Semua Bab 愛し続けた彼を、私は手放すことにした: Bab 41 - Bab 50

80 Bab

第41話

「……いや……!」 慎一の声音に滲むあからさまな脅し。 滅多に見せることのない執着と、底意地の悪い悪戯めいた残酷さに、紗月はこの瞬間、本当に彼が口にした通りのことをやりかねないのだと信じてしまった。 咄嗟に「いや」と叫んだその先で、紗月は慎一の深い眼差しとぶつかった。 その瞳の奥には、一瞬だけ、かすかな温度を帯びた笑みのようなものが浮かんでいた。 けれど、それは見間違いだったかのように、次の瞬間には跡形もなく消えてしまう。 そんなものが善意であるはずもない。……きっと、また自分を嘲っているのだ。 長年慎一と向き合ってきたからこそ、紗月はどうしてもそんなふうに考えてしまう。 また、自分の思い上がりを笑われているのだと。 次に返ってくるのは、きっとこんな言葉だ。 ――「お前なんかを、どこの男が抱きたいと思う?」 そんなふうに、さらに踏みにじられる覚悟までしていたが、事態は紗月の予想した方向には進まなかった。「……は?」 紗月の叫びを聞いた悠臣が、しばらく間を置いてから戸惑ったような声を漏らす。 信じられないものを聞いたように。 これだけの条件と待遇を提示しているのに。しかも相手は自分――社長である悠臣だ。 常に自信に満ちている彼にとって、拒絶されるなど考えたこともなかったのだろう。 その声には、あからさまな驚きと困惑が滲んでいた。 それでも、彼はなおも食い下がる。「紗月ちゃん、もう一度ちゃんと考えてみないか? それとも……何か他に条件があるのか?欲しいものでも、望む立場でもいい。もし君が望むなら、君だけを特別に契約してもいい。会社全体で君ひとりのために動く。……こんな条件、どこの事務所だって出せるわけがないだろ?」 悠臣の声は次第に焦りを帯びていく。 慎一の前で断られることが、彼にとっては何より耐え難い屈辱なのだろう。 だが、悠臣が焦れば焦るほど、慎一の機嫌は目に見えて良くなっていった。「紗月。心が動かないのか?これだけの条件、俺でも用意してやれない。たかが男ひとりだろ。ちゃんと掴んでおくべきじゃないのか?……ちょうど、お前が昔、俺にしがみついてきたみたいに」「……っ、いや……!」「本当に?お前の夢は、芸能人になることだったんじゃないのか。身体を使って取引するくらい、別に悪いことでもないだろ」 もちろん、悠臣はそんな
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-16
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第42話

 翌日は日曜日だったことだけが、せめてもの救いだった。 慎一は昔からそうだったが、こういう行為のときは一切手加減をしない。むしろ、快感よりも痛みを与えることを優先しているかのようだった。 今回も例外ではなく、そのせいで紗月は翌朝になっても身体に力が入らない。昨夜、強く掴まれた箇所には、今もなお鈍い痛みが残っている。 いずれ消えていく筋肉痛のようなもの。 それが、この結婚の中で、慎一が唯一紗月に残していく痕だった。 身体の痛みは、時間とともに薄れていく。 胸の奥に残った想いだけは、どうしても消えてくれない。 それが、いちばん厄介だった。 昨夜の疲れが抜けきらず、紗月はいつもより遅く目を覚ました。 目を開けると、部屋はひどく静まり返っていた。遮光カーテンが隙間なく閉められていて、室内はまだ夜のような薄暗さに包まれている。 ろくでもない夢を見た気がする。 その悪夢には、決まって慎一が現れる。 夢の中でも現実でも、彼は執拗に追いかけてきて、逃げ場を奪うように紗月を辱める。 流しきれなかった涙をそのまま引きずるように、目が覚めてもなお、目の奥がじんと痛み、気分は沈んだままだった。 重たい身体を引きずるようにベッドを降りる。 ――できれば、もう彼にはいてほしくない。 そんなことを願いながら、寝室のドアを開けたが、その心配はまったくの杞憂だった。 部屋の中は、妙に整いすぎた静けさに包まれている。 防音性の高いマンションのせいで、外の音はほとんど入ってこない。その分、空気が澱んだように重く、息苦しささえ感じられた。 慎一の姿はなかった。 いつ出ていったのかは分からない。おそらく、あの一方的な行為が終わった直後には、もういなかったのだろう。 いないでほしいと願っていたはずなのに、本当にひとりきりだと分かった瞬間、胸の奥から言いようのない空虚が込み上げてきた。 内側から何かが押し広げようとしてくるような、息が詰まるほどの重さだった。 静まり返った部屋の中で、紗月は力の入らない脚のままソファに腰を下ろす。焦点の合わない目で、天井の一点をぼんやりと見つめた。 長い時間、何かを考えていた気がする。 ふと気がつけば、頭の中は空っぽになっていた。 そんな混沌の中で、不意に思い出したのは、昨日祖父から渡された一枚の名刺だった。 母の連絡先。
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第43話

 沈黙をまとったまま、慎一はひどく静かに部屋へ戻ってきた。 もう完全に出て行ったものだと思い込んでいた紗月は、不意を突かれて思わず息を呑む。 同時に、なぜか胸の奥がじんと熱を帯び、目の奥がわずかに痛んだ。 どうしてそんな感情が込み上げたのか、自分でも分からない。「……どなたですか?」 紗月が答えないままでいると、電話の向こうの女は、わずかに苛立ちを滲ませた声で問い返した。 やがて何かに思い至ったのか、言葉を濁しながら続けた。「もしかして……さつ……」 それ以上言われる前に、紗月は慌てて通話を切った。慎一の前で、母親だと気づかれることが怖かった。 ――まだ、自分には母と向き合う覚悟がないのだと、気づいてしまった。 そんな怯えた紗月の様子を前にしても、慎一はただ小さく鼻で笑っただけだった。誰と話していたのかなど、気にも留めていないように。 だが、その直後、ふと悠臣の存在を思い出したのか、踏み出しかけていた足をぴたりと止める。 冷たい視線が紗月へと向けられた。 問いかける声には、はっきりとした威圧が滲んでいる。 それでいて、わずかに自分でも気づいていないような苛立ちが混じっていた。「誰からの電話だ。……御堂か?」「え……? あ、違うの……!」 紗月は一瞬言葉に詰まりながら、慌てて首を振った。 慎一は小さく「ふん」と鼻を鳴らす。彼女を見る目には、露骨な不信が宿っていた。 胸の奥が理由も分からないまま重く詰まる。 昨日、悠臣が紗月の話をしたときの、あのどこか得意げな表情を思い出した瞬間、胸の内側から苛立ちが湧き上がる。 本当は、慎一も分かっている。 悠臣が紗月に特別な感情を抱いていないことくらい。 それでも、口から出た言葉は、その思考とはまるで正反対だった。「……は。昨日も聞いただろ。御堂がどれだけお前を欲しがってたか。もしあいつとどうにかなりたいなら、俺の目の届かないところでやれ。……俺は、汚い女に触れる趣味はない」 その言葉に、紗月の顔色がさっと青ざめる。同時に、昨夜のことが頭をよぎった。 慎一が電話をかけたあのあと、自分がどう反応していたのか。 覚えているはずなのに、まるで夢だったかのように輪郭が曖昧で、うまく思い出せない。 悠臣に、あの声は聞こえてしまっていたのだろうか。 もし聞かれていたら――。 考えるだ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-17
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第44話

 慎一はそれだけ言い残すと、振り返ることもなく部屋を出ていった。 紗月は箱の中身を確かめることすらしなかった。……いや、正確には、触れることすらできなかった。 その箱を手に取るだけで、胸の奥からこみ上げてくるような強い不快感に襲われる。 結局、彼女はそれを部屋の隅にある、ほとんど使われていないキャビネットの一番下へと押し込んだ。 慎一から贈り物をもらった喜びなど、欠片もない。 見えなければ、ないのと同じだ。* 美沙子から電話がかかってきたのは、それからほぼ一週間後のことだった。 紗月がその着信に出たのは、会社の昼休みの時間だった。 番号は登録していない。 受話ボタンを押した瞬間も、それが母親からの電話だとは思いもしなかった。ただの営業電話か、何かだろうとしか考えていなかった。「……もしもし」「紗月、よね?」 受話口越しに聞こえてきた美沙子の声は、不思議なほど老いを感じさせなかった。むしろ、どこか艶を帯びた、大人の女性特有の色香を含んでいて、現実味が薄いほどだった。 もしかすると、もともとそういう声だったのかもしれない。 紗月の記憶の中には、母親が自分に向かって話しかける声は、ほとんど残っていない。あの頃は、自分の泣き声ばかりが強く残っていて、それだけが深く胸に焼きついている。「……はい。私は……」「母さんよ、紗月! もう私の電話番号、知ってるでしょう? この前、かけてきてくれたのもあなたよね? 後で考えて、すぐ分かったのよ。でも、どうしてそれから全然電話してくれないの?」 紗月の身元を確認すると、美沙子はどこか責めるような口調で問い詰めてきた。けれどすぐに、自分の言い方に気づいたのか、紗月が何か言う前に声色を和らげる。「責めてるわけじゃないの。ただ、早く連絡を取りたくて……少し焦ってしまっただけなの」 そして間を置かず、さらに続ける。「今日、時間ある? 母さんと会ってくれない?」 紗月に考える隙を与えないまま、美沙子は一方的に時間と場所を決めてしまった。 場所は、紗月の会社から少し離れた駅にあるチェーンのカフェ。 電話を切る直前になって、美沙子はわざとらしいほどの声音で付け加える。「もし紗月が母さんに会いたくないなら……それでもいいのよ。でもね、母さんは待っているから。あなたが会ってくれるまで、ずっと待
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第45話

 紗月は、すぐに頷くことはしなかった。こんな要求を、慎一が受け入れるはずがないと分かっていたからだ。 慎一が一番気にかけるのは、祖父のことだけだった。 それゆえ、紗月がどうにか彼を繋ぎ止め、わずかにでも歯止めをかけられるのは、祖父の存在しかなかった。 黙り込んだまま答えない紗月を見て、美沙子はわずかに眉をひそめた。目の前の相手に、どこか不満を覚えたようだった。「……どうしたの? まさか結婚したのに、母さんに紹介するつもりもないの?」 美沙子はなおも言葉を続けようとしたそのとき、テーブルに置かれたスマートフォンが小さく音を立てた。 着信だった。 表示された名前は――「うちの可愛い娘」。 カフェのテーブルは小さく、二人の距離も近かった。画面が淡く光ったその瞬間、そこに表示された名前は、否応なく紗月の視界に飛び込み、逃げる間もなく意識の奥に焼きついた。 娘? 母親には他にも娘がいるの? 美沙子の表情が、あからさまに揺らぐ。 焦ったようにスマートフォンを手に取り、すぐには通話に出ず、紗月に何も言わないまま、どこか警戒するように視線を逸らした。 そのまま、電話に出るためにカフェの外へと出ていった。 紗月は、ただ待った。 十数分後、美沙子は足早に戻ってくる。「ごめんなさいね、紗月。ちょっと家で用事ができてしまって……今日はもうゆっくり話せそうにないの。また今度にしましょう」 そう言うと、彼女は慌ただしく席を立った。本当に急ぎの用事なのかもしれない。 理由の説明もなければ、ようやく再会した娘への名残惜しさもない。 その足取りは風のように軽く、あっという間に紗月の視界から消えていった。 ただ、テーブルの上に残された、一口しか飲まれていないコーヒーだけが、彼女がそこにいたことを示している。 言葉にできない空虚さが、胸に広がった。 ――期待してしまった、その分だけ。 母親に対して、特別な感情などもう残っていないと思っていたのに、美沙子と過ごした、ほんの二十分にも満たない時間の中で、紗月の中にはわずかな依存のようなものが芽生えていた。 自分の人生にほとんど関わることのなかった人なのに。 それでも「母親」という存在だからこそ、近づきたいと思ってしまう衝動が、確かにあった。 せめて、別れる前に一度だけでも抱きしめてもらえたら―― そんな
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-18
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第46話

「ねえ優介、広告の撮影現場、一緒に見に行くって約束したでしょ!」「そうだよ。言い出したの、優介のほうじゃん」 紗月に甘えようとする優介に対して、友人の二人はまったく容赦なく割り込み、その誘いをあっさり遮った。「だからさ、二人とも邪魔しないでって言ってるだろ。芸能人なんかより、紗月お姉さんのほうが大事なんだよ」 不満げに友人たちを睨みつけたあと、優介は再び紗月へと視線を戻す。 その途端、まるで別人のようにしゅんとした表情になり、頭の上にはふわふわした子犬の耳でも生えているかのように見えるほど、甘えた様子で彼女にすり寄った。「ねえ、いいでしょ? 紗月お姉さん」「優介くん、友達はちゃんと大切にしないとだめよ」 紗月は思わず苦笑し、その声には自然とやわらかな笑みが混じる。 優介が現れてからというもの、さっきまでの嫌な気分も、気づけば少しずつ薄れていた。「ほんとそれな。優介、俺たちが優しいからいいけど、普通ならとっくに友達いなくなってるぞ」「じゃあさ、紗月姉さんも一緒に来ませんか?」「ちょっと! それ、僕の紗月お姉さんなんだけど。勝手に馴れ馴れしく呼ばないでよ」 優介の抗議など気にも留めず、友人たちはそのまま紗月に話しかけ、今日の予定を説明し始めた。「さっき連絡が来たんですけど、この近くのショッピングモールの地下で芸能人がCM撮影してるらしくて。今からちょっと見に行こうって話してたんです。あ、そうだ――紗月姉さん、俺は三条鈴央。こっちは透真。俺たち、高校の頃から優介と友達なんです」 三人は同じ高校の出身で、そのまま同じ大学へ進学した仲の良さだという。 鈴央の話によれば、すぐ近くが彼らの大学のキャンパスで、だから今日はこうして集まっていたらしい。 移動の途中、優介は鈴央と透真が紗月にすぐ打ち解けていることが気に入らない様子で、二人に向かって小声で何やら文句を言っていた。紗月にははっきり聞こえない程度の声だったが、明らかに友情にヒビを入れかねないような内容だった。 それでも紗月の前では、すぐに素直でいい子の顔に戻る。 その様子が面白くてたまらないのか、鈴央と透真はわざと紗月に近づき、優介の不機嫌そうな顔が一瞬で崩れて“いい子”に戻る様子を楽しんでいた。 四人がモールの地下へ向かう途中、優介がしばらく姿を消した。 紗月が気づいて探しに行こ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-19
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第47話

 あの日、車内で慎一の機嫌を損ねて以来、由衣は今日まで一度も、慎一と二人きりで会う機会を得られていなかった。  それどころか、これまで仕事や日常の中であれほど簡単に彼と顔を合わせられていたのは、結局のところ慎一の“許し”があったからに過ぎず、自分の力ではなかったのだと、今さらながら思い知らされる。 さらにこのところ、慎一が自宅に戻っているという情報も入ってこない。  以前なら簡単に連絡が取れた秘書も姿を消しており、どうやら解雇されたらしい。  そのせいで、慎一のスケジュールを探る手立ても完全に失われてしまっていた。 この数日、由衣は焦燥に駆られていた。慎一へかけた電話も、半分は着信拒否のように繋がらない。  その事実が、さらに彼女を苛立たせる。 今日こそは、絶好の機会だ。 スタッフに囲まれながらメイク直しを受けている最中、由衣は紗月と優介がいる方向へ視線を向けた。  人だかりに遮られて、はっきりとは見えない。  それでもわずかな隙間から、紗月がまだ手にしたアイスを食べている姿が確認できた。 その瞬間、由衣の目が冷たく沈む。 慎一に振り回されるような距離感に苛立ち、焦り続けている自分。それなのに、あの女はあんなふうに、楽しそうに男と過ごしている。 絶対に、紗月をこのままにしておくものか。 由衣は表向きには適度な笑みを浮かべ、指示された通りに撮影を進める。  しかしその内側では、ずっと紗月のことばかりを思い浮かべ、怨嗟を募らせ続けていた。 やがて撮影が終わり、スマートフォンを確認するも、慎一からの返信はない。 悔しさに下唇を噛みしめながら、由衣は自分に言い聞かせる。 ――きっと仕事が忙しいだけ。まだメッセージに気づいていないのだと。 あれほど紗月を嫌っている慎一が、他の男と楽しげに笑う紗月の姿を見て、何も思わないはずがない。 そして、紗月を傷つけるという点において、自分は慎一にとって最も使いやすい存在なのだ。 その考えに至ったとき、由衣の唇にわずかな笑みが浮かんだ。もう一度、紗月の姿を確かめようと視線を向けたが、そこにはもう彼女の姿はなかった。* 紗月が会社へ呼び戻されたのは、突然のことだった。 直属の上司である正田からかかってきた電話は、いつになく苛立ちを含んだ声音だった。  何があったのかも説明されないま
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-19
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第48話

 慎一は社長室の椅子に腰掛け、目の前でぺこぺこと頭を下げ続ける企画部長を無感情に見下ろしていた。  五十を過ぎた男が、自分より二十歳以上も年下の慎一に対して、やけに慎重で、過剰なほどにへりくだった態度を取っている。「社長、この度は本当にありがとうございます。今回の件も、社長が早い段階で問題に気づいてくださらなければ、私の甥がすべての責任を負うことになっておりました。あの子はまだ若くて……普段はとても優秀なんです。今年やっと大学を卒業したばかりで、しかも名門校出身でして。入社してすぐにあれほど大きな案件を任されれば、どうしても気が急いてしまうものです……若い者には、どうかもう少し機会を与えていただきたく……社長、何卒ご寛容に……どうか、ご容赦を」「データの捏造を、若さゆえの焦りで片づけるつもりか、下河部長」 慎一の声は淡々としていたが、その一言で空気が凍りつく。「この案件は、お前たちに任せて三年になるはずだな。企画書の提出は先延ばしに次ぐ先延ばし……ようやく出てきたと思えば、中身はほとんどが虚偽のデータ。――なかなか大した甥御さんだ。新卒でこれだけのことができるなら、確かに将来が楽しみだろうな」 漫然とした口調のまま放たれるその言葉に、下河の額には冷や汗が滲み続ける。 それでも顔には必死に笑みを貼り付け、慎一を持ち上げることをやめない。「い、いえ……それもこれも、社長が問題点に気づいてくださり、責任者の変更という的確なご判断を……あ、いえ、もともと責任者はもっと経験のある若手が務めるべきでして……はは……そういうことでして……」 支離滅裂な追従を聞き流しながら、慎一は鼻で笑った。 デスクの上のパソコンには、社内の監視カメラ映像が映し出されている。そこに映っているのは――正田に指を突きつけられ、罵倒されている紗月の姿だった。 音声はない。 だが、正田の歪んだ表情と絶えず動く口元、そして頭を下げたまま肩をすくめている紗月の様子を見れば、どれほど激しく罵られているかは想像に難くない。 正田という男については、慎一も噂程度には知っていた。 前職では部下へのパワーハラスメントで内部告発と訴訟を起こされ、解雇された過去がある。 その後、下河とのコネでこの会社に潜り込み、今や課長の地位に収まっているらしい。 慎一がこれまで手を下さなか
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-21
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第49話

 慎一の言った「取引先への損害」という言葉に、下河は一瞬、理解が追いつかなかった。 この件は社内の段階で発覚したものだ。どこに取引先などと思い、小さく呟きかけたが、口に出して異を唱える勇気はなかった。 慎一の顔色をうかがいながら、探るようにしばらく沈黙したあと、何かに思い至ったように何度も頷いた。「そ、そうですね、社長のおっしゃる通りです。これほどの問題ですから、当然、責任者が自ら取引先へ赴き、謝罪すべきかと……!」 慎一が提案を口にした直後、下河はすぐさまその内容を正田へ伝達した。 * 正田はまだ怒りが収まっていなかった。 メッセージに気づいてもなお、紗月への罵倒をさらに十分以上続け、ようやく口を止める。 そして、紗月が拾い集めた資料を再び彼女へ投げつけた。「会社で公開説明会をやることになった。今回の件の経緯を全部まとめて書け――明日の朝までに、謝罪文を提出しろ!」 紗月の唇が、かすかに震える。「課長……でも、この案件の担当は、私ではないと……」「ふざけるな。責任者の名前はお前だろうが。社内の記録も全部お前の名前になってる。文句があるなら辞めろ。今すぐ会社から出ていけ!」 吐き捨てるように言い残し、正田はそれ以上紗月を見ることもなく、その場を去っていった。 広いフロアに、残されたのは紗月一人だけだった。 目の奥がじんと熱を帯びる。 もう一度、床に散らばった紙を拾い集めるためにしゃがみ込む。 足元の書類をすべて手に収めたとき、そのまま立ち上がる力を失ったかのように、紗月はその場に座り込んだ。 ただ、ぼんやりと前を見つめる。 あまりにも多くのことが、一度に起きすぎた。 しかもそれは、あまりにも突然で、あまりにも一方的で、どうしてこんな結果になってしまったのか、理解する暇すらなかった。 今日一日、優介と出会ったこと以外、何一ついいことはなかった。 あの優介がくれた、ほんの一瞬の穏やかな気持ちさえも、この理不尽な責任の押し付けによって、跡形もなく踏みにじられてしまった。 どうして、こんなことに。 毎日こんなにも真面目に働いてきただけなのに――それなのに、返ってきたのは、こんな仕打ちだった。 込み上げてくる涙を必死に堪えながら、紗月は資料をまとめてファイルに収める。 それを抱えたまま、静かにビルを後にした。 外へ出た瞬
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-21
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第50話

 慎一に気づかれる前に、紗月は腕の中のやや重みのある書類をぎゅっと抱きしめた。 最後に一度だけ慎一へ視線を向けると、足早に、人目につきにくい脇の通路へと身を滑り込ませるようにして、その場を離れた。 車から降りたばかりの慎一は、すぐに下河に捕まり、さらに正田まで引き連れてきたことで、内心うんざりしていた。 二人の取り繕ったような挨拶を冷淡にあしらい、適当に切り上げて追い払う。 ようやく顔を上げたときには、ビルの入口にはもう紗月の姿はなかった。 無意識のうちに眉間に皺が寄る。 胸の奥にくすぶっていた苛立ちと、理由のわからない焦燥が、さらに強くなる。まるで見えない虫が皮膚の上を這い回っているかのような、不快な感覚だった。 ――自分に気づいていながら、先に逃げた。 その事実が、なおさら気に食わない。 やはり、どこまでも気に入らない女だ。 そう心中で吐き捨て、慎一は車へと戻る前に、冷えきった表情のまま思考を打ち切った。 本来なら、そのままホテルへ戻る予定だった。 だが久我が車をホテルの正面へ停めたところで、慎一は気が変わった。「家に戻れ」 不満げに、短くそう吐き捨てた。* 家の中は、相変わらず冷え切っていて、静まり返り、薄暗かった。 なぜ自分がここへ戻ってきたのか、慎一自身にも分からない。 灯りのついていないリビングに立っていても、紗月への嫌悪は変わらず胸の内に渦巻いている。 それなのに、口から出る指示も、体の動きも、心とは逆の方向へと向かっていく。 頭では紗月など見たくもないと思っているのに、気がつけば足は彼女の部屋の前で止まり、手はドアノブに触れていた。 そのまま押し下げるようにして、扉を開ける。 紗月は彼に背を向ける形でデスクに向かっていた。机の上には、明かりを放つノートパソコンと、分厚い資料の束。 彼女の指はキーボードの上で動き続け、時折止まり、また打ち始める。 部屋に響くのは、途切れ途切れのタイピング音だけ。それ以外の音は、何ひとつなかった。 正田に命じられた謝罪文を書いているのだろう。 彼女は今日外出したままの服装で、上着すら脱いでいない。ほどいたままの髪が、わずかな動きに合わせて微かに揺れていた。 慎一は何も言わず、ドアの前に立ったまま、しばらくその背中を見ていた。 ふと、高校時代の記憶がよぎる。 夜遅
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-22
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