All Chapters of 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―: Chapter 81 - Chapter 90

100 Chapters

第81話

調査結果によれば、当時のあの時期、高城家の屋敷には確かに凛と同年代の女の子が同居していたという。凛の従妹にあたる女の子だ。高城家の両親が事故に遭った後、その子はすぐに実の親の下へと引き取られ、ここ数年は高城家とほとんど没交渉になっているらしい。これだけでも、時期的な状況は恐ろしいほどピタリと一致していた。和真は今、部下に命じてその従妹の周辺をさらに深く調べさせている。確認すべきことは、ただ一つだけだ。その従妹の足の裏に、あの時の傷跡が残っているかどうか。あるいは過去に、傷跡を消すための形成手術を受けた形跡があるかどうか――それだけだった。和真は視線を上げ、駿大と談笑する凛を見つめた。柔らかな光を浴びて優雅に微笑む彼女は、まるで誰もが大切に守りたくなるような可憐さを漂わせている。もし、例の従妹の足に傷跡がないとしたら、結論は一つしか残されていない。『みぃちゃん』こそが本物の高城凛であり、目の前にいるこいつは偽物だ。あの日、彼女がみぃちゃんではないと気づいて以来、和真の胸の奥では失望以上に、長年騙されていたことへの激しい怒りが燃えたぎっていた。この女は平然と嘘をつき、本来なら自分の隣にいるべき本物の居場所を奪い取ったのだ。そのせいで、和真はみぃちゃんを探し出す貴重な時間をいたずらに奪われてしまった。凛を見据える和真の眼差しが、氷のように冷たく濁る。ブブッ――不意にスマホが振動した。画面に表示された短いメッセージに目を落とす。【社長、例の人物についてですが、過去に足の怪我をした履歴はありませんでした。念のためご両親にも確認を取りましたが、傷跡を消すような手術を受けた事実も一切ないとのことです】一瞬、和真の手が痙攣し、あわやティーカップを取り落としそうになった。ゆっくりと顔を上げ、再び凛へと視線を向ける。その瞳に宿る感情は、もはや先ほどまでとは完全に別人のものだった。もし、みぃちゃんが本当の『高城凛』なのだとしたら、目の前で愛想良く笑っているこの女は一体誰なんだ?兄である駿大はその事実を知っているのか?こいつは一体いつから、みぃちゃんに成り代わったんだ――?----世間の熱い視線が注がれる中、コンクールの第2ステージがついに幕を開けた。今回の審査形式は「チーム戦」。一次審査を勝ち抜いた101名が、基本10人
Read more

第82話

「あ、知ってる!審査員が特例で追加した『101人目』の人でしょ!」希はパッと目を輝かせた。「あなたの絵、ネットで見たよ。すごくカッコよかった!」希の弾んだ大きな声が響き、周囲の参加者たちが一斉にこちらへ視線を向けた。『浅見実花』という名前は一般的には無名だが、コンクールの動向を注視している参加者たちの間ではそれなりに知れ渡っている。一度発表された通過者リストを覆させ、審査委員会に前代未聞の追加枠を作らせたのだから当然だ。とはいえ、ここに集まっているのは激戦を勝ち抜いた実力者ばかり。若くしてすでに界隈で名を馳せている者も少なくなく、本来であれば「無名の特例通過者」程度にそこまで興味を抱くはずがない。彼らの視線を釘付けにした本当の理由は、今日の実花の異様な出で立ちにある。他の参加者たちが「自らのアート性」をアピールしようとこぞって個性的に着飾る中、実花はただのパーカーにジーンズというあまりにも無頓着な格好だった。そして何より目を引いたのは、痛々しくギプスで固められ、首から包帯で吊るされた右手だ。この戦いの最中に、画家の命である右手が使い物にならないなんて、二次審査は絶望的だろう――それが、実花を観察した多くの者たちの共通した第一印象だった。一次審査でどれほど圧倒的な才能を見せようと、筆も握れない状態では大した貢献はできない。厄介な足手まといになるだけだ。ただし、中には冷酷な計算を巡らせる者もいた。あえて実花をチームに引き入れて最下位のスケープゴートに仕立て上げれば、自分が脱落する確率を減らせるのではないか、と。実花は、自分に取り巻く周囲の露骨な打算の視線をはっきりと感じ取っていたが、表情一つ変えなかった。「ねえ、もう誰と組むか決めた?まだなら一緒に探してみない?」希が積極的に誘ってくれる。「でも……右手がその状態だと、入れてくれるチームを探すのはちょっと大変かも」と言いかけ、彼女は自分のことのように心配そうな顔をした。実花は、このお人好しで純粋な女性に、安心させるような微笑を向けた。「心配しないで。ただの軽い怪我だから、すぐにギプスは外れるわ」「本当?それならよかった!」希は心底嬉しそうにパァッと顔を輝かせる。そこへ、人の輪の中から一人の男子がいそいそと声をかけてきた。「もしかして、君が浅見実花?予選の絵、ネットで見たよ。さす
Read more

第83話

その唐突な言葉に、周囲の反応は二分された。怪我人をわざわざ引き入れることで「弱者思いの心優しい自分」を演出したいだけだろうと冷ややかに見る者もいれば、実花の棚ぼたに露骨な嫉妬の目を向ける者もいる。一方の実花は、沙耶の右目の下にある泣きぼくろを見て、不意に記憶がフラッシュバックしていた。――あの写真だ。七年前、湊から「もう連絡してこないで」という拒絶のメッセージと共に送られてきた一枚の写真。そこで湊に寄り添っていた女性も、確か同じ位置に泣きぼくろがあった。実花は二秒ほど間を置き、静かに口を開いた。「……どちら様ですか?」その一言に、会場は一瞬水を打ったように静まり返り、直後にドッと嘲笑が湧き起こった。わざと無知を装って注目を集めようとしている痛い女――誰もがそう思った。今のアート界隈で、同年代の人間が黒田沙耶を知らないなどあり得ないからだ。だが、実花は本気で誰だか知らなかった。瀬戸家に縛り付けられていた三年間、アート業界の動向からは完全に遮断された「ネット断ち」状態だったからだ。沙耶の笑顔が一瞬ピクリと引きつった。しかし、すぐに大人の余裕を取り繕い、不快感など微塵も感じさせない様子でふわりと笑う。「ごめんなさい、自己紹介がまだだったわね。私は黒田沙耶」そして、さらに言葉を続けた。「私のメインスタイルは古典主義寄りなの。もしうちのチームに入ってくれるなら、あなたには簡単なタスクだけを割り振るように配慮してあげる。その右手をあまり使わなくて済むようにね」いかにも相手を気遣うような言葉だが、その見下したような口調が孕む意味は明白だった。――あなたの右手はどうせ使い物にならないんだから、うちのチームで大人しくお荷物(マスコット)になっていればいいわ。実花がまだ黙って考え込んでいると、沙耶の取り巻きの一人がたまらず口を挟んだ。「沙耶さん、なんでこんな人誘うんですか?完全に足手まといじゃないですか」「そうですよ」と別の何者かが調子を合わせる。「俺たちは沙耶さんについて行って1位を狙ってるんです。うちのチームはどこに出しても恥ずかしくない実力者ばかりですよ?怪我人をもらってどうするんですか。俺たちは勝つためにここにいるんであって、慈善事業のボランティアじゃないんですよ」紫に染めた髪を後ろで長く編み込んだ男が、露骨な嫌悪感を声に滲ませた。
Read more

第84話

残されたのは、誰からも声がかからなかった完全な「あぶれ者」たちだけ。実花と希も、その中に含まれていた。結果として、残ったメンバーで強制的に一つのチームが結成されることになり、まずは簡単な自己紹介が始まった。「俺は森山。得意なのは壁画だ」「ウチは滝沢希!油彩が得意だよ!」「私は水墨画」「僕はデッサン」「俺は風景画を少々……」「私の専門は人物画です」「私は……黒川千佳(くろかわ ちか)。現代アートが得意よ」「…………」自己紹介が一回りした時点で、千佳の背筋はすーっと冷えていった。このチーム、千佳を除いてなんと「平面の絵画しか描けない人間」しかいないのだ。それを悟った瞬間、彼女は絶望で思わず目を閉じた。実は千佳は、先ほど沙耶のチームから弾き出された後、ある計算を働かせていた。自分の実力は良くて中堅クラス。もし他の実力者揃いのチームに入っても、完全に埋もれてしまい、次へ進む枠など絶対に回ってこないと踏んだのだ。だからこそ、あえて実花のいるこの「寄せ集めチーム」を意図的に選んだ。誰も見向きもしない落ちこぼれの集まりなら、自分の実力でもトップクラスに立てる。チームが最下位で全滅という最悪の事態さえ避けられれば、自分がリーダーとしてチームを引っ張り、確実に次のステージへの切符を手に入れられるはず――そう確信していたのだ。だが、大前提が根本から狂っていた。二次審査の勝敗は、最終的にどのようなアート作品を作り上げたかで決まる。他のチームには彫刻や木彫りなど、立体造形を得意とする参加者がバランスよく配置されている。どう考えても、絵しか描けない自分たちのチームが勝てるビジョンなど欠片も浮かんでこなかった。チーム編成が終わると、次はリーダー決めだ。リーダーは制作における強い決定権を持つだけでなく、審査員や視聴者に自分をアピールする絶好のポジションでもある。チームの評価が高ければ、リーダーに最も大きなボーナスポイントが加算される可能性が高いのだ。そのため、他のチームではリーダーの座を巡って静かな牽制や波乱が起きていた。沙耶のチームでは、言うまでもなく彼女が満場一致でリーダーに決まった。一方、実花のいるチームでは、千佳がいの一番に名乗りを上げた。当然、彼女もリーダーのボーナスポイントを狙ってのことだ。実花は千佳の瞳にギラつく野心を見て
Read more

第85話

「でもさ、それぞれ画風も使う画材もバラバラだろ?それを無理やり一枚にまとめたら、最終的にどんなキメラみたいな絵になるか分かったもんじゃないぞ」「確かにね。壁画だって普通はメインの人間がデザインを決めて、他の人間は色塗りとかのアシスタントに回るのが基本でしょ」「私もそう思う……」議論のベクトルが、テーマの解釈から「自分たちの適性」へとズレ始めたのを見て、千佳の顔色がみるみる険悪になっていく。彼女はパンパンと手を叩き、強引に軌道修正を図った。「ちょっとストップ!今話し合うべきなのは『虚無というテーマをどう表現するか』であって、あなたたちが何を得意かじゃないわ。他にアイデアはないの?」その言葉に、他のメンバーもポツポツといくつか案を口にしたが、どれもパッとしない。「……なら、リーダーはどう解釈してるんですか?」自分たちの意見に片っ端からダメ出しをする千佳に痺れを切らしたのか、一人のメンバーが投げやりな口調で反論の矛先を向けた。千佳は待ってましたとばかりに咳払いをし、いかにもプロフェッショナルらしい態度を作って語り始めた。「私はね、目の錯覚を利用して『虚無』を表現するのはどうかなって思ってるの。例えば、半透明のアクリル越しに光の屈折を使って仕掛けを作るのよ。ある角度から見ると『何もない』のに、別の角度から見ると、私たちが伝えたいメッセージが浮かび上がってくる……みたいな」彼女が言い終えると、チームのメンバーは一斉に押し黙ってしまった。確かに、千佳の解釈自体は間違っていないし、アプローチとしても悪くない。だが、いかんせん難易度が高すぎた。その規模のインスタレーションを作るとなれば、緻密な光の計算と膨大なトライアンドエラーが不可欠だ。たった10日で完成させられるような代物ではない。ましてや、ここは今日結成されたばかりで連携すら取れない素人集団なのだから。千佳がこの案をゴリ押しするのには、明確な打算があった。あえて難易度の高いコンセプトに挑むことで、審査員からの高い評価を引き出す算段だ。しかも彼女自身は、過去に似たようなテーマの作品を制作した経験がある。仮に作品が未完成でチームが最下位に沈んだとしても、自分がどれだけ高度な設計をしてチームを引っ張ったかを審査員にアピールできれば、自分だけは評価されて通過できる――そう踏んでいたのだ。
Read more

第86話

「……いくらなんでも、人の家に勝手に上がり込むような常識外れはあんたくらいよ」実花が反論すると、湊は鼻でふんと笑い、それ以上言い合うことなく踵を返してキッチンへと歩いていく。「もうすぐ飯ができる。食う準備をしろ」「わざわざご飯を作るために来たの?」実花はぽかんとして彼の背中を見た。「ほかに何がある。俺が暇人だとでも思ったか?」湊は振り返り、実花の右腕をすっぽりと覆う痛々しいギプスに視線を落とした。「片手しか使えないのに、一人で野垂れ死にでもするつもりか」「デリバリーを頼むから平気よ」実花が意地を張って言い返す。「飯はそれでいいとして。風呂は?トイレはどうするんだ?」湊の淡々とした声に、からかうような色が混ざる。「まさかお前、怪我してからずっと風呂に入ってないんじゃないだろうな?」カアッと実花の頬が熱くなった。湊はさらに意地悪く笑う。「何を赤くなっているんだか。安心しろ、お前がどれだけ酸っぱい匂いをさせようが、今さら嫌いになったりしない。子供の頃、半月も風呂に入らなかったお前の姿なんて死ぬほど見慣れてるからな」実花の顔がさらに一段と朱に染まった。子供の頃、水疱瘡にかかって、医者からしばらくお風呂を止められていた時のことだ。あの時、湊は口では散々文句を言いながらも、結局は甲斐甲斐しく看病してくれた。熱でぐずる実花をなだめるために、わざわざ手袋とマスクの完全装備で抱きしめてくれたことまで思い出してしまう。でも、あの時はまだ子供だったじゃない。今と一緒にするなんて!言い返そうと口を開きかけたが、こいつを相手にこれ以上ムキになっても不毛なだけだと思い直し、実花は反論を飲み込んだ。湊が用意した夕食は、熱々の出汁にネギを散らしただけのシンプルな温かいうどんだった。泣く子も黙る大企業のトップに、シェフ並みの料理スキルを期待する方が間違っているというものだ。実花は無表情のまま、終始無言でうどんをすすり続けた。しかし、付き合いの長い湊の目は誤魔化せない。時折わずかに目を細めながら食べるその様子を見るだけで、実花がこの素朴な手料理を心から堪能していることは、湊には手に取るように分かっていた。食事が終わると、湊はスマホの画面を差し出してきた。表示されているのはLINEのQRコードだ。「何?」「連絡先を追加しろ。帰国してから二度も飯
Read more

第87話

視線が絡み合い、実花は戸惑いからふっと顔を背けた。しかし、突然目の前に湊の端正な顔が迫る。彼は空いた手で実花の顎をそっと捉え、強引にこちらへ向かせた。そして、ためらいなく唇を塞いだ。実花は全身が硬直した。頭の中は完全にショートし、キスの感触すら味わう余裕がない。彼が纏う冷たくて強引な香りが口の中を支配していく感覚も、微かにひんやりとした唇の温度も、すべてが真っ白な意識の中に飛んでしまった。一分後、湊はゆっくりと顔を離した。何も言わず、ただ深く暗い瞳で彼女を見つめるだけだ。ここでようやく、実花の魂が現実に戻ってきた。え?今、何が起こった?なんで私、記憶が飛んでるの!?ごくりと生唾を飲み込み、必死に平静を装って湊の腕から抜け出す。そして、床に放り出されていた彼のスマホを拾い上げると、自分のスマホを取り出して無言のまま先ほどのQRコードを読み取った。「……追加、したから」スマホを彼に押し付けるように渡し、泳ぐ視線を適当な方向へ逸らす。間違っても彼とだけは目を合わせないように。そんな彼女の狼狽ぶりを、湊は面白がるような目で見下ろしていた。今日の成果としては上出来もいいところだ。連絡先を追加させたうえに、殴られて部屋からつまみ出されることもなかったのだから。手元の画面に視線を落とし、実花のLINEアカウントを確認する。アイコンは渋い『蓮の花』の写真。アカウント名は『平穏第一』。湊は思わず短く舌打ちをした。こいつ……普段は平気な顔をしてるくせに、心の中は相当参ってるな。「アカウントを変えたのか?」湊は不可解そうに眉をひそめ、自分のスマホを操作して別のトーク画面を開いた。それは、七年間ずっとピン留めして固定してあるトーク履歴だ。七年前、彼がこの街から姿を消したあの年でやり取りは止まっている。アイコンは、実花が学生時代からずっと使っていた小さなカエルのイラストだった。当時、彼は実花を危険から守るため、苦渋の決断で「もう連絡するな」とだけメッセージを残し、一方的に消息を絶った。その後、海外へ渡り、篠宮家内部の危険分子を徹底的に排除した。ようやくすべてが片付き、安全が確保できた時、彼はすぐにこのカエルのアイコンを開き、失踪の理由をすべて説明するつもりだった。だが、返ってきたのは実花からの冷酷な拒絶だった。【私たち、もう関係ない
Read more

第88話

「とりあえず寝ろ。明日はコンクール会場まで送る人間を手配しておくからな」 湊はさらりとそう言った。まるで実花のスケジュールを裏の裏まで把握し尽くしているような口ぶりだ。「……うん」実花は適当に生返事をし、今すぐここから逃げ出したい衝動に駆られていた。とにかくこれ以上、彼と同じ空間にはいられない。現状が自分の理解の範疇を完全に超えてしまい、頭の中はぐちゃぐちゃだ。これから先、どんな顔をして彼と接すればいいのか見当もつかない。それに、あのキスは……一体、何だったのだろう。考えようとして、実花は慌てて思考に蓋をした。これまで散々な目に遭ってきたのだ。この世に永遠に守ってくれる避難所など存在しない。結局のところ、最後に頼れるのは自分一人だけなのだから、無駄な期待は抱きたくなかった。実花が逃げるように寝室へ引っ込んだのを見届けると、湊の顔からスッと笑みが消えた。彼はスマホを取り出し、山崎に電話をかける。「俺だ。あるアカウントを調べてほしい。……七年前、裏でこれを操作していたのは誰か、徹底的に洗い出せ」翌朝。目を覚ました実花の体は鉛のように重かった。徹夜でキャンバスに向かい続けた時よりもずっと疲弊している。昨夜はベッドに潜り込んだものの、体は疲れ切っているのに脳だけが冴え渡り、どうしようもない妄想ばかりが次々と浮かんでは消えた。そのせいだろう、案の定おかしな夢を見てしまった。夢の中の実花は、まだあどけない少女の頃の姿で湊の隣に座っていた。実花が絵を描き、湊は分厚い洋書をめくっている。「湊お兄ちゃん、これ、何を描いてるかわかる?」実花が首を傾げて尋ねると、彼は『遠くて見えないな』と言って顔を寄せてくる。あのひんやりとした、けれど心地よい香りが迫ってきた瞬間――夢の中の実花は、耐えきれずに自分から彼にキスをしてしまったのだ。そこで、バチッと目が覚めた。ああもう、最悪……昨夜、湊が何時に帰ったのかは分からない。ただ、微睡みの中でリビングから漏れる明かりと、微かなタイピング音だけは記憶に残っていた。出掛ける準備を整え、玄関のドアを閉める前。実花は電子ロックのパネルを見つめ、昨日湊にからかわれたことを思い出した。パスワードを変えるべきか。少しの間だけ迷ったが、結局……そのままにして家を出た。今日はアートコンクールの第2ステージ、二日目で
Read more

第89話

しかし、図面を覗き込んだメンバーたちの反応は芳しくなかった。「ちょっと待ってくれ、千佳ちゃん。ここがよく分からんのだけど。光がこの角度から入って……どうして視覚的に『透明』に見えるんだい?」森山が戸惑いながら指摘する。ほかのメンバーもそれに同調した。「ほんとだ、全然イメージできない。これってかなり高度な物理の知識がいるんじゃない……?私、高校以来物理なんて一回も触ってないよ!」全く理解が追いついていないチームメイトたちを前に、千佳の眉間がピクッと引きつった。「物理が分からないなら、無理に理解しようとしなくて結構よ。あなたたちは、ただ私の指示通りに手を動かしてくれればそれでいいから」苛立ちを隠そうともしないその声と、見下すような優越感に、何人かのメンバーが露骨に不満げな顔をした。その時、実花がスッとテーブルに近づき、興味深そうに千佳の構造図を覗き込んだ。数秒間図面を走破し、実花は口を開く。「全体の方向性としては間違ってないわ。でも……ここがダメね」実花の指先が、図面の一箇所をトンと叩いた。「ここに複合板を使うって書いてあるけれど、それだと自然光の下でしか計算された効果は生まれないわ。忘れないで、私たちが最後に作品を展示するのは、完全に遮光されたスタジオ内での人工光源の下よ。この素材じゃ、光が散乱して想定通りの屈折効果は絶対に出ない」「あなた、適当なこと言わないで!」千佳は即座に噛み付いた。「ネットの学術文献にも、この仕組みで成功したってちゃんと実証データが載ってたんだから!」昨夜、必死にスマホでかき集めた資料を否定され、千佳はムキになる。どうせこの実花は、ただ知ったかぶりをして自分に楯突きたいだけだ、と腹の中で冷笑した。古画の修復において最も重要とされる訓練の一つが、色彩の判別だ。修復師は塗料の経年変化だけでなく、あらゆる光源の下で色がどのように見え、どう反射するかを精密に計算できなければならない。その厳しい訓練を積んできた実花にとって、光の動きを予測することなど息をするように容易かった。周りのメンバーが興味を惹かれたように集まってくるのを確認すると、実花は左手で鉛筆をスッと取り上げた。複雑な計算式や理論を説明する代わりに、裏紙にサラサラと線を走らせる。光源からの光が、複合板という素材にぶつかってどう屈折し、どう散乱して失敗するのかを、
Read more

第90話

彼女は一つ深呼吸をすると、固定カメラが一番よく撮れるアングルへ移動した。そして、わざとらしく疲労困憊の表情を作り、あえてカメラに向かって独り言のように呟き始めた。「……本当は、この作品を通して皆さんに、アートの新しい形や多様な角度をお見せしたかったんです。でも、現実は厳しいですね。チームのみんなは伝統的な表現には慣れているけれど、こうした現代アートの概念を理解するには……少し、時間がかかるみたいで」彼女はそこで言葉を区切り、ひどく落ち込んだように深くため息を吐いた。「でも、私はリーダーですから。私が背負ってでも、この作品だけは絶対に完成させてみせます……」表面上は悲劇のリーダーを演じつつも、千佳の心に朝のような焦りはすでになかった。実は先ほど、彼女は隣のチームの沙耶からこっそりと「完成品」のホログラム投影装置を渡されていたのだ。「あなたの才能を買ってるのよ。こんなところで終わってほしくないから」沙耶はそう言って、最新式の機材を押し付けてきた。もしこの寄せ集めチームが最終的にまともな作品を提出できなかったとしても、あの装置を使って自分一人の作品としてプレゼンできれば、審査員の注目を独占できる。個人採点さえ稼げば、ほかのメンバーがどうなろうと知ったことではない。沙耶が私を助ける理由なんてどうでもいい。今は利用できるものは何でも利用するだけよ。一抹の警戒心はあったものの、次へ進みたいという強烈な野心が疑念をあっさりと飲み込んだ。装置が正常に作動することはすでに確認済みだ。だが、カメラの前ではあくまで「奮闘するリーダー」でいなければならない。千佳はわざとらしくため息をつきながら森山の作業台へ近づいた。腕を組み、森山が苦戦している手元を見下ろすと、難解な専門用語を並べ立てて立て続けにミスを指摘した。「……えっと、千佳ちゃん、ごめんよ。今の言葉、どういう意味だい?」森山は顔を上げ、すがるような目で彼女を見た。分厚い手を申し訳なさそうに擦り合わせる。「すまないが、もう一度分かりやすく教えてくれないか?」「はぁ?なんでこんな基礎的なことも分からないのよ!光の屈折くらい中学校で習うでしょ!?」ついに苛立ちを抑えきれなくなり、千佳は声を荒らげた。「こんなレベルで、あなたよく一次審査を通れたわね!」「お、俺は……学校なんてロクに行ってないんだ。ただ何年
Read more
PREV
1
...
5678910
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status