暗がりから声が降ってきた瞬間、心臓が早鐘を打った。 「……どこに行ってた」 壁に背を預けた影が、ゆらりと輪郭を現す。 湊だった。 シャワーを浴びたばかりなのだろう。濡れた髪の毛先から、雫が鎖骨へと滑り落ちている。はだけたシャツの隙間から、湿った石鹸の匂いと、彼自身の香りが漂ってきた。 逆光で表情は読み取れない。けれど、肌を刺すようなビリビリとした気配が、彼の苛立ちを雄弁に物語っていた。 「……湊さん」 「部屋に戻ったら、もぬけの殻だ。……こんな時間まで、どこほっつき歩いてたんだよ」 低く、地を這うような声。 疑っている。 私がまた勝手な真似をしたのではないか。あるいは、この屋敷の誰かと──たとえば征司と、密会でもしていたのではないかと。 以前なら、この一方的な束縛に嚙みついていたはずだ。 『信用できないの』と、彼を睨み返していただろう。 けれど今は、向けられた嫉妬の棘さえ、酷く愛おしい。 それは彼が私を失うまいと足搔いている、不器用な証だったから。 「……ごめん。ちょっとなかなか寝付けなくて」 息を吐くように、嘘をつく。 でも、それは志保さんとの約束を守るための、優しい嘘。 「喉が渇いてお水を飲みに行ってたの。……それと、少し考え事」 「考え事?」 湊が一歩、足を踏み出す。 夜気に冷やされたムスクの香りが、ふわりと鼻先を掠めた。 「……お前のことだ。また余計なお節介を焼こうとしてるんじゃないだろうな」 鋭い。 私の性分など、とうに見抜かれている。 「ううん。……ただ、あなたのことを考えてた」 逃げずに歩み寄り、シャツ越しに彼の胸へ掌を押し当てる。 薄い布一枚を隔てて、微かに高い体温と、乱れた鼓動が伝わってきた。 「湊さんが……ここまで一人で、どうやって立ってきたのかって。……すごく、大変だったろうなって」 掌の下で、筋肉が強張るのがわかった。 彼は私の顔を覗き込む。 暗い瞳が、私の真意を探るように揺らめいた。 「……何か、聞いたのか」
最終更新日 : 2026-02-03 続きを読む