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35:不味いコーヒー

last update Tanggal publikasi: 2025-12-14 10:37:36

 黒瀬隼人が経営するアーク・リゾーツ本社、最上階。

 社長室の壁一面はガラス張りになっており、眼下には東京の街並みがジオラマのように広がっていた。

 午前10時。隼人はデスクに向かい、書類の山と格闘していた。

 広大な執務室には、空調の低い音と隼人がペンを走らせる音だけが響いている。

(ここが俺の居場所だ)

 感情など不要な、数字と利益だけが支配する冷たくて快適な戦場。不渡りを出しかけた企業の再建案、新規開発エリアの用地買収、株価の変動。次々と押し寄せる決断の連続に、隼人の脳は氷のように冴え渡っていた。

 ノックの音がして、秘書の工藤が入ってくる。彼は無言でデスクの端にコーヒーカップを置き、一礼して下がろうとした。いつものタイミング、いつものブルーマウンテンNo.1。

 隼人は書類から目を離さず、片手でカップを引き寄せた。香り高い湯気が立つ。そのまま口に運び一口、流し込む。

「……っ」

 隼人の手が止まった。眉間に深いしわが寄る。

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     ――と。 コンコン、と控えめなノックの音が鳴ってドアが開いた。「黒崎社長、総支配人。失礼します」 翔吾が、手元のタブレットに視線を落としたまま部屋に入ってきた。「翔吾さん。現場の状況は把握していますか?」 小夜子が尋ねると、翔吾はタブレットから顔を上げ、こくりと頷いた。「ええ。ロッカールームのビラも、SNSの個別DMも確認済みです。実加さんも、鼻息を荒くして怒っていましたよ。全く、手回しが早くて嫌になりますね」 翔吾はデスクの上にタブレットを置いた。 画面には、おびただしい数のデータやグラフが表示されている。「ですが、ただ手をこまねいているわけではありません。あの甘い条件の裏付けを取るために、グラン・ヘリックスが過去3年間に手がけた買収事例を徹底的に調べています」「裏付け、とは? 何か見つかったのか?」 隼人が身を乗り出す。「基本給2倍、充実した福利厚生。彼らが本当にその約束を守っているのか、という実態調査です」 翔吾の目が、メガネの奥で鋭く光った。「投資ファンドが、無条件で人件費を倍にするような慈善事業を行うはずがありません。必ず数字のカラクリがあるはずです。例えば半年後にAI導入を理由にした大規模なリストラが待っているとか、成果報酬型への移行で実質的な賃下げが行われるとか。過去の事例をいくつか見ましたが、既に怪しいデータがいくつか散見されます」「なるほど。甘い毒の正体を、データで暴き出すということですね」 小夜子の言葉に、翔吾は「ええ」と頷いた。「感情的な説得では、お金の誘惑に勝てません。客観的なデータと事実をもって、彼らの約束が虚構であることを証明し、全従業員に突きつけます。そうすれば、疑心暗鬼に陥っているスタッフたちの目も覚めるはずです」「頼む、翔吾。一刻も早く、そのデータをまとめてくれ」 隼人の声に力が戻る。「承知しました。全力で取り組みます、黒崎社長」 翔吾が足早に部屋を出ていくと、社長室には再び静寂が戻った。

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    「うまい話には絶対裏があるに決まってるじゃないですか。だいたい、ウチのことなんて直接見たこともないくせに、何がスキルを高く評価、ですか。バカにしてるのかって話ですよ」「実加さん……」「ウチは絶対、あんなの信じません。ウチがここで働けてるのは、総支配人やみんなが、ウチや理玖のことをちゃんと見て、助けてくれたからです。お金なんかでウチの気持ちは動きませんからね!」 実加の迷いのない言葉に、小夜子は救われたような気持ちになった。 思わず微笑む。「ありがとうございます。実加さんがそう言ってくださると、本当に心強い」「へへっ。ウチはウチの仕事をするだけなんで。じゃ、水回りの掃除やってきます!」 実加は洗剤のボトルを手に、勢いよく客室の中へ戻っていった。 実加の後ろ姿を見送りながら、小夜子は小さく息を吐いた。 実加のようにきっぱりと拒絶できる者は、ごく少数だ。大半の従業員は、生活の不安と見えない恐怖にあおられて、アークリゾーツ社から心が離れかけている。(このままではいけない。何かしらの手を打たなければ) 現場の重い空気を肌で感じた小夜子は、急ぎ足で社長室へと引き返した。◇ 社長室に戻ると、隼人が窓際に立ち、腕を組んで外を見下ろしていた。 小夜子は執務デスクの横に立って、先ほど現場で見てきた状況を報告した。「SNSのダイレクトメッセージで、個別に特別オファーを出してきているようです。スタッフたちは完全に疑心暗鬼に陥り、互いの顔色をうかがって作業の連携も取れていません」「そうか。そこまでやるとはな……」 隼人は振り返り、重い足取りでソファに向かった。「スキャンダル騒動でこちらの体力を奪い、疲弊したところに甘い条件を提示して内部から崩壊させる。完全に計算し尽くされた手口だ」「スタッフたちを責めることはできません。家族の生活がかかっている方も多いのです。それに、いつまた炎上騒ぎに

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     チーフの苛立った声に、若手スタッフが肩をすくめた。 小夜子が近づくと、彼らはサッと視線を逸らして気まずそうに作業に戻っていった。(空気がひどく張り詰めている。お互いの顔色を窺って、誰も本音を言えない状態) 小夜子は靴音を殺して廊下を進んだ。 開け放たれた客室の入り口から、数人の女性スタッフがヒソヒソと話す声が漏れ聞こえてくる。「ねえ、私の個人のSNSアカウントに、DMが来たの」「えっ、私も。グラン・ヘリックスの人事担当って名乗る人からでしょ?」「そう。うちのホテルのサービスレベルを高く評価してるから、新体制になったら部門のリーダー候補として特別待遇で迎えたいって。これ、本物なのかな」「私にもヘッドハンターから来たわよ。これ、1人ひとりのアカウントを特定して送ってきてるのよね。ちょっと怖くない?」「でも、そこまで熱意をもってスカウトしてくれるなら、ちょっと心が動く……」「うーん、確かに……」 小夜子はわずかに目を細めた。 物理的なビラ撒きだけではない。スタッフがプライベートで利用しているSNSアカウントにまで、個別に接触を図ってきているのだ。 メディアを使った大々的な宣伝で集団の意識を揺さぶり、ビラで内部に疑心暗鬼を生ませる。 さらにSNSのダイレクトメッセージで個人個人を追い詰める。(なんて執拗で、悪辣(あくらつ)な手口でしょうか。みんな、追い詰められてしまうわ)「ちょっと、そこのあんたたち! 手を動かしながら喋りなよ!」 フロアの奥から、張りのある元気な声が響いた。 山内実加だ。 彼女はゴミ袋をまとめた大きなカートを押しながら、小夜子の前までやってきた。「あ、師匠、じゃなくて総支配人! お疲れ様ッス!」「お疲れ様です、実加さん。理玖くんは保育園ですか?」「はい、今朝も元気に離乳食食べてから行きましたよ。それより、総支配人、ちょっとこれ見てください」 実

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    「給料が倍になるなら、うちの子の塾代を諦めなくて済むかも。家のローンだって一気に返せるわ」 パートの女性が、ビラを両手で握りしめながら呟いた。「でも、これ誰が置いたんだ?」 若手のベルボーイの言葉に、場が静まり返った。「部外者がロッカールームに入れるわけないよな。カードキーがいるんだし」「……ってことは、スタッフの誰かがグラン・ヘリックスからお金をもらって配ったってこと?」「うそ、裏切り者がいるの?」 疑心暗鬼が、目に見えないヒビのように人々の間に広がっていく。 つい昨日まで笑顔で助け合っていた同僚の顔が、急に得体の知れないスパイのように見えてくる。 誰もが周囲を警戒し、探り合うような視線を交わし始めた。「ねえ、グラン・ヘリックスの傘下に入った方が、コンプライアンスもしっかりしてるんじゃない? この前のネットの炎上騒ぎみたいに、うちらがクレーム対応の盾にされることもなくなるかもよ」 誰かが発したその一言が、決定打だった。 先日のスキャンダル騒動で、現場のスタッフたちは連日鳴りやまない電話と心無いクレームの矢面に立たされていた。 いくら小夜子や隼人が盾になろうとしても、限度がある。物理的な疲労と精神的な摩耗は確実に彼らの心を削り取っていたのだ。『このままじゃ本当に身が持たない。外資の傘下に入るのも悪くないんじゃないか』 生活の安定を求める切実な願いと、現状への疲労感が漂う。 その2つが結びつき、ロッカールームの空気を重く濁ったものに変えていった。 小夜子はドアの手前で立ち止まり、ぐっと奥歯を噛みしめた。(彼らの不安はよく分かる) 先日の騒ぎで、社員たちに負担をかけてしまった負い目がある。 小夜子と隼人は戦い抜く気持ちでいるが、社員たちはそれぞれの考えがあるだろう。 無理に踏み込んでも、彼らをさらに萎縮させるだけだ。今はただ、事態を静観するしかなかった。◇

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     画面の中で芝居がかった微笑みを浮かべる御子柴の顔を、小夜子は冷ややかに見つめた。 彼のような他者を数字や道具としか見ない人間にホテルを奪われれば、従業員たちはあっという間に使い捨てられるだろう。 テレビで公言した約束など、彼にとっては束縛にならないに違いない。 ふと、現在刑務所にいる父親の顔が脳裏をよぎった。 自分が継母から理不尽な労働を強いられ、罵倒されていても、ただ見て見ぬふりをしていた男だ。 父親は保身と自分の利益しか頭になく、家族すら守ろうとしなかった日和見主義を決め込んでいた。 御子柴と父はタイプこそ違う。 だが他者の人生や尊厳を全く省みないという意味で、同じ穴のむじなだった。(あんな無責任な人間に、私たちのサンクチュアリを渡すわけにはいきません) 小夜子の胸の奥で、静かだが強い怒りの火が燃え上がる。 今の彼女は、かつて白河家で虐げられていた無力な娘ではない。 愛する夫と共に、この場所を守り抜くという確固たる意志を持った総支配人だ。「この動画が、今朝からスタッフたちのスマホに次々と流れてきているようですね。皆が動揺するのも無理はありません」 小夜子は冷静な口調で隼人に告げた。「ああ。巧妙な世論誘導だ。圧倒的な資金力を誇示して、こちらの結束を崩しにかかっている。外から揺さぶりをかけて、内部の不満をあおる気だろう」 隼人も腕を組んだまま、険しい視線をモニターに向けていた。◇ その頃、ホテルの地下にある従業員用のロッカールームは、別の騒ぎに見舞われていた。(何かしら) 小夜子が状況を確認しようと近づくと、開け放たれたドアの隙間から声が漏れてくる。 出勤してきた清掃部門やレストランのスタッフたちが、金属製のロッカーを開けるなり次々と驚きの声を上げていた。「ちょっと、これ何」 女性スタッフの1人が、ロッカーの隙間から滑り落ちた1枚の紙を拾い上げた。 上質なコート紙にフルカラ

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   345:内部崩壊の危機

     初夏の澄んだ青空とは対照的に、ホテル『サンクチュアリ』の従業員専用入り口は、朝から異様な空気に包み込まれていた。 出勤してくるスタッフたちは皆、片手にスマートフォンを握りしめて、数人ずつの輪を作って小声で話し込んでいる。 彼らの視線は画面に釘付けだ。時折、不安と興奮の入り交じったため息が漏れていた。「これ、本当かな。ちょっと信じられないんだけど……」「でも、ニュースで本人が言ってるんだから、嘘じゃないんじゃない?」「だとしたら、すごいことだよ。生活が全然変わってくる」 そんなヒソヒソ声が、あちこちから聞こえてくる。 黒崎小夜子は、仕立てのよいグレーのパンツスーツの裾をさばきながら通路を歩いていた。 歩きやすいローヒールのパンプスが、磨かれた床を規則正しいリズムの靴音を立てている。「おはようございます」 小夜子が声をかけると、スタッフたちはびくっと肩を跳ね上げた。慌ててスマホを背中に隠している。「あ、おはようございます、総支配人……」 彼らはそそくさと視線をそらすと、足早にロッカールームへと消えていく。 いつもなら「今朝は冷えますね」といった他愛のない会話が弾むはずなのに、冷ややかな隙間風が吹いているようだった。(みんな、様子がおかしいわね) 小夜子は足取りを速め、社長室へと向かった。◇ 社長室のドアを開けると、隼人が深刻な顔つきで大型モニターを見つめていた。「隼人さん、おはようございます。表のスタッフたちの様子が、どうも……」「ああ、小夜子。これを見てくれ」 隼人がモニターを示す。そこには、昨晩放送された経済ニュースの録画映像が流れていた。 画面の中央には、高級なダブルのスーツを着こなした御子柴が座っている。 自信に満ちた笑みを浮かべ、インタビュアーの質問に滑らかに答えていた。

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