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last update publish date: 2026-01-14 06:15:01

 真っ白だったはずの雑巾が、べっとりと茶色く変色している。まるで泥水を拭き取った後のようだ。

「新品の壁紙のはずだぞ? なぜこんなに汚れている」

「それが『幽霊』の正体の一部です」

 小夜子はタオルを交換しながら、淡々と答えた。

「接着剤の表面に浮き出た化学成分の膜と、空気中に漂っていたタバコのヤニです。前のリフォーム時の汚れが、換気扇のダクトから逆流して付着していたのでしょう」

 小夜子は自分の足元のバケツを示した。どす黒く濁った水が溜まっている。カーペットから吸い出した洗剤の残留成分と、長年の汚れの結晶だ。

「可視化されると、ぞっとしますでしょう?」

 隼人は茶色い雑巾を見つめて、ごくりと喉を鳴らした。目に見えなかっただけで、この部屋は汚染されていたのだ。

 自分は先ほどまで、この汚れに囲まれて「快適だ」などと言っていたのか。

「……許せん」

 隼人の瞳に、別の種類の炎が宿った。潔癖かつ完璧主義者である彼のプライド

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  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   301

     玉砂利を踏みしめる複数の車のタイヤ音が近づき、せせらぎ亭の門の前に3台の黒いワゴン車が停車した。「……我が社の緊急車両だろう。手回しが早い」 御子柴は安堵とも疲労ともつかない息を吐き、立ち上がった。 グラン・ヘリックスの危機管理チームならば、自社のトップを救出するために道路が開通した瞬間に一番乗りで駆けつけて当然だ。 彼がそう確信して玄関へ向かおうとした時のことだった。 先頭の車のドアが音を立てて開き、磨き上げられた革靴が的確に地面を踏みしめた。 降りてきたのは、御子柴の部下ではなかった。 嵐の爪痕が残る泥だらけの風景とは完全な対極にある、一切のシワもないスリーピースの高級スーツ。 高身長で均整のとれた体躯から放たれる、周囲の空気を一瞬で支配するような圧倒的なオーラ。 男はカフスボタンに軽くと触れて身なりを整えると、鋭くも底知れぬ深さを持つ瞳で、せせらぎ亭の建物を、そして玄関口で呆然と立ち尽くす御子柴を見据えた。「兄さん……いえ、黒崎社長!」 翔吾が弾かれたように声を上げる。 アーク・リゾーツ社長、黒崎隼人だった。 隼人の後ろの車からは、彼が自ら手配し、最速で駆けつけたアーク・リゾーツの精鋭スタッフたちが、大量の飲料水や食料、毛布などの救援物資を次々と下ろし始めていた。 それを見たせせらぎ亭の従業員たちが、歓声を上げる。「道が開通したと聞いて、急いで物資を積んで来たが……どうやら、皆無事のようだな」 隼人はロビーを見渡し、最後に、汚れた浴衣姿で立つ御子柴へと視線を定めた。「これは驚いた。グラン・ヘリックスの日本支社長殿が、うちの宿で寛いでおられるとは」「……嫌味な男だ。相変わらずな」 御子柴は忌々しげに顔をしかめながらも、言い訳を一切せずに隼人と真っ向から対峙した。「私の負けだ、黒崎社長」 御子柴の言葉に、番頭や板前たちが絶句する。

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   300

     朝のロビーには、胃袋をわし掴みにするような良い香りが充満していた。「さあ、炊き立てだ! 火傷しないように気をつけて食ってくれ!」 板前が巨大な土鍋の蓋を開けると、もうもうとした真っ白な湯気が立つ。周囲には米の甘い匂いが弾けた。 彼は冷水で濡らした掌に粗塩をすり込み、艶やかに光る熱々のご飯をすくい取る。 米粒を決して潰さないようもに手早く、けれど空気を含ませるようにふんわりと、見事な手つきで三角に結んでいく。 表面にはうっすらと塩の結晶が光り、湯気を立てる大きめの塩むすびが、次々と大皿の上に積み上げられていった。 その横では、実加が大きな鍋の前でお玉を握っている。「はいよ、熱々の味噌汁! 冷えた体にはこれが一番効くからな!」 実加がたっぷりと注いだお椀の中には、出汁を吸って飴色に透き通った柔らかな大根と、鮮やかな緑色を残したカブの葉がゴロゴロと入っている。 カツオと昆布の濃厚な出汁に、地元特産の甘めの麦味噌が溶け合い、五臓六腑に染み渡るような深い香りを漂わせていた。「ほらよ、あんたも食いな」 実加が、御子柴玲二の前に塩むすびと味噌汁を置いた。 御子柴は毛布にくるまったまま、ロビーの椅子に座っていた。あれから結局、部下たちとロビーで一夜を明かしたのだ。 彼は無言のまま、ゆっくりと手を伸ばした。 温かいお椀を両手で包み込み、一口すする。 出汁の旨味と味噌のコクがじんわりと広がった。 続いて、大振りな塩むすびにかぶりついた。 米の一粒一粒が立っており、噛むほどに広がる優しい甘みを、粗塩のキレのある塩気が完璧に引き立てている。(……米と塩、それに根菜の味噌汁。ただそれだけのものが、これほど体に染み渡るとはな) 御子柴の喉仏が上下に動く。 極限状態を乗り越えた体に、温かい食事が強い生命力となって行き渡っていくのが分かる。(……悔しいが、美味い) 彼は自分の完全敗北を、その温もりとともに噛み締めていた。

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   299:新しい朝

     激しい嵐の夜が明け、朝になった。 まさに台風一過。昨夜の猛威が嘘のように、せせらぎ亭の周辺には眩しい朝日が降り注いでいた。 雲一つない青空の下、鳥のさえずりが山の木々から聞こえてくる。 木漏れ日がきらきらと輝いて、木の葉に溜まった雨粒を光らせている。 嵐はすっかり過ぎ去った。 せせらぎ亭の里山は、美しい風景を取り戻していた。「うおおおっ! すっげえ、屋根も壁も無事だぞ!」 山内実加が、玄関前で歓声を上げた。元気よく水たまりを飛び越えている。 黒崎翔吾もタブレットを片手に外へ出て、建物の外観を鋭い視線でチェックする。 瓦が数枚ズレて落ち、庭の木の枝が折れている箇所はあるものの、致命的な損傷はどこにも見当たらなかった。「日本の伝統的な木造建築は、強風や地震の力を柳のように受け流す柔軟性を持っています。事前の補強データと照らし合わせても、建物の耐久性は見事に機能しましたね」「眼鏡の若旦那の言う通りだ! 俺たちが昨日、米の字に貼ったテープのおかげで窓ガラスも1枚も割れてねえ!」 番頭が作務衣の袖をまくり上げ、誇らしげに胸を張る。 仲居たちも「よかった、本当に無事だったのね」と顔を見合わせて、安堵の笑みを浮かべていた。「せせらぎ亭は無事だった。でも……」 翔吾は視線を山の斜面へと移した。 木々の隙間から見えるグラン・ヘリックスの巨大リゾート建設現場は、一夜にして瓦解していた。 2階建てプレハブ事務所は、土台のコンクリートだけをむき出しにして、建物そのものが丸ごと消滅している。 最新の資材で組み上げられて、非常に頑丈だったはずなのに、だ。 周囲の斜面には、飴細工のようにねじ曲がった太い鉄骨が散らばっている。 バキバキにへし折られた外壁パネルや、引き裂かれたグラン・ヘリックスのロゴ入り防音シートが、数百メートルにわたって散乱していた。(ひどい有様だ……) あまりの惨状に、翔吾は思わず息を吐き出した。

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   298

     外では依然として台風が猛威を振るい、雨粒が窓を激しく叩き続けている。 窓の外は真っ暗で、この嵐がいつ終わるのかも分からない。 しかしランタンの小さな灯りに包まれたせせらぎ亭のロビーには、不思議な連帯感が生まれていた。 敵対していた者たちが今は同じ屋根の下で、同じ温かい食事を分け合い、肩を並べて夜を明かそうとしている。 翔吾は毛布にくるまって浅い寝息を立てる実加や、疲れ切って目を閉じる御子柴たちを静かに見つめた。(僕の計算式は、徹底的にリソースを節約し、敵を排除することで『目先の生存確率』を最大化しようとした。だがもしあの時、彼らを物置に追いやっていたらどうなっていた?) 翔吾の脳内に、もう1つのシミュレーション結果が浮かび上がる。 一時的に物資は守られたかもしれない。 けれども見殺しに近い行為に加担したことで、実加との信頼関係は大きな亀裂が入っただろう。 従業員たちの心には拭い去れない罪悪感が残ったはずだ。 彼らは人間の熱と信頼を大事にして、チームを結束させてきた。 それが敵とはいえ人を見捨てたとあれば、せせらぎ亭のチームは、嵐が去る前に内部から瓦解していたに違いない。(小夜子さんの示した『目の前の命を救う』という信念。それは一見、非効率でリスクの高い選択に見えた。しかし、その高いプライドを全員で共有し貫き通したことで、我々の組織はどんな予測不能な脅威にも揺るがない、強固な結束を手に入れたんだ) 数字で守れるのは、物理的な箱と資源だけだ。 しかし人間の持つ確固たる信念と誇りは、その箱の中にいる人々の心を守り抜く。結果的に組織全体の生存力を極限まで高める最大の防御力となる。 自分の信じていた非人間的で無機質な論理の限界と、小夜子が体現した「おもてなしの真髄」。 翔吾はその方程式の答えを、今、確かな実感として心の底から理解していた。(目の前の命を救う。お客様の安全を守る。ここにいていいのだと、「居場所」を提供する……) 彼はかつて、どこにも居場所を見つけられないで

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   297

    「生き返る!」「ああ、芯から温まるよ」 彼の部下たちも、むさぼるように雑炊をかき込んでいる。 翔吾も自分の分の茶碗を手に取った。 一口食べると、出汁の深い旨味が五臓六腑に染み渡る。 極限状態だからこそ食事の温かさは価値を持つ。 どんなに高度な計算式を積み上げても導き出せない、温かな満足感だった。◇ 夜更けになった。 雑炊で人心地ついた御子柴たちは、配られた毛布にくるまって少しずつ落ち着きを取り戻していた。 御子柴はランタンの灯りを見つめたまま、ふと口を開いた。「……なぜ私を助ける」 その声はかつての威圧感を失い、どこか虚ろだった。 小夜子が手を止めて、彼の方を向く。「君の義弟の言う通り、物置に追いやって切り捨てればよかったはずだ。そうすれば君たちはより効率良く嵐がすぎるのを待てる。……ビジネスとしては、それが正解だ」 御子柴の問いに、翔吾も耳を傾けた。 自分の信じていた「論理」を、敵に突きつけられた気分だった。 小夜子はくすりと微笑む。穏やかだが迷いのない瞳で答えた。「目の前の1人を救えない人間に、大勢のお客様を幸せにすることはできません」「……何?」「私たちはホテルマンです。命を預かり、寛ぎを提供するのが仕事です。たとえ相手が誰であろうと、窮地にある命に最善を尽くす。それが、私たちの掲げる最高の『効率』――いえ、『プライド』です」 小夜子の言葉には一切の妥協がなく、信念が感じられる。「ホテルはお客様の家。家にいる家族を、どうして見捨てることができましょうか。少しでも安全に、安心して過ごせるように力を尽くす。それ以外にありません」 御子柴は絶句した。 彼は何かを言い返そうと口を開きかけたが、結局何も言わず、空になった雑炊の器をじっと見つめ続けた。(&hell

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   296

     ロビーの中央では、小夜子が御子柴と向き合っていた。 御子柴は浴衣に着替えたものの、寒さのせいか、それとも極度の緊張のせいか、膝の上に置かれた指先が青白く硬直していた。「失礼します」 小夜子が救急箱を広げて、消毒液を浸したガーゼを取り出した。 彼女は御子柴の額にある傷を、一切の迷いなく拭い始める。「……チッ」 御子柴の口から、微かな声が漏れた。 彼は痛みに耐えるように奥歯を噛み締めている。小夜子の手つきは驚くほど優しく、そして淀みがない。 翔吾は少し離れた場所から、その様子を観察していた。 あんなに冷酷で、最新のAIや圧倒的な資本で武装していた男が、今はただの一人の無力な人間に見える。 小夜子の指先が触れるたび、御子柴の肩が小さく跳ねる。(どんなに偉そうなことを言っても、結局は血の通った人間なんだな。寒ければ凍えるし、怪我をすれば痛がる。……当たり前のことなのに、なぜか不思議な気分だ) 翔吾は自らの内にあった敵意が、妙な形に波打つのを感じていた。 そこへ奥から香ばしい出汁の匂いが漂ってきた。「はいよ! 出来立てだ。熱いうちに食いな!」 板前が、カセットコンロで熱せられた大きな土鍋を運んできた。 蓋を開けた瞬間、真っ白な湯気が立ち上って大地の香りがロビー全体を満たした。 それは先日集めた『里山の宝物』の残りを使った雑炊だった。 細かく刻まれた原木椎茸と甘みの強い大根、彩りの良いカブの葉。それらが、透き通った出汁の中で宝石のように輝いている。 ぐつぐつと湯気の立つ鍋は、いかにも美味しそうだ。「……何だ、これは。せせらぎ亭は物資不足ではないのか?」 御子柴が、警戒するように土鍋を見つめた。(物資不足を知っている。やっぱりこの前の業者の差し止めも、御子柴の仕業か) 翔吾は苦い思いを抱きながらも、表情にでないように注意した。「雑炊ですよ。この山で

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   51

     小山田の言葉には、心からの敬意がにじんでいた。 小夜子は困ったように微笑む。「そんな、大層なことではありません。私はただ……もったいないお化けが怖かっただけですから」「お化け、ですか?」「はい。実家では食べ物を粗末にすると、本当に怖いお化け……いえ、厳しい罰がありましたので」 小夜子の言葉に、小山田は涙ぐんだ顔でくしゃりと笑った。 厳しい罰というのを軽い冗談だと思ったようだ。「……かないませんな。これ

    last updateLast Updated : 2026-03-20
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   46

     作業台の上に料理が並んだ。 飴色に輝き、ごま油の香りを放つきんぴら。 脂が浮いて湯気を立てる、熱々のアラ汁。 そして真っ白でふっくらとした塩むすび。 見た目は地味で、高級旅館の懐石料理とは比べるべくもない。けれど、これこそが働く人のための活力の源となる「まかない飯」だった。 噛むほどに染み出す大根の滋味深い甘みと、ごま油のコク。醤油の香ばしさ。最後に唐辛子のピリッとした辛味が追いかけてきて、後を引く。皮特有の硬さが、むしろ心地よい歯ごたえというアクセントに変わっていた。「……

    last updateLast Updated : 2026-03-20
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   40:敵意の玄関

     黒塗りの車が、砂利を踏みしめて停車した。 午後2時30分、老舗旅館『月影(つきかげ)』の玄関を小夜子は車の窓から見上げた。 築百年を超えるという木造建築は、確かに歴史の重みを感じさせる。だが今の小夜子の目には、それが「重厚さ」というより「重苦しさ」として映った。どこか薄暗く空気がよどんでいる。「降りるぞ」 隼人が短く告げてドアを開けた。さきほどまでの車酔いの青白い顔はどこへやら、その横顔はすでに冷徹な「再生屋」のものに戻っている。 小夜子も後に続いて車を降りた。 玄関前には、支配人を先頭に仲居や板前

    last updateLast Updated : 2026-03-19
  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   37

     トラブルの報告を聞いた瞬間、隼人の口元に冷ややかな笑みが浮かんだ。(……これだ) トラブル、反発、敵意。それこそが彼の得意とするフィールドだ。生っちょろい温もりから抜け出し、冷徹な「再生屋」としての自分を取り戻す、絶好の機会。「すぐに車を用意しろ。現地へ行く」「はっ。……お一人で向かわれますか?」 隼人は一瞬考え、意地悪な思いつきを口にした。「いや。妻も連れて行く」「奥様を、ですか? しかし現場は殺気立っておりますが&h

    last updateLast Updated : 2026-03-19
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