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第163話

Author: るるね
last update publish date: 2026-07-25 23:50:00

 耳元では、姉のことを口にしたせいで再び悲しくなったのか、優介が小さくすすり泣いていた。

 紗月は優介の背中へそっと手を添え、心配しなくても大丈夫だと静かに宥めながら、その名前について知っていることを頭の中で一つひとつ辿っていく。

 男の名前は、早出明。

 傘下にはいくつもの上場企業があり、いずれも国境を越えて事業を展開している。グループ全体の企業価値も相当なもので、経営破綻寸前の会社を救えるだけの資金力は十分にあるはずだった。

 どこかで聞いたことのある名前だと思い、紗月は記憶を探り続ける。

 しばらくしてようやく、慎一の口から早出社長という名前を聞いたことがあるのを思い出した。

 早出グループと朝倉グループは、確か密接な協力関係にあったはずだ。

 胸騒ぎを覚えた紗月は、慌ててスマートフォンを取り出し、二つの企業名を並べて検索する。

 案の定、簡単に調べただけでも、両社が共同で進めている事業について報じた経済記事がいくつも表示された。

 紗月の顔から、さっと血の気が引いた。

 全身の血が一気に頭へ上ったような感覚に襲われ、指先まで冷たくなっていく。

「紗月お姉さん、大丈夫ですか?」
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     紗月はスマートフォンを手にしたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。 手の中では着信を知らせる振動が途切れることなく続いている。 それでも出ることができずにいるうち、やがて呼び出し時間が長すぎたためか、震えはようやく止まった。 もう慎一からかかってくることはないだろう。 そう思ったのも束の間、数秒もしないうちに再びスマートフォンが鳴り始めた。 今度、画面に表示されていたのは見覚えのない番号だった。「……もしもし?」 紗月はわずかにためらいながらも、通話ボタンを押した。すると電話の向こうで、相手が明らかに安堵したように息をつく。 聞こえてきた声には覚えがあった。 しばらく顔を合わせていなかった、湊斗の声だった。 紗月が電話に出たことがよほど嬉しかったのか、湊斗の声は少し弾んでいる。「よかった。さっき慎一のスマホから一度かけたんだけど、出なかったから、今度は俺の番号からかけてみた。変に思わないでね」「……桐生さん?」「覚えててくれたんだ。よかった。紗月さんがあのプロジェクトを外れてから、ずっと残念だったんだ。最近はどうしてる? 会社も辞めたって聞いたよ。本当はうちに来てもらえたらって思ってたんだけど、慎一から別の仕事が決まってるって聞いてさ」 思い出したように「あ」と声を漏らし、続ける。「それより、紗月さんが慎一の奥さんだったなんて、本当にびっくりしたよ。もっと早く知ってたら、あの時ちゃんと挨拶したのに」 湊斗と慎一は昔から親しい仲だった。 それでも慎一が紗月のことを口にしたことは、一度もない。 湊斗が知っていたのは、慎一が結婚しているという事実だけだった。 何気なく夫婦の話題に触れようとするたび、慎一は露骨に機嫌を悪くし、表情まで険しくなる。 そんなことが何度か続き、湊斗も夫婦のことだけは慎一にとって触れてはいけない話題なのだと悟った。 それ以来、自分からその話を持ち出すことはなくなっていた。 紗月が慎一の妻だったと知ったのは、今日になってからだ。 慎一に誘われ、二人で酒を飲んでいた席で、ようやく本人の口から打ち明けられた。 最初は、ここまで徹底して隠していた慎一に文句の一つでも言ってやろうと思っていた。 湊斗は紗月と一緒に仕事をしたことがある。それなのに、慎一は一言も教えなかった。 責められて当然だと思った。

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     耳元では、姉のことを口にしたせいで再び悲しくなったのか、優介が小さくすすり泣いていた。 紗月は優介の背中へそっと手を添え、心配しなくても大丈夫だと静かに宥めながら、その名前について知っていることを頭の中で一つひとつ辿っていく。 男の名前は、早出明。 傘下にはいくつもの上場企業があり、いずれも国境を越えて事業を展開している。グループ全体の企業価値も相当なもので、経営破綻寸前の会社を救えるだけの資金力は十分にあるはずだった。 どこかで聞いたことのある名前だと思い、紗月は記憶を探り続ける。 しばらくしてようやく、慎一の口から早出社長という名前を聞いたことがあるのを思い出した。 早出グループと朝倉グループは、確か密接な協力関係にあったはずだ。 胸騒ぎを覚えた紗月は、慌ててスマートフォンを取り出し、二つの企業名を並べて検索する。 案の定、簡単に調べただけでも、両社が共同で進めている事業について報じた経済記事がいくつも表示された。 紗月の顔から、さっと血の気が引いた。 全身の血が一気に頭へ上ったような感覚に襲われ、指先まで冷たくなっていく。「紗月お姉さん、大丈夫ですか?」 紗月の表情が変わったことに気づいた優介は、泣くのを止め、今度は心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。「あ……うん。大丈夫よ、優介君」 そう答えながらも、紗月の両手はスマートフォンをきつく握りしめていた。 画面に映っているのは、早出グループと朝倉グループの共同事業に関する最新の記事だった。 そこには、その事業の中核となる研究開発を両社が共同で担っていると書かれている。つまり、二つの企業の利害は、今後さらに深く結びついていくということだ。 紗月には、専門的な経営や投資の話までは分からない。それでも、胸の奥で膨らみ続ける不安を抑えることはできなかった。 今朝、慎一から持ちかけられた、契約夫婦などという馬鹿げた取引を断った。 そのとき慎一は、あとで後悔するなと言わんばかりの言葉を残している。 そしてその日の夜、凛子の身にこんなことが起きた。 もしこれがすべて偶然なのだとしたら、あまりにも出来すぎているのではないか。「……優介君。縁談の話が決まったのは、いつ頃なのか分かる?」 紗月に尋ねられ、優介は事情が飲み込めないような顔で首を横に振った。「父さんがずっと、姉ちゃんの結婚

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