LOGIN紗月はスマートフォンを手にしたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。 手の中では着信を知らせる振動が途切れることなく続いている。 それでも出ることができずにいるうち、やがて呼び出し時間が長すぎたためか、震えはようやく止まった。 もう慎一からかかってくることはないだろう。 そう思ったのも束の間、数秒もしないうちに再びスマートフォンが鳴り始めた。 今度、画面に表示されていたのは見覚えのない番号だった。「……もしもし?」 紗月はわずかにためらいながらも、通話ボタンを押した。すると電話の向こうで、相手が明らかに安堵したように息をつく。 聞こえてきた声には覚えがあった。 しばらく顔を合わせていなかった、湊斗の声だった。 紗月が電話に出たことがよほど嬉しかったのか、湊斗の声は少し弾んでいる。「よかった。さっき慎一のスマホから一度かけたんだけど、出なかったから、今度は俺の番号からかけてみた。変に思わないでね」「……桐生さん?」「覚えててくれたんだ。よかった。紗月さんがあのプロジェクトを外れてから、ずっと残念だったんだ。最近はどうしてる? 会社も辞めたって聞いたよ。本当はうちに来てもらえたらって思ってたんだけど、慎一から別の仕事が決まってるって聞いてさ」 思い出したように「あ」と声を漏らし、続ける。「それより、紗月さんが慎一の奥さんだったなんて、本当にびっくりしたよ。もっと早く知ってたら、あの時ちゃんと挨拶したのに」 湊斗と慎一は昔から親しい仲だった。 それでも慎一が紗月のことを口にしたことは、一度もない。 湊斗が知っていたのは、慎一が結婚しているという事実だけだった。 何気なく夫婦の話題に触れようとするたび、慎一は露骨に機嫌を悪くし、表情まで険しくなる。 そんなことが何度か続き、湊斗も夫婦のことだけは慎一にとって触れてはいけない話題なのだと悟った。 それ以来、自分からその話を持ち出すことはなくなっていた。 紗月が慎一の妻だったと知ったのは、今日になってからだ。 慎一に誘われ、二人で酒を飲んでいた席で、ようやく本人の口から打ち明けられた。 最初は、ここまで徹底して隠していた慎一に文句の一つでも言ってやろうと思っていた。 湊斗は紗月と一緒に仕事をしたことがある。それなのに、慎一は一言も教えなかった。 責められて当然だと思った。
耳元では、姉のことを口にしたせいで再び悲しくなったのか、優介が小さくすすり泣いていた。 紗月は優介の背中へそっと手を添え、心配しなくても大丈夫だと静かに宥めながら、その名前について知っていることを頭の中で一つひとつ辿っていく。 男の名前は、早出明。 傘下にはいくつもの上場企業があり、いずれも国境を越えて事業を展開している。グループ全体の企業価値も相当なもので、経営破綻寸前の会社を救えるだけの資金力は十分にあるはずだった。 どこかで聞いたことのある名前だと思い、紗月は記憶を探り続ける。 しばらくしてようやく、慎一の口から早出社長という名前を聞いたことがあるのを思い出した。 早出グループと朝倉グループは、確か密接な協力関係にあったはずだ。 胸騒ぎを覚えた紗月は、慌ててスマートフォンを取り出し、二つの企業名を並べて検索する。 案の定、簡単に調べただけでも、両社が共同で進めている事業について報じた経済記事がいくつも表示された。 紗月の顔から、さっと血の気が引いた。 全身の血が一気に頭へ上ったような感覚に襲われ、指先まで冷たくなっていく。「紗月お姉さん、大丈夫ですか?」 紗月の表情が変わったことに気づいた優介は、泣くのを止め、今度は心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。「あ……うん。大丈夫よ、優介君」 そう答えながらも、紗月の両手はスマートフォンをきつく握りしめていた。 画面に映っているのは、早出グループと朝倉グループの共同事業に関する最新の記事だった。 そこには、その事業の中核となる研究開発を両社が共同で担っていると書かれている。つまり、二つの企業の利害は、今後さらに深く結びついていくということだ。 紗月には、専門的な経営や投資の話までは分からない。それでも、胸の奥で膨らみ続ける不安を抑えることはできなかった。 今朝、慎一から持ちかけられた、契約夫婦などという馬鹿げた取引を断った。 そのとき慎一は、あとで後悔するなと言わんばかりの言葉を残している。 そしてその日の夜、凛子の身にこんなことが起きた。 もしこれがすべて偶然なのだとしたら、あまりにも出来すぎているのではないか。「……優介君。縁談の話が決まったのは、いつ頃なのか分かる?」 紗月に尋ねられ、優介は事情が飲み込めないような顔で首を横に振った。「父さんがずっと、姉ちゃんの結婚
優介の言葉を聞いた瞬間、紗月は何を言われたのか理解できなかった。 慌ててソファから立ち上がる。 心臓が嫌な音を立てるように激しく脈打ち、胸の奥から不安が込み上げてくる。「優介くん、閉じ込められたって……どういうこと? それより、今どこにいるの? 私が迎えに行こうか?」 紗月の声を聞いて少し落ち着いたのだろう。 優介は今いる場所をすぐに教えてくれたものの、すぐにその言葉を打ち消すように小さく首を振った。「紗月お姉さん……僕がそっちに行ってもいい?」 震える声のまま、言葉を続ける。「姉ちゃん、自分の部屋に閉じ込められてるんだ。父さんも母さんも、僕を部屋に入れてくれなくて……」「もちろん。迎えに行こうか?」「ううん、大丈夫。タクシーで行きますから」 凛子は帰国してから実家で暮らしている。優介が言っている部屋とは、おそらく凛子の自室なのだろう。 優介が来るまでの間、紗月は何度も凛子へメッセージを送り、電話も繰り返しかけてみた。 けれど、返信は一つも返ってこない。 電話も何度鳴らしても繋がることはなかった。 携帯電話を取り上げられてしまったのかもしれない。 午後、父親から届いたメッセージを見た途端、凛子の表情が一変したことを思い出す。 あの時には、すでに何かが起きていたのだ。 そう考えると、胸騒ぎはますます大きくなるばかりだった。 幸い、優介は思っていたより早くやって来た。 インターホンが鳴ると、紗月は急いで玄関へ向かい、扉を開ける。 そこに立っていた優介は俯いたまま、ひどく心細そうな様子だった。 目元は赤く腫れ、紗月の顔を見た途端、堪えていた涙がまた瞳いっぱいに滲んでいく。 泣きそうになりながら、それでも必死に涙をこらえていた。 まだ成人にも満たない少年なのだ。そんな姿を目の当たりにした瞬間、紗月の胸はぎゅっと締めつけられた。 紗月は何も言わずに優介の手を取り、そのままリビングへ案内する。 ティッシュを手渡し、それからキッチンへ向かって温かいココアを淹れた。 優介の好きな飲み物だった。「紗月お姉さん……お父さんが、姉ちゃんを年上のおじさんと結婚させるって……」 紗月もソファへ腰を下ろし、何があったのか静かに尋ねる。優介は両手でマグカップを包み込み、しばらく俯いたまま黙っていた。 ようやく覚悟を決めたように、小さ
凛子の反応は、明らかにどこかおかしかった。 普段は何があっても動じない彼女が、こんなふうに取り乱した表情を見せることなど滅多にない。紗月は心配そうに眉を寄せ、そっと手を伸ばして凛子の手に触れた。 そのまま優しく包み込むように握り、小さく微笑む。「凛子。私たち、友達でしょう? 凛子が私を心配してくれるように、もし何かあったなら、私にもちゃんと話してほしい」 紗月が思いのほか真剣な表情をしていたからだろう。 凛子は一瞬、きょとんとしたように目を瞬かせた。 思いがけない言葉だったのだろう。 すぐに大げさなくらい明るい笑みを浮かべると、今度は自分から紗月の手を握り返した。 温かな掌が紗月の手を包み込み、ほんの一瞬だけ、ぎゅっと力がこもる。 その温もりはすぐに離れ、凛子は照れ隠しをするように笑った。「大丈夫。さっき父からメッセージが来ただけなの。だから、ちょっと驚いちゃって……ごめんね、心配させちゃった。知ってるでしょう? 私、お父さんとはちょっと複雑だから」 困ったように肩をすくめ、小さく息をつく。 凛子の父親は、数年前に会社を上場させた経営者だった。 上場を果たしてからというもの、会社を背負う責任や重圧が一気に増したせいなのか、以前よりも短気で独善的な性格になり、家族との関係も少しずつ変わってしまったらしい。 紗月もこれまで、凛子から家のことを少しずつ聞かされてきた。 母親もまた経営者で、幼い頃から夫婦そろって家を空ける日が多く、凛子は両親と一緒に過ごす時間がほとんどなかったという。 家族で食卓を囲むことも少なく、忙しい両親に代わって、幼い凛子の成長を一番近くで見守ってきたのは、いつも家の使用人たちだった。 そんな家庭で育ったからだろうか。 優介が自分に優しくしてくれる紗月へ、人一倍懐いている理由も、少しだけ分かる気がした。「何でもないならよかった……でも、さっきの凛子、本当にすごく怖い顔をしてたよ」 紗月がそう言うと、凛子は照れ隠しをするように肩をすくめ、小さく笑った。「ごめん、ごめん。さっちゃんも知ってるでしょう? お父さんから連絡が来る時って、大体ろくな話じゃないのよ。何年か前なんて、お見合いしろって言われたこともあったんだから。あの時はちょうど海外留学が決まって、そのまま逃げちゃったけど……まさか今さらまた――」「
「文字どおりの意味だ。紗月。契約夫婦であっても夫婦であることに変わりはない。人前で仲のいい夫婦を演じる必要がある以上、お前に一切触れないわけにはいかないだろう」 あまりにも堂々とした口ぶりだった。 後ろめたさなど微塵も感じさせない。 その条項も当然必要なものだと言わんばかりで、こんなにも動揺している紗月のほうが、余計なことを考えすぎているようにさえ思えてしまう。「……嫌です」 紗月は契約書を静かに閉じた。 こんなことをするために離婚したわけではない。 ようやく決心した。 ようやく慎一への想いを手放そうとした。 ようやく苦しみから抜け出そうとしている。 もうこれ以上、慎一と縛られ続ける人生だけは望んでいなかった。「条項は修正してもいい」 慎一は表情一つ変えずに答える。 紗月はゆっくりと首を振った。「慎一……私は、本当にあなたといることが苦しかったから離婚したの」 声は震えていた。「情報が漏れることを心配しているなら、私はこの街を離れます。別の場所で暮らします。あなたの目につくこともありません。会社の脅威になるようなこともしません」 そう言って、契約書を慎一のほうへ押し返す。 署名するつもりはない。 その意思は誰の目にも明らかだった。 慎一は契約書へ静かに視線を落とし、やがて何事もなかったようにそれを手元へ引き寄せる。「紗月」 穏やかな声が響いた。「お前が望まないことを、俺は強要しない」 その言葉に、紗月は胸の奥でそっと息をついた。 拒絶を受け入れてもらえたことに、張り詰めていた緊張が少しだけほどけていく。 席を立ち、このまま帰ろうとした、その時だった。 背後から慎一の声が追いかけてくる。「ただ、紗月。俺と条件を交渉できる機会は、これが最初で最後だ。次にお前から取引を持ちかける時、お前はもう主導権を持てない」 穏やかな声だった。 感情を荒らげることも、脅すような口調になることもない。 それでも、その言葉は静かに紗月の胸へ沈み、逃げ場のない重さだけを残していく。 紗月は足を止めた。 ゆっくりと眉を寄せ、小さく笑う。 その笑みには、呆れと諦めが滲んでいた。「そんな日は来ません、朝倉社長。私が望むのは……必要な時以外、これから先、あなたとはもう二度と会わないことです」 * 午後になると、凛子から電話が
慎一が突然そんな理不尽な提案を口にしたことに、紗月は理解が追いつかなかった。 離婚したばかりなのだ。 三年間続いた結婚生活は、紗月にとって苦しみしか残らないものだった。ようやく目を覚まし、その関係から逃れられたというのに、慎一は今さらこんな馬鹿げた形で、二人の繋がりを続けようとしている。「……私には――」「契約上の夫婦でいい、紗月」 紗月の言葉を遮るように、慎一は淡々と言った。「お前の望む条件は用意する。承諾するなら、すぐにでも秘書に契約書を作らせよう」 まるで、ごく当たり前の取引を持ちかけるような口調だった。 慎一は紗月の近況まで把握している。「紗月。最近オーディションを受けただろう。結果はあまり良くなかったらしいな」 その一言に、紗月の肩がわずかに震えた。「その監督についても調べた。実力は二流止まりだ。仮に出演が決まったとしても、その作品一つで、お前の女優としての未来が大きく変わることはない。お前が望むなら、専属の事務所を立ち上げてもいい。芝居がしたいなら、一番いい脚本を用意する。賞が欲しいなら、受賞できるように手を回すこともできる」 慎一が提示する条件は、あまりにも現実離れしていた。 夢物語のような話だった。 紗月は、それが決して空想では終わらないことを知っている。彼には、それだけの力がある。 胸の奥に浮かんだ考えを、紗月は振り払うことができなかった。 由衣を傍に置いていた頃も。 慎一は彼女に、同じような未来を約束していたのだろうか。「……そんなもの、必要ありません。確かに私は演技がしたい。でも、あなたがいなくても、自分の力で前へ進んでいけます」 慎一は喉の奥で低く笑った。「紗月。俺はお前に近道を与えることもできる。芸能界で二度と仕事が来ないようにすることもできる」 感情を交えない声音だった。 淡々としているからこそ、その言葉には逃げ場のない重みがあった。「せっかく役者を目指すなら、楽な道を選べばいい。わざわざ苦労する必要があるのか」「……それでも構いません」 紗月は視線を逸らさなかった。 真っ直ぐ慎一を見つめ返し、静かな声で答えた。「朝倉社長。私は綾瀬さんと違って、芸能界に執着しているわけではありませんから」「……」 一瞬だけ、慎一の表情がわずかに固まる。 短い沈黙のあと、彼はふと何かを思い出
翌朝、紗月が目を覚ますと、昨日よりもさらに体調が悪かった。 全身に力が入らず、めまいがして、手足は冷えきっている。歩くだけでも、身体が小刻みに震えているような感覚さえあった。 キッチンで薬を飲んでいると、ちょうど慎一も部屋から出てきた。アイランドキッチンに置かれた薬をちらりと目にしたが、彼はほんの一瞬視線を流しただけで、気にかける様子はまるでない。 紗月は彼がすでに出勤用の服に着替えていることに気づく。 まだ時間は早いのに、彼は今すぐにでも出ていきたいというように、どこか落ち着かない様子だった。この家に一秒でも長くいたくな
距離が近づくにつれ、紗月の纏う香水の匂いと、肌から伝わってくる異様な熱が、慎一の眉を思わずひそめさせた。「……気持ち悪い匂いだな」 彼女が体調を崩しているのか、それとも本当に病気なのか。そんなことは一切気にも留めない。 男の手つきには、微塵の情けもなかった。その触れ方は、欲望によるものですらない。ただ鬱積した感情をぶつけるための、乱暴な接触にすぎない。 紗月は彼の触れた感覚を受け止めながら、ゆっくりと目を開けた。 視線が合った瞬間、胸が締めつけられるように高鳴り、思わず口づけを求めるように身を起こそうとする。 その気配はすぐに見抜かれた。 慎一は露骨に嫌悪を滲ませ、顔を背ける
電話を切ってから四時間後、ようやく慎一は酒席を切り上げ、家へ戻る気になった。 すでに時刻は深夜十二時に近い。 それでも席に残っていた者たちは、立ち上がった慎一を見て、忘れたようにおべっかを並べる。「社長、もうお帰りですか? 奥さまのところへ急いで戻られるんですか?」 その一言をきっかけに、周囲も次々と追従し、慎一の“良き夫”ぶりを持ち上げ始めた。 今がどれほど遅い時間かなど、誰も気にしていない。「さすがは社長ご夫妻、相変わらず仲睦まじいですね。奥さまが羨ましいですよ、こんなに有能で、しかも奥さまを大切にされている男性と結婚できて」「本当ですよ。社長は毎月、奥さまのためにサプラ
朝倉紗月が玄関の扉を開け、部屋の中がこれまで幾度となく迎えてきた夜と同じように、がらんとして冷え切っているのを目にした瞬間、その瞳に濃い失望がよぎった。 今日もまた、彼は帰ってきていない。 紗月の顔色は病的なほど赤く、目尻は熱を帯びたようにじんと痛み、そこには気づかれないほどかすかな赤みも滲んでいた。 まるで次の瞬間には涙がこぼれ落ちてしまいそうなのに、それでも必死に強がって堪えているかのようだった。 数歩進んだだけで足元から力が抜け、彼女はそのままソファへと崩れ落ちた。戸籍上の夫がまた家に帰ろうともしない――その事実だけではない。 身体にこもる異様な熱もまた







