの仲間たちも、よく覚えておいて。次にまた私の前で調子に乗るような真似をしたら、この手で二度と繰り返さないよう躾けてあげるわ」「もちろん」杏奈はふと笑った。澄んだ笑い声に、感情の温度はない。「悔しいなら、仕返しをしてみてもいいわよ。ただ、あなたたちの家が、ルミエールの本気の反撃に耐えられるなら、の話だけどね」涼平の実家である北島家は、濱海市の名門であるのは確かだ。しかし、ルミエールには実力がある上、蒼介という絶対的な後ろ盾がなければ、北島家など、とうの昔に同業の誰かに骨の髄までしゃぶり尽くされていただろう。それだけ
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