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All Chapters of その魔法が解ける前に: Chapter 91 - Chapter 100

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第90話

「壱馬さんは強いですね」 思わず口にしてしまったその言葉は、空気の中に静かに溶けていった。 「強い?」 壱馬さんは少し驚いたように問い返す。 その声は柔らかいけれど、どこか戸惑いが混じっていた。自分を強いと呼ばれることに、慣れていないのだろうか。 「誰かの弱い所を見つけて弱いという方が簡単なのに、壱馬さんはそうしないから。その中にある強さを見つけてくれる」 私は視線を下に落としながら、言葉を紡いだ。 壱馬さんは私の弱さを否定せず、そこにある小さな強さを見つけてくれる。その優しさが、私には強さに見えた。 「俺はただ思ったことを言っただけだよ」 壱馬さんは少し照れたように…いや、照れ隠しの笑みというより、どこか不器用に自分を守ろうとしているように見えた。 「そんな言葉を選べるのは、強い人にしかできないことだと思います」 誰にでもできることじゃない。強さを見つけるのは、強い人じゃないとできない。 「俺は、強くなんかないよ。自分のことに精一杯で、誰かの弱さに触れた時どうしていいか分からなくなる」 壱馬さんの声は少し低く、苦しげだった。 言葉の端々に、過去の記憶を思い出しているような影が差していた。まるで後悔があるような、そんな表情だった。 強い人は、人一倍傷を抱えているのかもしれない。 「強いってことは、何も怖くないって事じゃないと思います。分からなくても、怖くても、誰かに手を伸ばせる人は強いです」 私は勇気を振り絞って言葉を返した。 壱馬さんは、私に手を伸ばしてくれた。その事実が、何よりの証拠だと思ったから。 「俺は…誰にも手なんて伸ばせなかったよ」 壱馬さんの声はかすかに震え
last updateLast Updated : 2026-03-15
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第91話

「えっと」 言葉が喉の奥で絡まってしまい、思わず口から漏れたのは曖昧な声だった。 壱馬さんの真剣な眼差しを前にすると、胸の奥が熱くなり、心臓が早鐘のように鳴り響く。 何かを返さなければと思うのに、頭の中は真っ白で、言葉が見つからない。 「言葉一つで心を乱されるのは、花澄だけだよ。本当に、どうしようもないぐらい好き」 耳に届いた瞬間、心臓が大きく跳ね、呼吸が乱れる。頬が一気に熱を帯び、視線を逸らそうとしても壱馬さんの声が頭から離れない。 たった二文字のその言葉が、どうしてこんなにも心を揺らすのだろう。 甘くて、切なくて、嬉しくて、苦しい。 まるで心臓を直接掴まれているように、鼓動が速くなるのを止められない。 「そ、そんなふうに思ってくださって、ありがとうございます」 心臓の鼓動が速すぎて、呼吸が浅くなる。頬が熱く、耳まで赤くなっているのが分かる。 私は、壱馬さんが思うほど大した人間じゃないのに。そんなふうに言ってもらえる資格なんてない。 「やっぱり…さっきの言葉取り消していい?」 壱馬さんの声は少し悪戯っぽくて、空気がふっと軽くなる。 「さっきの言葉?」 壱馬さんの言葉の意味を確かめたいのに、胸の奥がざわめいて落ち着かない。 彼の視線を受け止めるのが怖くて、けれど知りたい気持ちが勝ってしまう。 「病人を襲ったりしないって言葉」 その言葉に、思わず頬がさらに赤くなる。 頬の熱は病気
last updateLast Updated : 2026-03-16
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第92話

「残念」 壱馬さんはそう言って、どこか寂しげに微笑んだ。彼の言葉を軽く受け流せばいいのに、どうしても心に深く刺さってしまう。 熱のせいで身体はだるいはずなのに、壱馬さんの存在が近くにあるだけで、不思議と力が湧いてくる。 頬は熱で赤く染まり、心臓の鼓動は速すぎて落ち着かない。けれど、その高鳴りは不安ではなく、甘い期待に満ちていた。 熱のせいか、今なら言いたいことが言える気がした。 普段なら恥ずかしくて絶対に言えないことも、今は熱に浮かされているせいで、心の奥に隠していた想いが自然と表に出てきそうだった。 壱馬さんの瞳が真っ直ぐに私を見ていて、その視線に触れるたびに胸が甘く締め付けられる。怖いけれど、今なら言える。 言葉を選ぶ余裕もなく、ただ素直な気持ちが口から零れ落ちる。 「私の言葉一つで揺れてると仰いましたけど、私もそうです」 声は震えていた。けれど、心の奥から溢れ出す想いを止めることはできなかった。 壱馬さんが私の言葉で揺れてくれるように、私も彼の言葉に揺さぶられている。 「花澄も?」 壱馬さんの声が少し驚いたように響く。その響きに胸が甘く震え、心臓がさらに速く打ち始める。 「私も、壱馬さんの言葉にドキドキします」 勇気を振り絞って言葉を紡ぐ。 壱馬さんの言葉は、私にとってただの慰めじゃない。私の弱さも不器用さも受け止めたうえで、本質を見てくれて、優しい言葉をかけてくれる。
last updateLast Updated : 2026-03-16
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第93話

「んっ…」 まぶたをゆっくり持ち上げると、ぼんやりとした光が視界に広がった。まだ身体は重く、頭の奥に熱の余韻が残っているような感覚がある。 いつもなら、静かな部屋の空気だけが広がっていて、孤独を受け入れるしかないのに。 今日は違う。かすかに感じる人の気配が、胸の奥を甘く震わせる。 夢の続きなのか現実なのか分からないまま、私は小さく息を吐いた。 「あ、起きた?」 耳に届いた声は優しくて、安心を含んでいた。 起きたばかりでまだ意識は曖昧なのに、その声だけは鮮明に心に響いた。まるで夢の中から現実へと引き戻されるようで、けれどその現実が甘くて心地よい。 「壱馬さん、ずっと傍にいてくれたんですか?」 孤独に慣れていたはずなのに、壱馬さんがそばにいてくれることがあまりにも心強くて、確かめずにはいられなかった。 「起きた時、誰もそばにいなかったら寂しいかなって」 私のために…。 過去の記憶が、壱馬さんの言葉によって遠く霞んでいく。 誰かが自分の存在を思ってくれる、ただそれだけのことなのに、こんなにも胸の奥が満たされる。 「…ありがとうございます」 壱馬さんがいてくれることが奇跡のように思えて、ただその存在に救われている自分がいる。 「体調はどう?」 壱馬さんの声は柔らかく、心配が滲んでいた。 「元気です。熱もないみたいです」 そう答えながら、ふと記憶
last updateLast Updated : 2026-03-17
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第94話

「え?」壱馬さんの問いかけに思わず声が漏れる。何を指しているのか分からなくて、心が少しざわつく。けれどその表情は穏やかで、私を責めるものではなく、ただ不思議そうに見つめているだけ。その視線に安心しながらも、胸の奥では自分の言葉や態度がどう受け止められているのか気になって仕方がない。「何でもない」壱馬さんが何を隠したのか、本当にただの些細なことなのか、それとも私に言えない何かを抱えているのか。考えれば考えるほど、心がざわめいてしまう。「そう…ですか」何を隠したのか気になってしまう自分がいて、心の中で小さな波が立つ。それ以上追及することができない私は、弱い。「今日は安静にしてようね」その言葉は柔らかくて、まるで包み込むように響いた。「熱はもうないですし、大丈夫ですよ」そう答えながらも、心の奥では少しだけ甘えてみたい気持ちが芽生えていた。大丈夫だと言えば彼は安心するだろう。でも、彼が心配してくれることが嬉しくて、その優しさを手放したくないと思ってしまう。壱馬さんといれば、どんどん我儘になってしまう気がする。「駄目。俺の言うこと聞いて」強い響きなのに、そこには優しさが滲んでいた。命令のように聞こえるのに、私を守ろうとする気持ちが伝わってきて、胸が切なくなる。誰かに駄目だと言われて嬉しい気持ちになったのは、初めてだった。「何もしない日なんてなかったので、何をすればいいのか…」戸惑いが言葉になった。これまで休むことを知らず、常に何かをしてきたのに、今更休むなんて。「何もしないでいいんだよ。今日は頑張っちゃ駄目な日」頑張らなくてもいい、休んでいい。私にそんな事…。「私に、そんな事が可能でしょうか」休むことを知らない自分にとって、それは難しい挑戦だった。「それじゃあ、練習してみようよ」休むことを
last updateLast Updated : 2026-03-18
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第95話

「分かりました。えっと、まずは…」言葉を探すように口にした自分の声が、少し頼りない。休むことを練習するなんて初めてで、何をすればいいのか分からない。これまでずっと頑張ることしか知らなかったから。「うーん。とりあえず、もう一回寝る?」壱馬さんの提案はあまりにも自然で、肩の力が抜けてしまう。けれど、沢山眠ってしまったせいでけれど沢山眠ってしまったせいで、もう眠気は残っていない。眠れないことを伝えるのは少し申し訳なくて、彼の気遣いを無駄にしてしまうような気がして、心が揺れる。「私、沢山寝たので、もう眠れそうにありません」正直にそう答えながらも、心の奥では少しだけ甘えてみたい気持ちが芽生えていた。眠れなくても、彼と一緒に過ごす時間そのものが休息になるのではないかと、ふと考えてしまう。「俺と寝よう」その一言は、まるで心臓に触れるように甘く響いた。冗談なのか本気なのか…「え?」思わず声が漏れる。その視線は曖昧さを許さず、冗談の余地を残さないほど真摯で、私の心を静かに揺らしていく。「人の暖かさって、案外眠たくなるんだよ」人の温もりを感じながら眠ることなんて、これまで想像したこともなかった。そんな未来が本当にあるのだとしたら、どれほど幸せだろう。眠れないはずなのに、彼の言葉を聞いた途端、心がふわりと緩んで、まるで眠気が訪れるような錯覚さえ覚える。「病み上がりなので、風邪移っちゃうかもしれません」心配を口にしながらも、彼の隣にいることを拒みきれない自分がいる。「いいよ。移ったら移ったで」そんな簡単に言えてしまうのが、壱馬さんらしいと思った。私が心配していたことを、まるで些細なことのように受け止めてくれる。けれど、それはただの軽さではなく、私を安心させるための優しさなのだとすぐに分かった。「でも、二人で寝るには少し狭いかと」
last updateLast Updated : 2026-03-19
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第96話

「そういう問題じゃないです」 声を震わせながら否定する。近さを理由にされても、私の胸の奥で溢れている感情はそれだけでは片付けられない。 「もしかして、照れてるの?」 壱馬さんの言葉は柔らかく、からかうようでいて真剣さも滲んでいた。図星だから、胸の奥が大きく揺れる。 「そんなこと、ないです。距離が近いのでびっくりしただけで」 必死に否定する声は震えていて、自分でも説得力がないと分かっている。 近さに驚いたのは確かだけれど、それ以上に心が揺れているのを隠しきれない。 「それじゃあ、慣れたら大丈夫になる?」 壱馬さんの問いかけは優しくて、未来を照らすようだった。けれど、心の奥ではすぐに答えを出せずに揺れてしまう。 慣れたら大丈夫になるのだろうか?そもそも、私は人の温もりに、壱馬さんに慣れることができるのだろうか…。 「そう…ですね」 壱馬さんが隣にいてくれるなら、その未来はきっと甘く、優しく、そして愛おしいものになる。 その未来に、私がいれば、もっといいのだけれど。 「…良かった」 その言葉とともに浮かんだ壱馬さんの安堵の表情は、どうしてか胸の奥を締め付けた。 「壱馬さん?」 思わず問いかけてしまった。 彼の表情が少し気になって、胸の奥がざわめく。安堵の笑みを浮かべていたはずなのに、その奥にほんの少し影のようなものが見えた気がして 「嫌だと思われてるのかもって」 その告白は、私の心を強く揺らした。 彼がそんな不安を抱えていたなんて思いもしなかった。 胸が痛くて、切なくて、すぐに否定したくなる。 「嫌だなんて、そんなわけ
last updateLast Updated : 2026-03-20
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第97話

起きて冷蔵庫を開けると、そこにはほとんど何も残っていなかった。壱馬さんが目を覚ます前に、朝食の準備を整えておきたい。その思いが背中を押すように強くなり、私は急いで外へ出た。外の空気はまだ少し冷たく、頬を撫でる風が眠気を吹き飛ばす。必要な材料を買い揃え、袋を抱えて家へ戻る道を急ぐ。朝の街はまだ静かで、通り過ぎる人々はそれぞれの一日を始めていた。袋の中で食材が揺れる音が、私の鼓動と重なって響く。「花澄さん?」背後から呼び止められた瞬間、胸が大きく跳ねた。足が止まり、振り返るとそこに立っていたのは莉沙さんだった。朝の冷たい空気の中で彼女の声は少し弾んでいて、けれどどこかためらいも含んでいるように聞こえる。急いで戻ろうと焦っていた気持ちが、一瞬で別の緊張に変わっていく。「莉沙さん…?」思わず声が漏れる。彼女の笑みは柔らかいけれど、どこか複雑で、私の心を揺らす。偶然の再会にしては、彼女の視線は真っ直ぐすぎて、ただの挨拶ではないみたいに思えた。スーパーの袋を握る手に力が入り、言葉を探すように視線が揺れる。彼女の存在が、私の平穏を少しずつ揺らしていく。「やっぱり花澄さんだったんですね。偶然見かけて声かけたんですよ」その言葉に少し安堵しながらも、胸の奥は落ち着かない。偶然だと言われても、彼女の声にはどこか必死さが滲んでいた。「そうだったんですね」自然に返事をしたけれど、心の奥では緊張が続いていた。彼女の存在があまりにも強く響いてくる。「この前はデートの邪魔して、ごめんなさい」その言葉に、私は一瞬息を呑んだ。謝罪の響きは素直で、けれど同時に切なくて、胸に刺さる。彼女が気にしていたことを知って、慌てて首を振ろうとする。「邪魔だなんて、」否定の言葉を紡ごうとした瞬間、莉沙さんが重ねるように声を出す。「邪魔してました」「え?」問い返す声は震えていた。彼女の言葉の裏に隠された感情を確かめずにはいられない。「本当は、家に帰ろうとしてたんです。寂しいなんて言い訳して…邪魔、したかったんです」彼女の瞳は潤んでいて、まるで許しを乞うように揺れていた。「どうしてですか…?」問いかける声は小さく震えていた。答えを聞くのが怖いのに、確かめずにはいられない。「嫉妬したから」莉沙さんの告白は真っ直ぐで、痛いほど切なかった。胸の奥が締め付けられ
last updateLast Updated : 2026-03-21
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第98話

「相変わらず優しいんですね」その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少し熱くなった。優しいと言われることは、決して悪いことではない。けれど私にとっては、それは褒め言葉というよりも、自分の弱さを隠すための仮面のように感じられることが多かった。「自尊心が低いだけですよ」そう返した声は、少し硬くなっていた。優しさを否定するつもりはないけれど、それが自分の本質ではないと伝えたかった。「それは…あの時も、すみませんでした。ただの八つ当たりです」莉沙さんの声は震えていて、後悔が滲んでいた。「違うんです。確かに私、自分に自信を持てるものなんてないと思ってました」自分の胸の内をさらけ出すように言葉がこぼれる。ずっとそうだった。何をしても中途半端で、誰かに誇れるものなんてない。周囲と比べては自分を卑下するばかり。そんな日々が積み重なって、いつしか、自分には何もないという思い込みが心の奥に根を張ってしまった。その思い込みは、私の行動や言葉に影を落とし続けていた。自尊心が低いこと自体を自覚することもなく、私はこういう人間なんだと諦めていた。「そんなこと、」莉沙さんが否定しようとする声は優しかった。けれど私は首を振る。「でも、自信を持っていいって言ってくれたから、」その瞬間、胸の奥が温かくなる。壱馬さんの言葉を思い出すだけで、心が震える。自分に誇れるものなんてないとずっと思い込んでいたのに、彼は私にも特別なものがあると言ってくれた。私は、まだそんな風には思えなかった。自分を否定する癖はすぐには消えない。けれど、まずは自尊心の低さを認識することから始めようと思った。そしたらいつか、自尊心が低いだけで、本当は私にも誇れる何かあるんだと、そう思える気がするから。壱馬さんの言葉を信じてみたい。彼が見てくれた私を、私自身も信じられるようになりたい。「もしかして、かずくんが?」莉沙さんの問いか
last updateLast Updated : 2026-03-22
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第99話

「はい?」突然の呼びかけに、私は少し驚いて顔を上げた。莉沙さんの瞳は真っ直ぐで、何かを言い出そうとする気配が漂っていた。胸の奥がざわめき、次の言葉を待つ間に心臓が早鐘を打つ。「連絡先交換しませんか?」その提案に、思わず目を見開いた。予想していなかった言葉に、驚いた。彼女が私に連絡先を求めてくれるなんて。それは、これからも繋がりたいという意思の表れだった。「あ、はい」声が少し震えていた。スマートフォンを取り出す手がぎこちなく、指先が汗ばんでいるのが分かる。画面を開くと、指先がわずかに震えていて、タッチするたびに小さな緊張が胸を走る。莉沙さんがスマートフォンを差し出し、私の画面に表示されたQRコードを読み取る。たった一瞬の操作なのに、心の中では大きな意味を持っていた。「え〜綺麗な写真ですね」莉沙さんが私のプロフィール写真を見て、感嘆の声を漏らす。その瞬間、胸がくすぐったくなる。けれど、彼女の言葉は素直に嬉しかった。私のプロフィールの写真。それは私が大切にしている場所の一枚だった。「私の一番好きな場所なんです」自然と口元が緩み、言葉がこぼれる。「へー、ここら辺ですか?」「車で30分ぐらいのところで、近くに海があるんです」最近はその場所に行けていなかった。昔は、毎年家族旅行に出かけている間、私は家で留守番をしていて、その隙間の時間にひとりでそこへ足を運んでいた。潮風の匂いが頬を撫で、波の音が絶え間なく耳に届き、広がる空が心を包み込んでくれる。誰にも邪魔されず、誰にも見られず、ただ自分の心と向き合える時間。そこで深呼吸をすると、胸の奥に溜まっていた重さが少しずつほどけていくような気がした。あの場所に立つと生きていていいと思えるような、不思議な安心感があった。「ふーん。ま、何でもいいですけど、今度お茶しませんか?」さらり
last updateLast Updated : 2026-03-23
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