All Chapters of 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚: Chapter 371 - Chapter 380

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第371話

千石鍼灸院。凛はのんびりと薬膳鍋を食べていた。食べたのはほとんど野菜ばかりだったが、最後には腹がはちきれそうだった。紗枝が凛に言う。「消化にいいから、お鍋の汁を飲んでごらん」しかし策がぼやいた。「最初のころより、ちょっと味がぼやけてるな」その時、海斗が自分用に取っておいた出汁の器を凛の前に差し出した。大きな手で碗を覆い隠すようにし、その手の甲には青筋が浮かんでいる。「これを飲め。冷めてないし、誰も口をつけていないから」男の落ち着いた低い声が、ゆっくりと凛の耳に届いた。その響きは、まるで柔らかな羽根でそっと撫でられているようだった。凛の瞳に僅かだが感情が浮かんだ。「ありがとう」「ああ」景山家姉弟がいなくなり、向かいの席は空いていたが、海斗は相変わらず凛の隣に座り、無口で周囲を凍てつかせるような空気を纏っている。だが、彼の瞳には誰にも気づかれないほどの感情が隠されていた。たとえば、自分用だと言いながら、最初から凛のためにとっておいた温かい鍋の出汁。それを凛が飲むのを見て、海斗はほとんど分からないほどの笑みを浮かべ、密かな満足感に浸っていた。そうだ、満足しているのだ。ただの喜びでもなく、大げさな愛情表現でもない。冷たさという仮面をまとったまま、それでも心の奥深くに刻まれ、静かに満たされていく……そんな穏やかで確かな満足感だった。長い年月をかけたプロジェクトがようやく成功し、クライアントの仕草一つで報われるあの静かで確かな満足感。凛が離婚したことも事実だし、凛に対する海斗の思いも本物だった。人を好きになる気持ちや愛というものに、常識は通用しない。ルールなんて存在しないに等しいのだ。海斗と凛の間に流れている入る隙のない奇妙な空気に気づいた策は、黙っている事に決めた。今回の食事はかなり色々なことがあった。急遽、薬膳鍋にしようと決まり、昼から2時間煮込んで、やっと食事が始まると思った矢先に智也が現れ、結局食事が終わったのは午後の4時。今日はもう夕飯を食べる必要もないだろう。食事を終えた海斗は竹内グループへ戻る必要があったので、凛も一緒に本社へと連れていった。凛はついでだからと、研究室に寄ろうと思っていたのだが、海斗から「行けるもんなら行ってみろ」とでも言いたげな、冷酷で厳しい視線を向けられる。
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第372話

しかし、そんなことなど知らない凛だけが、自然に彼女たちのほうへ歩み寄ってきて、こう言った。「海斗は仕事を片付けてきて。私はここに座って待ってるから」理央は目を丸くして、口元を強く結んだ。え?竹内社長じゃなくて、海斗って言った?恵と理央は顔を見合わせ、意味ありげな視線を交わす。凛が座ると、海斗はその長い脚で社長室へと入っていった。午後外に出ていた分の仕事に追われていたため、頻繁に凛へ視線を向けることができなかった。約束の5時52分はとうに過ぎていたが、海斗はわざと、それを凛に教えない。凛もその約束の時間を忘れ、会社から支給されたパソコンのキーボードを軽やかに叩いていた。恵は何気なく覗き込んだ。うん。さっぱり分からない。だって自分は文系だもの。夜9時からの国際会議がどれほどかかるかは、海斗にも分からないし、秘書たちには残業代が出るが、凛には出ない。そこで、海斗は凛を送るように運転手へと指示を出した。伸びをし、データを保存した凛は、恵たちに手を振って別れを告げ、海斗にメッセージを送った。【海斗、私は先に帰るね】【美穂子さんが夜食を作ってくれてる】凛の唇にふわりと笑みが広がり、帰りの車内では不思議な幸福感に包まれていた。だがその心地よさは、自宅前に立つ智也を見た瞬間に消え失せた。智也は門の前に立っていた。日中あんなに整えられていた髪は乱れ、服やズボンには犬に噛みつかれた痕がある。牙を剥いた二頭のジャーマン・シェパードのリードを、ボディーガードたちが懸命に引っ張っていた。どうやら、相当な大乱闘があったようだ。ボディーガードが言うには、午後7時には智也がここへ来ていて、犬のダイトとコマキが噛みついては離さず、危うく怪我をさせてしまうところだったらしい。怪我はしなかったものの、智也は懲りずに今の今まで粘り続けていたのだった。凛の姿を見た智也は、充血した瞳を輝かせ、彼女の名を呼んだ。「凛……」しかしその瞬間、ダイトとコマキが激しく吠え、智也と凛の間に立ちはだかる。それ以上は近づけずに、智也はすぐさま歩を止めた。「凛さん!」台所で料理をしていたのか、エプロン姿の美穂子が、フライ返しを持って慌てて出てきた。「早く入って下さい。夜食の準備ができていますよ」凛は智也を一瞥もせず、穏やかな
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第373話

凛は智也の目を真っ直ぐに見つめて言った。「たとえ死ぬ事になっても、あなたと復縁することはないから」その重い一言は巨大な岩のように智也の胸にのしかかり、彼は呼吸さえ困難になった。「凛……どうして……」凛は彼がそう聞くことさえ滑稽だと感じた。「智也、どうして私が浮気した男と復縁するなんて思ってるわけ?」智也の声が詰まる。「一度だけ、やり直させてくれ。頼む、一度だけでいいんだ。これからは……」「私たちに『これから』なんてないの」凛はそう言い捨てると、ボディーガードたちに彼を解放するように指示し、傍らに座るジャーマン・シェパードたちを自分の方へ呼び寄せた。腰に手を当てた美穂子が、フライ返しを掲げ、凛の背後に立ち、ボディーガードたちも智也の動きから、一瞬たりとも目を離さない。「ねえ智也、一度許されればそれで終わりだと思ってる?あなたはそうかもしれないけど、私は過去の記憶を思い出すたびに、あなたを許さなきゃいけなくなる。だから、あなたとやり直すってことは、自分自身を痛めつけることと変わらないの。それも、永遠にね」智也は全身をこわばらせたまま、その場に立ち尽くした。凛はさらに問いかける。「あなたは浮気しただけじゃなくて、結婚の動機も不純だったでしょ?あなたは私を、柚葉の関心を引くための道具としか見ていなかった。智也、あなたって本当にすごいよ。私を、自分の一途な愛を演出するための踏み台にしたんだから」智也の目がゆっくりと大きく見開かれた。もう4年も前のことなのに、なぜ凛がそれを知っているのだ?確かに結婚の動機は不純だったかもしれない。だが、そこに愛が全くなかったら、結婚などしなかった。凛へのプロポーズを考えていた頃、すでに凛のことを好きになっていた。ただ柚葉への想いを捨てきれず、心の片隅に生まれた新たな芽を無視してしまっただけ。それが4年の結婚生活で大きく成長していたのだった。「凛、俺は自分の気持ちに気づいていなかった。でも、今ならはっきり分かる。本当に愛しているのは、お前だけなんだ」「あなたに好かれても、私はただ胸糞悪くなるだけ」その言葉からは、嫌悪感が溢れ出ていた。「あなたはあなた自身を犠牲にできるほど、小林さんを愛していたでしょ?それなのに、私を愛してるって?私が無料の家政婦で、あなたの家族の世話を黙ってするから
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第374話

とにかく多すぎるの。智也、私はもう十分だから」凛はそう言いながら、目元にはじわりと涙が浮かんできた。状況から一歩引いて、客観的に見つめた時、自分自身がとても不憫に思えたのだ。「私はずっと子どもが欲しかった。温かい家庭には子どもがいるものだと思っていたから。あなたは一度も作ろうとはしてくれなかった。でもある日突然、私に子どもを作らせようとして……まるで慈悲でも与えたつもりみたいだったけど、あの瞬間から、私はあなたと離婚することを決めたの」なるほど……あの時だったのか……智也の表情がより一層沈み込む。「最初はちゃんと話し合って、円満に離婚しようと思っていたの。それで、あなたがずっと思いを寄せていた小林さんと一緒になればいいって。でもあなたは私を離そうとしなかったし、周囲もみんなあなたに離婚を勧めたのに、全部無視していた。智也、あなたは私をこの結婚生活に死ぬまで縛り付けるつもりだったんだね」「そんなことはない」智也の声はもう掠れていた。「柚葉に金を送っていたのは、あいつと結婚してやれなかった事に対しての償いだったんだ。それに、お前と離婚する気なんて俺には一切ない。凛、俺がお前を手放せるわけがないだろ?」「この結婚に何かいいことでもあった?いつもあなたは高圧的で、私はその下でただ黙っていることしかできなかった」凛は首を振った。「こんな対等じゃない婚姻関係、おかしいに決まってるでしょ?」海斗が教えてくれたのだ。それは間違っている、と。自分の過ちを突きつけられた智也は、声を絞り出した。「凛、俺は絶対変わるから」しかし、凛の心は微塵も動かない。傍で話を聞いていた美穂子は何度も涙を拭い、智也を見て、怒りで胸が苦しくなった。本当に最低な話だ。凛さんのような優しい人が、こんなくずに4年間も健気に尽くしてきたのに、何も得られないどころか、挙句に時間とお金、そして健康まで奪われてしまったなんて。「谷口社長」美穂子は我慢できず、一歩前に踏み出した。「凛さんがどれだけ痩せているかご存じですか?身長168センチで40キロしかないんですよ。モデルを目指しているわけでもないのに、こんなガリガリなんて普通ではあり得ないんです。そんなに凛さんが大切だとおっしゃっていても、こんな事にも気づかないんですか?それに、低血糖で貧血気味です。愛してい
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第375話

凛はジャーマン・シェパードの頭を撫でて、「もう警戒しなくていいよ」と声をかけ、そのまま美穂子の腕を取って家の中に入った。ボディーガードもジャーマン・シェパードを連れて智也の前に立ちはだかり、今すぐ立ち去れと手振りで促す。「凛!」充血した目で、いく筋もの涙を流している智也。胃の痛みもどんどん激しくなっていた。悲しみが、まるで目に見えない大きな手のようになって、彼の心臓を握りつぶし、その激痛が胸から胃へと広がっていくのだ。それは空腹感でも膨満感でもなく、胃全体を強くねじり上げられるような痛み。痛みで立っていることもできず、冷や汗が吹き出てきて、呼吸さえ荒くなる。異変を感じたボディーガードが、凛を呼んだ。振り返った凛は、一目で智也の症状が分かった。胃痙攣だ。「美穂子さん、救急車を呼んでください。こんなところで死なれたら縁起が悪いので」智也は胃を強く押さえていた。胃が痙攣する度に激痛が走るが、凛に言われた言葉はもっと痛かった。救急車が到着した頃、智也は痛みで失神寸前だった。救急隊員が聞く。「ご家族の方は付き添われますか?」担架に乗せられうずくまる智也を見て、凛は淡々と答えた。「ここにこの人の家族はいません」美穂子も続ける。「この人は不法侵入者です」朦朧とする意識の中で、智也は自分を見下ろす凛を見ていた。彼の目尻から、一筋の涙がこぼれ落ちた。もう、凛は本当にどうでもいいんだ……サイレンの音と共に、救急車は南山ヒルズから走り去っていった。遠ざかる救急車を凛はしばらく見ていた。「あらやだ!鍋を火にかけたままでした!焦げちゃう、焦げちゃう」慌ててキッチンへ走っていった美穂子だったが、幸い、火を消すのに間に合って鍋は無事だった。凛も中に入り、尋ねる。「美穂子さん、今日のご飯は何ですか?」「鶏肉の煮込みですよ」美穂子は丁寧に油を取り除き、器によそる。「さあさあ、ダイニングで召し上がってください。海斗様が昼は薬膳鍋でお肉をたくさん食べたとおっしゃっていたので、夜は軽めのものをいくつか作っておきましたよ。でも、お腹いっぱい食べてしまうと、消化に悪いと思ったので、少なめにしてあります」「ありがとうございます、美穂子さん」「いえいえ。もう谷口家という呪縛から解き放たれたんですから、これからは心機一転、ち
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第376話

最後は、智也がどれだけ恥晒しな人間かと言うふうにまとめられていた。しかし、もうすでに会議室にいた海斗は、会議を前に、社員のレポートを事前に読み込み、利害関係を整理しておく必要があったため、そのメッセージを見ていなかった。会議を終えてそのメッセージを確認した海斗は、すぐさま智也の状況を問いただした。凛が相手を怒りで胃痙攣にさせ、入院させたという報告を受けると、その冷たい顔にふっと笑みが浮かぶ。そして、最後の一文に彼の視線が止まった。【先ほどから凛さんがずっと上の空だったので、何を考えているのか伺いましたら、海斗様のお名前を答えたんです。海斗様、凛さんは海斗様のことを考えているらしいですよ】【具体的に】しかし、数分経っても美穂子から返信がこない。どうやら、小説並みの返信を打ち込んでいるようだ。【いや、もういい】凛がそんなことを口にするわけがないし、仮に言ったとしても、そんな都合の良い意味であるはずがない。だったら、美穂子の余計な解説など聞かない方がマシだ。美穂子は【?】と返信した。【腹が減った】美穂子は一瞬意味が分からなかったが、すぐに察した。ああ!そういうことか!美穂子は顔を上げて言った。「凛さん、先ほど海斗様にお腹が空いているかどうか尋ねましたら、どうやら何も食べていないようなので、ここにお呼びしてもいいですか?」海斗と一緒に昼食をとった凛は、彼が夕飯もまだだということを思い出した。確かにお腹が空いているだろう。「まだ余っていますか?それか、まだ手を付けてないものもありますから、取り分けましょうか?」凛は目の前にあるおかず三品と汁物、そして大きなボウルに入った煮物を見つめる。それは、凛の3食分の量だった。美穂子は少なめだといつも言っていたが、凛は自分が育ち盛りの高校生だと思われている気がしているのだ。もう一度作るつもりの美穂子だったのだが、凛が海斗のために食事を残そうとしているのなら、それを断る理由はない。「それじゃ、お皿を用意してきますね!」凛は箸を置き、美穂子が持ってきたお皿に食事の半分を取り分けてから、ようやくゆっくりと自分の分を食べ始めた。海斗が南山ヒルズ9号棟に到着した時、凛はすでに自室で休んでいた。彼は美穂子が夜食を温め直して出すのを眺めていた。「海斗様、凛さんがご自身の食事
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第377話

柔らかい女性を腕に抱いていた正人は、夜中に突然病院から電話を受けた。智也が胃痙攣で搬送されたという。智也が昔は胃潰瘍や出血で何度も苦しんでいたから、正人も智也の胃が弱いことはよく知っていた。だからこそ、凛は智也のために食事を徹底的に管理し、一日三食を必ず手作りしていた。だからもう治っていたはずなのに、なぜ今更胃痙攣なんて起こすんだ?凛さんはいないのか?普通、こんな電話はまず凛に入り、その次に谷口家、最後が友人である自分であるはずなのに。自分のところに電話が来るなんて、何かが変だ。腕に抱いていた女性を突き放し、正人が急いで病院へ向かうと、病室には、顔面蒼白で意識を失っている智也がいた。一晩中付き添い、検査結果の受け取りや薬の手配をし、そして彼が点滴を受けている様子を見守った。空が白み始めた頃、正人は椅子に座ったまま力尽きて眠りに落ちた。ほんの少し眠ったころ、着信音で起こされた。正人は自分の携帯に手を伸ばしたが、鳴っているのは自分のものではなかった。ベッドサイドのテーブルに置かれたスーツの上着を見て、それが智也の携帯だということに気がつく。近づいて画面を見ると、柚葉の名前が表示されていた。正人は通話ボタンを押す。「もしもし、柚葉さん?」「正人さん?智也と一緒なの?入院してるって本当?」眠る智也を一瞥し、正人は眉間を揉みながら大きなあくびを噛み殺した。「ああ。胃痙攣だってさ。昨夜からずっと意識が戻らないんだ」「どこの病院?すぐに行くから」「柊病院だよ。近くに来たら教えて。迎えに行くから」柊病院は会員制のため、何かと規則が細かいのだ。正人が電話を切った瞬間、智也が目覚め、苦しげな声で彼を呼んだ。「智也、やっと起きたか!なんだよ、一体どうしたんだよ?酒の飲み過ぎか?」智也は唇を震わせた。「まずは水をくれ。頼む」正人は急いでコップに水を注ぎ、智也が飲み干すのを待ってから、事の真相を聞き出そうとした。ずっと安定していたのに、どうしてまた胃痙攣なんか起こしたんだ?「昨夜は迷惑をかけたな」と、智也は正人に礼を言った。「あんな遅い時間だったから、家族に知らせたくなかったんだ」「分かってるよ。そんなことどうでもいい」正人と智也はもう何十年も友人をやっているので、正人にしたら、そんなことは大したことではなか
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第378話

正人は、智也の苦悶の表情を見つめていた。友達として慰めるべきだと分かってはいたが、つい口が滑り、こう言ってしまった。「でも智也、お前だって彼女を4年間騙し続けてたじゃないか」正人がそう言った瞬間、病室が静まり返った。「なあ智也、別に凛さんを庇うわけじゃないけど……」正人は言葉を切り、うまく説明できない苛立ちを感じながらも、結局は諭すようにこう続けた。「まさかお前がこれほどまで凛さんのことが好きだったなんて、思わなかったよ。離婚しただけで、胃潰瘍を起こすなんてさ」あの晩、バーで智也が凛のことを好きだと言った時、正人はよくある普通の好意だと思っていた。男なら、四六時中一緒にいる女を好きになるのはよくある話。前みたいに、意地を張って責任感だ何だと嘯いているほうが異常だった。だが今回の様子を見ると、智也の「好き」という言葉は、並大抵の情じゃないことが分かる。だからこれ以上智也を傷つけたくなくて、正人は話題を切り替えることにした。「何か消化にいいものでも買ってきてやるよ」食欲がないと呟く智也の顔色は悪く、瞳からは光が失われている。正人は黙って溜め息をつき、何か食べるものを買うために外へ出た。ついでに下の階まで降りて、柚葉を迎えに行く。柚葉は正人の顔を見るなり、焦ったように問い詰めた。「どうして胃痙攣なんかに?胃の具合はもうすっかり良くなったはずじゃなかったの?一体何が……」正人は溜め息をついて答えた。「ショックが原因だってさ」柚葉は足を止め、眉をひそめる。「ショック?何で?」「凛さんと離婚したらしい」正人は柚葉の膨らんだお腹を一瞥して言った。「これで智也とあなたは一緒になれる。けど……」不幸な結末しか待っていないだろう。柚葉はゆっくりと目を見開き、信じられないと言わんばかりに聞き返した。「離婚?本当に、智也が凛さんとの離婚に応じたの?」応じたわけではない。しかし、正人も柚葉を傷つけたくはなかったので、言葉を濁す。「凛さんの方から離婚を言い出したんだって」それでも、柚葉は納得できないようだった。「凛さんが自分から?でも、智也と離婚したら、これから先一体どの男が相手にしてくれるって……」その時、ふと言葉を止める。柚葉は美雪から聞いた話を思い出した。凛は海斗の彼女で、しかもすでに竹内家の実家まで連れて行
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第379話

柚葉が病室に現れると、智也は気だるげに瞼を上げて、真っ先にこう言った。「どうしてここに来たんだ?」その顔は、彼女の訪問を少しも歓迎していないように見える。柚葉は顔を引き攣らせたものの、依然として優しい声で話しかけた。「智也、気分はどう?入院したって聞いて、急いできたの」「誰から聞いたんだ?」智也は正人に視線を向ける。正人は慌てて首を横に振った。自分ではない。そう言われてみれば、柚葉も少し不思議に思った。病院からの連絡だと思っていたが、智也が入院したという知らせが送られてきたあの番号からは、1ヶ月半前にも、智也が泥酔したという連絡が入っていた。その番号に電話をかけても、応答はない。智也に聞かれてちょうどいい機会だと思い、柚葉はあっさり携帯を智也に差し出した。智也は一目でその電話番号が凛のものだと分かった。最近、自分から何度もメッセージを送っていたので、すっかり覚えてしまっていたのだ。智也は思わず口に出した。「凛?」凛が柚葉に自分の入院を教えたということは、まだ自分に関心があるのではないか?そうでなければ、わざわざ他の女を呼んだりしないはず。智也は、そんな都合のいいことを考えていた。柚葉も驚きを隠せない。「凛さん?1ヶ月半前、あなたが仕事の飲み会で泥酔したときも、この番号から連絡があって私を迎えに行かせたのよ?」その瞬間、智也は凍りついた。凛は自分に関心があるわけではない。逆に、一切興味がないのだ。あの日からずっと……だからこそ、智也が泥酔しようが、入院しようが、いつも別の女を呼び寄せる。真実を理解した智也の心臓が激しく脈打ち、身体と精神、両方からの刺激に冷や汗が吹き出した。医者は正人と柚葉に対し、智也を心療内科に回すことを勧めた。心の問題である可能性が高いという診断だったのだ。柚葉は胸が締め付けられる思いだった。凛との離婚がそこまで彼を苦しめているなんて!デリバリーした食事を受け取った正人が病室に入ろうとすると、目を赤く潤ませた柚葉が病室から出てきた。正人は怪訝そうに病室に入り、「柚葉さんに何を言ったんだ?」と、智也に聞く。「今の俺が好きなのは凛だって、伝えたんだ」「あの子は、お前の子どもを妊娠しているんだぞ?」「その子どもはいらない。今の俺たちにとって何の意味もないから」なん
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第380話

正確に言えば、知り合いというより、史哉に連れられて参加した学会で顔を合わせたことがある先輩だった。史哉には陸川さんと呼ぶように言われていた。凛が「陸川さん」と呼ぶその男は陸川宏明(りくかわ ひろあき)と、いった。宏明は40代半ばでかなり恰幅が良く、笑うと目が細くなる。元々は研究員だったが、独立してスマート医療分野のマイクロチップを開発する会社を立ち上げた人物だった。ただ気にかかることがある。宏明は社長なのだから、病院に来る時でも秘書や部下を連れていてもおかしくないのに、今は一人だ。凛がいぶかしんでいると、宏明も彼女に気づいたようで、目が合うと、宏明がこちらへ向かって歩いてきた。自分の先輩にあたるため、凛も立ち上がり挨拶をする。「陸川さん、お久しぶりです」「凛さん?人違いかなとも思ったけど、本当に凛さんだったよ。君はどうしてここに?」「人を探しに」と、凛は答えた。そして、宏明の手元におそらく検査結果と思われる紙が握られていることに気づく。しかし、凛が見た瞬間、素早く折りたたんだところを見る限り、あまり見られたくないものなのだろう。視線を逸らし、凛は問いかけた。「体調はどうですか?」「元気だよ。今日は付き添いで来たんだ」宏明はそう言うと、手元の時計を確認した。「午後から会議があるから、僕は先に失礼するよ」「はい、また」「またね」背を向けた宏明がポケットから携帯を取り出すのと同時に、先ほど彼が折り畳んでポケットに入れた診断書がひらりと地面に落ちた。病院内で大きな声は出せないので、凛はその紙を拾い上げ追いかけようとしたが、彼はすでに人混みに消えていた。その時、超音波室から柚葉が歩いてきた。凛は彼女に気づかれないよう、紙を隠してその場から遠ざかった。折り方が不格好だったせいか、ふと目を落とした先に文字が見えた。TP抗体/TPPA:陽性(+)凛の指先が震えた。凛が信じられずにその紙を見つめていた時、俯きながら、焦った様子で何かを探しているような宏明が戻ってきた。そして顔を上げた彼が、なんと柚葉に声をかけたのだ。宏明に気づいた柚葉は表情を一瞬強張らせたが、すぐに柔らかい表情を作り、「陸川さん」と声をかける。凛は思った。二人は知り合い?しかも、単なる知人という雰囲気ではなく、視線を交わした後、二
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