All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 571 - Chapter 580

588 Chapters

第571話 写真に集まった家族

「今日だから言うの。浮かれてる時ほど契約書を読み落とすから」 「もう職業病じゃない、それ」 「姉病よ」  そう言って、詩織姉はようやく少しだけ笑った。  肩に置かれた手の力が、ふっと緩む。 「……本当に、綺麗よ」  その一言は、会場の拍手より、湊の甘い言葉より、胸の奥にまっすぐ刺さった。  私は、姉の肩に額を押しつけた。  泣いたら負けだと思っていたのに、今日の私は負けっぱなしだった。◇ 披露宴が終わる頃、窓の外は淡い夕暮れになっていた。  宴の終わりには、父と母にも手紙と花を渡した。父は最後まで座っていられたことを少し得意そうに笑い、母はヘアピンに目を留めてから、花束ごと私の手を包んでくれた。  高層階のガラスに、東京の街の光がひとつずつ灯っていく。テーブルの上のキャンドルが揺れ、白い花びらの影がクロスの上に落ちていた。  最後のゲストを見送ったあと、控室へ戻る途中で、私は足を止めた。  会場の扉の前には、小さな額が置かれていた。さっきまで、なかったものだ。  式の直後に撮った集合写真を、スタッフがもうプリントしてくれたらしい。  中央に私と湊。隣には志保さんと、私の父と母。少し離れて詩織姉と征司さん、麗華さん、奈々さんと航平さん。佐藤工場長は端のほうでぎこちなく笑っている。白鳥真琴は、なぜか少しだけ斜めに立ち、完璧な微笑みを崩していない。  血筋だけなら、ひどくまとまりのない写真だ。  九龍家の古い肖像画に描かれていたような、同じ顔立ち、同じ名字、同じ価値観でそろえられた一族ではない。  でも、今日の私には、それがとても綺麗に見えた。 「気に入った?」  背後から湊の声がした。  振り返ると、彼はジャケットのボタンを外し、いつもの完璧なCEOではなく、披露宴を終えたばかりの夫の顔で立っていた。 「はい」 「本邸に飾ろう」 「いいの?」 「祖母が見たら、文句を言うだろうな」 「どんな?」 「並びが甘い。僕の表情が締まっていない。……それから、君のドレスだけは褒める」 「最後だけ華枝様っぽい。湊は?」 「ずっと褒めている」 「聞き飽きるくらい?」 「足りないくらい」  さらりと言われ、頬が熱くなる。  結婚式が終わっても、この人の溺愛は終わらないらしい。  湊は、写真の横に置かれていた白い花を一輪
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第572話 三か月後の白い額縁

 人生には「三つの坂」があるらしい。結婚式のスピーチで、よく持ち出される例えだ。  上り坂、下り坂、そして思いもよらないことが起きる「まさか」の坂――。  本邸の長い廊下に新しい写真が飾られたのは、結婚式から三か月後の朝だった。  玄関ホールから温室へ向かう、あの廊下。以前は歴代当主の肖像画ばかりが並び、金の額縁も深い赤の絨毯も、歩く人間の背筋を測っているように見えた。初めてここを通った日の私は、自分の靴音さえ場違いに聞こえて、少しだけ肩を丸めた。  その一角に、白い額縁が増えている。  私と湊の結婚式で撮った、集合写真だった。  九龍家の正式な記録としては、たぶん少し賑やかすぎる。湊はCEOらしからぬ顔で笑っているし、私は泣いたあとで目元が赤い。父は少し照れ、母は私のそばで笑っている。詩織姉は腕を組みかけて、途中でやめた変な姿勢のまま写っている。征司さんはその隣で、何か言われる三秒前の顔をしていた。麗華さんは花嫁ではなく、ドレスの裾ばかり見ている。佐藤工場長にいたっては、最後までカメラの少し横を見ていた。  格式だけで点をつけるなら、満点ではない。  でも、私はこの写真が好きだった。  朝の本邸には、以前になかった音が増えている。厨房で鍋の蓋が触れ合う音。庭師さんがホースを巻く音。若いスタッフが廊下の途中で足を止めて、「おはようございます」と少し明るい声を出す音。  この家は、まだぎこちない。けれど、ちゃんと息をしている。 「朱里さん」  背後から呼ばれて振り返ると、志保さんが銀色のトレイを手に立っていた。薄いグレーの着物に、白い帯。表情だけ見れば相変わらず隙がなく、初対面の人なら今でも一歩引くと思う。  ただ、トレイの上には、湯気の立つ小鉢が二つ並んでいた。 「味見をお願いします」 「私でいいんですか? 料理の専門家じゃないですよ」 「あなたでなければ困ります」 「うわ、責任重大ですね」 「ええ。湊は褒め方に信用がありませんから」  あまりにも真顔だったので、私は危うくその場で吹き出しかけた。  キッチンへ入ると、出汁の香りがふわりと迎えてくれた。大きな鍋の横には、丁寧に刻まれた青菜と、白い小皿に盛られた柚子の皮。テーブルの端には、角の擦り切れた古いレシピノートが開かれている。 「由理子さんが、宗一さんのために作っていた
last updateLast Updated : 2026-07-28
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第573話 これからの味

 その言い方があまりにもさりげなくて、私はしばらく返事ができなかった。  湯気の向こうで、志保さんがわずかに眉を寄せる。 「何か問題が?」 「いえ」 「味が薄かったですか」 「まだ食べてません」 「では、早く」  急かされて箸を取る。  一口含むと、優しい出汁の味が舌に広がった。派手ではない。驚きもない。ただ、寝不足の朝に毛布を掛けられたみたいに、身体の奥がゆっくり落ち着いていく味だった。 「……おいしい。ちゃんと、今の湊に合う味だと思います」  志保さんは、ほとんど表情を変えなかった。  けれど、菜箸を持つ指先がほんの少しだけ緩んだ。 「そうですか」 「湊、たぶん黙って食べて、あとでこっそり喜びます」 「喜ぶかどうかは問題ではありません」 「そこ、喜ぶかどうかじゃないんですか」 「栄養があります」  私はとうとう笑ってしまった。 「笑うところではありません」 「すみません。でも、すごく志保さんらしくて」 「褒めていますか」 「はい。たぶん、かなり」 「なら、結構です」  白い湯気が、二人の間にゆっくり上っていく。  この人は、きっとこれからも不器用なままだ。突然抱きしめたり、甘い言葉で私たちを包んだりはしない。けれど、朝のキッチンで鍋を温める。塩の量を測る。由理子さんのノートを開き、今の湊のために味を探す。  それが、志保さんの愛し方なのだと思った。◇ 九龍ホテルの婚礼部門は、相変わらず慌ただしかった。 『Imperial Vows』の正式ローンチ後、問い合わせは予想以上に増えた。華枝様の企画書、奈々さんと航平さんの式、そして私たちの結婚式。話題性だけで来た人もいたけれど、打ち合わせを重ねるうちに、求められているのは豪華な装飾だけではないのだと、何度も思い知らされた。 「小さくても、母に見せたい式にしたいんです」 「再婚なので派手にはしたくないけれど、子どもたちには、ちゃんと伝えたいんです」 「親族の事情が複雑で……でも、諦めたくなくて」  そんな声が、少しずつ増えた。  もちろん、すべてが順調なわけではない。旧反対派の一部は、今も会議で遠回しに数字だけを見ろと言う。白鳥真琴さんからは先週も、『御社の新プラン、少々情緒に寄りすぎでは?』という、褒めているのか喧嘩を売っているのかわからないメールが届い
last updateLast Updated : 2026-07-28
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第574話 それぞれの仕事

 休日の午後の会議室では、私の手伝いに来た詩織姉が契約書の写しを前に、征司さんを容赦なく追い詰めていた。法的な判断は担当弁護士に任せ、姉は読み手にわかりにくい箇所を挙げているのだ。 「この条項、曖昧です。相手方の善意に期待する契約書なんて、願掛けの短冊と同じですよ」 「相変わらず手厳しいな、詩織さん」 「詩織で結構です。ほら、こっちを見て。次の頁も同じ書き方になっています」  姉の指先が、征司さんの視線を紙面へ引き戻した。彼は何か言いかけて、結局、ペンを持ち直す。  征司さんが苦笑しながら、指摘された箇所に赤を入れる。  詩織姉は褒めない。けれど、資料を一枚余分に用意して、黙って彼の側に置いた。 「ありがとう。こっちにも印をつけてくれたのか」 「同じところを二度聞かれたくないだけです」  そっけなく言う姉の手元を見て、征司さんは笑った。余計なことを言わずに資料を受け取ったのは、少しは姉の扱いに慣れたのかもしれない。  会議室の入口で見ていた私は、入るタイミングを失った。  背後に湊が立つ。 「入らないのか」 「今入ったら、詩織姉に巻き込まれるよ」 「君の姉は、僕にも容赦がない」 「湊がすぐ甘やかすからでしょ」 「席がなければ、手伝いにも来てもらえないだろう」 「資料室に増やしてくれた席のこと? 詩織姉、喜んでたよ」  湊は会議室の中へ目をやった。姉に聞こえたかどうかを確かめるような横顔に、私はつい笑ってしまう。本人の前では、きっと「必要な投資だ」とでも言うのだろう。◇ 麗華さんのアトリエにも、変化があった。  結婚式の写真が公開されたあと、彼女のドレスについて問い合わせが殺到したのだ。麗華さんはそれを、たいして嬉しくなさそうな顔で眺めていた。 「評価が遅いのよ」  アトリエの作業台の前で、麗華さんは針山にピンを刺しながら言った。 「世間はいつもそう。誰か有名人が着て初めて、技術が見えたような顔をするの」 「この問い合わせ、全部あのドレスを見て?」 「ええ。ようやく、見る目のある人のところへ届いたようね」  麗華さんは何でもないことのように言ったが、さっきから同じ写真の頁を開いている。私が笑うと、すぐに気づいた。 「朱里さん」  麗華さんが、冷たい目でこちらを見る。 「花嫁の表情を読む力を、日常会話で無駄遣い
last updateLast Updated : 2026-07-29
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第575話 写真の前の夫

 湊は、デスクの上で組んでいた指をほどいた。 「表へ戻すつもりはない」  声は静かだった。冷たいというより、境界線を引くための声だった。 「わかっている。本人も望んでいないそうだ」 「望む、望まないの問題ではない。ただ……」  湊は少しだけ視線を落とした。 「誰にも見られない場所で毎日働くなら、それはそれで意味がある。九龍の名前を言い訳にしないこと。それだけは守らせてくれ」  征司さんは、真面目な顔で頷いた。  その名前を聞いても、以前ほど胸がざわつかなかった。許したわけではない。ただ、彼の人生まで私が背負い続ける必要は、もうないのだと思えた。  完全な大団円なんて、たぶんない。傷つけた人が、ある日突然いい人になるわけでもない。傷ついた人が、すべてを水に流せるわけでもない。  でも、表舞台から離れた場所で、誰かが汗をかいて段ボールを運ぶ。その姿を美談にしないまま、ただ事実として置いておく。  それもまた、前に進む形なのかもしれない。◇ 三か月前のことを思い出す。婚姻届は、式の翌朝に提出した。  詩織姉が「不備があったら一生笑う」と言いながら同行し、湊が「一生は長すぎないか」と真顔で返し、私は区役所の窓口で笑いを堪えるのに必死だった。  受理印が押された瞬間、湊は何も言わなかった。  ただ、私の左手を握る力が、ほんの少しだけ強くなった。  あの紙切れ一枚で、私たちの気持ちが本物になったわけではない。けれど、嘘から始まった関係が、もう誰にも偽物とは呼べない形を得たのだと思うと、胸の奥が静かに熱くなった。  そして今日の夜、本邸に戻ると、湊は珍しくネクタイを緩めたまま、玄関ホールの写真の前で足を止めた。 「また見てるの?」 「悪いか」 「悪くないけど、今朝もここにいたでしょう。スタッフさんが、掃除していいのか迷ってたよ」  湊は背後の廊下を振り返り、ほんの半歩だけ壁へ寄った。写真から離れる気はないらしい。 「……僕の家なんだが」 「うん。だから、好きなだけ見てていいけど」  隣に立つと、湊は私の肩を引き寄せた。何か弁解を考えているような顔をして、けれど何も言わず、また写真へ目を戻す。私はその横顔まで眺めてから、彼と同じ方を向いた。  写真の中の彼は、今日の彼より少し若く見える。たった三か月前なのに、不思議だった。結婚式を
last updateLast Updated : 2026-07-29
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第576話 夜の温室の贈り物

 湊は、ようやくこちらを見た。黒い瞳の奥に、少しだけ悪戯めいた光がある。  CEOの顔ではない。九龍家当主の顔でもない。  私の夫の顔だ。 「君に、見せたいものがある」  差し出された手を、私は見つめた。  初めて会った日、私はこの手を勝手に掴んだ。遅い、と怒鳴って、時給分働けと詰め寄って、人生で一番ひどい誤解をした。  今は、彼が差し出す手を、自分で選んで取る。 「変なものじゃないでしょうね」 「僕の信用は、まだその程度か」 「前科があります」 「契約書を燃やしたことか?」 「それ以外にも色々」  湊は低く笑った。  私は彼の手を取った。  写真の中の私たちが、白い額縁の向こうから見送っている。血筋だけでは作れない家族。選び直した人たちの肖像。その前を通り過ぎて、私たちは温室へ向かった。◇ 夜の温室は、昼間とは別の場所みたいだった。  ガラスの天井越しに、月の光が薄く落ちている。白いマーガレットは眠っているように花びらを少し閉じ、葉の先には水滴が一粒ずつ残っていた。湿った土の匂いに、夜の冷えた空気が混ざっている。  作業台を見ると、あの朝、ホテルの温室で切られた花を拾い集めたことを思い出す。  奈々さんと航平さんの式を諦めたくなくて、膝を濡らしながら花を並べた、あちらの温室。  ここには今、ホテルの温室で持ち直した株から分けてもらった、新しい苗が列を作っている。名札には、庭師さんの字と、志保さんの字が混じっていた。几帳面な線の隣に、少しだけ迷ったような線。見分けがつくようになった自分に、私は小さく笑いそうになった。 「増えたね」 「ああ。母さんと庭師が、勝手に増やした」  私は、思わず湊を見た。  母さん。  その呼び方が彼の口から自然に落ちたことに、少し遅れて胸が熱くなる。  湊は気づいたのか気づいていないのか、少しだけ眉を寄せた。 「何だ」 「ううん。いいな、と思って」 「何が」 「湊が、今の言い方を普通にしたところ」  彼は一拍、黙った。  そして、気まずそうに視線を苗へ戻す。 「……聞かなかったことにしてくれ」 「嫌です」 「朱里」 「大事なので、覚えておきます」 「君は時々、容赦がない」 「そういう役回りだと思ってるからね」  湊は何か言い返しかけて、やめた。  その横顔が、
last updateLast Updated : 2026-07-30
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第577話 署名のいらない約束

 平然としているけれど、耳の先が少し赤い。  私は紙をそっと持ち上げた。  第一条。  乙は甲に、毎月三百万円を請求しない。  第二条。  甲は乙を、金額で買おうとしてはならない。  第三条。  互いの仕事を尊重すること。忙しさを言い訳に、相手の手を離さないこと。  第四条。  喧嘩をした場合、契約解除ではなく、話し合いによる更新協議を行うこと。  第五条。  上記の条項にかかわらず、甲は乙を生涯溺愛する。 「……第五条だけ、湊の願望では」 「義務だ」 「自分で自分に課す義務?」 「問題があるか」 「問題というか、重い」 「今さらだな」 「開き直りましたね」 「君が僕を選んだ時点で、ある程度は諦めてもらうしかない」 「夫婦の誓いで、それ言う?」 「本音だ」  あまりに真剣な顔で言われて、私は笑ってしまった。  笑った拍子に、目の奥が熱くなる。  この人は、どこまでも不器用だ。契約から始まった傷を、契約という形で冗談に変えようとしている。嘘をなかったことにするのではなく、笑って振り返れる場所まで、私ごと連れていこうとしている。 「あれ。サイン欄、ないんですけど」 「代わりになる言葉なら、ある」  湊が紙の下を指さす。  そこには、小さくこう書かれていた。 『署名欄は不要。毎日、互いを選ぶことをもって更新とする』  喉の奥が、きゅっと鳴った。  ひどい。  こんなの、笑うしかないのに。  泣くしかない。 「ずるい」  やっと出た声は、少し震えていた。  湊は、困ったように眉を下げる。 「泣かせるつもりではなかった」 「たぶん、毎回そう言ってる」 「反省はしている」 「改善は?」 「……努力する」 「今の間、ものすごく気になるんだけど」 「できると言い切るほど、僕はできた人間じゃない」  低い声が、そこで少しだけ掠れた。 「たぶん、これからも君を困らせる。隣にいろと言いたくなるし、君が遠くへ行けば追いかける。話を聞くまで、帰したくないと思うかもしれない」 「うん、だいぶ重い」 「知っている」 「しかも、ちょっと怖い」 「……怖がらせたいわけじゃない」  湊の親指が、私の薬指の指輪をそっと撫でた。 「閉じ込めたいのではなく、帰ってくる場所でありたい。僕が勝手に決めるのではな
last updateLast Updated : 2026-07-30
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第578話 今日も明日も更新

「じゃあ、更新します。今日も、明日も。たぶん、喧嘩した日も」 「たぶん?」 「その時の湊の態度次第かな」 「厳しいな」 「妻なので」  そう言うと、湊の目がわずかに揺れた。  妻。  その言葉を、彼はまだ時々、新しい宝石を掌に乗せたみたいに受け取る。大切で、少し怖くて、でも決して手放したくないものを見る目で。 「……もう一度」 「え?」 「今のを、もう一度言ってほしい」 「妻なので?」 「違う。いや、それも悪くないが」 「悪くないんだ」 「朱里」  少し拗ねたような声に、私は負けた。 「更新します。今日も、明日も」  湊の表情が、ゆっくりほどけた。  その顔を見たら、胸の奥がいっぱいになって、私は続きを言えなくなった。  湊は私の手を引き寄せた。距離が、静かに縮まる。シトラスと、温室の湿った土と、白い花の匂いが混ざる。 「朱里」 「はい」 「愛している」  何度聞いても、慣れない。  でも、もう逃げない。 「私も、愛してる」  答えた瞬間、湊の腕が私を包んだ。抱きしめる力は強い。けれど、苦しくはない。彼の肩越しに、白い花が夜の空気を吸って、ほんの少し揺れていた。  あの頃の私は、復讐のために完璧な恋人を探していた。  時給五万円で雇ったはずの恋人は来なくて、代わりに現れたのは、月額三百万円の契約を平然と差し出す、どうしようもなく傲慢で、不器用で、孤独なCEOだった。  最悪の嘘から始まった。  見栄も、誤解も、契約も、傷もあった。  それでも、全部を否定しなくていい。  あの夜の私が、間違えて掴んだ手。  その手を、今の私は、自分の意思で握っている。 「人生には、上り坂と下り坂と、まさかの坂があるって言うわよね」  自分でも少し唐突だと思いながら、私はそう言った。  いい時もあれば、悪い時もある。そして、思いもしなかった出来事に足元をすくわれる時がある。誰かに裏切られることも、時給五万円で予約した恋人が来ないことも、契約書一枚で人生を買われそうになることも、たぶん全部、その三つ目の坂だった。  湊は、私の髪に触れていた手を止めた。 「君にとって、僕はその坂だったのか」 「かなり急な坂だったけどね」 「否定できないな」 「でも」  私は、彼の胸元に額を寄せたまま笑った。 「転げ落ちた
last updateLast Updated : 2026-07-30
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第579話 一年目の迎えの車

 柔らかなダウンライトが照らす大理石の床に、フラットなパンプスの音が小気味よく響く。  週末の喧騒が嘘のように静まり返ったブライダルサロン『Felice Luce』。最後のお客様を笑顔で見送り、バックヤードで小さく息を吐いた途端、後輩スタッフの含み笑いが耳に届いた。 「チーフ、お迎えですよ。……今日も相変わらず、車のオーラが強すぎますけど」  窓越しに視線を向ければ、サロンの前に滑り込むように停まった漆黒の高級車。街灯の光を弾く磨き上げられたボディは、この通りでも明らかに異彩を放っている。  周囲の視線を集めていることなど意にも介さず、後部座席の窓がスモーク越しにこちらを向いているのがわかった。 「……もう、目立つから少し離れたところで待っててって言ったのに」  口では文句を言いながらも、頬が自然と緩んでしまうのを止められない。  足早に荷物をまとめ、サロンのドアを押し開ける。  仕事用の服から、持参した記念日用のワンピースへ着替えたばかりだった。コートの下で、いつもより柔らかな布が膝に触れる。  夜の冷気が頬を撫でた直後、後部座席の重厚なドアが音もなく開かれた。  車内に足を踏み入れると、外の冷たさとは対極にある、静かで熱を帯びた空気が全身を包み込む。  微かに漂う、上質なシトラスとムスクが混じった香り。  革張りのシートに深く腰を下ろしていた男が、手元のタブレットから視線を上げた。  隙のないダークネイビーのスリーピーススーツ。無造作にかき上げられた前髪の下にある冷徹な瞳は、乗り込んできた姿を捉えた瞬間、甘く粘り気のある光へと溶け落ちていく。 「……遅かったな」  鼓膜を直接震わせる低い声。  文句を口にしながらも、伸びてきた腕が、シートに座るより早く腰を引き寄せた。 「きゃっ……ちょっと、湊」  バランスを崩し、引き締まった胸板に肩がぶつかる。  スーツ越しにも伝わってくる高い体温。 「五分オーバーだ。……待ってた」 「ごめんなさい。最後のお見送りが少し長引いて……んっ」  言い訳は、頭上から降ってきた唇によって塞がれた。  挨拶代わりの軽いものではない。下唇を甘く食まれ、舌先で輪郭をなぞられる。息継ぎの隙間さえ与えない、執拗で情の深い口づけ。  運転席との間には分厚いパーテーションが上がっているとはいえ、ここは
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第580話 記念日の薔薇

 重厚なマホガニーの扉が開かれると、圧倒的な静けさと、仄かに甘い百合の香りがふわりと鼻先を掠めた。  足を踏み入れた瞬間、目の前に広がるのは、壁一面の窓ガラスに切り取られた煌びやかな夜景。  記憶の中にあるあの時と、何も変わっていない。インペリアル・ドラゴン・ホテルが誇る最高峰、インペリアル・スイート。  ただ一つ違うのは、あの夜は底知れない恐怖と屈辱で足がすくんでいたのに対し、今は隣に立つ体温が、どうしようもなく甘い安心感を与えてくれることだ。  背後でカチャリと静かに扉が閉まる音がした。  振り返るよりも早く、背中に硬い胸板が密着する。  スーツ越しにも伝わる高い熱量。腰に回された腕が、逃げ道を塞ぐようにぐっと引き寄せられた。 「……覚えてるか? ここで初めて二人で過ごした夜のこと」  耳朶を掠める囁き。  わざと首筋に唇を這わせながら発せられる声は、足の先から熱を駆け上がらせる。 「忘れるわけないじゃない。……あの時の湊、本当に嫌な男だったんだから」  強がって言い返すと、喉の奥でくくっと笑う音が響いた。 「そうだな。……でも、あの頃の僕には、あれくらいしか思いつかなかった」  回された腕に力がこもる。  骨がきしむほどの強さではない。けれど、絶対に手放さないという執着が、その指先の動き一つ一つから滲み出ている。  ゆっくりと身体を反転させられる。  至近距離で視線が絡み合った。  ネクタイを緩める仕草すらもどかしいのか、長い指先が荒々しくシャツの第一ボタンを外す。露わになった鎖骨の窪みに、無意識に視線が吸い寄せられてしまった。 「……そんな目で見られると、ディナーの前に食べてしまいたくなる」 「……っ、見てない」 「嘘をつくのが下手なところも、変わらないな」  揶揄うような響きとは裏腹に、落ちてきた口づけはひどく丁寧だった。  触れるだけのキス。  けれど、離れ際に下唇を軽く噛まれ、小さく息を呑む。 「こっちへ。……君に見せたいものがある」  促されるままにリビングの中央へと進むと、ダイニングテーブルの上に用意された光景に息を呑んだ。  キャンドルの揺らめく炎。  美しくセットされたカトラリーの横には、目を奪われるほど見事な、深紅の薔薇のドームが飾られている。  荒れ果てたあの温室で必死に咲いていた、オ
last updateLast Updated : 2026-08-18
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