All Chapters of 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く: Chapter 61 - Chapter 70

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61:金より重い紙

 数日後の午前11時、アーク・リゾーツ本社、最上階にある大会議室。 窓の外には東京の摩天楼が広がっているが、室内の空気はピンと張り詰めていた。 重厚なテーブルを挟んで、隼人と大河原老人が向き合って座っている。傍らには顧問弁護士たちが控え、テーブルの上には分厚い契約書が置かれていた。 大河原老人は、契約書の最後のページに筆ペンで署名をした。そして実印を朱肉に押し付け、紙の上に運ぶ途中で手を止めた。「……黒崎社長。特約条項は、忘れておらんだろうな」 老人の鋭い視線が飛ぶ。隼人は動じることなく頷いた。「もちろんです。第15条をご確認ください。『敷地内庭園の保存、および新施設設計への妻・小夜子の監修権限を保証する』と明記してあります」 老人は老眼鏡の位置を直すと該当箇所を目で追い、満足げに鼻を鳴らした。「よろしい」 タンッ。印鑑が契約書に押される。契約成立である。 その瞬間、室内に充満していた緊張の糸がふっと緩んだ。◇ 弁護士たちが書類を整理し始める中、大河原老人が立ち上がった。彼は隼人ではなく、その斜め後ろに控えていた小夜子の元へと歩み寄った。「奥方」 老人の表情は、あの日の怒りが嘘のように穏やかだった。「……あの庭を、頼みましたよ」 それは単なる管理の依頼ではない。自分の魂の一部を託す言葉だ。 小夜子は背筋を伸ばし、深く一礼した。「はい。お約束いたします。あの椿のように、冬でも凛とした美しい場所として、守り抜きます」 小夜子の言葉に、老人は「良い後継者を見つけた」とでも言うように目を細める。「楽しみにしている」 老人はそう言い残し、足取り軽く会議室を去っていった。 弁護士たちも職務を終えて、一礼の後に退出していく。 広い会議室には、隼人と小夜子の2人だけが残された。テーブルの上には締結されたばかりの契約書と、以前に破り捨てられた小切手の控えだけ
last updateLast Updated : 2025-12-24
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 小夜子は驚いて、小さく首を横に振った。「そんなことはございません。私はただ、旦那様のお言葉を代筆しただけの……」「謙遜するなと言ったはずだ」 隼人が一歩、距離を詰めた。その目に威圧感はない。あるのは対等な人間を見る眼差しだけだ。「俺には金を作る才能がある。数字を読み、利益を生むことに関しては誰にも負けん。……だが人の心に踏み込む『言葉』や『教養』がない」 彼は認めたのだ。自分に欠けているピースを、契約上の妻となった女性が持っていることを。そして、それがビジネスにおいて最強の武器になることを。「お前は、俺に必要な人間だ」 隼人は、はっきりと告げた。「……ビジネスパートナーとしてな」 小夜子の思考が、一瞬停止した。(必要……?) その言葉は、小夜子の人生において最も縁遠いものだった。実家では常に「ごくつぶし」「厄介者」と呼ばれ続けてきた。「お前がいなければよかったのに」という視線を浴びて生きてきた。それが当たり前になってしまっていた。 誰かに必要とされる。ましてや、こんなに美しく完璧に見える男性に、「必要な人間だ」と言われるなど、想像すらしたことがない。 だからすぐには言葉の意味が飲み込めず、呆然としてしまった。 思わずまじまじと隼人を見つめる。 けれど隼人の瞳に嘘がないことを悟ると、胸の奥がじんわりと熱くなった。(ああ……) 温かい。初めて自分の存在を肯定された気がした。たとえそれが、「ビジネスパートナー」という限定的な役割であったとしても。(そう、ビジネスパートナー。……つまり有能な家政婦や秘書のように、お仕事でお役に立てるということね) 小夜子は高鳴る鼓動を静めようと、自分に言い聞かせた。(舞い上がってはいけないわ。これは契約結婚だもの。旦那様は優秀な「機能」として私を
last updateLast Updated : 2025-12-24
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(なんだ、これは。彼女はただのお飾りの妻だ。有能なのは理解したが、それ以上は……) 小夜子の顔を直視できず、視線がさまよう。 ふと、隼人の視線が小夜子の手元に止まった。 喜びを噛み締めるように膝の前で組まれたその手。白く美しい形をしているが、その指先は赤く荒れて所々ひび割れていた。 旅館『月影』での冷たい水での米研ぎと、泥だらけの野菜洗い。 そして、昨日の寒空の下での墨すり。かじかむ手で何時間も冷たい水を使い続けた代償だ。 この勝利をもたらしたのは、この傷だらけの手だった。 隼人の表情が曇った。「……その手」「え?」 小夜子はハッとして、慌てて手を背中に隠した。「申し訳ありません、お見苦しいものを……。すぐにクリームで手入れをいたしますので」 こんなガサガサの手では、パートナーとして失格だと思われたかもしれない。小夜子が身を縮こまらせると、隼人は強い口調で言った。「隠すな」 彼は一歩踏み出し、小夜子の手首をつかんだ。強引だが、その力加減は驚くほど優しかった。 目の前の荒れた指先を見て、隼人は言葉を失った。(……俺のために、こんなになるまで) 勝利の余韻よりも、重たい罪悪感が胸を刺した。自分はこの手を、ここまで酷使させていたのか。「俺に必要な人間だ」などと偉そうに言いながら、彼女が払った犠牲に気づきもしなかった。 隼人は何も言わず、ただその荒れた指先を、痛ましそうに見つめ続けた。 ◇  夜10時、隼人のペントハウス。 夕食の片付けを終えた小夜子は、一礼してリビングを出ようとした。ソファでは、隼人がタブレットで海外のニュースをチェックしている。「失礼いたします。おやすみなさいませ」「おい、待て」 隼人の声に呼び止められ、小夜子は足を止めた
last updateLast Updated : 2025-12-24
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64:初めてのプレゼント

「その手、ガサガサで見ていられん。客前に出すには見苦しいからな」 その言葉を聞いた瞬間、小夜子の顔からさあっと血の気が引いた。(見苦しい……) 胸の奥に痛みが走る。(やはり、そうだったのね) 先日の契約の席で、彼が小夜子の手をじっと見ていたのは、不快に思っていたからなのだ。  小夜子は自分の手を見る。荒れてひび割れた手。美しい調度品に囲まれた彼の生活には、確かに相応しくない汚点だった。  彼女は袋を握りしめて深く頭を下げた。「申し訳ありません……」 声が震えないようにするのが精一杯だった。「日々の管理が行き届かず、お見苦しいものをお見せしてしまいました。不快な思いをさせてしまい、お詫び申し上げます」 実家で浴びせられ続けた「汚い」「目障りだ」という言葉が、脳裏によみがえる。  慣れていたつもりだった。  でも、隼人から言われるとこんなにも胸が痛い。「以後、人前では手袋をするなどして隠しますので……」 小夜子は逃げるようにリビングを出ようとした。 ガタンッ!  隼人が勢いよく立ち上がり、小夜子の肩をつかんだ。「ひっ……」 おびえる小夜子を見て、隼人はハッとしたように手を離した。  彼女の瞳には、怯えと諦め、深い悲しみが浮かんでいる。(違う、そうじゃない。俺は……!) 隼人は舌打ちをした。うまく言えない。こんな時にどのような言葉をかければいいのか、彼は知らないのだ。「違う! 隠せと言ってるんじゃない!」「で、ですが、見苦しいと……」「あー、くそっ……! それは言葉のアヤだ!」 隼人は乱暴に頭をかきむしり、バツが悪そうに視線を逸らした。  しばしの沈黙。小夜子はすっかり固まってしまっている。  ややあって、隼人は絞り出すように言った。「見苦しいんじゃない。……痛々しいんだ」 小夜子がまばたきをした。「痛々しい?」
last updateLast Updated : 2025-12-25
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 隼人は小夜子と目を合わせないまま続ける。「……お前の手は、俺にとって大事な商売道具なんだから、もっと労れと言ってるんだ」 それが、不器用な彼に言える精一杯の「大切にしろ」というメッセージだった。 小夜子は呆然と隼人を見つめた。(怒られたのではなかったの……? 見苦しいと言われて、隠さなければと思ったのに。心配してくださっていたなんて) わざわざ百貨店まで足を運び、この手のために選んでくれたのだという。「大事な手」だと言って。 胸の奥に、温かいものがこみ上げてくる。「……ありがとうございます」 小夜子はぎゅっと袋を抱きしめた。「大切に、使わせていただきます」「フン。さっさと行って寝ろ。体調管理も仕事のうちだ」 隼人は照れ隠しのように背中を向けて、ドサリとソファに座り込んだ。 自室に戻った小夜子は、そっと箱を開けた。 中に入っていたのは、見た目にも美しいガラスの容器である。 クリスタルのような容器のふたを開けると、ローズとジャスミンの高貴な香りがふわりと広がった。 指先にクリームを取り、荒れた甲に塗り広げる。とろけるような感触が、ひび割れた皮膚に染み込んでいく。(……大事な手) その言葉を心の中で繰り返した。高級なクリームの効能よりも、彼がくれた言葉と不器用な優しさの方が、小夜子の心のひび割れを深く癒していくようだった。 小夜子は自分の手を眺めて、小さく微笑む。痛くて醜いと思っていたこの手が、初めて少しだけ愛おしく思えた。◇ 同時刻、都内にある白河家本邸。 かつて小夜子が毎日磨き上げていた屋敷は、彼女がいなくなってまだ一ヶ月も経っていないというのに、急速に輝きを失い始めていた。 玄関に活けられた花は枯れて、茶色く変色した花弁が散らばったままだ。廊下の隅には、白い綿埃が溜まり始めている。 居間
last updateLast Updated : 2025-12-25
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「新しい家政婦を募集しているのに、ぜんぜん決まらないし。家政婦会社は給料が安いって言うのよ! 小夜子ならタダで働いたのに、たかが家政婦の仕事にお金を払うだけありがたいと思って欲しいわ」「信じられない! 小夜子なら、こんなシミ、一晩できれいにしておいてくれたわよ! あの子がいなくなってから、私のクローゼットの中はぐちゃぐちゃじゃない!」「まったくだわ。あの子、出て行く時に引き継ぎもしないなんて、なんて恩知らずなの! 誰が育ててやったと思ってるのかしら」 自分たちの管理能力のなさを棚に上げて、2人は口々に小夜子をののしった。 そこへ父の清次郎が血相を変えて飛び込んできた。「おい! 緑! 『佐伯財閥』の茶会の招待状はどうした!?」「え? 佐伯様? 来てたかしら」 緑はテーブルの上に山積みになっているダイレクトメールや請求書の山を、ガサガサとひっくり返した。「あ、これ?」 未開封の分厚い封筒が出てくる。清次郎はそれをひったくり、裏面の日付を見て顔面蒼白になった。「……馬鹿者!」「きゃっ! 何よ、いきなり。大声を出さないでくださいな」「返信期限が3日過ぎているじゃないか!」「えっ? たかが3日でしょう? 今から遅れて出せばいいじゃない」 緑の投げやりな返答に、清次郎はまたもや怒鳴った。「お前は何もわかっていない! 佐伯会長は礼儀に厳しい方だ。『期限を守れない人間とは取引しない』が口癖なんだぞ! 無断欠席扱いになれば、ウチの会社は今後一切の取引を切られる!」 清次郎の手が震えている。佐伯財閥との繋がりは、傾きかけた白河家の事業にとって命綱だった。それをこんな初歩的なミスで失おうとしているのだ。「ど、どうしましょう……」 さすがに事の重大さに気づいて、緑が青ざめる。けれどすぐに開き直ったように叫んだ。「だいたい、小夜子が悪いんじゃない! あの子がいたら、郵便物は全部チェックして、勝手に出欠の返事を出して、パパのスケジュー
last updateLast Updated : 2025-12-25
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67:来訪者

 午後3時、隼人のアーク・リゾーツが経営するホテル『サンクチュアリ』のメインロビーにて。 3階まで吹き抜けになった天井からは巨大なシャンデリアが下がり、磨き上げられた大理石の床は鏡のように光を反射している。 普段なら優雅な時間が流れるこの場所が、今はピリピリとした緊張感に包まれていた。 総支配人を筆頭に、各部門のトップがずらりと整列している。その中心に立つ隼人が、隣に控える小夜子に聞こえるだけの声でささやいた。「いいか。ローズベリー伯爵は、欧州で『ホテルの神』と呼ばれる男だ。彼が星をつければ、世界中の富裕層がこぞって押し寄せる。逆に酷評されれば……終わりだ」 隼人の喉仏がごくりと上下する。「アーク・リゾーツの社運がかかっている。……絶対に、粗相をするな」 小夜子は静かに頷いた。今日の小夜子は、淡い藤色の訪問着を着ている。帯の締め付けが背筋を伸ばしてくれていた。「承知いたしました。私は空気になりますので、ご安心ください」 隼人は小夜子を見てわずかに表情を緩めたが、すぐに厳しい経営者の顔に戻った。彼の手が、握り拳を作ったり開いたりしている。完璧主義者の彼にしては珍しく、緊張しているようだ。◇ ホテル玄関前の車寄せに、黒塗りのロングリムジンが滑り込んできた。ドアマンがうやうやしく扉を開ける。 現れたのは、仕立ての良いグレーのスーツに身を包んだ、小柄な老紳士だった。銀の鷲(わし)を象った握りの杖をつき、鋭い眼光でロビーを一瞥する。 ローズベリー伯爵だ。隼人が進み出た。「ようこそ、日本へ。心より歓迎いたします、閣下」 完璧な角度の最敬礼と、流暢(りゅうちょう)な英語。 ところが伯爵は隼人の差し出した手を握り返そうともせず、顔をしかめた。ハンカチで口元を覆う。「……空気が悪い」 第一声は、挨拶ですらなかった。「乾燥している。喉が張り付くようだ。君たちは私をミイラにするつもりか?」
last updateLast Updated : 2025-12-26
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「入った瞬間におもてなしの心が感じられない。これだから極東のホテルは……」 彼は杖を突き、イライラと歩き出した。 その時、総支配人が失敗を取り戻そうと一歩前に出た。手には、歓迎の意を込めた巨大な花束が抱えられている。情熱的な真っ赤なバラと大輪のダリアで作られた、豪華なブーケだ。「閣下! 当ホテルからの歓迎の印でございます。どうぞお納めくだ……」 総支配人の言葉は、最後まで続かなかった。花束を見た瞬間、伯爵の顔色が青ざめる。次いで激怒の赤に変わったからだ。 バシッ!! 乾いた音が響いた。伯爵が、杖で花束を払いのけたのだ。花束は床に叩きつけられ、赤い花弁が大理石の上に散乱した。「ひっ……!」 総支配人が悲鳴を上げて後ずさる。「野蛮な!」 伯爵が叫んだ。彼の体は怒りで震えている。「私の前に『血の色』を持ってくるなと言ったはずだ! 私への当てつけか!?」「も、申し訳ございません! 歓迎の色として、最高級の赤を……」「言い訳など聞きたくない! ……気分が悪い。部屋へ案内しろ!」 伯爵は総支配人をにらみつけると、足早にエレベーターホールへと向かっていった。後に残されたのは、無残に散らばった赤い花と、呆然と立ち尽くすスタッフたちだけ。 隼人は拳を固く握りしめ、震えていた。「……くそッ」 小声で吐き捨てる。「事前にリサーチしたはずだ。好き嫌いも、アレルギーも、枕の硬さの好みまで……。だが、赤が嫌いだなんて情報はどこにもなかったぞ」 完璧な準備が、理不尽な言い分によって崩れていく。(このままでは星どころか、「最低のホテル」というレッテルを貼られてしまう) 隼人の額に、焦りの汗がにじんでいた。 小夜子は、散らばった花弁の前にしゃがみ込んだ。一
last updateLast Updated : 2025-12-26
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 実家の書庫は、普段なら思い出したくない辛い記憶だった。でも今、隼人の役に立つ情報がそこにある。(ローズベリー伯爵。……待って。あの方のお母様は確か……) 小夜子は花弁をハンカチに包むと、立ち上がった。青ざめている隼人のそでを引く。「旦那様」「なんだ、今は忙しい。お前は部屋に……」「執務室へ戻りましょう。確認したいことがあります」 隼人は苛立ちながら振り返ったが、小夜子の目を見て言葉を呑み込んだ。そこにはいつもの控えめな様子とは違う、確信に満ちた光が宿っていたからだ。「心当たりがあるのか?」「はい。もしかしたら、あの方の怒りを鎮める鍵が見つかるかもしれません」 小夜子の言葉に隼人は一瞬ためらった後、短く頷いた。「……わかった。行くぞ」 2人は足早に裏口のスタッフ用通路へと向かった。嵐はまだ始まったばかりだ。 ◇  午後3時30分。アーク・リゾーツ本社・社長執務室は、張り詰めた空気の中で怒号が響いた。「なぜだ! なぜどの文献にも、彼が『赤嫌い』だなんて載っていない!」 隼人がデスクを叩きつけた。その拳の衝撃で、積み上げられた書類が崩れ落ちる。 秘書の工藤が悲鳴のような声を上げた。「申し訳ございません! 現地のコーディネーターにも再確認しましたが、『初耳だ』と……。バラの育種家としても有名な伯爵が、赤い花を嫌うなどあり得ないと」「現にあり得ているだろうが! 気まぐれか? それとも俺たちへの嫌がらせか?」「分かりません……。ですが、このままでは夕食会もボイコットされかねません」 隼人は頭を抱えた。苦り切った表情を浮かべている。論理とデータで武装してきた彼にとって、理由のわからない感情的な拒絶は、最も対処しがたい事態だった。 
last updateLast Updated : 2025-12-27
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 ハイヒールの音が遠ざかり、重い扉が閉ざされる。 ガシャリと鍵がかけられる音。 深夜の書庫は冷え切っていた。幼い小夜子は膝を抱える。空腹と頬の痛みに耐えながら、声を殺して泣いていた。『お母さん……。どうして死んじゃったの。こんな家、来たくなかったよ』 白河家の当主、清次郎の愛人の子として小夜子は生まれた。 小夜子の母は白河家の使用人。関係を迫られて断れなかったのだと、大人になってから噂に聞いた。 それでいて母が小夜子を身ごもると、父はあっさり捨てた。わずかな手切れ金だけを押し付けて、屋敷から追い出したのだ。 以降、小夜子は母と2人でひっそりと生きてきた。貧しかったけれど食うに困るほどではなく、温かな時間だった。 それが変わってしまったのは、小夜子が11歳の時。母が病死し、父は世間体だけを気にして小夜子を引き取った。 それからの生活はひどかった。義母は小夜子を徹底的に虐げて、父は無関心。1つ年上の義姉も意地悪ばかりしてきた……。 ふと、気配がした。書庫の中に音もなく老執事の藤堂が現れる。 彼は無言でタオルの包みと、小さな握り飯を差し出した。『……藤堂さん』 小夜子がタオルを開くと、中には氷が入っていた。ぶたれて熱を持った頬に当てると、冷たさが痛みを和らげてくれる。握り飯にかぶりつく小夜子を見下ろしながら、藤堂は厳格な顔つきで一冊のノートを広げた。『お嬢様。泣いている暇はありません。食べながらお聞きください』 彼は決して甘やかさない。同情する代わりに生き残るための武器を与えるのが、彼の流儀だった。『奥様のテストを乗り切るには、表面的な年号だけでは足りません。公式には載っていない彼らの「痛み」や「タブー」……即ち「裏の歴史」を頭に刻み込むのです』 藤堂の指が、ノートの手書きの文字を叩く。『相手の心の傷を知ること。それが、この理不尽な家で生き残る唯一の武器になります。さあ、復唱なさい』 
last updateLast Updated : 2025-12-27
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