All Chapters of 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる: Chapter 171 - Chapter 180

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第171話

「律くん……今夜はここに居てくれないかな。最近、一人で寝るといつも悪夢を見るの。夜中に突然目が覚めて……すごく怖くて。でも、律くんが側にいてくれたら、きっと安心して眠れると思う。ねえ、お願い……」文香は甘ったるい声を出し、いかにも哀れっぽい瞳で縋りついてきた。「……分かった」律は小さく息を吐き、静かに頷いた。明日も絶対にリハビリを続けさせるためだ。そう割り切り、泊まっていくことを承諾した。たかが一晩付き添うくらい、どうということもない。「本当……?」まさか本当に頷いてくれるとは思っていなかったのか、文香は一瞬目を丸くした。実のところ、彼女にとってはただのお試しのつもりだったのだ。どうやらこの泣き落としはかなり効果があるらしい。それなら、明日もリハビリに行ってやる価値はある。文香はそう腹の底で計算しながらも、表向きは従順に微笑んでみせた。「ありがとう律くん。いつも優しくしてくれて嬉しい。私、もう寝るね」途端に素直な子供のように大人しくなり、文香は満足そうに目を閉じた。外であれだけ騒ぎ疲れたせいか、ベッドに横たわった文香は瞬く間に深い眠りに落ちた。彼女の寝息を確認した律は、静かに部屋を出てリビングへ向かった。手元のスマートフォンを操作し、紫音へメッセージを送る。【今夜は帰れそうにない。先に休んでいて】その頃、紫音は一人ベッドの中で幾度も寝返りを打っていた。二人は今頃どうしているのか、文香の興奮は冷めたのか。雑念が頭を離れず、どうしても眠りにつけない。そんな時に届いた通知。画面を覗き込んだ紫音は、彼が向こうに泊まるという事実に、隠しきれない動揺を覚えた。追って届いたメッセージには、事情が綴られていた。文香の精神状態が極めて不安定なこと。今夜付き添わなければ、明日のリハビリも拒絶されかねないこと。事情を察した紫音は、指先を動かした。【分かったわ。何か私に手伝えることがあれば、いつでも連絡して】あちらには今、律が必要なのだ。そう自分に言い聞かせ、物分かりの良い言葉を返す。リハビリは長期戦。これからも同じような夜が何度も訪れるだろう。そのたびに嫉妬していては、婚約する前に自分の心が折れてしまう。不毛な争いで二人の関係を壊したくない。今はただ、彼を信じて受け入れるしかなかった。【紫音、理解してくれてありがとう。婚
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第172話

律はそろそろ起こすべきだと判断した。今すぐ向かわなければ、今日のスケジュールが完全に潰れてしまう。それに、センターに着いてからも、彼女のことだからどうせまたゴネて時間を食う気だろう。使用人に起こされた文香は、露骨に不機嫌な顔をした。今にもヒステリーを起こしかけたその時、ドアの前に立つ律の姿に気づく。途端に、その表情がパッと明るくなった。「律くん!まだいてくれたのね。昨日はあなたがいてくれたおかげで、嫌な夢も見ないでぐっすり眠れたわ」彼がそばにいてくれるだけで、何もかもを手に入れたような無敵の幸福感に包まれる。「身支度をしておいで。昼食を済ませたら、一緒にリハビリセンターへ行こう」律が淡々と告げると、文香は縋るような声を上げた。「律くん、今日はもう行かなくていいって、昨日言ってくれたじゃない? お願い、お休みにさせて?」心の底から行きたくなかった。目覚めた瞬間からあんな過酷な現実に引き戻されるなんて、絶対に嫌だ。強い拒絶感が彼女を支配していた。「昨日の夜、頭を冷やしてよく考えたはずだ。リハビリは続けなきゃならない。君なら一日も早く良くなると信じているよ。今日も私が付いているから」律はすでに覚悟を決めていた。この治療期間が文香にとって一番つらい試練になることも理解している。時間がある限り自分が付き添い、なんとしてでも彼女にリハビリを乗り越えさせるつもりだった。「本当……?」文香は耳を疑った。今までいくら泣いて縋っても、律がこれほど親身になってくれたことはない。まるで別人のような彼の態度に、戸惑いながらも期待が膨らんでいく。「ああ、本当だ。君が逃げずにリハビリと向き合うなら、私は最後まで付き添うよ」律の決意は固かった。何があっても、彼女の治療だけは終わらせる。どんな時間を削っても、目の前の「責任」に区切りをつけなければ、紫音との未来はないと確信していた。「律くん……今すぐ行きましょう!あなたがそばにいてくれるなら、どんなことでも耐えられる気がする。……見ていてね。リハビリがどれほど残酷で苦しいものか、あなたにも知ってほしいの」文香の顔に、心からの喜びが広がる。二人は屋敷を後にし、リハビリセンターへと向かった。センターには、律が事前に手配を済ませていた。到着するとすぐにVIP専用の個室へと案内され、常駐のスタッフが
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第173話

突然、持っていた律のスマホが震えた。画面には紫音の名前が表示されている。「もしもし、紫音?」「文香さんのこと、どうなった?」電話越しの声には、隠しきれない不安が滲んでいた。昨夜の騒動のせいで、彼女もまたろくに眠れず、気になって仕方なかったのだろう。「概ね落ち着いたよ。今、リハビリセンターで訓練を始めたところだ。ただ……これからのリハビリには、私が毎回付き添うと彼女に約束した」「……毎回?」「そうしないと、文香の精神がもたないんだ。リハビリの苦痛に到底耐えられない」毎回。リハビリという長く険しい道のりを、完治するまでずっと。それはつまり、これから先ずっと二人が一緒に過ごすということなのだろうか。胸の奥に、じわじわと冷たい泥のような不快感が広がっていく。あまりにも理不尽だ。不公平だ。けれど、反対などできるはずがない。ここで律が突き放せば、文香は完全にリハビリを投げ出すだろう。そうなれば、私と律は一生彼女への罪悪感に縛られたままだ。「……分かった。今センターにいるんでしょう?文香さんのそばにいてあげて。過酷な訓練で苦しんでいるはずだから」紫音は早口で続けた。「私、もうスタジオに着いたから。仕事があるから切るね」逃げるように通話ボタンを押す。頭では律の立場を理解しているつもりでも、どうしてもモヤモヤとした感情が拭えなかった。スタジオに到着してひと息ついていると、今度は母の琴音から電話がかかってきた。「もしもし、紫音?今ね、朱美さんと一緒にあなたたちの婚約パーティーの準備をしているところなの。もう素晴らしい会場を予約したわよ。景色が綺麗で、とってもロマンチックな場所なの!あなたたちが喜ぶようなサプライズもたくさん用意しているから、楽しみにしていてね」弾むような母の明るい声に、紫音の重かった心もいくらかやわらいだ。すると、電話の向こうでゴソゴソと音がして、今度は律の母である朱美の声が聞こえてきた。どうやら一緒にいるらしい。「紫音さん?最近、二人ともお家で忙しくしているのかしら。時間があるときにでも、律と一緒に顔を見せにいらっしゃいな。両家揃って食事でもしましょう。お母様とお式のことをいろいろ進めているんだけど、やっぱり主役の二人の意見も聞きたいからね」二人の母親は婚約の準備にすっかり熱中していて、こうして頻繁に連絡をくれていた
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第174話

琴音がため息まじりに答えると、朱美はたちまち眉を吊り上げた。「律のバカ息子、きっと紫音さんを苛めたんだわ!でなきゃ、あんな沈んだ声になるはずないもの。ああもう、準備なんかしている場合じゃないわね。今すぐ様子を見に行きましょう!」未来の嫁である紫音を実の娘以上に溺愛している朱美は、居ても立ってもいられず立ち上がった。「えっ、今から行くの?」琴音は少し戸惑った。いくらなんでも大げさすぎるし、何の連絡もなしに突然押し掛けては、かえって迷惑になるのではないか。若い二人のことだ、一緒に暮らし始めてまだ日も浅いのだから、ちょっとした衝突や行き違いなどあって当然だ。親がそこまでしゃしゃり出るのはやりすぎではないか、と琴音は内心で苦笑していた。「気にしすぎじゃないかしら。若い二人のことだから、何かあっても自分たちで解決するでしょうし。きっと仕事が忙しくて、少し参っているだけよ。親がしゃしゃり出るのは野暮ってものだわ」琴音は穏やかになだめるように言った。「それに、律さんのことは私も小さい頃から見ているけれど、本当に責任感の強い子じゃない。そうでなきゃ、大切な娘を安心して任せたりしないわ。あの律さんが紫音をいじめるなんてあり得ないし、何か問題があってもちゃんと彼が対処してくれるはずよ」一度つらい別れを経験している娘が、これ以上傷つくような真似はさせたくない。だからこそ、今度の相手は琴音自身が厳しい目で選び抜いたのだ。彼なら絶対に間違いないと、固く信じていた。「いいえ、それでも放っておけないわ!」しかし、朱美は頑として引かなかった。「やっぱり家に行って、何があったのか確かめなきゃ!紫音さんは芯の強い子だもの。仕事のトラブルくらいなら自分でなんとかできるはずだし、たとえ壁にぶつかったとしても、あんなに思い詰めた声を出したりしないわ」「そうと決まれば、今すぐうちの運転手を呼ぶわね。二人にはしばらく顔を見せていなかったからいい機会だわ。そうだ、一度うちに戻って、お義母様も乗せて行きましょう。お義母様ったら毎日のように二人に会いたがっているし、何より紫音さんのことが可愛くて仕方ないみたいだから!」言うが早いか、朱美は瞬く間にすべての段取りを整えてしまった。せっかく婚約パーティーの買い出しで街に来ているのに、今の彼女にとってはどんな予定よりも紫音の一大事のほ
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第175話

それを聞いた朱美は、紫音の沈んだ声の原因を一瞬で悟った。間違いなく、あの女だ。どんな卑怯な手を使って律を引き留めたのかは知らないが、手段を選ばず付き纏っているに違いない。「やっぱりあの女ね!たしかに息子の命を救ってくれた恩はあるわよ。でも、律はこの数年間であの子に十分すぎるほど償ってきたじゃない。どうしていつまでも付き纏うの!? 律はもうすぐ婚約する身なのよ。あの女には最低限の遠慮というものがないの!?」朱美の怒りは一気に爆発した。「あの女の浅ましい考えなんか、とっくにお見通しよ。律のことが好きで、自分のそばに縛り付けておきたいだけでしょ。でも律は、あの子のことが好きでも何でもないわ。少しでも気があるなら、とっくの昔に結ばれているはずだもの。だいたい、あの時あの子が律に執拗に付き纏って追い回さなきゃ、あんな事故だって起きなかったんだから!」『文香』という名前を聞いただけでも虫酸が走るのか、朱美はあからさまに嫌悪感を露わにし、語気を荒げてまくしたてた。「まあまあ、もう起きてしまったことを今更言っても仕方ないでしょう」激昂する朱美を、志津が穏やかな声でたしなめた。「律があの人の世話を焼くのは、責任感が強いからこそ。それはあの子の長所でもあるわ。もし見捨ててしまえば、あの子は一生罪悪感に苛まれて生きていくことになる。心になんのわだかまりもなく紫音さんと結ばれるためには、必要なことなのよ。……紫音さんには少し可哀想な思いをさせてしまうけれどね」志津は感情的にならず、常に客観的な立場で物事を見極めていた。義理堅く、何に対しても責任を取ろうとする律の気質は、この祖母譲りでもあった。「志津様のおっしゃる通りね」琴音も深く頷き、朱美の方へと向き直った。「紫音だって頭では理解しているはずよ。婚約する前から分かっていた事情だし、二人で乗り越えなきゃならない壁でしょうね。もし紫音が逆の立場だったとしても、律さんと同じようにすると思うわ。……もしこれで二人がすれ違ってしまっているのなら、親が変に口出しするより、まずは本人同士でしっかり話し合わせた方がいいわよ」諭すように言いながらも、琴音は朱美の手を優しく握った。「でも、朱美さん。あなたがうちの娘のためにそこまで本気で怒ってくれたこと、本当に嬉しかったわ。あの子にこんなにも思いやりのあるお義母
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第176話

突然の母たちの襲来に、律は頭を抱えた。今すぐにでも飛んで帰りたいのは山々だが、文香のリハビリはまだ半分しか終わっていない。ここで自分が姿を消せば、彼女がまた激しく取り乱すのは目に見えていた。それに、あの母たちがすぐに帰るとも思えない。こちらの治療を最後まで見届けてからでも、十分間に合うだろう。律はそう判断し、センターに留まることにした。一方、紫音は帰りの車中で重いため息をついていた。あの三人を一人で相手にするなんて、プレッシャーが大きすぎる。紫音はたまらず、律にメッセージを送った。【朱美さんたちが家に来ているの。どうしよう】すぐに律から返信が来た。【君は先に帰っていて。こっちが片付き次第、私もすぐに戻るから。母さんたちに何か聞かれたら、誤魔化さずに包み隠さず話してくれて構わないよ。どっちみち隠し通せることじゃないし、私自身、やましいことをしているつもりもないからね】律の文面は堂々としたものだったが、彼は母・朱美の苛烈な性格を誰よりもよく分かっていた。もし本気で怒らせれば、文香の世話を絶対に許してくれないばかりか、最悪の場合「お前は一歩も外に出るな」と部屋に軟禁されかねない。【分かったわ】紫音は指を動かし、返信を返す。【家のみんなには私からうまく説明しておく。でも、私から文香さんのことを告げ口したわけじゃないからね。どうしてこうなったのか、本当に分からないんだけど……】スマホを握りしめたまま、紫音は困惑していた。本当に自分からは何も言っていないのに、なぜ突然、三人が揃って家に押しかけてきたのか。やがて車が家に到着した。リビングに入ると、そこには見慣れた三人が並んで座っている。「志津様、朱美さん、お母さん!どうして急に三人揃って?来るなら連絡してくれればよかったのに。私、急いでスタジオから戻ってきたんですよ」紫音は明るい声を出し、ひきつりそうになる頬を必死に引き上げて愛想笑いを作った。だがその胸の内は、ただならぬ緊張感でいっぱいだった。「紫音さん。私ね、今日電話でお話しした時から、あなたが無理して強がっているんじゃないかって心配でたまらなかったのよ。また律に悲しい思いをさせられたんじゃない?あの女のせいでしょう!」朱美は身を切られるような表情で、紫音の手をぎゅっと握りしめた。「朱美さん、本当に違うんです。律は私にと
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第177話

常に客観的で道理をわきまえている志津から見ても、今は二人の絆を確固たるものにすることが一番の解決策に思えた。「それで、律はいつ戻ってくるの?まさかまだ、あちらに付き添っているのかしら」帰ってこない孫の痛いほどの生真面目さを思い浮かべながら、志津は小さく嘆息した。「文香さんはリハビリを始めたばかりですから。あの訓練がどれほど過酷で、本人にとって苦痛なものかは理解しているつもりです。だから、付き添いが必要なのも分かります」紫音は穏やかに、けれど毅然とした態度で言葉を継いだ。「皆様が私のために駆けつけてくださったこと、本当に感謝しています。でも、どうか心配しないで。私たちの絆は、誰かにかき乱されるほど脆いものではありませんから」その言葉を聞いて、志津は深く頷いた。若くしてこれほど思慮深く、物事の本質を見抜ける女性が孫の伴侶になることを、彼女は心から喜ばしく思った。「紫音さんの言う通りね。互いを信じる心さえあれば、どんな邪魔が入っても二人の仲が壊れることはないわ。……まだ出会って日は浅いかもしれないけれど、これから時間をかけて、さらに強い絆を育んでいけばいい。おばあちゃんは、あなたたちの幸せを何より願っているわよ」来るまでは二人の仲を危ぶんでいた志津だったが、紫音の堂々とした振る舞いを見て、すっかり安心したようだった。これほど聡明で器の大きな孫嫁を持てることは、家にとっても誇りである。「ありがとうございます、志津様」紫音が微笑を返したその時、律が帰宅した。彼は家族が揃っていることを見越し、老舗の料理店に手配していた豪勢な食事を携えていた。「律!ようやく帰ってきたわね。私たちがどれだけ待ったと思っているの?皆、あなたの不甲斐なさを心配して集まったのよ」朱美は息子を見るなり、堰を切ったようにまくしたてた。「いい?その女のリハビリに付き添うことに、私は文句なんて言わないわ。でもね、それを理由に紫音さんを不安にさせたり、ないがしろにするようなことだけは、絶対に許さないんだからね!」午前中から紫音を案じていた朱美の怒りは、まだ収まる気配がなかった。彼女にとって、今や紫音は誰よりも守るべき大切な存在なのだ。「母さん。文香の件は……皆さんもご存知の通りです。僕の望みは、彼女に一日も早く回復してもらうことだけです。だからこそ、連日あの
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第178話

表面上はなごやかな言葉だったが、律にはすべてお見通しだった。婚約の相談など建前だ。電話一本で済むような話を、わざわざ親たちが揃ってやってくるはずがない。彼女たちの真の目的は、自分が文香に過度に肩入れしていないかを牽制し、状況を問いただすことに他ならない。そして、祖母の志津がここに来たのも、自分たちの様子を見るだけでなく、やはり文香の件が気がかりだったからだろう。あの一件以来、志津は折に触れて文香の影を案じ、律にかわって何度も埋め合わせをしようとしてきた。少しでも孫の重荷を取り除こうと、手を尽くしてくれていたのだ。だが、一族全員がどれほど尽力しようとも、この何年もの間、誰もあの事故の呪縛から完全に逃れられた者はいない。文香の異常な執念が続く限り、真の意味で過去を清算することはできないのだ。「お母さん、朱美さん、志津様。今日はこのまま、ゆっくりうちで休んでいってくださいね。色々と手配はこちらでしますから。……でも、次に来るときは絶対に前もって連絡してくださいよ?何の準備もできなくて、本当に慌てたんから」紫音は苦笑交じりに小さく首を横に振りながらも、胸の奥にじんわりと温かい感情が広がっていくのを感じていた。あの三人がどれほど自分を大切に扱おうとしてくれているかが、今日の嵐のような急襲で痛いほど伝わってきたのだ。「無条件に味方になり、守ってもらえる」という感覚は、これまでの彼女の人生で一度も経験したことのないものだった。目には見えないけれど、何にも代えがたい深い安心感が紫音を包み込んでいた。思えば、元婚約者の清也と共にいた頃も、二人の間には幾度となく揉め事が起きていた。だが、あの頃の紫音はいつも自分の感情を無理やり飲み込み、「清也のためだから」と自分に言い聞かせて妥協ばかりしていたのだ。波風を立てまいと、ただひたすらに耐えてやり過ごすしかなかった。あの当時、清也が心からの謝罪を口にしたことなど本当に一度たりともなかった。明らかに彼に非がある場合でも、本人は自分が間違っているなどと微塵も思っていなかったからだ。律の家族の温かさに触れた今、改めて過去を振り返ってみると、つくづく自分が愚かだったと思えてならない。どうしてあんな価値のない男の機嫌をとるために、青春の貴重な時間を何年も無駄にしてしまったのだろうか。「食事の用意が整いました。さあ、一緒に
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第179話

「文香さん、最近はリハビリに励んでいるそうね。経過はどう?少しは良くなっているかしら。あんなに過酷なもの、相当な苦労をしているんでしょうね」志津はしごく真面目な顔で、心からの言葉をかけた。一日も早く彼女が自分の足で立てるようになることを、誰よりも願っているのだ。「でも、諦めちゃダメよ。努力は決して裏切らないわ。何があっても、投げ出さずに踏ん張るのよ」「……実は、何度も挫けそうになりました。痛くて痛くて、仕方がなくて。ずっと感覚のなかった足が、急に激痛に襲われるなんて耐えられなくて……」しおらしく俯き、文香は言葉を継いだ。「でも、律くんがずっと傍で励ましてくれるから頑張れるんです。私が何かあれば、彼はいつだって真っ先に駆けつけてくれる。律くんがいてくれるだけで、心から安心できるんです」幸せを噛みしめるような文香の声は、不自然なほど居間に響いた。わざと周囲に聞かせ、自分と律の親密さを誇示しているのは明白だった。「ええ。何かあれば律を頼ればいいわ」志津は穏やかに頷き、釘を刺すように言葉を添えた。「ただ、最近は会社も彼に一任していますし、とにかく多忙な身です。思うように動けないこともあるでしょうから、そこは察してあげてね。何より、二人はもうすぐ婚約するんですもの。準備もあって、今後はさらに慌ただしくなるはずよ」志津はあえて、紫音と律の婚約を強調した。親密なのは結構だが、節度を守れという警告だ。「どうしても心細い時は、私に連絡をちょうだい。私はそこまで動けないけれど、代わりに誰か動ける人を探して手配してあげるから」志津の言葉は、文香にとっての「律という唯一の盾」を、優しく、しかし確実に剥ぎ取っていくものだった。文香の瞳の奥に、一瞬だけ絶望と怒りが閃いた。志津たちが今日わざわざ集まっていたのは、婚約の準備を進めるため。その事実が、彼女の心を冷ややかに凍りつかせた。どうにかして居座ってやりたいという衝動が湧き上がるが、露骨な態度はとれない。ここで拝島家の機嫌を損ねてしまえば、己の居場所を完全に失いかねないからだ。「志津様……私だって、本当は律くんにご迷惑なんてかけたくないんです。お仕事がお忙しいのも重々承知しています。でも、絶望に押し潰されそうで、自分でもどうにもならなくなる時があって……」文香は涙ぐむと、いかにも可哀想な被害者を演
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第180話

孫の立場を守るため、高齢の志津がわざわざ頭を下げて、文香の機嫌をとっているのだ。その光景を黙って見つめながら、律はひそかに胸を痛めていた。過去の因縁は、彼自身の手で完全に清算すべきものだ。老いた祖母を巻き込み、あんなにも下手に出させるなんて、律の本意では断じてなかった。「志津様、そんなにお気を使わないでください。あの時は私が勝手にやったことですし、律くんを恨んだことなんて一度もありません。私たち二人の間に、借りなんてものはないんです。ただ……本当のお兄ちゃんみたいに慕っているだけで。だから何かあると、つい真っ先に頼ってしまうんです。傍にいてくれるとすごく安心できるからで、昔のことなんて関係ありませんわ。どうかお気になさらないでくださいね。もう過ぎたことですから」恬淡とした態度を装い、文香は淀みなく言葉を並べる。だが、あの『命を救った恩人』という絶対的な盾がなければ、拝島家の面々を前にここまで傍若無人に振る舞えるはずがないのだ。「文香さん。ちょっとこっちへいらっしゃい。二人きりでお話ししたいことがあるの」これ以上は見ていられないと、とうとう朱美が冷たく言い放った。この女が上がり込んでからというもの、延々と続く志津とのやり取りを聞かされるばかりで、他の者は口を挟む余裕すらない。見え透いたアピールを繰り返すだけの彼女の身勝手な態度に、朱美の腹の虫は完全に収まりがつかなくなっていた。「母さん」律が思わず声を上げた。母親の激しい性格を熟知しているからこそ、何を言い出すか痛いほど分かっていた。二人を突き合わせるわけにはいかない。だが、朱美は「止めるな」と鋭い視線で息子を射竦めた。一度火がついた彼女を止められる者など、この場には誰もいない。紫音もまた、事を荒立てることは望んでいなかった。朱美が自分のために怒ってくれているのは、痛いほどよく分かる。それでも、あえてここで露骨な直接対決をする必要はないのではないかと、内心気が気ではなかった。一方の文香は、おくびにも出さず平然としていた。怯える素振りも見せず、言われるがままに朱美の後に続いて客間へと入っていく。扉が閉まるなり、朱美は単刀直入に切り出した。「文香さん。あなたがうちの息子の命を救ってくれたのは事実よ。でもね、律だってこの数年間、あなたに対しては決して出し惜しみすることなく、する
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