تسجيل الدخول真っ白だったはずの雑巾が、べっとりと茶色く変色している。まるで泥水を拭き取った後のようだ。
「新品の壁紙のはずだぞ? なぜこんなに汚れている」
「それが『幽霊』の正体の一部です」
小夜子はタオルを交換しながら、淡々と答えた。
「接着剤の表面に浮き出た化学成分の膜と、空気中に漂っていたタバコのヤニです。前のリフォーム時の汚れが、換気扇のダクトから逆流して付着していたのでしょう」
小夜子は自分の足元のバケツを示した。どす黒く濁った水が溜まっている。カーペットから吸い出した洗剤の残留成分と、長年の汚れの結晶だ。
「可視化されると、ぞっとしますでしょう?」
隼人は茶色い雑巾を見つめて、ごくりと喉を鳴らした。目に見えなかっただけで、この部屋は汚染されていたのだ。
自分は先ほどまで、この汚れに囲まれて「快適だ」などと言っていたのか。「……許せん」
隼人の瞳に、別の種類の炎が宿った。潔癖かつ完璧主義者である彼のプライド
ここで結果を出さなければ、翔吾はまた無能の烙印を押されて「家族」から追い出されてしまう。 居場所を見つけられないままに、大学を退学する羽目になる。 それはどうしても受け入れられなくて、翔吾は足掻いた。 しかし、この数週間のせせらぎ亭での日々、さらには昨夜の極限状態の中で彼を救ったのは、彼が見下していたはずの非合理的な感情であり、小夜子や実加の持つ確かな体温だった。 温かいお湯に包まれて満天の星空を見上げていると、これまで自分を守っていた冷たい論理の鎧が、すっかり溶け落ちてしまったような感覚になる。 心の奥底に初めて芽生えた穏やかな感情に背中を押されるように、翔吾は自然と口を開いていた。「せせらぎ亭に出張してからこの数週間、色々なことがありました」 翔吾の声からは、以前のような冷たさも、自分を虚勢で大きく見せようとする焦りも消え去っていた。「僕はこれまでずっと、黒崎社長のような完璧で、一切の隙のない経営者になりたいと思ってきました。データと論理だけで、すべての問題を解決できると信じていたんです」「…………」 隼人は口を挟まず、目を閉じたまま弟の言葉に耳を傾けている。「でも、違いました。せせらぎ亭の皆と働き、御子柴と対峙して、はっきりと分かったんです。数字と計算式だけでは、人は動かせない。お客様の本当の笑顔は引き出せない」 翔吾は隣に座る兄へ、まっすぐに視線を向けた。「僕は、黒崎社長のような論理的な思考を持ちつつも……小夜子さんや、ここの従業員たちが持っている『優しさ』や『熱』を併せ持つ人間になりたい。それが、僕の目指す新しい経営の形です」 隼人は無言でまぶたを開けた。 湯気の中で、兄弟の視線が交差する。 隼人は弟の視線を受け止めたまま、わずかに微笑んだ。 そしてお湯の中から大きな手を出てし、翔吾の肩をバンッと力強く叩いた。「痛っ……」「お前ならできるさ。俺だって、小夜
「主人の留守中、『家』を嵐から守り抜き、中にいる『家族』たちに温かい食事を提供して命を繋ぐ。それこそが家政婦としての最重要任務ですわ。皆さんと……特に翔吾さんと実加さんと力を合わせて、完璧にこなして見せましたけれど、何かご不満でも?」 いたずらっぽく小首を傾げる最愛の妻を見て、隼人は大きく息を吐き出す。ついに目元を柔らかく崩した。「いや……。さすがは、俺の見込んだ最高の女だ」 隼人は小夜子の頬に愛おしげに手を添える。 その白い額に深く、熱を込めた口づけを落とした。「ありがとう、小夜子。俺の誇りだ。お前が家を守ってくれるからこそ、俺はどんな逆境でも戦える」「ええ。あなたのお帰りを、いつでも完璧な状態でお待ちしておりますわ」 夕闇が迫る控え室で、2人は固く手を取り合う。「でも今回は、皆さんの力があってこそ乗り越えられました。特に翔吾さんです。彼は本当に頑張りましたよ。是非、話を聞いて差し上げてください」「そうか、翔吾が……。そうだな。あいつはずっと孤独に生きてきた。せめて俺が兄として横に立たねば」 夫婦の手は自然に伸びて、互いの背中に回される。 2人は長いこと、相手の無事と体温を分かち合っていた。◇ その日の夜。 猛烈な雨と風が空気中の塵をすべて洗い流した夜空は、吸い込まれるような深い漆黒のキャンバスへと変わっていた。 見上げれば、こぼれ落ちそうなほど無数の星々が眩い光を放ち、天の川の淡い光の帯が山の稜線からくっきりと立ち上っている。 荒れ狂っていた大自然が本来の優しさを取り戻し、雄大な気配で山全体を包み込んでいた。 その満天の星空の下、せせらぎ亭の絶景露天風呂は、既に完全に再生を果たしている。 もちろん、まだ客はいない。 けれど湯船に浸かる人影があった。 黒崎隼人と翔吾の兄弟だった。 心地よい湯の音が、夜の里山に響いている
翔吾は眼鏡の奥の目を細め、素直な言葉を紡いだ。「それこそが、AIには弾き出せない最大の付加価値を生む変数だと、今は認めざるを得ません」「へっ。もっと素直に褒めりゃいいのによ」 実加は涙を腕で乱暴に拭い、ニカッと笑い返した。「お前のその小難しい計算も、まあ、結構役に立つって分かったよ、相棒」「あうー!」 理玖が母と相棒の絆を喜ぶように、機嫌の良い声を上げた。◇ 午後になると、物資の搬入と従業員たちの安否確認も一段落して、せせらぎ亭は落ち着きを取り戻し始めていた。 ロビーからは実加たちの声が聞こえてくる。 嵐の夜がいかに恐ろしかったか、でももう笑い話になったと、理玖に話して聞かせているようだ。「小夜子。少しいいか」 それまで忙しく陣頭指揮を取っていた隼人が、小夜子の手を取った。「はい、社長。何の御用でしょうか?」 隼人は答えず、妻の手を引いて帳場へと向かった。 無人の帳場はしんと静まり返っている。 扉が閉まった瞬間、隼人が纏っていた「完璧なトップ」としての隙のないオーラが解けた。 彼はそのまま白い割烹着姿の小夜子を力強く、けれど優しく抱き寄せた。「隼人さん……?」「小夜子。本当に、怪我はどこにもないんだな? 無理をして隠していないか?」 普段の冷静沈着な隼人からは想像もつかない、切迫した声だった。 小夜子の背中に回された大きな腕には、はっきりとした安堵と、拭い去れない恐怖の余韻がこもっている。「道路が寸断され、ここが完全に孤立したと報告を受けた時……俺は、自らの無力さを呪った。お前をこんな山奥の嵐の中に残してしまったことを」 小夜子は、自分を抱きしめる夫の広い背中にそっと手を添えて、穏やかな微笑みを浮かべた。「何をおっしゃいますか。あなたはアーク・リゾーツの社長です。本社で全社的な危機管理の
「帰るぞ」 隼人が率いてきた車の一団の後ろには、グラン・ヘリックスのロゴが入った車が数台、続いていた。 部下たちが慌ただしく迎えの車へ向かう中、御子柴はすれ違いざまに隼人を鋭く睨みつけた。「だが、ビジネスの戦いが終わったわけではない。次こそは必ず君たちを叩き潰す。それこそどんな手段を使っても、だ」「望むところだ。お互い、最高のリゾートを目指そうじゃないか」「ハッ。せいぜい甘いことを言っていろ」 隼人が余裕のある笑みを返すと、御子柴は舌打ちをして、そのまま車へと乗り込んだ。 ワゴン車が土煙を上げて去っていくのを、従業員たちは無言で見送った。「やった……。おい、やったぞ! アタシらの宿が、黒船を追い返したんだ!」 実加の歓声を皮切りに、ロビーが大きな喜びに包まれた。 仲居たちが抱き合い、板前と番頭が肩を叩き合って喜んでいる。「実加さん」 ふわりと百合の香りを漂わせ、小夜子が穏やかな微笑みを浮かべて歩み寄ってきた。 その後ろには、隼人の車から降りてきた見慣れたシッターの女性と――。「あー、あー!」 シッターに抱き抱えられた、小さな赤ん坊の姿があった。「チビ……! 理玖!!」 実加は弾かれたように駆け寄って、理玖を両腕で力強く抱きしめた。 柔らかくて温かい、小さな体。ミルクとベビーパウダーの甘い匂いが胸いっぱいに広がる。「ごめんな、ずっと会えなくて! 母ちゃん、この宿をすっげえきれいにしたんだぞ! どうだ、かっこいいだろ!」 実加の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。 理玖は不思議そうに目をパチパチさせた後、実加のメッシュの入った髪を小さな手で掴み、きゃあきゃあと嬉しそうに笑った。 シッターがニコニコと笑って言った。「理玖くんは、この前ついにハイハイを始めたんですよ」「えっ、マジすか。チビ、母ちゃんにハイハイ見せてくれよ」「だあ!」
玉砂利を踏みしめる複数の車のタイヤ音が近づき、せせらぎ亭の門の前に3台の黒いワゴン車が停車した。「……我が社の緊急車両だろう。手回しが早い」 御子柴は安堵とも疲労ともつかない息を吐き、立ち上がった。 グラン・ヘリックスの危機管理チームならば、自社のトップを救出するために道路が開通した瞬間に一番乗りで駆けつけて当然だ。 彼がそう確信して玄関へ向かおうとした時のことだった。 先頭の車のドアが音を立てて開き、磨き上げられた革靴が的確に地面を踏みしめた。 降りてきたのは、御子柴の部下ではなかった。 嵐の爪痕が残る泥だらけの風景とは完全な対極にある、一切のシワもないスリーピースの高級スーツ。 高身長で均整のとれた体躯から放たれる、周囲の空気を一瞬で支配するような圧倒的なオーラ。 男はカフスボタンに軽くと触れて身なりを整えると、鋭くも底知れぬ深さを持つ瞳で、せせらぎ亭の建物を、そして玄関口で呆然と立ち尽くす御子柴を見据えた。「兄さん……いえ、黒崎社長!」 翔吾が弾かれたように声を上げる。 アーク・リゾーツ社長、黒崎隼人だった。 隼人の後ろの車からは、彼が自ら手配し、最速で駆けつけたアーク・リゾーツの精鋭スタッフたちが、大量の飲料水や食料、毛布などの救援物資を次々と下ろし始めていた。 それを見たせせらぎ亭の従業員たちが、歓声を上げる。「道が開通したと聞いて、急いで物資を積んで来たが……どうやら、皆無事のようだな」 隼人はロビーを見渡し、最後に、汚れた浴衣姿で立つ御子柴へと視線を定めた。「これは驚いた。グラン・ヘリックスの日本支社長殿が、うちの宿で寛いでおられるとは」「……嫌味な男だ。相変わらずな」 御子柴は忌々しげに顔をしかめながらも、言い訳を一切せずに隼人と真っ向から対峙した。「私の負けだ、黒崎社長」 御子柴の言葉に、番頭や板前たちが絶句する。
朝のロビーには、胃袋をわし掴みにするような良い香りが充満していた。「さあ、炊き立てだ! 火傷しないように気をつけて食ってくれ!」 板前が巨大な土鍋の蓋を開けると、もうもうとした真っ白な湯気が立つ。周囲には米の甘い匂いが弾けた。 彼は冷水で濡らした掌に粗塩をすり込み、艶やかに光る熱々のご飯をすくい取る。 米粒を決して潰さないようもに手早く、けれど空気を含ませるようにふんわりと、見事な手つきで三角に結んでいく。 表面にはうっすらと塩の結晶が光り、湯気を立てる大きめの塩むすびが、次々と大皿の上に積み上げられていった。 その横では、実加が大きな鍋の前でお玉を握っている。「はいよ、熱々の味噌汁! 冷えた体にはこれが一番効くからな!」 実加がたっぷりと注いだお椀の中には、出汁を吸って飴色に透き通った柔らかな大根と、鮮やかな緑色を残したカブの葉がゴロゴロと入っている。 カツオと昆布の濃厚な出汁に、地元特産の甘めの麦味噌が溶け合い、五臓六腑に染み渡るような深い香りを漂わせていた。「ほらよ、あんたも食いな」 実加が、御子柴玲二の前に塩むすびと味噌汁を置いた。 御子柴は毛布にくるまったまま、ロビーの椅子に座っていた。あれから結局、部下たちとロビーで一夜を明かしたのだ。 彼は無言のまま、ゆっくりと手を伸ばした。 温かいお椀を両手で包み込み、一口すする。 出汁の旨味と味噌のコクがじんわりと広がった。 続いて、大振りな塩むすびにかぶりついた。 米の一粒一粒が立っており、噛むほどに広がる優しい甘みを、粗塩のキレのある塩気が完璧に引き立てている。(……米と塩、それに根菜の味噌汁。ただそれだけのものが、これほど体に染み渡るとはな) 御子柴の喉仏が上下に動く。 極限状態を乗り越えた体に、温かい食事が強い生命力となって行き渡っていくのが分かる。(……悔しいが、美味い) 彼は自分の完全敗北を、その温もりとともに噛み締めていた。
実家の書庫は、普段なら思い出したくない辛い記憶だった。でも今、隼人の役に立つ情報がそこにある。(ローズベリー伯爵。……待って。あの方のお母様は確か……) 小夜子は花弁をハンカチに包むと、立ち上がった。青ざめている隼人のそでを引く。「旦那様」「なんだ、今は忙しい。お前は部屋に……」「執務室へ戻りましょう。確認したいことがあります」 隼人は苛立ちながら振り返ったが、小夜子の目を見て言葉を呑み込んだ。そこにはいつも
「入った瞬間におもてなしの心が感じられない。これだから極東のホテルは……」 彼は杖を突き、イライラと歩き出した。 その時、総支配人が失敗を取り戻そうと一歩前に出た。手には、歓迎の意を込めた巨大な花束が抱えられている。情熱的な真っ赤なバラと大輪のダリアで作られた、豪華なブーケだ。「閣下! 当ホテルからの歓迎の印でございます。どうぞお納めくだ……」 総支配人の言葉は、最後まで続かなかった。花束を見た瞬間、伯爵の顔色が青ざめる。次いで激怒の赤に変わったからだ。
ハイヒールの音が遠ざかり、重い扉が閉ざされる。 ガシャリと鍵がかけられる音。 深夜の書庫は冷え切っていた。幼い小夜子は膝を抱える。空腹と頬の痛みに耐えながら、声を殺して泣いていた。『お母さん……。どうして死んじゃったの。こんな家、来たくなかったよ』 白河家の当主、清次郎の愛人の子として小夜子は生まれた。 小夜子の母は白河家の使用人。関係を迫られて断れなかったのだと、大人になってから噂に聞いた。 それでいて母が小夜子を身ごもると、父はあっさり捨てた。わずかな手切れ金だけを押し付けて
(なんだ、これは。彼女はただのお飾りの妻だ。有能なのは理解したが、それ以上は……) 小夜子の顔を直視できず、視線がさまよう。 ふと、隼人の視線が小夜子の手元に止まった。 喜びを噛み締めるように膝の前で組まれたその手。白く美しい形をしているが、その指先は赤く荒れて所々ひび割れていた。 旅館『月影』での冷たい水での米研ぎと、泥だらけの野菜洗い。 そして、昨日の寒空の下での墨すり。かじかむ手で何時間も冷たい水を使い続けた代償だ。 この勝利をもたらしたのは、この傷だらけの手だった。







