千石鍼灸院。凛はのんびりと薬膳鍋を食べていた。食べたのはほとんど野菜ばかりだったが、最後には腹がはちきれそうだった。紗枝が凛に言う。「消化にいいから、お鍋の汁を飲んでごらん」しかし策がぼやいた。「最初のころより、ちょっと味がぼやけてるな」その時、海斗が自分用に取っておいた出汁の器を凛の前に差し出した。大きな手で碗を覆い隠すようにし、その手の甲には青筋が浮かんでいる。「これを飲め。冷めてないし、誰も口をつけていないから」男の落ち着いた低い声が、ゆっくりと凛の耳に届いた。その響きは、まるで柔らかな羽根でそっと撫でられているようだった。凛の瞳に僅かだが感情が浮かんだ。「ありがとう」「ああ」景山家姉弟がいなくなり、向かいの席は空いていたが、海斗は相変わらず凛の隣に座り、無口で周囲を凍てつかせるような空気を纏っている。だが、彼の瞳には誰にも気づかれないほどの感情が隠されていた。たとえば、自分用だと言いながら、最初から凛のためにとっておいた温かい鍋の出汁。それを凛が飲むのを見て、海斗はほとんど分からないほどの笑みを浮かべ、密かな満足感に浸っていた。そうだ、満足しているのだ。ただの喜びでもなく、大げさな愛情表現でもない。冷たさという仮面をまとったまま、それでも心の奥深くに刻まれ、静かに満たされていく……そんな穏やかで確かな満足感だった。長い年月をかけたプロジェクトがようやく成功し、クライアントの仕草一つで報われるあの静かで確かな満足感。凛が離婚したことも事実だし、凛に対する海斗の思いも本物だった。人を好きになる気持ちや愛というものに、常識は通用しない。ルールなんて存在しないに等しいのだ。海斗と凛の間に流れている入る隙のない奇妙な空気に気づいた策は、黙っている事に決めた。今回の食事はかなり色々なことがあった。急遽、薬膳鍋にしようと決まり、昼から2時間煮込んで、やっと食事が始まると思った矢先に智也が現れ、結局食事が終わったのは午後の4時。今日はもう夕飯を食べる必要もないだろう。食事を終えた海斗は竹内グループへ戻る必要があったので、凛も一緒に本社へと連れていった。凛はついでだからと、研究室に寄ろうと思っていたのだが、海斗から「行けるもんなら行ってみろ」とでも言いたげな、冷酷で厳しい視線を向けられる。
Read more