身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った のすべてのチャプター: チャプター 381 - チャプター 390

462 チャプター

第381話

加賀見家の本邸のリビングは、しんと静まり返っていた。記者会見から戻ったばかりの室内には、まだ外気の冷たさがうっすらと残っている。静香はソファに腰を下ろし、タブレットでネット上の反応を眺めていた。どうやら相当満足のいく流れになっているらしく、口元の笑みを隠しきれていない。正国は湯気の立つ茶を静かにすすり、表向きは興味などないという顔をしていたが、実際には耳をしっかりそばだて、秘書から入るトレンド報告を聞き逃すまいとしていた。心愛は玄関脇に立ったまま、先ほどの「公開処刑」さながらの正式な交際宣言の衝撃から、まだ完全には立ち直れていなかった。今もなお、足元がふわふわと浮いているような感覚が抜けない。ネット中から「背徳のインセスト」だと叩かれていた状況から、一転して加賀見家の両親が自ら盾となって現れ、さらには養子縁組の証明書まで公開した。あまりにも怒涛の展開で、まるで嵐に飲み込まれたかのようだった。本当なら、自分はもっと長い間耐え続けなければならないと思っていた。面と向かって罵声を浴びせられる覚悟だってしていた。けれど実際には、最も険しい道を、暁が自分の代わりにすべて切り開いてくれたのだ。心愛はそっと顔を上げ、暁を盗み見る。男は漆黒のスーツのジャケットを脱ぎ終え、それを無造作にソファの肘掛けへ放ったところだった。ワイシャツの襟元はボタンが一つ外され、先ほどまでの張り詰めた冷気は幾分やわらいでいる。だが、人を圧倒するような存在感だけは相変わらずだった。どれほど大きな嵐が押し寄せようと、この男にとっては「片付けるべき案件」の一つに過ぎないのだろう。その視線に気づいたのか、暁がふっと顔を向けた。「なぜ私を見ている」心愛は慌てて目を逸らす。「別に見てないわよ」暁は小さく笑ったが、その苦しい言い訳をわざわざ追及することはしなかった。静香がタブレットを脇へ置き、何でもない調子で口を開く。「今日の件は、これで半分片付いたわね。残り半分は、あなたたち次第よ。特にあなた、暁。その閻魔様みたいな顔、少しは引っ込めなさい。心愛は繊細なんだから、あんまり追い詰めちゃダメよ」「お母さん……!」心愛の耳まで一気に熱くなる。「あら、間違ったこと言ったかしら?」静香は呆れたように肩をすくめた。「この家に入っ
続きを読む

第382話

心愛は、それ以上言葉を返さなかった。これ以上何かを口にしてしまえば、今夜の食事が本当に喉を通らなくなりそうだったからだ。二人はそのまま屋敷を出た。車が走り出す頃には、すっかり日も落ちていた。名雲の街には次々と街灯が灯り、道路を埋め尽くす車列の向こうには、人々の営みを映した無数の灯りがガラス越しに滲んでいる。けれど車内だけは、不思議なほど静かだった。心愛は助手席で窓の外を眺めながら、無意識のうちに何度もワンピースの裾を握り締めていた。――緊張している。二人きりで出かけるのは、もちろん初めてではない。以前にも食事には行ったし、会社へ同行したことだってある。もっと距離が近く、もっと混沌としていて、息苦しくなるほど気まずい時間さえ共に乗り越えてきた。それでも、今日は違う。もう「妹」という立場に隠れる必要がない。暁もまた、自分の想いを隠そうとはしていなかった。だからこそ、ただ食事をするだけなのに、まるで特別な意味を持つ夜のように感じられてしまうのだ。暁は片手でハンドルを握ったまま、視線の端で彼女の仕草を捉え、不意に口を開いた。「何を緊張している」「別に緊張なんてしてないわ」「ワンピースが皺になるほど握っているが」心愛が慌てて手元を見ると、確かに生地にはくっきりと皺が寄っていた。彼女は急いで手を離し、取り繕うように言った。「姿勢を正していただけよ」暁は低く喉を鳴らして笑った。「心愛」「……なに?」「今夜はデートだ」あまりにも自然な口調だった。まるで、最初から決まり切っていた事実を確認するだけのように。けれど、その一言だけで、心愛の心臓は大きく跳ねた。彼女は唇を尖らせ、わざと憎まれ口を叩く。「誰が決めたの?」「私だ」「どうしてあなたって、何でも勝手に決めるの?」「反論してもいい」「じゃあ反論するわ」「却下だ」心愛は思わず彼を睨みつけた。暁は涼しい顔をしていたが、その目の奥にははっきりと笑みが浮かんでいる。その余裕に当てられて、心愛は急に毒気を抜かれてしまった。しばらくしてから、彼女は小さく呟く。「……そう」ようやく、その言葉を受け入れたように。車はやがて、川沿いにひっそりと佇む料亭の前へ滑り込んだ。派手さこそないが、落ち着
続きを読む

第383話

心愛は一度言葉を切り、ゆっくりと顔を上げて暁を見つめた。「でも、あなたがここまで道を切り開いてくれたんだもの。私だけ、いつまでもあなたの後ろに隠れているわけにはいかないわ」暁は彼女を見つめたまま、すぐには何も答えなかった。数秒の沈黙のあと、ようやく静かに口を開く。「私に合わせようとして、無理に前へ出る必要はない」「分かってるわ」心愛の声は決して大きくなかった。けれど、不思議なくらい落ち着いていた。「これは、私自身の意志なの。一歩踏み出したいって思ったのよ」「覚悟はできているんだな?」「ええ」「この先また、誰かに罵られるかもしれない。監視されるかもしれない。この件を口実に、悪意を向けられることだってある」「だったら言い返すわ」心愛は真っ直ぐに彼を見返した。「もし言い負かされそうになったら、その時はあなたがいるでしょう?」その言葉に、暁の口元がようやくわずかに緩んだ。瞳の奥に沈んでいた鋭さが少しだけ和らぎ、張り詰めていた空気が静かに解けていく。「……いいだろう」彼は手を伸ばし、心愛の手の甲を大きな掌でそっと包み込んだ。「これから先、あなたが言い返せない相手には、私が代わりに引導を渡してやる」……食事を終えて料亭を出ると、川沿いの風は骨身に染みるほど冷たかった。心愛はすぐ車へ戻るつもりだったが、暁はキーをポケットへしまい込み、「少し歩こう」と言い出した。「こんな寒いのに?」「食後だ。少しくらい歩いた方がいい」「本当に手際のいいエスコートですこと」「初めての正式なデートだからな。形くらいは整えておきたい」そんなふうに真正面から言われてしまえば、心愛もそれ以上は言い返せない。二人は川沿いをゆっくりと歩き始めた。人通りはそれほど多くない。時折、寄り添って歩く恋人たちや、夜景を写真に収めている人々とすれ違う程度だった。街灯の光が二人の影を長く伸ばし、歩くたびにその影が重なっては離れていく。暁は、ごく自然な動作で彼女の手を握った。心愛は一瞬だけ視線を落としたものの、その手を振り払おうとはしなかった。ふと、昔のことを思い出す。これまで何度も、一人で歩いた夜道。あの頃は、風がやけに冷たくて、家までの道が果てしなく遠く感じられた。どれほど街が賑や
続きを読む

第384話

心愛は唇をきゅっと噛みしめ、小さく視線を逸らした。「だって……」か細い声が、夜の静けさの中へ溶けていく。「私、本気にしちゃうから」暁はそんな彼女をじっと見つめた。喉仏がわずかに上下する。「心愛」「……なに?」「私の言うことは、全部本気にしていい」川風が吹き抜け、彼女の腕の中の白いバラがふわりと揺れた。心愛は急に彼の顔をまともに見られなくなり、うつむいたまま歩くことしかできなかった。しばらくして、気まずさを誤魔化すように、彼女は無理やり話題を変える。「散歩って言ってたのに、どうしてだんだんショッピングモールの方に向かってるの?」「映画を観る」「映画まで予定に入ってるの?」「ああ」「あなた、一体どれだけ予定を詰め込んでるのよ」「今のところはこれだけだ」「今のところ?」「あなたの体力に余裕があるなら、このあと夜食を追加してもいい」「お断りします」「理由は?」「明日も仕事があるもの」「なら、映画くらいは問題ないだろう」「もうチケットまで取ってあるなら、観ないわけにいかないじゃない」「別に観なくてもいいぞ」「じゃあ観ないわ」「もう遅い。すでに入場済みだ」「暁」「なんだ?」「あなた、本当に強引すぎるわ」「あなたが気に入ってくれるなら、それでいい」結局また言い負かされ、心愛はむくれたまま花束を抱えて先を歩いた。暁は少し後ろから、そんな彼女の小さな意地っ張りを楽しむように、ゆっくりとついていく。上映されるのは恋愛映画だった。シアターに入って初めて、それを知る。心愛はポスターを見上げ、それからじろりと暁を振り返った。「……絶対わざとでしょう」「違う」「普段、経済ニュースを見る時間すら惜しむ人が、どうして恋愛映画なんて観るのよ」「恋人と観るなら、無駄な時間にはならない」「誰が恋人よ」「違うのか?」「……」関係を公にしてからというもの、この男の言葉はどんどんストレートになっている。しかも、まるでブレーキが壊れたみたいに。シアターの照明が落ち、二人は最後列の席へ腰を下ろした。だが映画の内容は、心愛の頭にはほとんど入ってこなかった。意識の半分はスクリーンへ。残り半分は、すぐ隣にいる男へ。ポップコーンも、
続きを読む

第385話

寝室の扉が閉まった瞬間、外の物音はすべて断ち切られた。加賀見の本邸はあまりにも広く、夜になるとその静けさはいっそう際立つ。廊下の控えめな灯りがドアの隙間から細い線となって差し込み、床の上に消え入りそうなほど淡い光の筋を落としていた。心愛はしばらくの間、背中をドアに預けたまま立ち尽くしていた。腕の中には、まだあの白いバラの花束が抱かれている。川畔からずっと持ち歩いてきたせいか、花びらの縁には夜風の冷たさがほんのりと残っていた。その感触は驚くほど柔らかく、まるでまだ醒めきらない夢の残滓のようだった。彼女はうつむき、長い間その花束を見つめていた。今夜はあまりにも多くのことが起きた。記者会見から始まり、両親が盾となって現れたこと。そして食事、映画、「今夜はデートだ」という言葉、そして最後の「始まりだ」という一言。どれも確かに現実のはずなのに、あまりに現実離れしていて、かえって微かな眩暈さえ覚える。心愛はゆっくりとベッドサイドへ歩み寄り、花束をサイドテーブルの上に置いた。白い花はそこに静かに横たわり、ラッピングの角がベッドサイドの暖かなランプに照らされて、言葉にできないほど柔らかな陰影を描いている。一番上の花にそっと指先を触れ、そのまま動きを止めた。ふと、昔のことを思い出す。桐生家で過ごしたあの三年。与えられた部屋は今のように温かくもなく、こんな大きな窓もなかった。サイドテーブルの上にはいつも、貴臣が目もくれず、気まぐれに投げ置いた品々が積み上がっていた。ある時はサイズの合わないネックレス。ある時は葵が選び残した香水。時には包装すらされていないこともあった。それらは彼女の手に渡っても、決して「贈り物」などではない。むしろ施しに近いものだった。あの頃の自分も、本当に愚かだった。たとえ貴臣が気まぐれに投げた安物であっても、何度も何度も見つめ返しては、「もう少し頑張れば」「もう少し良い子でいれば」彼が振り向いてくれるのではないかと、淡い期待を抱いていた。今思えば、滑稽でしかない。最初から自分を一欠片も見ていない男なら、たとえ部屋を埋め尽くすダイヤモンドを与えられても、代用品として扱われる惨めさは決して埋まらなかったのだ。心愛はベッドの端に腰掛け、再び花束へ視線を落とした。
続きを読む

第386話

その笑みは、決して取り繕ったものではなかった。誰かに見せるためでも、その場を繕うためでもない。ただ胸の奥から静かに湧き上がってくる、純粋な安堵の笑みだった。そんな風に笑う自分を、心愛はもう長いこと忘れていた。シャワーを終えて部屋へ戻ると、寝室は暖房のぬくもりで満たされていた。肌触りのいい柔らかなネグリジェに着替え、ベッドの端へ腰を下ろす。そして、もう一度あの花束へ視線を向けた。花は先ほどと変わらず、静かにそこに佇んでいる。少し考えたあと、心愛はベッドサイドのフォトフレームを脇へ寄せ、その花束のために一番目立つ場所を空けてやった。その瞬間、自分でもふと驚いた。かつて桐生家にいた頃、自分の部屋に「お気に入り」を堂々と飾ることなどできなかったからだ。雅子の目に留まって機嫌を損ねるのが怖かった。使用人たちに陰で笑われるのが怖かった。そして何より、葵の――「あなたの分際で生意気よ」あの冷たい一言で、小さな喜びを踏みにじられるのが怖かった。けれど今は違う。飾りたいものを飾れる。置きたい場所へ、好きなように置ける。もう誰の顔色も窺わなくていい。そこまで考えたところで、心愛はゆっくりと布団へ身を沈めた。柔らかな枕が頭を受け止め、ふわりと沈み込む。鼻先には、花のほのかな香りが漂っていた。彼女は横になったまま、サイドテーブルの上の花束をじっと見つめる。灯りは消さず、そのまま静かに眺め続けていた。するとふいに、亡くなった祖母の言葉が脳裏をよぎる。――「心愛、人ってね、一時は苦しくても、一生ずっと苦しいままじゃないんだよ。いつか必ず、お前を心から大事にしてくれる人が現れるからね」あの頃の心愛は、その言葉を信じていなかった。そんな綺麗事が、この世にあるはずないと思っていた。人は皆、生きるだけで精一杯だ。損得を計算し、自分を守ることで手一杯なのに、誰がわざわざ他人のために、混じり気のない真心なんて差し出すものか、と。けれど今は――その言葉を、少し信じてみたいと思えた。自分はもう、誰かの代用品ではない。腐りきった過去に縛られて、自分の価値を証明し続ける必要もない。他人の冷たさに傷つき、自分を責め続ける必要もない。「どうして私じゃないの?」そんな悲しい問いを、
続きを読む

第387話

貴臣は頭を振り、もう一度しっかりと目を凝らした。いや、心愛じゃない。そこまで似ているわけではない。むしろ顔立ちだけを比べれば、到底及ばない。だが、ふとした角度や、伏し目がちになった時の横顔の輪郭が、かつての心愛に驚くほどよく似ていたのだ。特に、桐生家へ嫁いできたばかりの頃の心愛――静かで、白い肌をしていて、その奥にどうしても隠しきれない頑なさを抱えていた、あの頃の面影に。貴臣は喉を上下させた。アルコールが頭へ一気に回り、胸の奥に鉛のような重さが沈んでいく。相手の女も、明らかに彼の視線に気づいていた。けれど、すぐには近づいてこない。何でもない風を装いながら、まずはバーカウンターで酒を一杯注文する。そして、いくつかテーブルを挟んだ向こう側から、そっとこちらへ視線を流した。その距離感が絶妙だった。大胆すぎず、かといって怯えてもいない。まるで、こちらの反応を探るような目だった。貴臣は黙ったまま、じっと彼女を見つめ続けた。やがて女はグラスを片手に歩み寄り、ヒールの音を響かせながら、彼のテーブル脇で足を止めた。「桐生さん、お一人ですか」声は細く、どこか甘ったるい。彼女は貴臣のことを知っていた。だが、それは別に珍しいことでもない。名雲のこの界隈で、彼の顔を知らない者のほうが少ないのだから。貴臣はゆっくりと目を上げ、女を見た。追い払うわけでもなく、かといって歓迎するでもない。女はその沈黙を肯定と受け取ったのか、自然な仕草で席へ腰を下ろし、グラスを卓上に置いた。その唇には、意味ありげな笑みが浮かんでいる。「こんな時間に一人でやけ酒なんて……振られたんですか?」貴臣は鼻で笑った。「……よく喋る女だな」掠れた声だった。「ご迷惑でしたら、席を外しますけど?」女は立ち上がる素振りを見せた。だが、その動きはひどくゆっくりで、明らかに引き止められるのを待っている。貴臣はそんな彼女の顔を見つめながら、脳裏では別の女の姿を重ねていた。昔の心愛も、いつもそうだった。何か言いたげにしては、結局その言葉を飲み込んでしまう。桐生家では常に遠慮がちで、彼の隣へ腰掛けることさえ、勇気を振り絞っているようだった。それなのに、自分は――あの壊れそうなほど慎重で、健気だった想いを
続きを読む

第388話

女は身体を横たえたまま、ぴたりと貴臣に身を寄せていた。キャミソールの肩紐は二の腕まで滑り落ち、白い肌があらわになっている。その顔には、いかにも今しがた目を覚ましたばかりといった、甘ったるく気だるい表情が浮かんでいた。その顔をはっきり視界に収めた瞬間、貴臣の顔色が一気に凍りつく。昨夜の断片的な記憶が、じわじわと脳裏に蘇ってきた。喉仏が不快そうに上下し、その瞳の奥には激しい苛立ちと、吐き気を催すような嫌悪感だけが滲んでいる。女は彼が目を覚ましたことに気づくと、すぐに距離を詰め、ねっとりと甘い声を落とした。「おはよう、桐生さん」貴臣は乱暴に布団を跳ね除け、そのまま勢いよくベッドを抜け出した。床には脱ぎ散らかされた衣服が無残に転がっている。その光景は、生々しすぎて目を背けたくなるほどだった。女は布団を胸元まで引き寄せながら身体を起こし、彼がズボンを拾い上げて履く様子を眺めていた。彼の豹変ぶりを恐れる様子はない。むしろ、反応を探るように言葉を投げてくる。「昨夜のあなた、本当にすごかったわ。私を抱きしめながら、ずっと『心愛』って呼んでいたもの」わざと間を空け、くすりと笑う。「心愛って誰?あなたの好きな人?」貴臣の動きが、ぴたりと止まった。次の瞬間、彼は勢いよく振り返る。その顔には、ぞっとするほど濃い陰が落ちていた。「黙れ」女はその眼光に一瞬だけ身を強張らせたが、それでも無理に笑みを保ったまま言う。「ただの世間話じゃない。昨夜の桐生さん、こんな態度じゃなかったもの。私を片時も離そうとしなくて、『行かないでくれ』ってまで――」「黙れと言っているのが聞こえないのか」女の口元の笑みが引き攣った。彼女はもう殊勝な態度を装うのをやめ、ベッドの背もたれに寄りかかる。「桐生さん、お互い割り切った大人同士でしょう?昨夜のことだって、ちゃんと合意の上だったはずなのに。今さらそんな顔をされても困るわ」貴臣はもう相手にする気もなかった。無言のままズボンのポケットから財布を取り出し、中から一枚のカードを抜き取る。女の瞳が、ぎらりと動いた。次の瞬間――そのカードは、真っ直ぐ女の顔へ投げつけられた。容赦のない動きだった。カードの角が女の頬をかすめ、彼女は「っ……」と痛みに顔を歪める。その表情が瞬時
続きを読む

第389話

ホテルのスイートルームは、不気味なほど静まり返っていた。扉はぴたりと閉ざされ、廊下を行き交う足音も、とうに遠ざかっている。白いワンピースの女は、その場に立ち尽くしたまま、手の中のカードを見下ろしていた。つい先ほどまで顔に浮かんでいた屈辱や羞恥の色は、まるで潮が引くように綺麗さっぱり消え失せている。代わりに、その口元にはゆっくりと、不敵な笑みが浮かび上がっていた。彼女は窓辺へ歩み寄ると、カーテンをほんの少しだけ開き、眼下を見下ろした。貴臣はすでにホテルを出ていた。何かから逃げるように、足早に去っていく背中が見える。彼女から逃げているわけではない。彼が逃げているのは、自分自身の現実だった。女は指先でカードを器用にもてあそびながら、スマートフォンを取り出し、ある番号へ発信した。コール音が二度鳴ったところで、相手が出る。「どうだった?」受話口から聞こえてきたのは、女の声だった。低く掠れたその声は、どこか病み上がりを思わせる弱々しさを帯びている。その声を聞いた瞬間、女の表情はいっそう緩んだ。「大体うまくいったわ」彼女はベッドの縁に腰掛け、脚を組みながら軽い口調で続ける。「夕べ、彼はちゃんと部屋に入ってきたし、酒も十分回ってた。証拠もきっちり押さえてあるわ。あなたが欲しがってた写真も何枚か撮れたし、角度も完璧。ベッドの上だけじゃなく、あらゆる場所もね」そこでわざと間を置き、喉の奥でくすりと笑った。「しかも彼、私のことをずっと深水心愛だと思い込んでたのよ。一晩中、その名前を呼び続けてたわ……これ、あなたが一番喜びそうな話じゃない?」電話の向こうが、二秒ほど沈黙する。次の瞬間、聞こえてきたのは葵の笑い声だった。病室の中へ響き渡るその笑い声は、ガラスを爪で引っ掻くように不気味で、耳障りなほど甲高かった。「よくやったわ」葵は病院のベッドに横たわっていた。手の甲には点滴の針が刺さっている。だが、その口元は歪むほど吊り上がっていた。今の彼女は、ほとんど身動きが取れない。首から下は鉛でも流し込まれたように重く、少し動くだけで冷や汗が滲むほどの痛みが走る。それでも胸の内だけは、奇妙なほど晴れやかだった。自分がこんな目に遭っているのだ。他人だけが幸せになるなど、許せるはずが
続きを読む

第390話

「これで十分ね」彼女は満足そうに写真を暗号化フォルダへ保存すると、ゆっくり立ち上がり、そのまま浴室へ向かった。名雲の空は、鉛を流し込んだように重たく曇っていた。貴臣は会社へ戻らなかった。高架道路をしばらく当てもなく走らせた末、気づけば街の北側にある、あの古い邸宅街へと辿り着いていた。加賀見本邸の佇まいは、決してこれ見よがしな豪奢さではない。黒い彫刻入りの鉄門が静かに構え、その奥に並ぶ木々が天然の目隠しとなって、屋敷の半分と、朝の淡い光だけをわずかに覗かせていた。貴臣は少し離れた場所に車を停めたものの、すぐには降りられなかった。昨夜はまともに眠れていない。酒が抜け切った今になって、頭の中はむしろさらに混乱していた。あの忌々しい愚行が、泥汚れのように身体へこびりついて離れない。どれだけ振り払おうとしても、消えてはくれなかった。本来なら、今すぐ会社へ向かうべきだった。あるいは梅原家へ赴き、葵が残したあの泥沼の後始末を監視するべきだった。それなのに、車を走らせているうち、どうしてもここへ来てしまった。未練がましい、自虐的な感情に引きずられるように。あるいは、どうしても断ち切れない執着に突き動かされるように。彼は車内でハンドルを指先で二度、軽く叩いた。だが結局、観念したようにドアを開け、車を降りると、そのまま加賀見邸へ向かって歩き出した。門は完全には閉じられていなかった。中からは、かすかな話し声が聞こえてくる。食器の触れ合う、穏やかな音も混じっていた。貴臣の足が、門の前で止まる。わずかに開いた隙間から、そっと中へ視線を落とした。ダイニングの辺りは、朝の日差しに包まれて明るかった。長いテーブルには、温かな味噌汁、焼き魚、卵焼き、漬物、炊き立ての白米が並んでいる。上座の隣に座る静香は、夫の正国が砂糖を控えめに入れたことへ不満を漏らしていた。だが正国は、「もう歳なんだから甘いものは控えろ」と口では言いながらも、手元ではちゃっかり砂糖の容器を妻の方へ押している。そして、テーブルの反対側。心愛はうつむきながら、静かに味噌汁を啜っていた。髪はゆるくまとめられ、身につけているのはシンプルなセーターだけ。化粧もほとんどしていない。それでも、昨夜ぐっすり眠れたことがひ
続きを読む
前へ
1
...
3738394041
...
47
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status