Semua Bab 愛し続けた彼を、私は手放すことにした: Bab 31 - Bab 40

80 Bab

第31話

 車内がしばらく静まり返ったあと、由衣はもう我慢できないとでもいうように、そっと身体を動かした。 先ほど慎一に突き放されたにもかかわらず、懲りる様子もなく、柔らかな身体を再び彼のほうへ寄せる。 もっとも、今度は完全にもたれかかることはせず、ほんのわずかに距離を残したまま。「社長〜、このあとどこに行くんですか?」 甘えた声音でそう尋ねながら、由衣は慎一の顔色を窺うように見上げる。その視線の合間にも、少しずつ、少しずつ彼との距離を詰めていく。 そんな小さな仕草など、慎一が見逃すはずもなかった。 彼は咎めることなく、ただ鼻で笑う。「久我に先に事務所まで送らせる」 午後には由衣のオーディションが控えている。 そのあとには雑誌のインタビューも入っていることを、所属事務所の代表である慎一は当然把握していた。 自分と長く一緒にいるつもりがないと知った瞬間、由衣はあからさまに不満そうな顔を見せた。 そっと指先を伸ばし、慎一のスーツの袖口をつまむ。「社長〜……インタビューまで、まだ一時間以上ありますよ? 本当に送って終わりなんですか?」 上目遣いで見上げるその姿は、いかにも庇護欲を誘う愛らしさに満ちている。 慎一は視線だけを落とし、淡々と返した。「何だ。今日、あれだけ与えてやったのに、まだ足りないのか?」 今日だけで、オーディション用の新しい服もアクセサリーも買い与えた。 由衣が欲しいと口にした八十万円の懐中時計も、慎一は一瞬たりとも迷わず支払っている。 今日はもう、十分に面白い見世物を見せてもらった。 あれを褒美とするなら、由衣には十分すぎるほどだ。 それに、車内で紗月を降ろしたいという由衣の思惑も、彼はそのまま叶えてやった。 これ以上を求めるのは、さすがに図々しい。 もっとも、慎一がそれらを惜しみなく与えたのは、紗月の目の前で見せつけるためにすぎない。 彼にとっては、その程度の額など端金にすぎなかった。 由衣の将来的な商業価値を考えれば、いずれいくらでも回収できる投資だ。 だから痛くも痒くもない。 そんな思惑など知らない由衣は、目をくるりと動かした。細い小指が、慎一の手の甲をそっとなぞる。 探るような仕草。 慎一が何の反応も示さないのを見て、彼女は怯むどころか、さらに身体を前へ傾けた。 少しでも彼の視線を自分に留めたい。
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第32話

 由衣の顔に、いつしか隠しきれない愛欲が露わに滲み出ているのを見て、慎一の胸に冷たい嫌悪が走った。 最初に彼女の元所属事務所へ、業務提携の打ち合わせで招かれた日のことを、慎一はふと思い出していた。 あのときの由衣は、まるで世間を何も知らない無垢な少女のようだった。  瞳には一片の濁りもなく、ビルの片隅に身を潜めながら、電話口の相手に涙混じりで訴えていたのだ。  マネージャーから理不尽な扱いを受けていること。  会社から不公平な仕打ちをされていること。 ひとしきり泣いたあと、立ち上がった拍子に、彼女は偶然を装うように慎一の胸へぶつかった。「す、すみません……」 そう小さく謝ったきり、怯えたように目も合わせず、慌ててその場を走り去っていった。 まるで慎一をひどく恐れていて、決して関わろうとしないかのように。 打ち合わせを終え、エレベーター前で待っていたとき、慎一は再び彼女を目にした。 階段の踊り場の角で、数人の人間に取り囲まれていたのだ。罵声はフロア中に響き渡るほど大きく、自然と視線がそちらへ向いた。 由衣はその中央で俯き、両手で服の裾をきつく握りしめていた。 もともと華奢な体つきだった。  肩など、薄い紙片のように頼りなく、誰かに軽く突き飛ばされただけで、そのまま後ろへよろめき、背中を壁へ打ちつけた。 顔を上げたとき、その目は赤く染まっていた。 それでも負けまいとするように、強い意志を宿した瞳で相手を睨み返し、唇をきゅっと引き結んでいる。 その姿には、か弱さと芯の強さが同居していて、妙に人の目を惹きつけた。 慎一は何も言わず、ただ冷ややかにその様子を見ていた。 ふと、由衣の視線が慎一とぶつかる。 彼女の瞳はさらに赤く潤み、たちまち涙が込み上げた。今にも零れ落ちそうなほどに。 助けを求めようとはしなかった。 弱さを見せたくないとでも言うように、そっと顔を背けた。 ――見事な芝居だ。 慎一がそのとき抱いた感想は、ただそれだけだった。 やがて慎一の存在に気づいた周囲の人間たちは、気まずそうに顔色を変え、そそくさとその場を離れていった。 残されたのは由衣一人。俯いた肩が小さく震え、その姿はひどく哀れに映った。 慎一はゆっくりと彼女に歩み寄り、低く問いかける。「事務所を変える気はあるか?」 由衣ははっと顔を上げた。 泣
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第33話

 あれほど容赦なく、きつい言葉を浴びせられても、由衣が狼狽えたのはほんの一瞬だけだった。 次の瞬間には、糸の切れた真珠のように、涙が次々と頬を伝い落ちていく。 彼女は泣きの演技を何度も練習してきた。どう泣けばいちばん美しく見えるのか、誰よりもよく分かっている。 さっきまで顔に浮かんでいた熱を帯びた欲の色は、もう跡形もない。  そこにあるのは、ただひたすらに哀れで、心から踏みにじられたような痛々しい悲しみだけだった。「うっ……ごめんなさい、社長……っ。わ、私……ただ、社長ともっと……もっと近づきたくて……。社長がこんなに優しくしてくださるから、私、本当に……ただ、お返ししたかっただけなんです……っ、うぅ……」 泣きじゃくる合間に紡がれる言葉さえ、息の詰まり方も、間の取り方も絶妙だった。 台詞は涙に濡れながらも不思議なほど明瞭で、潤んだ瞳には薄い涙の膜が張りつき、濡れた睫毛は一本一本が艶を帯びて、かすかな光を宿していた。「うぅ……っ、社長……社長、私のこと嫌いにならないで……お願い、許してください……私、間違ってました……」 泣きながら由衣は身体を折るように身を縮めた。 肩は小さく震えている。  それすらも必死に抑え込もうとしているようで、余計に痛々しく、今にも誰かが抱き寄せて慰めたくなるほど悲惨に見えた。 先ほどまで、彼女が慎一を誘惑しようとしていた一部始終を見ていた久我でさえ、その泣き声にわずかな不安を覚え、思わずバックミラー越しに由衣の様子を確かめてしまう。 だが、慎一は相変わらず微動だにしなかった。 やがて由衣の嗚咽が少しずつ小さくなり、車も事務所の前へ差しかかった頃になって、ようやく慎一が口を開く。「由衣。会社が用意するリソースも、お前につけるチームも、お前を望む所まで押し上げることはできる。――余計なことをしなければな」 由衣の頬にはまだ涙の跡が残っていた。 慎一の声に、彼女はそっと顔を上げる。 その瞳には、いじらしいほどの想いと、近づくことを恐れる怯えが同時に滲んでいた。  慎一との距離も、先ほどまでとは打って変わってきちんと空けられている。 まるで、もう二度と踏み越えないと行動で証明してみせるかのように。「……社長、私……ちゃんと言うことを聞きます。だから、嫌いにならないでくれますか……?」 慎一は一度だけ彼女
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第34話

 夜―― 慎一が接待のために貸し切りにしていた会員制のプライベートサロンに、一人の招かれざる客が姿を現した。 そこは都心の一等地にありながら、表通りから巧みに隠された場所に構えられた、限られた者だけが足を踏み入れることを許される高級会員制クラブだった。 徹底した秘匿性を売りにしており、顧客層は政財界や大手企業の重役、資産家一族の後継者たちばかり。 慎一がこの場所を気に入っている理由も、まさにそこにあった。 入会審査は極めて厳格で、たとえ既存会員の紹介であっても、基準が緩められることはない。 顧客の質を何よりも重視し、会員同士の信頼関係を損なわないよう徹底されている。 この場では顔を合わせるうちに自然と巨額の案件がまとまり、利権と資本が水面下で静かに動いていく。 まさに、権力と金が交差する社交場だった。 その空気を、場違いな男があっさりとぶち壊した。「よう、慎一。久しぶりじゃねぇか」 男は気怠げな余裕を纏いながらホールへ足を踏み入れた。周囲の視線を一身に浴びても眉ひとつ動かさず、むしろ当然だと言わんばかりに、慎一へ向けてゆるく手を振る。 この場の空気を乱すこと自体が目的であるかのように。 その姿を見た瞬間、慎一の眉間に深い皺が刻まれる。 今日の彼はもともと機嫌が良くなかった。そこへ現れたこの男の存在は、まさに火に油だった。「……御堂悠臣」 低く、押し殺した声で名を呼ぶ。 すると悠臣は、その声音に滲む苛立ちを聞き取ったのか、いっそう楽しげに口角を吊り上げた。 今にも声を上げて笑い出しそうなほど、愉快そうに。 次の瞬間には、慎一は何事もなかったように表情を整えた。私情を一瞬で引っ込め、完璧な社交用の顔へ切り替える。 周囲から見れば、旧知の友人同士が再会を喜んでいるようにしか映らない。 その完璧さが、逆に悠臣には退屈だった。「どうしてお前がここにいる。今日は朝倉グループ主催のプライベートな席だ。まさか、お前まで招くつもりはなかったが」「はは。そりゃ俺が金もコネも持ってるからだろ?」 悠臣は得意げに肩をすくめた。 慎一の言葉に込められた「招かれざる客がなぜここにいる」という露骨な悪意を、悠臣はまるで気づいていないかのように笑ってみせた。 そのまま警告めいた視線すら無視し、当然のように慎一の隣へ腰を下ろす
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第35話

 幼い頃から、家が近かったこともあって、悠臣は慎一に何かと嫌がらせを仕掛けるのを楽しんでいた。 もっとも、彼が国内にいた時間はそう長くはない。 小学校に上がって数年も経たないうちに、いわゆる“エリート教育”の名目で海外へ送られたため、当時の慎一にとって悠臣の印象はそれほど濃いものではなかった。 二人の本当の対立が始まったのは、大学で再び顔を合わせてからだ。 同じ大学、同じ学部。 そこで再会して以降、慎一と悠臣の水面下の争いは、ようやく本格的に幕を開けた。 悠臣にはどこか歪んだ執着があった。 おそらく、朝倉家と御堂家――両家のグループ規模がほぼ拮抗していたせいだろう。 悠臣は一方的に慎一を仮想敵に据え、社交の場でも成績でも、何かにつけて彼を上回ろうとした。 だが残念なことに、その目論見はことごとく果たされなかった。 いつもあと一歩のところで、慎一に先を越される。 その積み重ねが、悠臣の中で鬱屈した劣等感を膨らませ、やがて競争心はより陰湿な方向へと歪んでいった。 ――慎一の周囲にいる人間を奪うこと。 慎一の友人。 慎一に好意を寄せる相手。 慎一が目をかけている教授。 その中には当然、紗月の存在もあった。 ある時期、悠臣はあからさまに紗月へ接近した。 彼女の講義が終わる時間を見計らって教室の前で待ち伏せし、人目のある場所でわざと距離を詰め、親しげに振る舞う。 周囲に誤解を抱かせるには、それで十分だった。 二人は付き合っているのではないか――そんな噂が、いつの間にか学部中に広まっていた。 当時の慎一は、あえて口を挟もうとはしなかった。紗月の交友関係にまで干渉するつもりはなかったからだ。 だが、自分に対してまるで反応を示さない慎一が面白くなかったのか、悠臣もやがて紗月の周囲をうろつくのをやめた。 あの頃は、どうでもよかった。 けれど今、こうして悠臣がわざわざ紗月の名を持ち出してきたことで、慎一の胸に不快感が鋭く走る。 昼間の苛立ちなど比べものにならないほどに。 大学時代、悠臣が勝手に始めた幼稚な対抗心に、慎一もまた反発心を抱くようになっていた。 こいつにだけは、絶対に負けたくない。 そんな感情がいつの間にか根を張っていた。 よりにもよって一番嫌いな男の口から、一番聞きたくない名前が出たことが、余計に神経を逆撫でした。
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第36話

 慎一は、悠臣がただ自分を怒らせたいだけなのだと理解していた。相変わらず、いつもの手口だ。 腐れ縁と言っていいほど長い付き合いだ。 悠臣が自分は慎一をよく理解していると思い込んでいるように、慎一もまた、悠臣がどういう男なのかを嫌というほど知っていた。 歪んだ性格。 下劣な悪趣味。 思い出したように何度も目の前へ現れては、安っぽい挑発を繰り返す。 そのすべては、結局のところ、自分の力対する劣等感から来るものだと、慎一は見ていた。 無能な人間ほど、自らの無力さを認められず、無関係な他人や物事に責任を押しつけて、心の均衡を保とうとする。 こんな幼稚な男に付き合って、ここまで張り合ってきた自分も、時折滑稽に思える。 負けたくない――ただそれだけの意地で応じてきたが、振り返れば、まったくの時間の無駄だった。 胸の奥に鬱屈した苛立ちは残っている。 だが、悠臣がまるで自分の挑発が効いたとでも言いたげに得意げな顔をしているのを見て、かえって慎一は冷静さを取り戻していった。「……は」 短く鼻で笑う。 慎一はゆっくりと身体をソファの背に預け、より楽な姿勢へと座り直した。 それでも、その所作は隙なく優雅だった。悠臣の気ままさとはまるで違う、磨き抜かれた品がある。 悠臣が見ているのは、いつだって表面だけだ。 成績、人脈。 肩書きだけは華やかな、実の伴わない地位。 慎一が本当に比べているのは、そんな浅いものではない。 教養、実権、商業価値。 そして利益。 親に甘やかされて育った悠臣など、自力で獲物を狩ったこともない張り子の虎に過ぎない。 まともに勝負できるものなど、一つもない。 慎一は薄く笑みを浮かべた。「いいだろう。そこまで言うなら、帰ったら紗月にきちんと聞いてやるよ。自分の夫が経営する事務所を差し置いて、できたばかりの、しかも社長が素人同然の事務所と契約したいのかどうか」 その余裕に満ちた態度を見て、悠臣の笑みがわずかに薄れる。「へえ。協力してくれるなら願ったりだよ。……ただ、余計なことはするなよ? 紗月ちゃんの前で俺の悪口なんて言わないでくれ。お前、案外そういうところ、小さいからな。心配で仕方ないよ」 慎一は鼻で笑った。「ふっ。そこまで言うなら、最初から紗月に直接連絡すれば済む話だろう。どうしてわざわざ俺の前に現れた?」 一
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-14
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第37話

 悠臣が慎一のもとへ挑発しに来るたび、その結末はいつも同じだった。  腹の底に怒りを溜め込んだまま、彼が苛立たしげに立ち去っていく――それが常だった。 慎一は去っていくその背中を冷ややかに見送り、胸の内で「使えない男だ」と吐き捨てるように嘲ったあと、ローテーブルの上に置かれた悠臣の名刺を手に取った。  ためらいなく引き裂き、細かく裂いた紙片を再びテーブルへ放り投げる。 そしてすぐに久我へ電話をかけた。「車を回せ。……家に戻る」 その言葉を電話越しに聞いた久我は、思わずほっとしたように息をついた。慎一の声音も、先ほどまでよりは幾分落ち着いているように聞こえる。 胸の内でそっと安堵しながら、紗月のことを思い、わずかに表情を和らげた。 久我は今もなお、慎一と紗月の関係がいつか元に戻ることを、どこかで願っていた。* 慎一が帰宅することを、紗月には知らせていなかった。 家へ戻った頃にはすでに二十三時近く、かなり遅い時間だった。 玄関の扉を開けても、「ただいま」と声をかけることはしない。  リビングも廊下も灯りは落とされていたが、歩みを進めるたび、壁際のセンサーライトが自動で淡く灯っていく。 慎一はそのままバーカウンター脇の酒棚へ向かい、新しいウイスキーを一本開けた。 グラスを傾け、微かな酔いが身体に回り始めた頃、ようやくゆっくりと足を進める。 向かった先は紗月の部屋だった。 もう眠っているだろうと思っていたが、扉を開けるとそうではなかった。 眠る支度は整っていたものの、まだ起きていたらしい。部屋には小さなナイトランプが一つだけ灯されていて、薄暗い琥珀色の光が室内を柔らかく染めている。 その仄暗さを見て、慎一はわずかに目を細めた。 ――ちょうどいい。 これから自分が紗月にすることを思えば、明るすぎる光は好ましくない。彼女の表情も、反応も、あまりにはっきり見えすぎるのは気に入らなかった。「……っ!」 突然開いた扉に、ベッドの上の紗月はびくりと肩を震わせた。驚きのあまり、思わず舌を噛みそうになり、悲鳴すら声にならない。 入ってきた人物が慎一だとわかった瞬間、その瞳にははっきりとした驚愕が浮かんだ。「し、慎一……?」 たどたどしく名を呼ぶ。 彼女が身につけているのは寝間着だった。 飾り気のない素朴なデザイン。色味も地味で、裾は足
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第38話

 结婚して間もない頃、慎一を喜ばせたくて、こういうことに関しては、紗月のほうから何度か自分から歩み寄ったこともあった。 やっとの思いで勇気を振り絞り、慎一に触れようとするたびに、彼はまるで娼婦でも見るかのような冷えきった目で紗月を見下ろし、容赦なく「はしたない」と吐き捨てた。 ほんの数度、それを繰り返しただけで、紗月はもう二度と自分からは動けなくなってしまった。 慎一に触れることも、身体を重ねることも、すべては彼の指示を待つだけ。 あるいは、彼が先に動き出すのを、ただ静かに待つだけだった。 慎一の手が乱暴に触れてきた瞬間、紗月は反射的に下唇を噛みしめた。 声を漏らしてしまわないように。 薄暗い常夜灯の下で、彼の落とす影が紗月の身体をすっぽりと覆い隠していた。 息が詰まるほど隙間なく閉ざされたその影は、まるで暗い牢獄のようで、どこにも逃げ場がない。 もっとも、紗月は逃げようなどとは、最初から思っていなかった。 慎一の触れ方も、愛撫も、優しさとは程遠い。 むしろ、わざと痛みを与えようとしているかのように荒々しく、冷酷だった。 いつもなら、自分の欲望だけを満たして終わるはずなのに、今日はなぜか彼の動きはゆっくりとしていた。 寝間着越しに、紗月の柔らかな身体を押し潰すように掌でなぞり、膝をわざと彼女の身へ押し当てた。 そのせいで紗月の身体が耐えきれず小さく震え始めたところで、慎一は低い声で問いかけた。「さっき、俺にお前を欲しいと言ってきた男がいた。スターとして売り出したいらしいが……どうする?」 掌で押さえつけられるたびに走る痛みを感じながら、紗月は顔を上げた。 ちょうど彼の視線とぶつかり、その意味ありげな眼差しに囚われたまま、目を逸らすことができなかった。「え……な、に……っ、……慎一、待っ……」 これまでの情事の最中、慎一がこんなふうに時間をかけて、意味の分からないことを口にしたことなどなかった。「紗月。お前、昔は芸能界に入りたかったんだろう? 事務所にも入っていたし、俺と結婚するために辞めたって……後悔はしていないのか?」「……っ」 そのことについて、紗月はこれまで一度も口にしたことはなかったのに、慎一は知っていたのだ。 紗月が、自分の夢を手放した理由を。 それが彼との婚約、そして彼のそばにいるためだったことを。 紗
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-15
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第39話

 短い沈黙が落ちた。 あまりにも度を越した侮辱だった。 とりわけ、慎一が自分をほかの男のベッドへ送るなどと言い放ったことは、紗月にとって、直接刃物で胸を抉られるのと何ひとつ変わらなかった。「……っ、う……」 涙がこぼれ落ちるより先に、紗月は思わず慎一を打とうと手を伸ばした。 もともと力の弱いその腕では敵うはずもなく、動きも遅い。振り上げた手首はあっという間に慎一に掴まれ、そのまま枕へと押し戻されてしまう。 結局、彼に触れることすら叶わなかった。 慎一はフンと鼻先で笑う。 紗月が泣いていても、その目は冷えきったまま。まるで退屈な芝居でも眺めるような眼差しだった。「なんだ、そんなに言われるのが堪えるのか?」「ひどい……慎一……っ、最低……」 嗚咽まじりに、普段なら決して口にしないような言葉を絞り出す。それさえも慎一には可笑しかったのか、彼はくつくつと喉の奥で笑った。 楽しげに。「ただの提案だろ。お前が嫌だと言うなら、本当に他の男にくれてやるわけがない。……俺だって潔癖なんだよ。他人が触れた汚いものに触れる趣味はない。知ってるだろ、紗月」 冷えきった声でそう言い放ちながらも、慎一は涙に濡れる彼女を気遣う素振りすら見せない。 乱暴に紗月の脚を持ち上げると、何の準備もないまま、容赦なく彼女の内側へと踏み込んでいった。「――っ、あ……!」 強く押し込まれた衝撃に、紗月の身体が小さく跳ねる。 喉の奥から、涙を含んだか細い声が漏れた。 いつもなら、ただひたすら耐えるだけの彼女が、今は泣き声を滲ませている。 その変化が、慎一にはわずかな愉しさを与えたのか、口元に薄い笑みを浮かべたまま、さらに心を抉る言葉を落とした。「もっと声を出せよ。他の男のベッドに行きたくないなら、せめてこのベッドの上では少しはまともに応えてみせろ」「……っ、いや……! もう……慎一とは……したくない……っ!」「俺とは? じゃあ、誰とならいい?」「……誰でも……あなたじゃ、なければ……」 紗月だって、何も感じない人形ではない。 あそこまで言われて、胸が張り裂けそうなほど苦しいまま、それでもなお彼の乱暴さに耐えさせられる。 もう、これ以上は無理だった。 この瞬間だけは、本気で慎一の顔を見たくなかった。 そんな彼女の抵抗など、慎一にとっては痛くも痒くもないらし
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第40話

 紗月もそこにいると知った途端、悠臣の声色は一気に親しげなものへと変わった。 どこか浮き立つような高揚感すら滲んでいて、きっと慎一が聞いていることも分かったうえで、わざと自分と紗月の関係を親密に見せつけようとしているのだろう。「紗月ちゃん、久しぶりだな。最近は元気にしてたか? この数年、ほとんど連絡できなくて悪かった。実はずっと海外の会社を視察していてさ……」 悠臣は、紗月と連絡を絶っていた年月を、まるで仕事のためにやむを得なかったかのように取り繕っていた。 それを聞きながら、慎一は思わず笑いそうになる。 たしかに、悠臣がこの数年、断続的に海外へ行っていたのは事実だが、彼の言う「海外視察」など、まるで出鱈目だった。 実権も持たず、金を散財することしか能のない放蕩息子が、海外に数か月滞在していたところで、酒と女に溺れていただけに違いない。 おそらく、自分の家の海外子会社の所在地すらまともに知らないだろう。 とはいえ、悠臣が国外にいる間は、慎一にとって厄介事がひとつ減る。 それだけは都合がよかった。 その礼だとでも言うように、慎一はわざとスマートフォンを紗月の枕元へ押し当てる。 悠臣がより近くで彼女に話しかけられるように。 あまりにも親切に。「……っ、う……」 紗月の目は大きく見開かれたまま、涙が絶え間なくぽろぽろと零れ落ちていた。 身体は小さく震え、恐怖に怯えながらも、どこか熱を孕んでいる。 慎一は彼女の身体の敏感な場所を知り尽くしていた。わざとそこを狙うように触れられるたび、紗月はまともに耐えることができない。 全身から力が抜けていき、それでも最後の理性で必死に口元を押さえ、声が漏れないように堪える。 悠臣の声は電話の向こうから途切れることなく続いていた。「……この数年、俺なりにかなり頑張ったんだぜ? 今じゃ芸能プロダクションの社長だ。会社名はミドウ・エンターテインメント。はは、分かりやすいだろ?……紗月ちゃん、慎一から聞いただろう? まあ、あいつがどう伝えたのかは知らないけどさ。うちに来てくれないかって話だ。君来るなら、俺が直接契約する。俺が君を担当して、最高のリソースを用意する!君が欲しい立場も、肩書きも、やりたい仕事も――全部、俺が叶えてやる自信がある」 悠臣は次々と言葉を重ねていく。 紗月の耳には、その半分も入って
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