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第168話

Author: るるね
last update publish date: 2026-07-28 00:01:48

 優介は目に見えて焦っていた。紗月に頼まれると、すぐにスマートフォンを取り出し、父親へ電話をかける。

 何度かけても途中で切られてしまう。それでも優介は諦めることなく、何度もリダイヤルを繰り返した。そして何度目かの着信で、ようやく電話がつながる。

「……もしもし」

 おずおずと受話口へ声をかける優介は、怯えた小動物のようだった。

 普段の明るく屈託のない姿からは想像もつかないほど弱々しい。その様子に胸を締めつけられた紗月は、「代わる」と声をかけようと手を伸ばす。

 だが、優介はスマートフォンを渡そうとはしなかった。紗月へ小さく笑みを向け、「ちょっと向こうで話してきます」とだけ告げると、そのまま客間へ駆け込んでいく。

 きっと、実の父親に頭を下げ、必死に頼み込む姿を紗月には見せたくなかったのだろう。

 リビングで待つ時間は、ひどく長く感じられた。

 ようやく客間から出てきた優介は、どこか安堵したように笑った。

「紗月姉さん! 父さん、今日なら会社で時間を作って会ってくれるって」

「今日? ありがとう。すぐに支度するね」

「僕も一緒に行きます!」

 優介は迷うことなく後を追おうとする。

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     優介は目に見えて焦っていた。紗月に頼まれると、すぐにスマートフォンを取り出し、父親へ電話をかける。 何度かけても途中で切られてしまう。それでも優介は諦めることなく、何度もリダイヤルを繰り返した。そして何度目かの着信で、ようやく電話がつながる。「……もしもし」 おずおずと受話口へ声をかける優介は、怯えた小動物のようだった。 普段の明るく屈託のない姿からは想像もつかないほど弱々しい。その様子に胸を締めつけられた紗月は、「代わる」と声をかけようと手を伸ばす。 だが、優介はスマートフォンを渡そうとはしなかった。紗月へ小さく笑みを向け、「ちょっと向こうで話してきます」とだけ告げると、そのまま客間へ駆け込んでいく。 きっと、実の父親に頭を下げ、必死に頼み込む姿を紗月には見せたくなかったのだろう。 リビングで待つ時間は、ひどく長く感じられた。 ようやく客間から出てきた優介は、どこか安堵したように笑った。「紗月姉さん! 父さん、今日なら会社で時間を作って会ってくれるって」「今日? ありがとう。すぐに支度するね」「僕も一緒に行きます!」 優介は迷うことなく後を追おうとする。 無理をしなくてもいいと言いかけた紗月だったが、彼の赤く腫れた目を見て、その言葉を飲み込んだ。 これは優介にとっても、大切な姉の人生が懸かった問題なのだ。「ええ。優介くん、一緒に行きましょう」 凛子の父親が経営する会社を訪れるのは、紗月にとって初めてだった。  上場企業とは聞いていたものの、社内の設備も雰囲気も、どこか寂れて見える。 社屋も建てられてから数十年は経っているような古い建物で、確かに資金に余裕があるようには思えなかった。 優介も、この会社へ来たことはほとんどないらしい。なぜか父親は、子どもたちが自分の仕事や会社に関わることをひどく嫌い、将来も会社を継がせるつもりはないのだという。 もっとも、凛子も優介もそれを気にしてはいなかった。 両親との関係がそれほど希薄だったからなのか、二人とも家業に対して何の執着も持っていないようだった。 受付は紗月たちの来訪理由を聞くと、訝しげな表情を浮かべながら、どこかへ確認の電話を入れた。その後、二人を三階の応接室へ案内する。 応接室の扉はガラス張りになっており、中からでも廊下の様子がよく見えた。この階にどの部署が入っている

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     そこまで一気に言い終えると、湊斗は返事を待たず、そのまま電話を切ってしまった。 本当に急いでいたのだろう。 紗月はスマートフォンを耳に当てたまま、通話の切れた無機質な電子音をしばらく呆然と聞いていた。 湊斗の言う「送る」が、自分の家まで慎一を送り届けるという意味だったとは思ってもいなかった。 半信半疑のまま待っていると、ほどなく玄関のチャイムが鳴る。 扉を開けた先には、酒に酔って足元もおぼつかない慎一を支える湊斗の姿があった。 その光景を目にして初めて、湊斗が口にした「帰る場所」が、この部屋のことだったのだと理解する。 湊斗は見るからに焦っていた。 少し前に結婚したばかりの彼は、本当なら今夜も早く帰宅し、妻と穏やかな時間を過ごすはずだった。 慎一に付き合って酒を飲んでいなければ、とっくに家へ帰っていたに違いない。 そのため、紗月が不本意そうな顔で扉を開けても、湊斗は短く素早く挨拶をしただけだった。 そして慎一の身体を紗月へ預けると、逃げるような勢いでその場をあとにする。 廊下の向こうへ消えていく湊斗の背中は、あっという間に見えなくなった。 慎一の身体からは濃い酒の匂いが漂っている。 相当飲んだのだろう。湊斗から引き渡された途端、慎一は全身の体重をそのまま紗月へ預けてきた。 酒の匂いと体温が一気に押し寄せ、空気まで熱を帯びてしまったように感じる。 胸の奥までむせ返るような酒気に包まれ、息をすることさえ苦しかった。「朝倉社長……ちょっと……!」 どこへ連れて行けばいいのか分からない。 だからといって、このまま部屋へ上げることにも強い抵抗があった。 紗月は玄関先で慎一を支えたまま、途方に暮れて立ち尽くす。 迷っている間にも、慎一の身体は少しずつ重さを増していくようだった。 やがて支えきれなくなり、紗月は慎一を抱えたままずるずると床へ崩れ落ちる。 二人はそのまま玄関へ座り込むような格好になった。 倒れた拍子が悪かったのか、慎一はなおも紗月へ覆いかぶさるようにもたれかかったままだ。 紗月は何とか抜け出そうと、身をよじった。けれど、慎一の体重に押さえつけられ、思うように身動きが取れない。  何度も抜け出そうともがくうちに、腕も身体も少しずつ力が抜け、疲労ばかりが募っていく。 不意に、耳元で小さな笑い声がした。 紗月はは

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     耳元では、姉のことを口にしたせいで再び悲しくなったのか、優介が小さくすすり泣いていた。 紗月は優介の背中へそっと手を添え、心配しなくても大丈夫だと静かに宥めながら、その名前について知っていることを頭の中で一つひとつ辿っていく。 男の名前は、早出明。 傘下にはいくつもの上場企業があり、いずれも国境を越えて事業を展開している。グループ全体の企業価値も相当なもので、経営破綻寸前の会社を救えるだけの資金力は十分にあるはずだった。 どこかで聞いたことのある名前だと思い、紗月は記憶を探り続ける。 しばらくしてようやく、慎一の口から早出社長という名前を聞いたことがあるのを思い出した。 早出グループと朝倉グループは、確か密接な協力関係にあったはずだ。 胸騒ぎを覚えた紗月は、慌ててスマートフォンを取り出し、二つの企業名を並べて検索する。 案の定、簡単に調べただけでも、両社が共同で進めている事業について報じた経済記事がいくつも表示された。 紗月の顔から、さっと血の気が引いた。 全身の血が一気に頭へ上ったような感覚に襲われ、指先まで冷たくなっていく。「紗月お姉さん、大丈夫ですか?」 紗月の表情が変わったことに気づいた優介は、泣くのを止め、今度は心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。「あ……うん。大丈夫よ、優介君」 そう答えながらも、紗月の両手はスマートフォンをきつく握りしめていた。 画面に映っているのは、早出グループと朝倉グループの共同事業に関する最新の記事だった。 そこには、その事業の中核となる研究開発を両社が共同で担っていると書かれている。つまり、二つの企業の利害は、今後さらに深く結びついていくということだ。 紗月には、専門的な経営や投資の話までは分からない。それでも、胸の奥で膨らみ続ける不安を抑えることはできなかった。 今朝、慎一から持ちかけられた、契約夫婦などという馬鹿げた取引を断った。 そのとき慎一は、あとで後悔するなと言わんばかりの言葉を残している。 そしてその日の夜、凛子の身にこんなことが起きた。 もしこれがすべて偶然なのだとしたら、あまりにも出来すぎているのではないか。「……優介君。縁談の話が決まったのは、いつ頃なのか分かる?」 紗月に尋ねられ、優介は事情が飲み込めないような顔で首を横に振った。「父さんがずっと、姉ちゃんの結婚

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     電話を切ってから四時間後、ようやく慎一は酒席を切り上げ、家へ戻る気になった。 すでに時刻は深夜十二時に近い。 それでも席に残っていた者たちは、立ち上がった慎一を見て、忘れたようにおべっかを並べる。「社長、もうお帰りですか? 奥さまのところへ急いで戻られるんですか?」 その一言をきっかけに、周囲も次々と追従し、慎一の“良き夫”ぶりを持ち上げ始めた。 今がどれほど遅い時間かなど、誰も気にしていない。「さすがは社長ご夫妻、相変わらず仲睦まじいですね。奥さまが羨ましいですよ、こんなに有能で、しかも奥さまを大切にされている男性と結婚できて」「本当ですよ。社長は毎月、奥さまのためにサプラ

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     朝倉紗月が玄関の扉を開け、部屋の中がこれまで幾度となく迎えてきた夜と同じように、がらんとして冷え切っているのを目にした瞬間、その瞳に濃い失望がよぎった。 今日もまた、彼は帰ってきていない。 紗月の顔色は病的なほど赤く、目尻は熱を帯びたようにじんと痛み、そこには気づかれないほどかすかな赤みも滲んでいた。 まるで次の瞬間には涙がこぼれ落ちてしまいそうなのに、それでも必死に強がって堪えているかのようだった。 数歩進んだだけで足元から力が抜け、彼女はそのままソファへと崩れ落ちた。戸籍上の夫がまた家に帰ろうともしない――その事実だけではない。 身体にこもる異様な熱もまた

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     家。 二度目のアラームが鳴り響いて、玄関でぼんやり立ち尽くしていた紗月は、ようやく我に返った。  目の奥がじんと痛み出し、手の甲で押さえて和らげようとする。だが触れた肌は熱く、熱はまったく引いていなかった。 この体調では休んだほうがいいのではないかと、そう思いかける。 けれど、部下の体調など一切気にも留めず、ただ頭ごなしに怒鳴りつける部長の性格を思い出し、結局は考えるのをやめた。 そのまま部屋へ戻り、出勤の支度を始める。 結婚してから、紗月はようやく契約を結んだばかりだった芸能事務所を辞め、ほぼ話がまとまっていたドラマ出演の契約も断った。 すべては慎一の「妻が外で目立つのは好

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     やがて由衣を迎えに来た車が到着した。 まるでこの世の終わりでも訪れたかのように名残惜しげに別れを告げる彼女を見ても、慎一はその場に立ったまま、形だけの笑みを浮かべるだけだった。 そしてそのまま踵を返し、自分専用の駐車スペースへと向かう。 すでに運転手は彼からの連絡を受けて車内で待機しており、まるで時間を計算していたかのように、慎一が後部座席のドアに手をかける寸前、すぐに車を降りて恭しくドアを開けた。「ありがとう」 運転手の名は久我誠。  二十年以上前、朝倉家に仕える補佐役として働いていた人物で、ここ数年で慎一の専属運転手兼個人秘書となった。 長年この家に仕えてきた彼にとって、慎

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