LOGIN翌朝。
私が寝ぼけ眼で身支度をしていると、ふと、郵便受けに封筒が入っているのに気付いた。 昨日まではなかったはずだ。 今は朝だから、郵便配達が着たとも考えにくい。手に取ってみると、シンプルな茶封筒。差出人の名前は……ない。
猛烈に嫌な予感がする。
この封筒の中身を見たくない。今すぐ捨ててしまいたい。けれど、そういうわけにもいかない。私はキッチンで、震える指先を抑えながらその封筒を開封した。
中から滑り落ちたのは、数枚の写真だった。スーパーで半額シールの貼られた豚肉を手に取る私。ジャージ姿でアパートのゴミ捨て場に向かう私。そして――。
(……噓でしょ)
3枚目の写真を見て血の気が引いた。写っているのはこの部屋のベランダだ。干された洗濯物の隙間から、銀色がかった髪の男の後ろ姿が見えている。画質は粗いが、ファンが見ればその背中のラインや髪色だけで「綺更津レン」だと特定できてしまうだろう。
手紙は入っていなかった。ただ写真の裏に、赤い油性ペンで殴り書きがされていた。
『泥棒猫』
たった3文字。けれどそこには、明確な敵意と殺意が込められていた。
恐怖よりも先に焦りが込み上げる。バレている。ここがレンくんの隠れ家だということが。
この写真が世に出れば、彼の安息の地は失われる。あの幸せな闇鍋パーティーのような時間は、二度と戻ってこない。 それどころかトップアイドルに隠れた恋人がいたなどと、スキャンダルになってしまうだろう。(……隠さなきゃ)
私は写真を封筒に戻し、ゴミ箱の奥底へ押し込んだ。レンくんには見せられない。彼に心配をかけたくない。私が我慢すれば、やり過ごせるかもしれない。
そう自分に言い聞かせて、私は引きつった笑顔を張り付けて仕事へと向かった。◇ いつもの通勤路がまるで敵地のように感じられた。すれ違うサラリーマン、スマホを操作している女子
「ぶべっ!?」「……近い。離れろ、オレンジ頭」 リビングの入り口に、不機嫌オーラを纏ったレンくんが立っていた。寝起きなのか髪は少し跳ねているが、その瞳は零度以下に冷え切っている。「朝から暑苦しいんだよ。服を着ろ」「痛ってぇ……。レンくん嫉妬? 俺と紬ちゃんのナイスコンビネーションが羨ましい?」「殺すぞ」 レンくんの口調は冗談に聞こえない。殺気がこもっている。◇ その時のこと。『グゥゥゥゥゥ~~~~ッ!!』 地響きのような音がハルくんのお腹から鳴り響いた。「あー、腹減った! ボス倒したらエネルギー切れた!」 ハルくんが大の字になって床に転がる。「ジャンクなのが食いたい。ピザ、コーラ、油! カロリーの塊をよこせ!」「……君は本当に欲望に忠実ですね」 書斎から出てきたセナさんが、散らかったお菓子の袋を見て眉をひそめた。「少しは野菜も摂取しなさい。肌が荒れますよ」「うるせー! 今日はオフだ。俺はジャンクフードの海で溺れたいんだ!」 駄々っ子のように手足をバタつかせる、オレンジ色の猛獣。私は苦笑してエプロンの紐を締め直した。「ピザの出前は時間がかかりますよ。どうせなら、特製ハンバーグにしませんか? とびきりジャンクで、栄養もあるやつ」 ハルくんがガバッと起き上がった。「乗った。チーズ入れて! 致死量くらい入れて!」◇ 30分後になると、キッチンからは、食欲を刺激する暴力的な香りが漂っていた。 私は合い挽き肉を粘りが出るまでこねる。その中心にこれでもかというほどチーズを詰め込んだ。 フライパンで表面をカリッと焼き固めて、肉汁を閉じ込める。そこへ赤ワイン、ケチャップ、中濃ソースを合わせた特製デミグラスソースを投入し、蓋をしてじっくりと煮込む。
Noix(ノア)の休日は静けさや穏やかさとは無縁だった。 私が掃除機をかけようと、広いリビングのドアを開けた時だ。目の前に広がっていたのは、高級ペントハウスにあるまじき光景だった。「うおおおお! 死ぬ! そこ右! 右だってば!」 100インチはある巨大モニターの前で、あぐらをかいて絶叫している男がいる。遊馬ハルくんだ。 周囲にはスナック菓子の袋と、飲みかけのコーラの缶が散乱している。そして何より問題なのは――。「……ハルくん」 私は掃除機のスイッチを切らずに、彼の背後に立った。「服を着てください。そして掃除の邪魔です」 彼はパンツ一丁だった。それも派手な柄のボクサーパンツ一枚。鍛え上げられた背中の筋肉が露わになっているが、今の彼からはアイドルのオーラなど微塵も感じられない。完全に「休日のダメ親父」である。 これだけの引き締まった肉体美とS級の顔面があって、どうしてここまでダメになれるのか。逆に不思議だ。「んあー? 今いいとこ! ラスボス戦! 紬ちゃん、ちょっとどいて!」 彼は私の声をスルーした。コントローラーをガチャガチャと操作し続けている。私はため息をつき、彼を避けて掃除機をかけ始めた。我ながら賢いロボット掃除機のような動きである。「あーもう! こいつ強すぎ! 回復が間に合わない!」 ハルくんが頭を抱えて叫んだ。次の瞬間、私の足首がガシッと掴まれる。「わっ!?」「紬ちゃん、ここ座って。緊急協力プレイ!」 強引に腕を引かれて、私は彼の隣に座らされた。問答無用でサブのコントローラーを握らされる。「え、私ゲームなんて……」「いいから! 普段はマネージャー補佐の斉藤くんに付き合ってもらうんだけどさ。彼、今は用事でいないから。ほら、この緑のボタン連打して! 俺が攻撃する隙を作るんだ!」 ハルくんは画面に食い入るように前傾姿勢になりながら、私の肩にぐいっと体重をかけてきた。近い。汗ばんだ肌の熱気が伝わってくる距離だ。彼は熱中すると、パーソナルスペースという概念が消滅するらしい。
セナさんはしばらく無言で食べ続けた。私は少し離れたところで見守る。「……僕は、完璧でなければならない」 雑炊を啜りながら、セナさんがポツリと漏らした。「僕が止まれば、Noixも、事務所の社員も路頭に迷う。……だから休むのが怖いんです」「魔王」としての鎧の内側にある、思い詰めたような責任感だった。彼はこの若さで、あまりにも多くのものを背負いすぎている。 トップアイドルとしての役割だけでも大変だろうに。マネジメントも事務所の指揮もしているのだ。 私は、彼の背中にそっと手を置いた。触れるか触れないかの距離で。「機械じゃないんですから。人間は、食べて、寝ないと壊れます」「…………」「壊れたら、レンくんやハルくんが悲しみますよ」 セナさんはレンゲを止め、ふっと小さく息を吐いた。「君は生意気な管理官ですね」 ◇ 完食して数分後。満腹感と温かさに誘われ、強烈な睡魔に襲われたらしいセナさんは、ソファに沈み込むようにして寝落ちてしまった。規則正しい寝息が聞こえる。泥のように深い眠りだ。 私がタオルケットを掛けようとした時、背後から気配がした。「……紬、なにセナの寝顔見てんだよ」 不機嫌そうな声。レンくんだ。私の気配がないことに気づいて起きてきたらしい。「シッ。やっと寝れたみたいだから、静かに」「ちぇっ」 レンくんは不満そうに首を振ったが、無防備に口を開けて眠るセナさんを見て、呆れたように溜息をついた。「こいつがこんなバカみたいな顔して寝るの、久しぶりに見た」 レンくんは私からタオルケットを受け取ると、それを放り投げ、代わりにセナさんの体を軽々と持ち上げた。 セナさんは細身とはいえ上背のある成人男性だ。それをあんなに軽く抱き上げるとは。「運んでやるよ。ここで寝ると体が痛くなるからな」「レンくん、優しい」「うるさい。今回だけだ」 文句を言いながらも、レン
「それ、人参が3本分入ってます」「…………なっ」 セナさんが目を見開き、フリーズした。 バターでじっくり炒めて人参特有の青臭さを消し、ブイヨンで煮込んでからミキサーにかけ、たっぷりの牛乳と生クリームで伸ばした特製ポタージュだ。人参の甘みと旨味をしっかり引き出した自信がある。「ぶはっ! セナくんチョロい! 気付かずに完食してる!」「紬の勝ちだな」 ハルくんとレンくんが腹を抱えて笑っている。セナさんは悔しそうに口元を拭ったが、その表情はどこか満足げだった。「一本取られましたね。認めましょう、君の勝利です」 ◇ 深夜2時。喉の渇きを覚えて私が部屋を出ると、暗いリビングの方から微かな光が漏れていた。 そっと覗くと、ソファにセナさんが座っていた。膝の上にノートPCを広げ、鬼気迫る表情でキーボードを叩いている。 モニターのブルーライトに照らされた横顔は、昼間の覇気が嘘のように青白く、疲れ切っていた。「……セナさん? 寝ないんですか?」 声をかけると、彼はビクリと肩を震わせ、バタンとPCを閉じた。「紬さんか。いえ、少しトラブルがありまして。それに、寝ている時間は生産性がゼロです」 強がっているが、声がかすれている。目の下には濃いクマがあり、コーヒーカップを持つ指先が少し震えていた。カフェインの摂りすぎだ。「生産性ゼロでも、メンテナンスは必要です」 私は彼を無視してキッチンに立った。 土鍋に残っていた冷やご飯を取り出し、小鍋に移す。カツオと昆布の合わせ出汁を温め、ご飯をことこと煮込む。味付けは薄口醤油と塩のみ。最後に溶き卵を回し入れ、蓋をして蒸らすこと1分。仕上げに、体を温めるおろし生姜と、青ネギを散らした。「はい、夜食です。消化にいいので胃もたれしませんよ」 湯気を立てる卵雑炊を差し出すと、セナさんは眉をひそめた。「僕は夜21時以降、固形物を摂らない主義なんですが」 抗議しようとした瞬間、出汁の優しい香りに反応して、彼
ペントハウスでの生活が始まって数日。私はこの「城」の主である葛城セナという男の、完璧な鎧に隠された致命的な欠陥を発見してしまった。 朝食のダイニングテーブルでのことだ。セナさんは優雅な手つきで箸を置き、ナプキンで口元を拭った。「ごちそうさまでした。素晴らしい朝食でした」「……あの、セナさん」 私は彼が下げようとした皿を指差した。そこには非常な精密さで選り分けられた「あるもの」が、幾何学模様のように美しく残されていた。「お野菜、残ってますけど」 極薄に千切りにした人参とピーマンだ。彼は眉ひとつ動かさずに答えた。「僕に必要な栄養素は、既にサプリメントで補完済みです。これ以上の摂取は過剰であり、非効率です。必要ありません」「嘘だよ紬ちゃん」 横でトーストをかじっていたハルくんが、ニヤニヤしながら暴露した。「この人、味覚が子供なの。苦いのと青臭いのがダメなだけ。人参とピーマンが嫌いなんて、いかにもおこちゃまでしょ?」「……黙りなさい、ハル。ピーマンはこの世のバグです。苦味という警報を発している物体を食べる必要性を感じません」「はいはい、言い訳乙ー!」 セナさんが不機嫌そうにコーヒーを煽る。 なるほど。魔王の弱点はピーマンと人参。 私は心の中でファイティングポーズをとった。契約上の肩書きとはいえ、私は「専属栄養管理士」だ。この偏食を見過ごすわけにはいかない。 栄養という面だけならば、ピーマンと人参を食べなくても死にはしない。それこそサプリもある。 でも、この2つの野菜はとても使い勝手がいいものだ。色んな料理に使う。栄養はもちろん、見た目にもカラフルで彩りがいい。 偏食のせいで食べられないなどもったいない!「分かりました。では、セナさんが気付かないうちに、人参とピーマンを食べさせてみせます」「ほう」 セナさんが眼鏡の奥で目を細めた。「僕の舌を欺けると? ……いいでしょう。お手並み拝見といきましょうか」 かくして私の『人参とピ
「うっわ……! ここ、高級ホテルじゃなかったっけ? 旅館? 実家?」 ハルくんが感動してテーブルに駆け寄る。「……無機質なこの部屋が、一瞬で『家』になりましたか」 セナさんも呆気にとられたように呟いた。レンくんは疲れた顔を一気に緩ませて、私を見た。「ただいま、紬」「お帰りなさい、レンくん。皆さん、冷めないうちにどうぞ」 全員で席に着き、「いただきます」の声が重なる。ハルくんが豚汁を一口すすり、「んん~~っ!」と天を仰いだ。「豚汁染みる~! 生き返る~! 大根味シミシミじゃん!」「……キャビアより価値がある味がしますね。栄養バランスも完璧だ」 セナさんも箸を止まらせない。レンくんは無言で白米をかきこみ、すぐにお代わりの茶碗を差し出した。「現場の冷たい弁当とは違う。……やっと、息ができた気がする」 3人が心からの笑顔で食事をする姿を見て、私はようやく肩の荷が下りた気がした。 ここが私の新しい戦場であり、守るべき場所なのだ。 ◇ 深夜。片付けを終えて、あてがわれた豪華な客室で一息ついていると、窓ガラスがコンコンと叩かれた。驚いてカーテンを開けると、ベランダ越しにレンくんが立っていた。隣の部屋から伝ってきたらしい。 窓を開ければ、夜風が入ってくる。彼は中には入らず手招きした。「……こっち来て」 2人で広いバルコニーのソファに並んで座る。眼下には、宝石箱をひっくり返したような東京の夜景が広がっている。手には、私が買っておいたマグカップに入ったホットココア。見上げれば都会のスモッグで曇った、けれど確かに星の輝く空がある。「みんなの前では『スタッフ』だけど……ここでは、俺の紬でいて」 レンくんが私の肩に頭を乗せて、私の左手を自分の両手で包み込んだ。誰にも見つからない、星空の下だけの秘密のデートだった。「明日は何食べる?」「ふふ、気が早いですね。何がいいですか?」「ハンバーグ。……あ、でもオムライスもいいな