身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った のすべてのチャプター: チャプター 391 - チャプター 400

462 チャプター

第391話

扉の向こうでは、心愛がうつむきながら食事を口へ運んでいた。ふと笑った拍子に、その瞳が三日月のように細くなる。あんなふうに心から安らいだ顔を――桐生家で過ごしたあの三年間、自分は一度たりとも彼女にさせてやれなかった。本当に、ただの一度も。貴臣は、不意に立っていられないほどの眩暈に襲われた。足元は鉛を流し込まれたように重く、胸の奥は息が詰まるほど空虚だった。ここへ来る前、自分でも説明のつかない淡い期待を抱いていた。遠くからでも、ほんの一目だけ心愛の姿を見られればいい。もし許されるなら、少しだけでも言葉を交わせるかもしれない。そんな、都合のいい願いを。だが今になって、ようやく思い知らされる。自分には、もうこの門をくぐる資格すら残されていないのだと。自分が彼女に与えてきたものは、最初から最後まで、痛みしかなかった。心愛にとって、本当の意味で「家」と呼べる場所は、加賀見家だけなのだ。貴臣は数秒その場に立ち尽くしていた。やがて、ゆっくりと一歩後ろへ下がると、そのまま背を向けた。結局、中へ入ることはなかった。何の物音も立てずに。……ダイニング。暁はふいに何かの気配を感じ取ったように、玄関のほうへ視線を向けた。だが、そこにはもう誰の姿もない。彼はわずかに目を細めたものの、何も言わなかった。やがて朝食も終わりに近づき、正国と静香は先に席を立ってリビングへ向かった。食卓に二人きりになると、暁は不意に身を寄せ、心愛の耳元で声を潜めた。「さっき、玄関のところに誰かいた気がした」ちょうど手元を拭いていた心愛は、その言葉に動きを止める。「誰が?」「後ろ姿しか見えなかったが……桐生に似ていた」心愛は顔を上げ、玄関へ視線を向けた。だが、そこには人影ひとつ見当たらない。彼女はわずかに眉をひそめ、すぐに首を振った。「まさか。そんなはずないわ」「そうか?」「この前ここへ来た時、あれだけ無様な醜態を晒したのよ」心愛は手にしていたティッシュを置き、淡々とした声で続けた。「あの人って、何より世間体とかプライドを気にするタイプだもの。お父さんに追い出されたのに、またのこのこ来るほど面の皮は厚くないわ」暁はじっと彼女を見つめた。「ずいぶん詳しいんだな」「あの人の『恥を
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第392話

彼は二秒ほど沈黙したあと、とうとう根負けしたように口を開いた。「タクシーに乗ったらナンバーを送れ」「ええ」「目的地に着いたら位置情報を送れ」「分かったわ」「途中で寄り道はするな」「分かってるって」「用事が終わったら電話しろ」心愛は、これ以上ないほど勢いよく何度も頷いてみせた。「全部あなたの言う通りにするわ」暁はそこでようやく、不機嫌そうに短く鼻を鳴らした。出掛ける前、心愛が玄関で靴を履き替えている間も、暁はドアの脇に立ったまま、どこか納得のいかない視線を彼女へ向け続けていた。「マフラーを巻いていけ」「今日はそこまで寒くないわよ」「いいから巻け」「本当に口うるさいんだから」「早く」心愛は仕方なく部屋へ引き返し、マフラーを取って戻ってきた。首元に巻き終えた、その直後だった。ぐい、と暁の手が彼女を引き寄せる。何をするつもりなのか問い返す暇もなく、暁はそのまま身をかがめ、心愛を腕の中へ閉じ込めた。乱暴ではない。けれど、逃がす隙間もないほどしっかりと。まるで、まだ安心しきれないかのように。あるいは、ただ純粋に彼女に触れていたいだけであるかのように。「着いたら連絡しろ」暁は心愛の耳元へ唇を寄せ、低く囁いた。「ええ」「あまり待たせるな」「今のあなた、浮気調査してる束縛彼氏みたいよ」「なら、あなたは素直に調査される気があるのか?」「気分次第ね」「いい度胸だ」心愛は思わず吹き出した。そして顔を上げると、機嫌を直してと言わんばかりに、そっと彼の顎へ口づける。どこか宥めるような、甘いキスだった。それは、あまりにも不意打ちだった。暁の瞳が一瞬で昏く沈む。危うくそのまま彼女を捕まえ、二度と離さなくなるところだった。心愛は彼の表情の変化を察した瞬間、素早く一歩後ろへ下がり、そのままドアを開けて外へ飛び出した。「先に行くわね!」「心愛」「またお昼に!」バタン、と扉が閉まる。その直後、外から彼女の軽やかな足音が遠ざかっていくのが聞こえてきた。暁はその場に立ち尽くしたまま、片手で自分の顎に触れ、呆れたように苦笑する。「……敵わないな」……階下の路地裏。心愛はタクシーへ乗り込むと、運転手に目的地を告げた。車が走り出し
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第393話

タクシーが弾き飛ばされた瞬間、心愛は悲鳴を上げることすらできなかった。助手席側のドアへ凄まじい衝撃が叩きつけられ、車体全体が真横へ激しく吹き飛ばされる。窓ガラスは破裂したように砕け散り、鋭い破片が容赦なく顔や身体へ降り注いだ。肩は前の座席へ強く打ちつけられ、シートベルトが鎖骨へ深く食い込む。視界が真っ黒になるほどの激痛が走り、スマートフォンが手を離れて宙を舞った。運転手が短く悲鳴のような悪態を吐く。だが、その声も途中で途切れた。直後、さらに重たい第二の衝撃が車体を襲った。周囲は一瞬で阿鼻叫喚の混沌へ変わる。鳴り止まないクラクション。タイヤが地面を引きずる甲高い摩擦音。誰かが遠くで「早く救急車を!」と叫んでいる。大破したボンネットからは白煙が絶え間なく立ち上り、焦げた臭いが鼻を刺した。心愛の意識は朦朧としていた。耳の中へ綿を詰め込まれたように、周囲の音がうまく聞き取れない。必死に目を開けようとする。だが視界は激しく歪み、焦点が定まらなかった。フロントシートの運転手は、ハンドルへ突っ伏したまま動かない。額から流れ落ちた血が顎を伝い、ぽたぽたとハンドルを赤黒く染めていた。心愛は声を出そうとした。けれど喉の奥へ広がったのは、鉄臭い血の味だけだった。わずかに手を動かした瞬間、肋骨の辺りへ凄まじい激痛が走る。彼女はその場で身体を丸め、苦しげに蹲った。ドアは完全にひしゃげている。身動きが取れない。意識がゆっくりと深い闇へ沈んでいく中、脳裏へ残ったのは、どこか現実感のない、あまりにも切ない後悔だけだった。――さっきの「あの店に行こう」ってメッセージ、まだ送り切れてないのに。……加賀見グループ・社長室。暁はオフィスデスクの後ろへ腰を下ろしていた。パソコンの画面には、まだ目を通し切れていない企業買収関連の書類が表示されている。だが、彼の意識はとうに仕事から離れていた。右手側へ置かれたスマートフォンが、一度だけ淡く光って消える。暁は視線を落とし、画面を確認した。そこに表示されていたのは、心愛から届いた途切れたメッセージだった。【街外れにある、あの】その先が、続いていない。暁はその中途半端な文章をじっと見つめ、わずかに眉を寄せた。迷うことな
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第394話

嫌な予感は、この瞬間、完全に現実へと変わった。「昂一、西宮の交番に連絡しろ。事故被害者の名簿を、今すぐこっちへ回させろ」「こちらでも確認しますから、まずは落ち着いて――」「落ち着いていられるものか!」暁は車のキーをひったくるように掴むと、そのまま勢いよく外へ向かった。歩幅は異様なほど速く、声は氷のように硬く冷え切っている。「私が直接現場へ行く」昂一が慌てて追いかけようとしたが、目の前でドアが激しい音を立てて閉まった。取り残された碧は、その場に立ち尽くしたまま、行き場のない不安に手を震わせ始める。「近藤さん……まさか、本当に深水さんじゃないですよね……?どうしよう……」昂一は苦々しく眉を寄せながらスマートフォンを取り出し、すぐさま外部へ連絡を入れた。「今は縁起でもないことを言うな。確証が出るまでは」……西宮の交差点は、すでに野次馬で埋め尽くされていた。黄色い規制線が幾重にも張られ、救急車がけたたましいサイレンを鳴らしながら走り去っていく。地面には無数のガラス片が散乱し、黒々と広がったエンジンオイルが不気味に光っていた。あのタクシーは、もはや原形を留めていない。ボンネットは大きく潰れ、フロントガラスは完全に砕け散っていた。暁の車は、完全に停まる前にドアが開け放たれた。「立ち入り禁止です!」警官が慌てて制止に入る。「この事故の被害者はどこへ搬送された」「近くの西宮病院です」「被害者は何人だ」「一名死亡、一名負傷です。二人とも病院へ搬送されました」――一名死亡。その言葉が叩きつけられた瞬間、暁の足が目に見えて止まった。指先がかすかに震える。喉仏が苦しげに上下し、声を出そうとしても喉が張り詰めて動かなかった。「……亡くなったのは、どっちだ」「運転手は即死でした。女性の乗客は現在救命措置を受けています」暁の胸が重く沈み込む。だが次の瞬間、引き裂かれそうな焦燥の中で、かろうじて息を繋ぎ止めた。亡くなったのは運転手。つまり、心愛はまだ生きている。彼はそれ以上何も言わず踵を返し、車へ戻ると、乱暴にドアを叩き閉めた。西宮病院へ向かう車は、狂ったような速度で道路を駆け抜ける。ハンドルを握る暁の手には、青白い血管が浮き上がっていた。赤信号も
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第395話

「心の準備をしておいてください」その言葉の重みは、まるで刃物がじわじわと肉を裂いていくようだった。暁はその場に立ち尽くしたまま動けないでいた。喉の奥が引き裂かれそうなほど強く締めつけられる。「先生」口を開いたとき、すでにその声は掠れていた。「どんな手を使ってでも救ってください。あの子が生きてさえいれば、どんな姿になろうと構いません。脚が不自由になろうと、寝たきりになろうと、意識が戻らなかろうと構わない。ただ、命だけは……あの子の命だけは奪わないでくれ」医師は彼を見つめ、一瞬言葉を失った。救急外来では、こうした懇願を嫌というほど聞いてきた。だがその多くは感情のままに取り乱した叫びに過ぎない。しかし目の前の男は違った。一言一言を、まるで自らの肉を噛み千切るように、静かに、重く、深く吐き出していた。「全力を尽くします」「全力を尽くす、ではない」暁は鋭く医師を見据えた。「必ず、生かして戻せ」その眼光に一瞬圧倒されながらも、医師は小さく頷く。「……承知いたしました」医師が奥へ戻った直後、エレベーターの方から慌ただしい足音が響いた。静香がほとんど駆け込むように現れる。髪は乱れ、その後ろの正国の顔もまた、見たことのないほど沈痛に強張っていた。「暁、心愛は……心愛はどこなの!」暁は振り返る。その声は地を這うように低かった。「まだ、あの中です」その言葉を聞いた瞬間、静香の目から涙が溢れた。「どうしてまたあの子なの……どうしていつもあの子ばかり……」口元を押さえ、声を震わせる。「どうしてあの子の運命はこんなに過酷なの?幼い頃に迷子になって、大人になってからもあんなに苦労して……ようやく肉親を見つけて家に帰ってこられたのに、どうしてまたこんな目に遭わなきゃいけないの……」言葉を重ねるうちに膝の力が抜け、今にも崩れ落ちそうになる静香を、正国が慌てて支えた。「おい、お前が先にそんな顔をしてどうする。先生たちは今も必死に処置をしてくださっている。命がある限り、希望はある」「でも……あの子があまりにも不憫で……」静香は夫の腕を強く掴み、目を真っ赤に腫らす。「母親の私は、あの子に何ひとつ十分な償いもできていないのよ……?あの子が穏やかに過ごせていた日々なんて、ほんの数日しかなかったじ
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第396話

正国も深く長い息を吐き出し、ようやく肩の力を抜いた。暁はその場に立ち尽くしたまま、しばらくの間、微動だにしなかった。医師がさらに言葉を重ねる。「患者さんはまもなく観察室へ移動します。麻酔が切れれば目を覚ますかと思いますが、脳震盪の影響による一時的な後遺症が出るかどうかは、今後の経過を見なければ何とも言えません」その説明に、一度は安堵しかけた暁の胸に、再びかすかな不安が差し込んだ。ストレッチャーに乗せられて出てきた心愛の顔は、紙のように白かった。額には幾重にも包帯が巻かれ、唇からはすっかり血の気が失われている。静香はその痛々しい姿を目の当たりにし、またしても涙を堪えきれなかった。「こんなにやつれてしまって……」暁は病床のそばへ歩み寄った。手を伸ばしかけたものの、空中で二秒ほどためらい、結局そっと布団の外に出ている指先に触れるだけに留めた。冷たかった。それでも、確かに生きていた。それだけで、今は十分だった。……病室には、バイタルモニターの無機質な電子音だけが静かに響いていた。窓の外では夜の闇がじわじわと厚みを増し、世界を覆っていく。二時間ほどが過ぎた頃、心愛の指先がかすかにぴくりと動いた。ずっとベッド脇に座り込んでいた静香が、弾かれたように立ち上がる。「心愛、心愛!気がついたの?」暁と正国も同時にベッドへ視線を向けた。心愛はゆっくりと目を開いた。しかしその瞳には焦点がなく、まだ激しい痛みの余韻の中にいるようだった。視線は天井の照明を捉え、そのまま病室の天井をさまよい、やがてゆっくりと下りて三人の顔へと向かう。静香は目を真っ赤にしながら、彼女の手を強く握りしめた。「いいのよ、怖がらないで。お母さんがここにいるわ」心愛はじっと彼女を見つめていたが、その瞳には茫然とした色が浮かんでいた。何も答えない。暁は身をかがめ、声を極限まで落として問いかけた。「心愛、私だ。分かるか?」心愛は顔をわずかに巡らせ、今度は暁の顔へ視線を合わせる。見つめる時間が続くほどに、彼女の眉間がゆっくりと寄っていった。だがそれは痛みによるものではない。明らかに、見知らぬ相手に向けられた警戒だった。病室に沈黙が落ちる。そして次の瞬間、彼女が口を開いた。掠れてはいるが、一語一語は驚くほどはっきり
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第397話

病室の空気は、まるで氷水に沈められたかのように凍りついていた。鼻を刺す消毒液の匂いと、バイタルモニターが一定のリズムで刻む無機質な電子音。そのわずかな音さえ、聞く者の胸を重く締めつけ、痺れるような圧迫感を与えていた。医師の口から告げられた「記憶喪失」という言葉の余韻がまだ残る中、心愛はベッドの上で身体を小さく縮め、布団の端をぎゅっと握りしめた。顔色は青白く、額には包帯が巻かれ、唇からはすっかり血の気が失われている。それでも、その瞳の奥には鋭い警戒心が宿っていた。まるで罠から逃れたばかりで、誰も信じられずに身を固くする小動物のようだった。静香の目からは涙がとめどなく溢れ落ち、声も細かく震えていた。「心愛……もう一度よく見て。お母さんよ」心愛は強く眉をひそめ、差し伸べられかけた手を避けるように身を引いた。「触らないで」その一言で、静香の身体は文字通り凍りついた。ベッド脇に立ち尽くしたまま、伸ばしかけた手が宙に浮く。ようやく保っていた母としての均衡が一瞬で崩れ、涙はさらに激しく頬を伝った。正国がすぐさま彼女の肩を支える。その表情もまた厳しく強張っていたが、それでも声を抑えながら医師に問いかけた。「……この状態は、どれくらいで回復するものですか」医師はカルテを胸に抱え、慎重に言葉を選んだ。「申し上げにくいですが、頭部への衝撃によるものですので、現時点では一部の記憶が欠落している状態です。まずは刺激を与えないこと、そして無理に記憶を呼び戻そうとしないことが重要です。情緒が非常に不安定になっていますので、追い詰めれば追い詰めるほど拒絶反応が強まる可能性があります」「どういう意味だ」ベッドの反対側に立つ暁の声は、地を這うように低く沈んでいた。「この子の記憶は、今どうなっている?」医師は彼を一瞥し、小さく息を吐いた。「先ほどの反応を見る限り、記憶はおそらく二十歳前後で止まっています。それ以降に起きた出来事は、ほとんど失われている可能性が高いでしょう」二十歳。暁の指先が、じわりと強く握り込まれた。それは、彼女がまだあの泥沼から完全に抜け出していなかった頃。そして、誰よりも不器用なほど真っ直ぐに、純粋な心を他人へ差し出していた時期でもあった。その懸念を裏づけるように、次の瞬間、心愛が
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第398話

静香は涙を拭い、必死に言葉を尽くして宥めようとしたが、これ以上心愛の拒絶反応を強めることを恐れ、その場に立ち尽くしたまま、懇願するように潤んだ瞳で娘を見つめることしかできなかった。心愛はその視線に、かえって不安を煽られるような気持ちになり、病室の中を一度ぐるりと見渡したのち、結局は再び暁へと視線を戻した。自分でも理由が分からなかった。明らかに一番居心地が悪くなる相手なのに、どうしても目で追ってしまう。彼はあまりにも圧倒的な存在感を放っており、ただそこに立っているだけで、空間のすべてが彼に支配されているようだった。だが今の彼は言葉を発さず、うつむいたまま表情を冷たく強張らせている。ハンドルを握っていた時と同じように、手の甲には青白い筋がくっきりと浮き上がっていた。ひどく、苦しそうに見えた。心愛の胸の奥が、不意にきゅっと締めつけられる。ほんのわずか、痛みと呼ぶには足りないのに、息が詰まるような感覚だった。自分でも戸惑っていた。この男のことは知らない。少なくとも、記憶のどこを探しても、彼に関する断片は見つからない。それなのに、どうして彼のそんな表情を見るだけで胸が痛むのか。彼女は唇を噛みしめ、その不可解な胸騒ぎを無理やり押し殺すと、さらに声を落として言った。「……本当に、あなたたちのことは知らないんです」「いいのよ、気にしないで」静香が慌てて言葉を挟んだ。娘がパニックになることを何より恐れているようだった。「焦らなくていいの。思い出せなくても大丈夫よ。少しずつ、ゆっくりやっていきましょう」「ゆっくりなんて嫌!」心愛の顔から血の気が引き、声には涙が混じり始めていた。「今すぐ、貴臣に会いたいの!」正国はこれまで堪えていたが、ついに限界を迎えた。「あんな男に会って、一体どうするつもりだ!」心愛は即座に顔を上げ、言いがかりをつけられたような視線を向ける。「あの人は私の夫よ?私が怪我をしたのなら、あの人以外に誰を頼れっていうの!」――夫。その一言が、再び病室に重く突き刺さる。今度は静香さえも言葉を失った。娘が病気のせいなのだと、わざと傷つけているわけではないと頭では理解していても、耳にした現実はあまりにも残酷だった。痛すぎる。血を吐くような思いでようやく見つけ出し、あれほどの
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第399話

心愛には、それが理解できなかった。本当なら喜ぶべきなのだ。貴臣がもうすぐ来るのだから、そうすればこのわけの分からない人たちと顔を突き合わせていなくて済む。それなのに、どうして少しも気持ちが楽にならないのだろう。二十分もしないうちに、病室の扉が勢いよく押し開けられた。貴臣がやってきたのだ。スーツのジャケットを着替える暇もなかったらしく、額にはじんわりと汗が滲んでおり、一分一秒を惜しんで駆けつけてきたのが一目で分かった。彼は部屋に入るなり、まっすぐに病ベッドへと視線を走らせた。四目が交錯したその瞬間、貴臣の足がぴたりと止まった。その瞳。かつてのように純粋な依存と、こぼれ落ちそうなほどの脆く切ない想いを湛え、自分だけを見つめている彼女の瞳。そんな眼差しは、もうあまりにも長いこと見ていなかった。長すぎて、この人生では二度と手に入らないと思い込んでいたほどだった。「……貴臣」心愛のほうが先に口を開いた。喉がまだ掠れており、声も弱々しかったが、その名を呼ばれた瞬間、貴臣の全身が微かに震えた。それは、かつての心愛だった。桐生家で過ごしたあの三年間、ただひたすらに、自分だけを求めていた頃の深水心愛だ。貴臣の胸の奥に、抑えきれないほどの熱い塊が込み上げてきた。呼吸の乱れさえ隠せない。彼はほぼ突き動かされるように歩み寄り、ベッドの脇に腰を落として彼女を見つめた。「ああ、ここにいるよ」「どうして今頃来るの……」心愛の目の縁が一瞬にして赤くなり、声には恐怖から解き放たれたあとの、甘えるような涙が混じった。「目が覚めたら知らない人ばかりで……私、誰一人分からなかったのよ」貴臣はそっと手を伸ばし、彼女の頬に触れようとした。「怖がらなくていい。俺が来たからには、もう大丈夫だ」彼の指先が彼女の肌に触れるか触れないかというその瞬間、横から無造作に伸びてきた手が、彼の手首を容赦なく掴み取った。凄まじい力だった。貴臣は顔色を変え、鋭く視線を巡らせた。そこにいたのは、底知れぬ暗さを湛えた瞳で自分を見下ろす暁だった。「話をするなら言葉だけにしろ。その薄汚い手を引っ込めろ」暁の声は低く抑えられていたが、氷のように冷え切っていた。貴臣は彼を睨み返し、じわじわと自分の手首を引き抜いた。「心愛が今求め
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第400話

「どういうことかと言うとね、私はあなたのお母さんで、この人はあなたのお父さんなの。あなたは孤児なんかじゃない。加賀見家の娘であり、私たちが二十年以上も探し続けてきた、たった一人の愛娘なのよ」心愛は息を呑んだまま、完全に硬直していた。何か言おうと小さく口を開いたものの、しばらくの間、まともな声にはならない。あまりにも衝撃的な事実を突きつけられ、今の彼女の頭では到底処理しきれなかった。彼女の記憶は、まだあの過去に縛られたままだ。両親もおらず、ただ生きるために、必死に貴臣へすがりつくしかなかった、あの頃の自分。それなのに今、目の前の女性から親子鑑定書を突きつけられ、自分には帰るべき家があるのだと告げられている。自分には、両親がいた。そして、目の前の二人が向ける眼差しは、とても偽物には見えなかった。張り裂けそうなほどの愛おしさ。失った我が子をようやく取り戻したという、張り詰めた緊張と安堵。それらは到底、芝居で作れるものではない。心愛の指先がかすかに震え、呼吸の乱れさえ隠せなくなる。「じゃあ……じゃあ、この人は?」ふいに暁へ視線を向け、戸惑いを滲ませながら問いかけた。「この人は、誰なの?」病室が一瞬、水を打ったように静まり返る。静香は鼻をすすり、やわらかな声で言った。「この人は……あなたの、兄さんよ」その一言が落ちた瞬間、貴臣の瞳の奥がかすかに揺らいだ。一方で暁は、その場に立ったまま背筋を鉄のように強張らせていた。表情こそ変わらないが、下げた拳だけが、じわじわと強く握り込まれていく。――兄さん。その呪縛のような呼び名が再び自分に覆いかぶさった瞬間、古傷を刃物で抉られるような痛みが走る。そして心愛は、長く暁を見つめた末、やがて視線を落とし、小さく消え入るように呟いた。「……兄さん」甘えるようで、ひどく頼りない響きだった。呼び方を間違えないようにしているような、まだその言葉に慣れていないような声音。だがその一言を耳にした瞬間、暁は胸の奥の最も深い場所が、音もなく削り取られたような錯覚に陥った。本当は別の呼び方をしてほしかった。名前を呼んでほしかった。ただ「暁」と。つい昨日まで、あの夜の闇の中で、吐息混じりに自分の名を呼んでいたはずなのに――今はそれが、最も遠い言葉になっている。
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