All Chapters of 塩対応の国宝級アイドルは、私の手料理がないと生きていけないらしい: Chapter 81 - Chapter 90

157 Chapters

86

 3人それぞれの個性が際立っているのに、完璧に調和している。完成されたエンターテインメント。まごうことなきスターの姿だった。「……うわ、俺めっちゃカッコつけてんなー」 こたつの上から聞こえた間の抜けた声に、私は現実に引き戻された。  目の前にはゴロゴロしながら、自分の映像をボーッと眺めるハルくんがいる。その横ではセナさんが眼鏡を外して目をこすり、レンくんはあくびを噛み殺している。 レンくんのスウェット姿は(悲しいことに)見慣れてしまった。  だがセナさんとハルくんまで……? 画面の中の「完璧な偶像」と、こたつの熱でふやけた「無防備な男たち」。そのギャップがあまりにも大きくて、私は呆気にとられた。「あー……」 ハルくんが、天井を見上げながらポツリと漏らした。「ここ、マジで帰りたくねーな」 ただの独り言のようで、ひどく切実な響きがあった。セナさんもそれを否定しなかった。「外は敵とカメラばかりですからね。ここは酸素が濃い。息ができる」 彼らは戦っているのだ。あのきらびやかで過酷な世界で、常に完璧であることを強いられながら。  だからこそこのボロアパートの生活感にまみれた空気が、彼らにとっての「安全地帯(セーフティゾーン)」になっているのかもしれない。 テレビの画面の向こうでは、輝くようなアイドルが歌っている。  あれもまた、確かに彼らの姿。  けれども目の前の3人も、彼ら自身なのだと感じた。 ◇  深夜になると、セナさんの運転手付きの車が迎えに来て、2人は帰っていった。祭りの後の静けさが戻った部屋で、私はキッチンの片付けを始めた。 すると、背後からふわりと温かいものに包まれた。レンくんが後ろから抱きついて、私の手からスポンジを取り上げる。「手荒れする。俺がやる」「でも、レンくん今日は疲れてるんじゃ……」「いいから」 彼は私を横に退かせ、慣れない手つきで皿を洗い始めた。その背中はいつもの甘えん坊な彼よりも、少しだけ大
last updateLast Updated : 2025-12-30
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87:忍び寄る影

 翌朝。 私が寝ぼけ眼で身支度をしていると、ふと、郵便受けに封筒が入っているのに気付いた。 昨日まではなかったはずだ。 今は朝だから、郵便配達が着たとも考えにくい。 手に取ってみると、シンプルな茶封筒。差出人の名前は……ない。 猛烈に嫌な予感がする。 この封筒の中身を見たくない。今すぐ捨ててしまいたい。けれど、そういうわけにもいかない。 私はキッチンで、震える指先を抑えながらその封筒を開封した。 中から滑り落ちたのは、数枚の写真だった。スーパーで半額シールの貼られた豚肉を手に取る私。ジャージ姿でアパートのゴミ捨て場に向かう私。そして――。(……噓でしょ) 3枚目の写真を見て血の気が引いた。写っているのはこの部屋のベランダだ。干された洗濯物の隙間から、銀色がかった髪の男の後ろ姿が見えている。画質は粗いが、ファンが見ればその背中のラインや髪色だけで「綺更津レン」だと特定できてしまうだろう。 手紙は入っていなかった。ただ写真の裏に、赤い油性ペンで殴り書きがされていた。『泥棒猫』 たった3文字。けれどそこには、明確な敵意と殺意が込められていた。 恐怖よりも先に焦りが込み上げる。バレている。ここがレンくんの隠れ家だということが。 この写真が世に出れば、彼の安息の地は失われる。あの幸せな闇鍋パーティーのような時間は、二度と戻ってこない。 それどころかトップアイドルに隠れた恋人がいたなどと、スキャンダルになってしまうだろう。(……隠さなきゃ) 私は写真を封筒に戻し、ゴミ箱の奥底へ押し込んだ。レンくんには見せられない。彼に心配をかけたくない。私が我慢すれば、やり過ごせるかもしれない。 そう自分に言い聞かせて、私は引きつった笑顔を張り付けて仕事へと向かった。◇ いつもの通勤路がまるで敵地のように感じられた。 すれ違うサラリーマン、スマホを操作している女子
last updateLast Updated : 2025-12-31
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88

 夜、逃げるようにして帰宅すると、リビングにはいつもの光景があった。「おかえり。飯まだ?」 レンくんがソファでくつろぎながらテレビを見ていた。  その無防備な笑顔を見た瞬間、安堵で涙が出そうになった。と同時に、恐怖が胸を締め付ける。(この笑顔を、私はいつまで守れるんだろう) あと数日かもしれない。明日には、ここはマスコミに包囲されているかもしれない。「……すぐ作るね」 私は動揺を悟られないよう、すぐにキッチンへと立った。野菜を刻む音がやけに大きく響く。  その時、背後から温かい体温が近づいてきた。「今日、なんか元気ないな」 レンくんが後ろから抱きついてくる。いつもなら心臓が跳ねる甘い時間だ。  けれど今は窓の外の闇が怖かった。(誰かが見ているかもしれない) カーテンの隙間。換気扇の穴。見えない視線が私の肌を刺す。「っ……離れて!」 私は反射的に、レンくんを突き飛ばしてしまった。ドン、と彼がキッチンのカウンターに背中をぶつける。「…………」 レンくんは目を丸くして、驚いたように私を見ていた。傷ついたような表情が一瞬浮かび、すぐにスッと消える。アイスブルーの瞳が、探るように細められた。「……ご、ごめん。仕事で疲れてて、気が立ってて……」 私は震える声で言い訳をした。けれどレンくんは騙されなかった。彼は無言で私に近づき、私の手首を強く掴む。「……何かあったな?」「な、なにもないよ」「嘘だ。俺はセナほど賢くないが、紬の嘘くらい分かる」 彼は痛いほど真っ直ぐに私を見据えた。その瞳は、私が隠している「別れの予感」を見透かしているようだった。「言いたくないならいい。……でも」 掴まれた手首に、力がこもる。「俺から離れようとするな」 それは懇願であり、命令でもある。私は何も言えず、ただ頷くことしかできなかった。 ◇  
last updateLast Updated : 2026-01-01
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89:炎上

「……見るな」 低く地を這うような声が聞こえた。レンくんが、床に落ちた私のスマホを拾い上げている。画面には、まだ容赦のない罵詈雑言が滝のように流れていた。『ブス』『ババア』『消えろ』『死ね』――。 レンくんは自分自身のスキャンダルやキャリアの危機になど、眉ひとつ動かさなかった。けれど私への暴言を目にした瞬間、彼の手の中でスマホがミシミシと悲鳴を上げた。液晶にヒビが入りそうなほど強く、握りしめられている。「こんな汚い言葉、紬が見る必要はない」 彼は大きな手で、私の目と耳を塞いだ。その体は抑えきれない怒りで小刻みに震えていた。 その時だった。『……聞こえていますか! カーテンを開けないでください!』 私の手元に残っていた、通話状態のままのスマホからセナさんの声が響いた。『既に場所は特定されています。今すぐそこを離れないと――』 セナさんの言葉をさえぎるように、外から不穏な音が聞こえてきた。  キキーッ、というタイヤのブレーキ音。バタン、バタン、と複数の車のドアが閉まる音。それからザッザッザッとアスファルトを踏みしめる無数の足音。「ここだろ?」「電気ついてるぞ!」「裏にも回れ!」 わずか数ミリのガラス一枚隔てた外側に、悪意を持った群衆が集結しつつある。深夜だというのに、マスコミや野次馬たちが獲物を追い詰めた猟犬のようにこのボロアパートを取り囲んでいた。もはやここは「聖域」ではない。酸素の薄い、絶望の箱だ。(……私のせいだ) 私が、彼を受け入れてしまったから。私がもっと突き放していれば。 思考が真っ白に染まる中で、長年培ってきた「ファンとしての本能」だけが、冷静に警告を発した。  ――推しを守れ。お前が犠牲になれば、彼は助かる。 私は震える足で無理やり立ち上がり、部屋の隅にあるレンくんのボストンバッグを掴んだ。  手当たり次第に彼の着替えや私物を詰め込む。「レンくん、裏口から逃げて。セナさんに連絡して、どこかで拾ってもらって」
last updateLast Updated : 2026-01-01
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90

 バシッ!! 乾いた音が響いた。レンくんが私の手からバッグを奪い取り、床に投げ捨てたのだ。「ふざけるな!!」 今まで聞いたこともないような怒声だった。  彼は私の肩を掴み、壁際まで強引に押し込んだ。ドン、と背中が壁に当たる。  いわゆる「壁ドン」の体勢だが、そこにあるのは甘い色気などではない。鬼気迫る必死の形相だ。「俺がお前を売って、のうのうとアイドル続けるとでも思ってるのか!」「で、でもっ! このままじゃレンくんの居場所がなくなるよ!」「俺が戻りたいのは、きらびやかなステージなんかじゃない!」 レンくんは私の顔を覗き込み、悲痛な声で叫んだ。「俺の居場所は、紬がいるここなんだよ! お前がいない世界なら、俺はアイドルなんて辞めてやる!」「レンくん……」 その瞳は本気だった。トップアイドルの王冠も、名声も、地位も。私一人のために、全てを投げ打つ覚悟をした目をしていた。 ドンドンドンドン!! 玄関のドアが激しく叩かれた。私たちはビクリと体を固まらせる。ついに押し入ってきたのか。「開けろ!!」 ドアノブがガチャガチャと回される。絶望が喉元までせり上がった、その瞬間。「……チッ。邪魔だ、どけ!!」 ドアの向こうから、聞き覚えのあるチャラい声――しかし今はドスの効いた声が聞こえた。次の瞬間、鍵が開けられ(合鍵を持っていたのだ)、ドアが勢いよく開いた。 そこに立っていたのは、帽子を目深に被った遊馬ハルくんと、鬼の形相をした葛城セナさんだった。「早くしなさい! 囲まれる前に脱出します!」 セナさんが鋭く指示を飛ばす。「で、でも私は……!」「貴女もです、小日向紬!」 ためらう私に、セナさんは契約書を突きつけるような口調で言った。「契約書を忘れましたか? 『管理責任』は僕にあります。スタッフを見捨てるほど、弊社は落ちぶれていません!」「行くよ紬ちゃん! 俺の後ろから離れないで!」
last updateLast Updated : 2026-01-02
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「綺更津レンさんですか!?」「その女性は!?」「一言お願いします!」「同棲は事実ですか!?」「関係はいつから!?」 いくつものマイクが突き出され、野次馬のスマホが壁のように立ちはだかる。(何よこれ。怖い!) 足がすくんで動けない。息ができない。誰かが私の腕を掴もうと手を伸ばしてきた――その時。 グイッ。 強い力で引き寄せられて、私は硬い胸板の中に埋もれた。レンくんだ。彼は私の頭を抱え込み、自分の体でカメラから完全に隠した。 その拍子に、彼のフードが外れる。さらりとした銀色がかった髪があらわになり、美貌がフラッシュの光に晒された。「あ、綺更津レンだ!」「間違いない、本物だ!」「撮れ撮れ!」 シャッター音が嵐のように鳴り響く。けれどレンくんは顔を伏せなかった。  彼はカメラのレンズを氷のような瞳で射抜いた。怯えも媚びもない。ただ「俺の大事なものに触れるな」という、猛獣のような殺気と覚悟を宿した顔で彼らを睨んだのだ。 マスコミも群衆も、その強い視線に怯んだ。 その一瞬の隙に、ハルくんが「はいはい通りまーす! 一般人だよー! 押すなよ!」とへんてこな演技で道をこじ開け、私たちはセナさんの車の後部座席へと転がり込んだ。 バタン! とドアが閉まる。直後、車が急発進して群がる人々を振り切るように加速した。 アパートが遠ざかる。私の聖域だった場所が。  窓の外を流れる景色を見ながら、私は震えが止まらなかった。「……ごめん」 隣で、レンくんが私を強く抱きしめたまま、耳元で囁いた。「怖かったよな。……もう、大丈夫だ」 彼の腕の中は温かかったけれど、心臓の音は痛いほど早かった。彼だって怖かったはずだ。すべてを失うかもしれない恐怖と戦っていたはずだ。「とりあえず、僕の自宅へ避難します」 ハンドルを握るセナさんが、バックミラー越しに告げた。その表情はいつもの冷静な「魔王」のものに戻っていた
last updateLast Updated : 2026-01-02
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92:宣戦布告

 朝日が昇り始める頃、葛城セナさんの愛車は、都内某所にある超高層タワーマンションの地下駐車場へと滑り込んだ。 専用のエレベーターに乗る。耳がキーンとなるほどの速度で上昇してたどり着いたのは、最上階のペントハウスだった。  立派な扉が開く。その先には私のボロアパートが十個は入りそうな、広大なリビングが広がっていた。床は大理石、壁一面の窓からは東京のパノラマが一望できる。「……ここ、ホテルですか?」 あまりの浮世離れした光景に、私は呆然と呟いた。「いいえ。私の自宅兼、Noix(ノア)の緊急避難所(セーフティハウス)です」 セナさんは何食わぬ顔でジャケットを脱ぎ、ソファへと放り投げた。「大丈夫だよ、紬ちゃん。ここならセキュリティはばっちりだから。間違ってもマスコミや野次馬は来ない」 遊馬ハルくんが、キッチンにある業務用のエスプレッソマシンでホットミルクを淹れてくれた。  温かいマグカップを受け取っても、私の手の震えは止まらなかった。「さて、作戦会議を始めましょうか」 セナさんがリモコンを操作すると、壁面の大型モニターにニュース映像とSNSのタイムラインが映し出される。『Noix綺更津レン、同棲発覚』『相手は一般人』『事務所は沈黙』。  画面を埋め尽くす文字は、どれも炎上している。「事務所の電話回線はパンクしていますが、想定内です」 セナさんは冷静に告げた。「我々に残された選択肢は2つです。1つは、貴女が姿を消し、レンが『ただの遊びだった』と謝罪してアイドルを続ける道」「ふざけるな!」 即座にレンくんが食ってかかった。「そんなことしたら、俺は一生歌えない」「でしょうね。君のメンタルが崩壊してグループは解散、違約金で全員破産です」 セナさんは淡々と答え、眼鏡の位置を直した。「ならば、もう一つの道しかありません。……『木を隠すなら森の中』作戦です」「森……?」「これを見てください」 彼がタブ
last updateLast Updated : 2026-01-03
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 それからは怒涛の時間だった。セナさんが手配したスタイリストが到着し、私は「地味な一般人」から「デキる女性スタッフ」へと変身させられたのだ。  ヨレヨレの服は脱ぎ捨てられ、パリッとした清潔感のあるネイビーのパンツスーツに。ボサボサの髪はきっちりとまとめられ、ナチュラルだが意思の強さを感じさせるメイクが施される。 鏡の中に映るのは、私であって私ではない戦う女の姿だった。……我ながらちょっとかっこいい。「……似合ってる」 支度を終えた私を見て、レンくんが少し眩しそうに目を細めた。「でも、なんかムカつく。他の男に見せたくない」「仕事着ですよ。レンくんを守るための、鎧です」 私は拳を握りしめ、自分に言い聞かせるように言った。 ◇  午前8時。事務所の会見場ではなく、あえてこのペントハウスのリビングから、緊急生配信が行われることになった。  カメラの前にはNoixの三人が座る。私は画面には映らないが、気配を感じさせる位置に控える。『配信開始』のランプが灯る。瞬間、同時視聴者数は数百万人に跳ね上がった。「……お騒がせしております。Noixリーダーの葛城です」 冒頭、セナさんが口火を切った。謝罪ではない。彼は冷たい眼差しでカメラを見据え、堂々とした態度で語り出した。「一部報道にある女性との関係について、憶測が飛び交っていますが、事実は異なります。彼女は、我々の健康管理に不可欠な専門スタッフです」 コメント欄が荒れ狂う中、セナさんは動じない。「近年の激務により、綺更津レンの体調は限界でした。彼のパフォーマンスを維持するためには、徹底した食事管理と生活のサポートが必要です。文句があるなら、彼女以上の栄養管理ができる人間を連れてきていただきたい」 傲慢とも取れる逆マウントだ。けれど彼の自信に満ちた態度は、ファンを「え、そうなの?」と困惑させるだけの説得力があった。 レンくんの番が来た。彼は一度だけ私の方を見て、それからまっすぐにカメラを見た。「……俺は、未熟で、生活能力がな
last updateLast Updated : 2026-01-03
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「彼女は恋人ではありません。……俺の、命綱です」 沈黙が落ちた。ファンには「仕事仲間」としての信頼宣言と聞こえて、私には「愛の告白」と聞こえる、ギリギリのライン。  だが、瞳に宿る熱が嘘ではないと示している。「だから、俺から彼女を奪わないでください。……お願いします」 トップアイドルが頭を下げる。プライドを捨てたその姿に、荒れ狂っていたコメント欄の流れが変わった。『レンくんがそこまで言うなら……』『命綱なら仕方ない』『ご飯食べてくれるならいいよ』『スタッフさんありがとう』 嘘が真実になった瞬間だった。 ◇ 「……はい、カット! お疲れ様でした!」 配信終了の合図と共に、レンくんが糸が切れたように脱力した。そのまま私の元へ歩み寄り、肩に頭を乗せてくる。「言ったぞ。もう逃がさないからな」 耳元で聞こえた声は、配信の時よりもずっと甘く独占欲に満ちている。  私が思わず一歩下がりかけると、しっかりと抱きしめられてしまった。「上出来です」 セナさんがタブレットを見ながら満足げに頷いた。「世論は『Noixはプロ意識が高い』という方向に誘導できました。これで貴女は、公然と我々のそばにいられます」「はぁ……。寿命が縮みました」 私の足から力が抜ける。でもレンくんに抱きしめられているせいで、床に座り込むこともできない。  ハルくんが明るい声で言った。「あ、そうそう紬ちゃん。あのアパート、もう解約の手続きしといたから!」「……はい?」「荷物は全部こっちに運ぶ手配したよ。今日からここが、俺たちの家!」 ハルくんが悪びれもなく爆弾発言をした。セナさんも涼しい顔で頷く。「セキュリティ上、あのアパートに戻ることは許可できません。ここなら部屋は余っていますから、好きな部屋を使いなさい。あぁ、会社への退職届だけは出してきてくださいね」 断る権利など最初からない、上か
last updateLast Updated : 2026-01-04
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95:庶民、城に迷い込む

 翌朝。目覚めた瞬間、私はここが死後の世界かと思った。 横たわっているのは、体が沈み込むほどフカフカのキングサイズのベッド。自動で開いたカーテンの向こうには、視線の高さに東京タワーとスカイツリーが並んで見えている。「……天国?」 いや、違う。ここは葛城セナさんの自宅、都内某所のタワマン最上階、ペントハウスだ。 私は今日から、Noixの「住み込み料理番」として、この天空の城で働くことになったのだ。 とりあえず顔を洗おうとベッドから出たが、広すぎる廊下で迷子になり、近づいただけで勝手に蓋が開くトイレに悲鳴を上げ、ようやくキッチンにたどり着いた頃にはぐったりと疲れていた。庶民殺しの罠が多すぎる。「さて……朝ごはん、作らなきゃ」 ここには私以外に3人の成人男性がいる。腹を空かせた猛獣たちだ。私は気合を入れて、業務用の巨大冷蔵庫の扉を開けた。「…………は?」 だがしかし。そこにあったのは虚無だった。いや、物は入っている。 私でも名前を知っている高級ワイン。キャビアの瓶。トリュフ入りのチーズ。そして見たこともない横文字の高級ミネラルウォーター。 以上だ。卵も、牛乳も、豚コマも、ネギ一本すらない。「なんの冗談ですか、これ」「……朝から騒々しいですね」 背後から声がして振り返ると、バスローブ姿のセナさんが優雅にコーヒー(全自動マシンのもの)を飲んでいた。「セナさん! これじゃ料理できません。キャビアで卵焼きは作れないし、ドンペリで味噌汁は作れません!」「食事は外食かデリバリーで済ませていましたからね。必要なものがあるなら、マンションのコンシェルジュにリストを渡せば調達してくれますが」「ダメです! 自分の目で見て選びたいんです! 特に生鮮食品は、鮮度が命なんですから。譲れません!」 私が食い下がると、奥の部屋からあくびを噛み殺しながらレンくんが出てきた。
last updateLast Updated : 2026-01-04
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