復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました のすべてのチャプター: チャプター 91 - チャプター 100

131 チャプター

第91話 和解への第一歩⑥

 暗がりから声が降ってきた瞬間、心臓が早鐘を打った。 「……どこに行ってた」  壁に背を預けた影が、ゆらりと輪郭を現す。  湊だった。  シャワーを浴びたばかりなのだろう。濡れた髪の毛先から、雫が鎖骨へと滑り落ちている。はだけたシャツの隙間から、湿った石鹸の匂いと、彼自身の香りが漂ってきた。  逆光で表情は読み取れない。けれど、肌を刺すようなビリビリとした気配が、彼の苛立ちを雄弁に物語っていた。 「……湊さん」 「部屋に戻ったら、もぬけの殻だ。……こんな時間まで、どこほっつき歩いてたんだよ」  低く、地を這うような声。  疑っている。  私がまた勝手な真似をしたのではないか。あるいは、この屋敷の誰かと──たとえば征司と、密会でもしていたのではないかと。  以前なら、この一方的な束縛に嚙みついていたはずだ。 『信用できないの』と、彼を睨み返していただろう。  けれど今は、向けられた嫉妬の棘さえ、酷く愛おしい。  それは彼が私を失うまいと足搔いている、不器用な証だったから。 「……ごめん。ちょっとなかなか寝付けなくて」  息を吐くように、嘘をつく。  でも、それは志保さんとの約束を守るための、優しい嘘。 「喉が渇いてお水を飲みに行ってたの。……それと、少し考え事」 「考え事?」  湊が一歩、足を踏み出す。  夜気に冷やされたムスクの香りが、ふわりと鼻先を掠めた。 「……お前のことだ。また余計なお節介を焼こうとしてるんじゃないだろうな」  鋭い。  私の性分など、とうに見抜かれている。 「ううん。……ただ、あなたのことを考えてた」  逃げずに歩み寄り、シャツ越しに彼の胸へ掌を押し当てる。  薄い布一枚を隔てて、微かに高い体温と、乱れた鼓動が伝わってきた。 「湊さんが……ここまで一人で、どうやって立ってきたのかって。……すごく、大変だったろうなって」  掌の下で、筋肉が強張るのがわかった。  彼は私の顔を覗き込む。  暗い瞳が、私の真意を探るように揺らめいた。 「……何か、聞いたのか」
last update最終更新日 : 2026-02-03
続きを読む

第92話 和解への第一歩⑦

「ううん。何も」  首を横に振る。 「ただ……肌で感じただけ。この家の空気は、冷たくて重いから。……ここでずっと息をしていくのは、寂しかっただろうなって」  湊は、短く息を吐き出した。  自嘲か、あるいは諦念か。 「……慣れればどうということはない。ここは戦場だ。……寂しさなんて感情は、邪魔になるだけだ」  強がりだ。  八歳のあの日から積み重ね、塗り固めてきた分厚い鎧。 「でも、今は私がいる」  背伸びをして、湿った首筋に腕を回す。 「ここが戦場でも……私があなたの味方になる。……武器にはなれないかもしれないけど、あなたが傷ついた時に帰る場所にはなれるから」 「……朱里」 「だから……もう一人で震えなくていいの」  湊の瞳が、僅かに潤んだように見えた。  次の瞬間、腰を引き寄せられ、肩口に熱い額が押し付けられる。  ずしりとした質量。  彼が背負ってきたものの重さが、そのまま私の身体にのしかかってくるようだった。 「……お前は、本当に物好きだな」  くぐもった声が、鎖骨に響く。 「こんな……欠陥だらけの男の、どこがいい」 「全部よ」  子供をあやすように、湿り気を帯びた髪を指で梳く。 「強がりなところも、不器用なところも、寂しがり屋なところも。……全部ひっくるめて、私が選んだ人だから」  湊は何も言わなかった。  ただ、骨が軋むほどの強さで私を抱きしめる。  痛いほどの抱擁。  それは言葉にならない感謝であり、「行くな」という切実な懇願だった。  ふと、廊下の奥で気配が揺れた。  湊の背中越しに目をやると、闇の中に人影が佇んでいる。  志保さんだった。  彼女は距離を保ったまま、抱き合う私たちをじっと見つめている。  暗くて表情までは見えない。けれど、その纏う空気が凪いでいることだけはわかった。  ──見ていてください、お義母さん。  声に出さず、唇だけで語りかける。  ──あなたが命がけで守ってきたこの人を……今度は私が守ります。あなたに代わって、いっぱい愛しますから。  志保さんの影が、一度だけ小さく頷いたように見えた。  やがてその気配は、音もなく闇の奥へと溶けていく。  まるで、自分の役目は終わったのだと告げるように。 「……寒いな。部屋に戻るぞ」  湊が顔を上げ、私の手首を掴む
last update最終更新日 : 2026-02-03
続きを読む

第93話 嵐の翌朝と、ほどけない腕①

 まどろみの中で、肌に吸い付くような熱を感じていた。 ずっしりと重い。けれど、それは決して不快な重みではなかった。むしろ、その質量と、全身を隙間なく包み込む高い体温が、深い安心感となって意識をゆっくりと現実へと浮上させていく。 重い瞼を押し上げると、視界いっぱいに見慣れた男の寝顔があった。 九龍湊。 インペリアル・ドラゴン・ホテルの若きトップであり、私の雇い主。そして今は、紙切れだけの契約を書き換えて、なし崩し的に恋人ごっこを始めたばかりの――不器用で愛おしい、私の婚約者。「……ん」 わずかに身じろぎした瞬間だった。 腰を抱きすくめていた腕に、ギリリと力がこもった。 まるで指の間からこぼれ落ちる砂を、必死に繋ぎ止めようとするような、切実で痛いほどの強さだった。「……どこに行くんだ」 耳元で、寝起き特有の低く掠れた声が響く。鼓膜を直接震わせるようなその甘い響きに、背筋がゾクリと痺れた。 あの日、嵐のような激情に突き動かされて一線を越えてから、数日が過ぎた。 昨夜もまた、互いの孤独を埋め尽くすように何度も肌を重ねた。その熱が、まだ指先に、肌の奥に残っているような気がした。「どこにも行かないよ。……おはよう、湊」 顔を覗き込んで微笑むと、湊はようやく薄く目を開けた。 昨夜、獣のように鋭く私を貫いたその瞳は、今は凪いだ海のように静まり返っている。けれどその奥には、どこか母親の姿を探す迷子のような、追い詰められた色が滲んでいた。「……おはよう」 彼は確かめるように、私の額、目元、そして唇へと、何度も口づけを落としていく。 挨拶のような軽いものではない。唇の端を食み、舌先で形をなぞり、私の吐息のひとつまで吸い上げようとする、執拗で情の深い口づけだ。 カーテンの隙間から差し込む朝の光を浴びながら、昨夜の火照りがじわりと体の奥で燻りだす。 彼自身が設けた『仕事以外での接触禁止』という冷たいルールは、あの一件以来、跡形もなく崩れ去っ
last update最終更新日 : 2026-02-04
続きを読む

第94話 嵐の翌朝と、ほどけない腕②

 吸い付くような手のひらの熱に、小さく息を呑む。「……休むか」「えっ? だめだよ、社長がそんなことしたら」「僕がルールだ。……それに、昨日の今日だ。お前だって疲れてるだろう」 彼の指先が、私の首筋に残った赤い痕を愛おしそうになぞった。昨夜、彼自身が刻みつけた、独占の印だ。「……足も、まだ痛むんじゃないか?」 甘すぎるほどの気遣いは嬉しい。けれど、ここで流されてしまったら、本当にこの甘い泥沼から戻れなくなる気がした。 それに、私の胸には重い小石が引っかかっている。 昨夜、温室で知ってしまった志保さんの秘密。 湊はまだ、何も知らない。彼が憎んでいる継母・志保さんが、実はあえて悪役を演じていることも、本当は誰よりも彼の幸せを願っていることも。 私は彼女と約束したのだ。秘密を守ること。そして、いつか二人を繋ぎ直すことを。 この「隠し事」を抱えたまま、彼の混じりけのない純粋な愛情を受け止めることに、胸の奥がちくりと罪悪感で痛んだ。「……大丈夫。仕事をしてたほうが気が紛れるから。それに、私もサロンに行って週末の予約を確認しなきゃ」 無理に体を引き剥がそうとすると、湊は不服そうに眉を寄せ、ようやく拘束を解いた。 けれど、それは自由への解放ではなかった。「わかった。……なら、支度をしろ。一緒に出るぞ」「え?」「サロンへは行かせない」 湊はベッドから降りるなり、有無を言わさず私をひょいと抱き上げた。「きゃっ!? ちょっと、何!?」「歩かなくていい」「自分で歩けるってば! 下ろして!」「足を使わせたくないんだ。……シャワーも一緒だ」「はあ!? そんなの無理だって!」 抵抗も虚しく、私はそのまま広いバスルームへと連れ去られた。 ガラス張りのシャワーブースの中で、湊は私の体を丁寧に洗っていく。まるで壊れやすいガラス細工を扱う
last update最終更新日 : 2026-02-04
続きを読む

第95話 嵐の翌朝と、ほどけない腕③

 彼はドライヤーのスイッチを切り、鏡越しにじっと見つめてきた。その瞳には、拒絶を許さない強い光と、それ以上に深い不安が揺らめいている。「……会社に連れて行く」「はあ!? 会社って……CEO室に?」「そうだ」「無理だよ! 私がいたら邪魔だし、社員の人たちだってどう思うか。そんなの公私混同すぎて……」「困らせはしない。誰にも文句は言わせないからな」 湊の目が、すうっと細められた。「……離れたくないんだ」 彼は私の手を力強く握りしめ、自分の頬に押し当てた。 少し冷えた彼の肌が、私の手の温もりを貪るように求めている。「お前が視界から消えると……不安で、おかしくなりそうなんだ」「湊……」「征司がまた現れるかもしれない。……他の男が、お前に触れるかもしれない。そう考えると、頭がどうにかなりそうなんだ」 その声は、かすかに震えていた。 トップとしての余裕などどこにもない、愛を失うことを恐れる一人の男の切実な告白だった。 昨夜の事件があったばかりだ。情緒が不安定になるのも無理はない。 私はため息をつき、彼の手を優しく握り返した。最初から、私に拒否権なんてなかったのだ。 この人を安心させられるなら、多少の非常識も受け入れるしかない。「……わかったよ。お供します、ボス」「……いい子だ」 安堵したように口角を上げると、彼は再び私の唇を塞いだ。 甘く、深いキス。 それは愛の言葉よりも重く、私を縛り付ける柔らかな鎖のようだった。 ◇ インペリアル・ドラゴン・ホテルの最上階にあるCEO執務室。 東京の街並みを足元に収めるその部屋は、まさに天空の城だった。 重厚な扉を開け、湊と共に足を踏み入れた瞬間、秘書たちの顔が驚きで固まった
last update最終更新日 : 2026-02-04
続きを読む

第96話 嵐の翌朝と、ほどけない腕④

「は、はい。ただちにご用意します!」 秘書たちがバタバタと動き出す。 湊は私の手を引き、部屋の真ん中に鎮座する巨大なマホガニーのデスクへと向かった。「ここにいろ」 彼は自分の椅子のすぐ横に、上質な椅子を並べさせた。 その距離、わずか五十センチほど。手を伸ばさずとも、互いの吐息が聞こえる近さだ。「……さすがに近すぎない?」「これでも遠いくらいだ」 湊は不満げに鼻を鳴らすと、さっそくデスクに向かって書類を広げ始めた。 仕事モードに入った彼は、瞬時に「冷徹なCEO」の顔に戻った。 次々と書類に目を通し、鋭い判断を下していく。電話で指示を飛ばし、流暢な英語で交渉を進めるその横顔は、知的で、近寄りがたいほどに完成されていた。 さっきまで私に「離れたくない」と縋っていた男と同一人物だとは到底思えない。 私も邪魔にならないよう、持ち込んだタブレットで仕事を始めた。サロンのスタッフとはチャットでやり取りできるし、企画の構成を練るくらいならここでもできる。 静かな部屋に、キーボードを叩く音と、湊の万年筆が走る音だけが重なり合う。 この奇妙な空間にも、少しずつ慣れてきた……と思った矢先だった。「……朱里」 不意に、名前を呼ばれた。「ん、なあに?」 顔を上げると、湊がペンを止めてこちらを睨んでいた。眉間に深い皺が寄っている。「……遠い」「は?」「そこだと、お前の顔が見えない」 どうやら、パソコンのモニターが視界を遮っているのが気に入らないらしい。「……仕事に集中して」「できない。お前が足りないんだ」 彼は言うなり椅子を蹴って立ち上がり、私の手首を掴んだ。「ちょっと、何……きゃっ!」 抗う間もなく彼の膝の上に引き寄せられ、すっぽりと逞しい腕の中に閉じ込められた。 いわゆる、膝抱っこの状態だ
last update最終更新日 : 2026-02-04
続きを読む

第97話 嵐の翌朝と、ほどけない腕⑤

「……落ち着かないよ、これじゃ」「僕は落ち着く」 彼は私の首筋に鼻先を埋め、深く息を吸い込んだ。「……いい匂いだ」「……仕事、してよ」「してる。……これはエネルギー補給だ」 彼の熱に包まれていると、私の思考もとろとろと溶けていくような気がした。 これが「甘い監視」なのか。逃げ場なんて、最初からどこにもなかった。 しばらくして、デスクのインターホンが鳴った。『失礼します。営業本部長がお見えです』「……通せ」 湊は短く答え、解錠ボタンを押した。「ちょ、降りる! 下ろして!」 慌てて逃げようとしたけれど、腰に回された腕は鉄の枷のようにびくともしない。「いい。このままでいろ」「よくないって! お願い、湊!」 ガチャリ、とドアが開く音が響いた。 私は観念して、彼の胸に顔を埋めた。せめて顔だけは見られないように。 入ってきた男性社員は、私たちの姿を目にした瞬間、言葉を失って固まった。けれど、そこは百戦錬磨の幹部。すぐにプロの顔に戻り、「見なかったこと」にして報告を始めた。「……け、決算報告に参りました」「続けろ」 湊は私の頭を優しく撫でながら、冷徹な声で報告を聞き流している。 その激しすぎるギャップに、私の心臓は破裂しそうだった。部下の前で見せる非情なまでの威厳と、私の耳元で吐き出される熱い吐息。この男は、私で自分の世界を塗り潰そうとしている。 報告が終わり、社員が部屋を出ていくと、私は一気に力が抜けてへなへなと座り込んだ。「……寿命が縮まったよ」「大袈裟だな」 湊は楽しそうに低く笑い、私の頬をつついた。「……少し、喉が渇いたな。コーヒーを入れてくる」「私がやるよ」「いい。座ってろ」 湊は私を自分の
last update最終更新日 : 2026-02-05
続きを読む

第98話 嵐の翌朝と、ほどけない腕⑥

『お前も、あっち側の人間だったのか』  昨夜の、あの傷ついた瞳が脳裏をよぎる。裏切り。そう受け取られても仕方のないことだった。  ズキリ、と胸が痛む。  彼の純粋な愛を受ければ受けるほど、罪悪感は膨れ上がり、私の心を蝕んでいく。 「……はぁ」  思わず、深い溜息が漏れた。  その時だった。  ガタンッ!!  給湯スペースの方で、何かが崩れるような大きな音がした。 「湊!?」  私は弾かれたように立ち上がり、音のした方へ駆け寄った。  そこでは、湊がコーヒーカップを取り落として立ち尽くしていた。  床には飛び散った陶器の破片と、広がった黒い液体。  彼は顔を青白くさせ、震える手で壁を支えていた。 「湊……どうしたの? 怪我は……」  近寄ろうとした私を見て、彼は幽霊でも見たかのように目を見開いた。  そして次の瞬間、砕けんばかりの力で私を抱きしめた。 「……っ!」  あまりの強さに、肋骨が軋む。  彼の体から伝わってくる小刻みな震えが、私の肌にまで伝わってきた。 「……いなかった」  耳元で、彼が掠れた声で呟いた。 「え?」 「振り向いたら……デスクに、お前がいなかったんだ」 「……」  ほんの数秒のことだ。  パーテーションの死角に入って、姿が見えなくなっただけ。  たったそれだけのことで、彼はパニックに陥り、カップを落とすほど動揺したのだ。 「……どこにも行くなと言っただろう」  その声は、怒っているようにも、泣いているようにも聞こえた。 「ごめん……。ここにいるよ。どこにも行ってないから」  私は彼の背中を優しくさすり続けた。シャツが汗でじっとりと湿っているのがわかる。 「……怖かった」  彼が絞り出すように言った。 「お前がいなくなる夢を……何度も見るんだ。目が覚めると、隣にいるか確認せずにはいられない。……少しでも姿が見えないと、心臓が止まりそうになる」  彼は顔を上げ、私の瞳を覗き込んできた。  
last update最終更新日 : 2026-02-05
続きを読む

第99話 嵐の翌朝と、ほどけない腕⑦

 彼は一体、どうなってしまうんだろう。  足元から冷たい恐怖が這い上がってくる。  けれど今は、震える彼を支えることしかできなかった。 「……大丈夫。私はここにいるよ。ずっと、あなたのそばに」  私は彼に唇を寄せた。  胸の奥で燻る罪悪感も、彼を欺いているという背徳的な熱も、すべてを甘い蜜として飲み込むように。  湊は私の腰にすがりつき、溺れる者が酸素を貪るように、激しく、深く口づけを返してくる。  コーヒーの苦い香りと、彼の切実な匂いが混じり合う。  オフィスの片隅。薄いパーテーション一枚隔てた向こうには、日常業務が動いている。そのスリルが、触れ合う肌の感覚をより鋭敏にさせ、心拍数を跳ね上げる。  私たちは互いの存在を確かめ合うように、何度も、何度も唇を重ねた。  嘘の上に成り立つ関係だとしても、今、この熱だけは紛れもない本物だ。  この甘く危険なシチュエーションに、彼と共にどこまでも溺れていきたい――私は理性を手放し、震える彼をきつく抱きしめ返した。  夕闇が街を包み込む頃、ようやく一日の仕事が終わった。  帰りの車内でも、湊はずっと私の手を離さなかった。  窓の外を流れていく東京の夜景。昨日までは、この景色を見るたびに胸が締め付けられるような孤独を感じていた。  けれど今は、隣に彼がいる。歪んだ、重たすぎるほどの愛を抱えた、不器用な王様が。  マンションに戻り、夕食を済ませた後のこと。  ソファで寄り添って一息ついていると、湊がふと口を開いた。 「……来週の土曜日、空けておけ」 「え? 何かあるの?」 「……ただの食事会だ」  彼の声が、少しだけ硬くなった。 「身内だけの、な」 「身内って……本邸でするの?」 「いや。……ここだ」 「えっ、ここで!?」  驚いて彼の顔をまじまじと見る。この、彼にとっての聖域に人を招くなんて。 「誰が来るの?」 「……華枝と、志保だ」 「!」  志保さんが、ここに来る。 「どうして急に?」 「……来週は、僕の
last update最終更新日 : 2026-02-05
続きを読む

第100話 嵐の翌朝と、ほどけない腕⑧

「え……」「母さんは、僕の誕生日を祝うために無理をして……そのせいで容態が急変した。僕が、母さんを殺したんだ」 衝撃の事実に、息が詰まる。「だから、僕の誕生日は母さんの命日みたいなものだ。……この家では、祝うことなんて許されない」「そんな……」「毎年、この時期になると華枝たちが『生存確認』に来るんだ。僕が今年もまた、罪を背負って生き永らえているかを確認するためにな」 彼の瞳に、どろりとした闇が広がる。「誕生日は嫌いだ。……僕が生まれてきたことが、罪だと言われているようで」 膝の上で、湊の手が震えていた。 私は、たまらず彼を強く抱きしめた。「違うよ。……罪なんかじゃない」 生まれてきてくれて、ありがとう。そう伝えたいのに、声が震えて言葉にならない。 彼の傷は、私が想像していたよりもずっと深く、暗い場所に根を張っていた。 志保さんが命がけで隠してきた真実。『あの子を守るために』。 けれど、その不器用な守り方が、彼をこんなにも追い詰めているなんて。(……変えなきゃ) 心の底から、熱い思いが突き上げてきた。 今年の誕生日は、今までと同じ絶望の日にしちゃいけない。 彼に、「生まれてきてよかった」と、心から思わせてあげたい。 たとえそれが、志保さんとの約束を破ることになっても。 湊の激しい怒りに触れることになったとしても。「……わかった。準備しておくね」 私はわざと明るい声を出し、彼の背中を叩いた。「最高のおもてなしをするから。……私に任せておいて」「……ああ。期待してる」 湊は力なく微笑み、私の唇にそっと触れた。その唇は氷のように冷たく、助けを求めるように微かに震えていた。 その夜、湊が眠
last update最終更新日 : 2026-02-05
続きを読む
前へ
1
...
89101112
...
14
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status