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第571話 母に贈る花束④

「今日だから言うの。浮かれてる時ほど契約書を読み落とすから」「もう職業病じゃない、それ」「姉病よ」 そう言って、詩織姉はようやく少しだけ笑った。 肩に置かれた手の力が、ふっと緩む。「……本当に、綺麗よ」 その一言は、会場の拍手より、湊の甘い言葉より、胸の奥にまっすぐ刺さった。 私は、姉の肩に額を押しつけた。 泣いたら負けだと思っていたのに、今日の私は負けっぱなしだった。 ◇ 披露宴が終わる頃、窓の外は淡い夕暮れになっていた。 高層階のガラスに、東京の街の光がひとつずつ灯っていく。テーブルの上のキャンドルが揺れ、白い花びらの影がクロスの上に落ちていた。 最後のゲストを見送ったあと、控室へ戻る途中で、私は足を止めた。 会場の扉の前に、今日のために用意された一枚の写真が置かれていた。 式の直後に撮った、集合写真。 中央に私と湊。隣には志保さん。少し離れて詩織姉と征司さん、麗華さん、奈々さんと航平さん。佐藤工場長は端のほうでぎこちなく笑っている。白鳥真琴は、なぜか少しだけ斜めに立ち、完璧な微笑みを崩していない。 血筋だけなら、ひどくまとまりのない写真だ。 九龍家の古い肖像画に描かれていたような、同じ顔立ち、同じ名字、同じ価値観でそろえられた一族ではない。 でも、今日の私には、それがとても綺麗に見えた。「気に入った?」 背後から湊の声がした。 振り返ると、彼はジャケットを少し緩め、いつもの完璧なCEOではなく、披露宴を終えたばかりの夫の顔で立っていた。「はい」「本邸に飾ろう」「いいの?」「祖母が見たら、文句を言うだろうな」「どんな?」「並びが甘い。僕の表情が締まっていない。……それから、君のドレスだけは褒める」「最後だけ華枝様っぽい」「僕は?」「ずっと褒めている」「聞き飽きるくらい?」「足りないくらい」 さらりと言われ
last updateآخر تحديث : 2026-07-27
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第572話 溺愛契約、永久更新①

 人生には「三つの坂」があるらしい。結婚式のスピーチで、よく持ち出される例えだ。 上り坂、下り坂、そして思いもよらないことが起きる「まさか」の坂――。 本邸の長い廊下に新しい写真が飾られたのは、結婚式から三か月後の朝だった。 玄関ホールから温室へ向かう、あの廊下。以前は歴代当主の肖像画ばかりが並び、金の額縁も深い赤の絨毯も、歩く人間の背筋を測っているように見えた。初めてここを通った日の私は、自分の靴音さえ場違いに聞こえて、少しだけ肩を丸めた。 その一角に、白い額縁が増えている。 私と湊の結婚式で撮った、集合写真だった。 九龍家の正式な記録としては、たぶん少し賑やかすぎる。湊はCEOらしからぬ顔で笑っているし、私は泣いたあとで目元が赤い。詩織姉は腕を組みかけて、途中でやめた変な姿勢のまま写っている。征司さんはその隣で、何か言われる三秒前の顔をしていた。麗華さんは花嫁ではなく、ドレスの裾ばかり見ている。佐藤工場長にいたっては、最後までカメラの少し横を見ていた。 格式だけで点をつけるなら、満点ではない。 でも、私はこの写真が好きだった。 朝の本邸には、以前になかった音が増えている。厨房で鍋の蓋が触れ合う音。庭師さんがホースを巻く音。若いスタッフが廊下の途中で足を止めて、「おはようございます」と少し明るい声を出す音。 この家は、まだぎこちない。けれど、ちゃんと息をしている。「朱里さん」 背後から呼ばれて振り返ると、志保さんが銀色のトレイを手に立っていた。薄いグレーの着物に、白い帯。表情だけ見れば相変わらず隙がなく、初対面の人なら今でも一歩引くと思う。 ただ、トレイの上には、湯気の立つ小鉢が二つ並んでいた。「味見をお願いします」「私でいいんですか? 料理の専門家じゃないですよ」「あなたでなければ困ります」「うわ、責任重大ですね」「ええ。湊は褒め方に信用がありませんから」 あまりにも真顔だったので、私は危うくその場で吹き出しかけた。 キッチンへ入ると、出汁の香りがふわりと迎えてくれた。大きな鍋の横には、丁寧に刻まれた青菜と、白い小皿
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第573話 溺愛契約、永久更新②

 その言い方があまりにもさりげなくて、私はしばらく返事ができなかった。 湯気の向こうで、志保さんがわずかに眉を寄せる。「何か問題が?」「いえ」「味が薄いですか」「まだ食べてません」「では、早く」 急かされて箸を取る。 一口含むと、優しい出汁の味が舌に広がった。派手ではない。驚きもない。ただ、寝不足の朝に毛布を掛けられたみたいに、身体の奥がゆっくり落ち着いていく味だった。「……おいしい。ちゃんと、今の湊に合う味だと思います」 志保さんは、ほとんど表情を変えなかった。 けれど、菜箸を持つ指先がほんの少しだけ緩んだ。「そうですか」「湊、たぶん黙って食べて、あとでこっそり喜びます」「喜ぶかどうかは問題ではありません」「そこ、喜ぶかどうかじゃないんですか」「栄養があります」 私はとうとう笑ってしまった。「笑うところではありません」「すみません。でも、すごく志保さんらしくて」「褒めていますか」「はい。たぶん、かなり」「なら、結構です」 白い湯気が、二人の間にゆっくり上っていく。 この人は、きっとこれからも不器用なままだ。突然抱きしめたり、甘い言葉で私たちを包んだりはしない。けれど、朝のキッチンで鍋を温める。塩の量を測る。由理子さんのノートを開き、今の湊のために味を探す。 それが、志保さんの愛し方なのだと思った。 ◇ 九龍ホテルの婚礼部門は、相変わらず慌ただしかった。『Imperial Vows』の正式ローンチ後、問い合わせは予想以上に増えた。華枝様の企画書、奈々さんと航平さんの式、そして私たちの結婚式。話題性だけで来た人もいたけれど、打ち合わせを重ねるうちに、求められているのは豪華な装飾だけではないのだと、何度も思い知らされた。「小さくても、母に見せたい式にしたいんです」「再婚なので派手にはしたくないけれど、子どもたちには、ちゃんと伝えたいんです」「親族の事情が複雑で&h
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