再会した元カレ上司は、私の愛娘の父親でした의 모든 챕터: 챕터 991 - 챕터 1000

1073 챕터

第991話

真理は立ち上がると、美月を抱き上げ、そのまま誠に渡した。ミルクはもうできていて、手の甲で確かめた温度もちょうどよかった。真理はまた元の席に戻った。凛は積み木を一つずつ丁寧に拭いていた。淡いピンクのロングワンピースはくるぶしまで届く丈で、座ると長い裾が脚をすっぽり覆い、やわらかく落ち着いた雰囲気に見えた。長い睫毛を伏せた顔にも、ほとんど感情の揺れは見えなかった。真理が凛の腕を軽くつついた。「凛さん、蓮さんとは……本当にもう終わったの?」三人は小さなリビングで子供たちを遊ばせていて、背後の入口に蓮が姿を見せたことには気づかなかった。真理がそう尋ねた時、蓮はすでに入口に立っていた。その言葉を聞いた瞬間、蓮はドア枠をつかんだ手にぐっと力を込めた。その視線の先で、凛は俯いたまま、瑛太と美月が遊んだ積み木を拭き、元の場所へ戻していた。「もう何年も前に終わったよ。私だって、最初からだめだと思ってたわけじゃないよ。ただ、この先も一緒にいることを考えたら、きっとつらくなるって分かってたから」結婚は、二人だけの問題ではなかった。どうしてもお互いの家族とも関わらなければならなかった。そんな中で無理を続ければ、いずれ疲れ切ってしまう。そう思ったからこそ、凛は早いうちに離れることを選んだ。そこまで話すと、凛はふっと笑った。「蓮さんのお母さんとは、顔を合わせるたびに気まずくなってたしね。蓮さんだって、間に挟まれて大変だったでしょ。私も、ああいうのはもう嫌だったの」遥も真理も、凛の言いたいことはよく分かった。凛はまるで昔のことでも話すように淡々としていて、未練らしいものは少しも感じられなかった。蓮には、むしろその何気ない口調のほうがつらかった。もう凛の中では、本当に終わったことなのだと思えた。これ以上聞いていられず、蓮は何も言わないままその場を離れた。凛がふと顔を上げると、入口の向こうを離れていく蓮の後ろ姿がちらりと見えた。どこか見覚えがある気もしたが、誰なのかまでは分からなかった。凛は深く考えず、小さく首を振って片づけに戻ると、真理のほうを見て笑った。「どう?子供のいる生活、悪くないでしょ?」「大変だよ。でも、やっぱり楽しいかな」子育ては、思っていた以上に大変だった。誠がほとんど面倒を見て
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第992話

この日の食事会は、美月のお披露目を兼ねていた。美月はまだ小さかったので、親戚や親しい人たちに少し顔を見せたあとは、真理がシッターに預け、そのまま二階で休ませた。美月の姓については、両家の間でも特に揉めることなく、すんなり話がまとまっていた。客たちから届いた贈り物は、淵たちの別棟にまとめて置かれていた。その中には、潤が海外から送ってきたものもいくつかあった。潤からの贈り物には少し迷ったものの、真理は結局それも受け取っていた。翔と潤のことは、この先も許せないと思っていた。けれど、美月に贈られたものまで突き返す気にはなれなかった。届いた贈り物を一つずつ見ていると、小さな純金の粒がぎっしり詰まった箱が出てきた。手に取るとずしりと重く、百グラムほどは入っていそうだった。送り主の名前にも、真理はまったく心当たりがなかった。「こんな高いもの、誰から?」真理が箱を見せると、誠は名前を確認して答えた。「昔の知り合いだよ。お返しは俺がしておくから、とりあえず受け取っておいて」「昔の知り合いって、こんな高いものまで贈る?これ、下手したら数百万円するんじゃない?」金相場はここ最近かなり上がっていた。ジュエリーの仕事をしている真理には、これだけあれば相当な額になることくらい、ひと目で分かった。美月はまだ小さく、しかも送り主は今日ここに来てもいなかった。子供への贈り物にしては、どう考えても高価すぎた。真理は床に座ったまま、散らばった箱を片づけながら誠に目を向けた。「ねえ、誠。昔、一緒に働いてた人と付き合ったりしなかったの?」「そんな暇なかったって。あの頃はみんな仕事ばっかりで、恋愛どころじゃなかったよ」誠は笑って、真理の鼻先を軽くつついた。「向こうだって仕事に夢中だったし、こっちの男連中なんて相手にされてなかったよ」当時は誰もが目の前のことで精いっぱいだった。たとえ誰かを意識することがあっても、そんな気持ちはいつの間にか消えてしまうような毎日だった。「これは昔世話になった先輩から。前に、ある現場でその人を助けたことがあってさ。その時に俺が怪我したんだ。こんな高いものまで送ってくるとは思わなかったけど」昔の話をする誠は、どこか懐かしそうだった。あの頃は大変なことも多かったが、今となっては大切な思い出の一つにな
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第993話

「ほら」凛は一瞬、息を詰めた。この前オフィスで会った時の蓮は、凛が何を言っても一歩も引かず、どこか押しの強さがあった。けれど今、その目には名残惜しさや迷い、ためらいが入り混じり、凛にも読み切れない感情が浮かんでいた。凛は手を伸ばし、蓮の掌から金の粒をそっと取った。金の粒にはまだ蓮の体温が残っていて、触れた指先にもかすかなぬくもりが移った。近づいた拍子に、淡い香水の香りもふっと鼻をかすめた。蓮は凛をじっと見つめたものの、何も言わずに背を向け、そのまま足早に階段を下りていった。凛に声をかけることもなかった。凛はその背中を見送りながら、手の中の金の粒を握りしめた。いつの間にか真理が後ろまで来ていて、凛の肩に手を置くと、横から階段の下をのぞき込んだ。「何見てるの?まだ気になるんだ?」「違うよ。ただ、前とずいぶん変わったなって思っただけ」「まあ、変わったよね」真理が残りの金の粒を箱に戻していく横で、凛は掌の一粒を握ったままだった。返せばいいだけなのに、なぜか手を開く気になれなかった。「真理、これ、私が持ってっていい?美月には同じのを買うから」「別にいいよ。わざわざ買わなくても、そのまま持ってって」そう言われても、凛はその日の金相場に合わせた金額を真理に送った。どうしてそこまでして手元に置いておきたいのか、凛にもよく分からなかった。返そうとすると、さっき蓮に見つめられた時のことがふと頭をよぎり、なぜか返す気になれなかった。……一週間後。ホテルのラウンジで、琴子は何人かの知人とアフタヌーンティーを楽しんでいた。隣には佐山梨々花(さやま りりか)が座り、琴子はにこやかに話しかけた。「明日から蓮の会社で働くのよね?これから顔を合わせる機会も増えるし、自然と仲良くなれるわよ」梨々花は照れたように笑った。佐山家と佐原家は、昔から家族ぐるみの付き合いがあった。佐山家は佐原家ほど裕福ではなかったものの、家柄もよく、代々教育を大切にしてきた家庭だった。何より、梨々花はもう何年も蓮を想い続けていた。梨々花が帰国したと聞いた琴子はすぐに連絡を取り、S2グループに応募するよう勧めた。梨々花もその通りに応募し、すでに採用が決まっていた。琴子は、蓮も応募してきたのが梨々花だと知っていて採用したのだと思い込み、
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第994話

翌日。会議を終えて社長室に戻ると、湊がソファですっかりくつろぎながら、蓮の模型を勝手にいじっていた。「また来たのか?」「俺も出資してるんだから、たまに顔出すくらいいいだろ」S2グループには、湊もかなりの額を出資していた。技術スタッフの中には、湊が声をかけて引き抜いた者も何人かいた。蓮は呆れたように湊を見た。「遥さん、この辺で仕事?」「ああ。向かいの商業施設から出店の話が来てて、遥が場所を見に来てる。『àl'aube』も『アンサンブル』も、新しく店を出す予定だからな」この数年で、東都の商業施設には「àl'aube」と「アンサンブル」の店舗がずいぶん増えていた。ジュエリーは実店舗も重要だったため、新しく出店する時は、遥自身が現地まで足を運んで場所を確かめていた。S2グループの向かいにも大型商業施設が新しくオープンし、多くのブランドに出店の声がかかっていた。今日は遥がその下見に来ていて、湊は待っている間にこちらへ寄ったらしい。やっぱりそれか、と蓮は思った。湊がわざわざここまで来る時は、たいてい何かのついでだった。結婚前は蓮ともよくつるんでいたが、結婚してからは、空いた時間のほとんどを遥と過ごすようになった。今では二人の子供もいて、ますます家族中心の生活になっていた。たまに顔を合わせても、聞かされるのは遥や子供の話ばかりで、蓮は呆れるしかなかった。そこへ、蓮の秘書を務める青柳直樹(あおやぎ なおき)が入ってきた。「社長、技術部の新入社員が来ています。お会いになりますか?」蓮は軽く手を振った。「試用期間が終わってからでいいよ」S2グループには大勢の社員がいたうえ、この業界はもともと人の出入りも激しかった。入社して間もなく辞める者も珍しくなかった。新入社員全員とその都度顔を合わせている余裕など、蓮にはなかった。「分かりました」直樹は社長室を出ると、外で待っていた梨々花に声をかけた。「社長は、試用期間が終わってからでいいそうです。ひとまず仕事に戻ってください」梨々花はきょとんとした。今日ここで働き始めることを、蓮は知らなかったのだろうか。「青柳さん、私が琴子おばさまの紹介で来たこと、社長には伝えてありますか?」直樹は首を横に振った。梨々花がまだ何か言いたそうにその場に残って
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第995話

「でも、うちは待遇いいですから。ちゃんとやってれば、それなりに稼げますよ」直樹なりに励ましたつもりだったのだろうが、梨々花がここへ来た目的は、そもそも待遇ではなかった。ほかの会社からは、もっと条件のいい話も来ていた。それを断ってまでS2グループを選んだのは、蓮と顔を合わせる機会を少しでも増やしたかったからだった。それなのに、肝心の蓮にはあっさりあしらわれてしまった。直樹の隣を歩きながら、梨々花は廊下のあちこちに置かれた胡蝶蘭へ目を向けた。「青柳さん、社長って胡蝶蘭が好きなんですか?」「いえ。胡蝶蘭が好きなのは、社長じゃなくて彼女のほうなんです」「……彼女?」直樹はそれ以上何も言わず、梨々花を技術部まで案内すると、自分の席へ戻っていった。梨々花はその場に残り、廊下に並ぶ胡蝶蘭を見つめた。琴子からは、蓮に恋人はいないと聞いていたはずだった。それなのに、実際には彼女がいた。ただ、琴子がわざわざ自分に声をかけてきたのなら、今の彼女を気に入っていないのかもしれない。――それなら、まだチャンスはある。……「相沢さん、S2グループの佐原さんから連絡がありました。チップ提携の進め方が決まったので、一度来て確認してほしいそうです」「分かった。今から行く」電話を切ると、凛はそのまま車をS2グループへ走らせた。到着すると、入口でちょうど相沢グループのプロジェクト責任者と顔を合わせた。責任者は凛を見るなり、ぱっと表情を明るくした。「相沢さん!今回の提携、本当に助かりました!」「私は何もしてませんよ。せっかくですし、一緒に上がりましょう」「はい!」責任者はすぐにエレベーターを呼んだ。技術部では、蓮が二人を待っていた。さっきから何度も入口へ目をやっていたが、濃紺のスーツ姿の凛が現れた瞬間、その視線がぴたりと止まった。凛は濃紺のスーツに、パールのネックレスを合わせていた。真珠の柔らかな光が白い肌によく映え、すらりとした立ち姿も相まって、ひときわ目を引いた。その場にいたS2グループの幹部の中にも、思わず凛へ目を向ける者が何人かいた。中には小さく息を呑む者までいた。それに気づいた蓮が無言でそちらを見ると、彼らはさっと目をそらした。凛は蓮の前まで来ると、手を差し出した。「すみません、佐原
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第996話

その言葉に、周りからからかうような笑い声が上がった。近くにいたスタッフの一人も、笑いながら口を挟んだ。「社長、家事もするんですか?」「仕方ないだろ。彼女が家に人を入れるのを嫌がるから、家事代行もめったに頼まないんだ」蓮はそれ以上話を広げず、隣にいた技術スタッフとデータの確認を始めた。その横で話を聞きながら、凛はふと蓮に目を向けた。もともと背の高い蓮には、以前からどこか人を圧するところがあった。ここ数年で経営者として場数を踏み、昔よりもずっと落ち着きが増していた。蓮が資料を指した時、人差し指のリングが照明を受けてきらりと光った。ダイヤをあしらったカラーゴールドのリングだった。蓮は昔から手がきれいだった。長くすらりとした指にリングがよく似合い、凛もその手を見るのが好きだった。付き合っていた頃、家には蓮のリングがいくつもあった。ただ、薬指にだけは決してつけようとしなかった。薬指は結婚指輪のために空けておくのだと、蓮はいつも言っていた。そこだけは、どうしても譲らなかった。凛はそんな彼を、妙なところで頑固だと笑ったこともあった。指輪なんて、好きな指につければいいのにと思っていた。凛は手元に目を落とした。薬指には、「アンサンブル」の新作リングがはまっていた。中央のルビーを小粒のダイヤが囲んだ華やかなデザインで、凛は最初にデザイン画を見た時から気に入っていた。商品化されたあと、凛も一つ購入していた。残っていたのはたまたま九号だけだったが、それが薬指にぴったり合った。すると、隣にいたスタッフがリングに気づいて声をかけた。「相沢さん、その指輪、素敵ですね。結婚指輪ですか?」「ただのアクセサリーですよ。気に入ったなら、『アンサンブル』のお店で試してみてください。向かいの商業施設にも入ってますよ」スタッフがまだ何か言おうとしたところで、蓮がそちらを見た。「データの修正、頼む」「あ、はい。分かりました」蓮に促され、技術部のスタッフたちは次々と持ち場へ戻っていった。その場に残ったのは梨々花だけだった。さっきからずっと蓮を見ていたが、蓮は一度もこちらへ目を向けなかった。梨々花が今日からここで働いていることにも、気づいていないようだった。梨々花はそのまま蓮のそばまで歩み寄り、柔らかな笑みを
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第997話

「いえ……特には」梨々花には、まだ話したいことがあった。せっかく蓮と話せたのだから、少しくらい昔の話もできると思っていた。けれど、蓮が口にするのは仕事のことばかりだった。梨々花はもう一度だけ蓮を見て、仕方なくその場を離れた。梨々花がいなくなると、蓮は隣にいた凛へ向き直った。「さっきのデータは全部記録してある。新しいプログラムは来週から正式に動かす予定だ。その時、また一度見に来てもらいたい」家事ロボットが抱えていた問題は、どれも以前から指摘されていたものばかりだった。相沢グループでもこれまでに何種類ものチップを試していたが、今回のものがいちばん安定していた。開発中の家事ロボットとの相性もよかった。凛は小さく頷いた。「分かりました。では、来週また伺います」蓮はそばにいたプロジェクト責任者へ声をかけた。「先に担当チームと進行手順を確認して、契約書にも不備がないか見てきてもらえますか。相沢さんとは、もう少し話があるので」「分かりました。先に行ってきます」責任者が出ていくと、広い部屋には蓮と凛だけが残った。ほんの一瞬、蓮が笑ったように見えた。けれど、凛には気のせいのようにも思えた。「このプロジェクトが軌道に乗るまでは、できれば相沢さんにも何度か来てもらいたい」「私はこのプロジェクトの担当ではありません」「ほかの人だと、細かいところまで話が通じにくいかもしれない。そもそもこのチップを作り始めた時に参考にしたのも、昔家で使ってたロボットや、実際に家事をしてた時の経験だからな」二人で暮らしていた頃、家には何台もの家事ロボットがあった。凛は仕事が忙しく、家事まで手が回らなかった。かといって家に人を入れて掃除を頼むのも好きではなかったため、蓮が次々と家事ロボットを買ってきた。当時売られていた家事ロボットは、ほとんど試していた。実際に使いながら、使いやすいところや気になるところを二人でよく話していた。その頃には、相沢グループでも家事ロボットの開発を進めていた。ただ、蓮が家事ロボット向けのチップまで手がけるようになっていたとは思わなかった。そう言われては、凛も何も返せなかった。蓮はさっきから、何度も昔の暮らしを話に出していた。凛は顔には出さなかったが、そのたびにあの頃のことを思い出し
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第998話

凛は足を止めた。履いていたパンプスは、かかとのあたりが少し当たっていた。歩きにくいほどではなかったが、一歩踏み出すたびに同じところが擦れ、皮膚がひりつくように痛んだ。その痛みを気にしないふりをするには、少し我慢が必要だった。胸の奥に残った揺れも同じだった。今は何でもないふりをして、じっと抑えているしかなかった。凛は振り返らなかった。今ここで振り向けば、目に浮かんだ動揺まで蓮に見抜かれてしまいそうだった。後ろにいた蓮も、できるだけ平静な声で口を開いた。「この二年、向こうではどうだった?」「元気にしてました。お気遣いありがとうございます」蓮は俯き、眉間を軽く押さえた。「そうか。ならよかった」海外で学ぶことは、ずっと凛の夢だった。蓮もそれを知っていた。この二年、蓮は何度か凛の通う大学まで足を運んでいた。けれど、会いに行ったわけではなかった。少し離れたところから、さまざまな国の学生たちに交じって話す凛の姿を眺め、それだけで帰った。凛が蓮に会いたがっていないことは分かっていた。だから、遠くから元気そうな姿を見られれば、それで十分だった。たとえもう自分のもとへ戻ってこなくても、それでいい――あの頃は、そう思っていた。けれど、帰国した凛のそばに別の男がいるのを見た瞬間、遠くから見ていられればそれでいいという気持ちは消え、押さえていた苛立ちが一気に込み上げた。しばらくして、凛が口を開いた。「ほかに何かありますか?」「いや。ただ、ひとつだけ。俺の条件を五つ聞くって約束、忘れるなよ。まだ全部決めてないんだから、勝手になかったことにするな」わざわざ呼び止めたのは、それを言うためだったのか。凛は内心でため息をついた。忘れるわけがない。ちゃんと約束したことなのだから。「覚えてます」そう言って歩き出そうとした瞬間、蓮に手首をつかまれた。そのまま強く引かれ、凛は社長室へ連れていかれた。「ちょっと――」ソファに座らされると、蓮はそのまま凛の前にしゃがみ込んだ。凛が状況をのみ込む間もなく、蓮は足首に手を添え、靴擦れしたかかとを確かめた。眉間には深く皺が寄り、唇もきつく結ばれていた。顎には剃り残した髭が少し残っていた。それから、黙ったまま消毒綿を手に取った。「しみるぞ。少し我
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第999話

けれど、二人とも分かっていた。もう、昔のような関係ではなかった。凛は立ち上がった。「もう大丈夫です。先に失礼します。条件が決まったら、連絡してください」パンプスを履き直すと、蓮のほうは見ずに、そのまま社長室を出た。廊下に出たところで、向こうから歩いてきた梨々花と顔を合わせた。凛が軽く会釈すると、梨々花も同じように返した。けれど、すれ違いざまに向けられた視線には、どこか棘があった。さっき蓮を見ていた目も、話しかける声も、ほかの人に向けるものとは明らかに違っていた。しかも、琴子の名前まで出していた。凛には、琴子が気に入って、蓮の相手にと連れてきた女性のように思えた。「社長……」後ろから梨々花の甘い声が聞こえた。凛は一瞬だけ足を止めたが、振り返らず、そのまま足早にその場を離れた。オフィスのあちこちに飾られた胡蝶蘭は、どこか無機質になりがちなIT企業のフロアではかえって目を引き、白い花が空間をやわらかく見せていた。ビルを出たところで、路肩に停まっていたランドローバーの後部座席の窓がすっと下がった。中にいた女性が凛を見て、いたずらっぽく片目をつぶった。凛は思わず足を止めた。誰に向けたものか分からず周りを見たが、近くには誰もいなかった。「私ですか?」そう尋ねると、女性はすぐに笑った。「そう、あなた!相沢凛さんでしょ?ほら、乗って!」凛には、この人懐っこい女性が誰なのか分からなかった。すると女性のほうから車を降り、凛のところまで歩いてきた。「私、玉希。蓮の姉よ。あなたの話はずっと前から聞いてたの。やっと会えたし、このあとお茶でもどう?」それに、玉希にはちょうど仕事の話もあった。「実は、『アンサンブル』でまとめてお願いしたいものがあるの。社員に配るジュエリーで、八百点くらい。一点ずつは小ぶりで、そんなに重くなくていいんだけど」一点ずつは軽めでも、八百点となれば十分まとまった注文だった。それなら話を聞こうと、凛は玉希と一緒に車へ乗り込んだ。「私のこと、知ってるんですか?」「そりゃ知ってるわよ。蓮、あなたのことではずいぶん大変だったんだから」玉希は笑った。「でも、実際に会うのは今日が初めて。見たことがあるのも、『アンサンブル』の配信くらいよ」そう言いながら、玉希は
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第1000話

電話の向こうで、蓮が淡々と言った。「凛はブラック飲むと動悸が出るんだ。あとで仕事の話するんだろ。具合悪くなったら困る」言い方はあくまで事務的で、仕事に差し支えるから言っているだけのようだった。玉希はふっと鼻で笑った。蓮が今、凛をどう思っていたのかは、玉希にもよく分からなかった。まだ気持ちがあるのかと聞くたび、話をそらされたり、もうその話はするなと言われたりしていた。それでも、今日こうして凛に会えたことは、玉希も素直に嬉しかった。実際に話してみると、琴子から聞いていた印象とはずいぶん違った。身なりはきちんとしていて、話し方も落ち着いていた。立ち居振る舞いにも余裕があり、ふとした仕草には控えめなところも見えた。玉希自身も、仕事でもなければ積極的に人付き合いをするほうではなかった。そういうところは、凛とどこか似ている気がした。少なくとも、琴子が言っていたような人には見えなかった。琴子はこれまで、あちこちで凛のことを散々悪く言っていた。一方で、美和はいつも凛を褒めていた。琴子は家に戻るたび、頭が痛いだの具合が悪いだのと言いながら、美和や凛への不満をぶちまけていた。そのあと決まって泣きながら蓮に電話をかけ、最後は親子で言い争いになっていた。この二年、そんなことが何度も重なり、琴子と蓮の関係はずっとぎくしゃくしたままだった。どちらも譲ろうとせず、そこに凛のことが関わっていたのも、玉希にはなんとなく分かっていた。だから今日、偶然凛本人に会うと、玉希もつい、その言葉や仕草に目がいった。電話を切ると、玉希は凛が持っていたメニューを受け取り、何気なく耳たぶに触れた。「ラテに変えない?アメリカーノばっかり飲むのも、あんまりよくないでしょ」凛は一瞬、目を瞬かせた。「はい。どちらでも大丈夫です」さっきの電話は、凛にも聞こえていた。玉希がアメリカーノを変えようと言ったところで、凛の頭に蓮が浮かんだ。さっき電話をかけてきたのは、たぶん蓮だった。凛はふと玉希の手元に目をやった。薬指には、「羽化」シリーズのリングが光っていた。結婚指輪だろうかと見ていると、玉希がその視線に気づいて笑った。「私、今年三十五になるの。結婚したのはつい最近でね」そう言って、リングを指先でそっとなぞった。「前にも結婚したい
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