تسجيل الدخول悠臣が慎一のもとへ挑発しに来るたび、その結末はいつも同じだった。 腹の底に怒りを溜め込んだまま、彼が苛立たしげに立ち去っていく――それが常だった。 慎一は去っていくその背中を冷ややかに見送り、胸の内で「使えない男だ」と吐き捨てるように嘲ったあと、ローテーブルの上に置かれた悠臣の名刺を手に取った。 ためらいなく引き裂き、細かく裂いた紙片を再びテーブルへ放り投げる。 そしてすぐに 久我 誠 へ電話をかけた。「車を回せ。……家に戻る」 その言葉を電話越しに聞いた久我は、思わずほっとしたように息をついた。慎一の声音も、先ほどまでよりは幾分落ち着いているように聞こえる。 胸の内でそっと安堵しながら、紗月のことを思い、わずかに表情を和らげた。 久我は今もなお、慎一と紗月の関係がいつか元に戻ることを、どこかで願っていた。* 慎一が帰宅することを、紗月には知らせていなかった。 家へ戻った頃にはすでに二十三時近く、かなり遅い時間だった。 玄関の扉を開けても、「ただいま」と声をかけることはしない。 リビングも廊下も灯りは落とされていたが、歩みを進めるたび、壁際のセンサーライトが自動で淡く灯っていく。 慎一はそのままバーカウンター脇の酒棚へ向かい、新しいウイスキーを一本開けた。 グラスを傾け、微かな酔いが身体に回り始めた頃、ようやくゆっくりと足を進める。 向かった先は紗月の部屋だった。 もう眠っているだろうと思っていたが、扉を開けるとそうではなかった。 眠る支度は整っていたものの、まだ起きていたらしい。部屋には小さなナイトランプが一つだけ灯されていて、薄暗い琥珀色の光が室内を柔らかく染めている。 その仄暗さを見て、慎一はわずかに目を細めた。 ――ちょうどいい。 これから自分が紗月にすることを思えば、明るすぎる光は好ましくない。彼女の表情も、反応も、あまりにはっきり見えすぎるのは気に入らなかった。「……っ!」 突然開いた扉に、ベッドの上の紗月はびくりと肩を震わせた。驚きのあまり、思わず舌を噛みそうになり、悲鳴すら声にならない。 入ってきた人物が慎一だとわかった瞬間、その瞳にははっきりとした驚愕が浮かんだ。「し、慎一……?」 たどたどしく名を呼ぶ。 彼女が身につけているのは寝間着だった。 飾り気のない素朴なデザイン。色味も地味で、裾
慎一は、悠臣がただ自分を怒らせたいだけなのだと理解していた。相変わらず、いつもの手口だ。 腐れ縁と言っていいほど長い付き合いだ。 悠臣が自分は慎一をよく理解していると思い込んでいるように、慎一もまた、悠臣がどういう男なのかを嫌というほど知っていた。 歪んだ性格。 下劣な悪趣味。 思い出したように何度も目の前へ現れては、安っぽい挑発を繰り返す。 そのすべては、結局のところ、自分の力対する劣等感から来るものだと、慎一は見ていた。 無能な人間ほど、自らの無力さを認められず、無関係な他人や物事に責任を押しつけて、心の均衡を保とうとする。 こんな幼稚な男に付き合って、ここまで張り合ってきた自分も、時折滑稽に思える。 負けたくない――ただそれだけの意地で応じてきたが、振り返れば、まったくの時間の無駄だった。 胸の奥に鬱屈した苛立ちは残っている。 だが、悠臣がまるで自分の挑発が効いたとでも言いたげに得意げな顔をしているのを見て、かえって慎一は冷静さを取り戻していった。「……は」 短く鼻で笑う。 慎一はゆっくりと身体をソファの背に預け、より楽な姿勢へと座り直した。 それでも、その所作は隙なく優雅だった。悠臣の気ままさとはまるで違う、磨き抜かれた品がある。 悠臣が見ているのは、いつだって表面だけだ。 成績、人脈。 肩書きだけは華やかな、実の伴わない地位。 慎一が本当に比べているのは、そんな浅いものではない。 教養、実権、商業価値。 そして利益。 親に甘やかされて育った悠臣など、自力で獲物を狩ったこともない張り子の虎に過ぎない。 まともに勝負できるものなど、一つもない。 慎一は薄く笑みを浮かべた。「いいだろう。そこまで言うなら、帰ったら紗月にきちんと聞いてやるよ。自分の夫が経営する事務所を差し置いて、できたばかりの、しかも社長が素人同然の事務所と契約したいのかどうか」 その余裕に満ちた態度を見て、悠臣の笑みがわずかに薄れる。「へえ。協力してくれるなら願ったりだよ。……ただ、余計なことはするなよ? 紗月ちゃんの前で俺の悪口なんて言わないでくれ。お前、案外そういうところ、小さいからな。心配で仕方ないよ」 慎一は鼻で笑った。「ふっ。そこまで言うなら、最初から紗月に直接連絡すれば済む話だろう。どうしてわざわざ俺の前に現れた?」 一
幼い頃から、家が近かったこともあって、悠臣は慎一に何かと嫌がらせを仕掛けるのを楽しんでいた。 もっとも、彼が国内にいた時間はそう長くはない。 小学校に上がって数年も経たないうちに、いわゆる“エリート教育”の名目で海外へ送られたため、当時の慎一にとって悠臣の印象はそれほど濃いものではなかった。 二人の本当の対立が始まったのは、大学で再び顔を合わせてからだ。 同じ大学、同じ学部。 そこで再会して以降、慎一と悠臣の水面下の争いは、ようやく本格的に幕を開けた。 悠臣にはどこか歪んだ執着があった。 おそらく、朝倉家と御堂家――両家のグループ規模がほぼ拮抗していたせいだろう。 悠臣は一方的に慎一を仮想敵に据え、社交の場でも成績でも、何かにつけて彼を上回ろうとした。 だが残念なことに、その目論見はことごとく果たされなかった。 いつもあと一歩のところで、慎一に先を越される。 その積み重ねが、悠臣の中で鬱屈した劣等感を膨らませ、やがて競争心はより陰湿な方向へと歪んでいった。 ――慎一の周囲にいる人間を奪うこと。 慎一の友人。 慎一に好意を寄せる相手。 慎一が目をかけている教授。 その中には当然、紗月の存在もあった。 ある時期、悠臣はあからさまに紗月へ接近した。 彼女の講義が終わる時間を見計らって教室の前で待ち伏せし、人目のある場所でわざと距離を詰め、親しげに振る舞う。 周囲に誤解を抱かせるには、それで十分だった。 二人は付き合っているのではないか――そんな噂が、いつの間にか学部中に広まっていた。 当時の慎一は、あえて口を挟もうとはしなかった。紗月の交友関係にまで干渉するつもりはなかったからだ。 だが、自分に対してまるで反応を示さない慎一が面白くなかったのか、悠臣もやがて紗月の周囲をうろつくのをやめた。 あの頃は、どうでもよかった。 けれど今、こうして悠臣がわざわざ紗月の名を持ち出してきたことで、慎一の胸に不快感が鋭く走る。 昼間の苛立ちなど比べものにならないほどに。 大学時代、悠臣が勝手に始めた幼稚な対抗心に、慎一もまた反発心を抱くようになっていた。 こいつにだけは、絶対に負けたくない。 そんな感情がいつの間にか根を張っていた。 よりにもよって一番嫌いな男の口から、一番聞きたくない名前が出たことが、余計に神経を逆撫でした。
夜―― 慎一が接待のために貸し切りにしていた会員制のプライベートサロンに、一人の招かれざる客が姿を現した。 そこは都心の一等地にありながら、表通りから巧みに隠された場所に構えられた、限られた者だけが足を踏み入れることを許される高級会員制クラブだった。 徹底した秘匿性を売りにしており、顧客層は政財界や大手企業の重役、資産家一族の後継者たちばかり。 慎一がこの場所を気に入っている理由も、まさにそこにあった。 入会審査は極めて厳格で、たとえ既存会員の紹介であっても、基準が緩められることはない。 顧客の質を何よりも重視し、会員同士の信頼関係を損なわないよう徹底されている。 この場では顔を合わせるうちに自然と巨額の案件がまとまり、利権と資本が水面下で静かに動いていく。 まさに、権力と金が交差する社交場だった。 その空気を、場違いな男があっさりとぶち壊した。「よう、慎一。久しぶりじゃねぇか」 男は気怠げな余裕を纏いながらホールへ足を踏み入れた。周囲の視線を一身に浴びても眉ひとつ動かさず、むしろ当然だと言わんばかりに、慎一へ向けてゆるく手を振る。 この場の空気を乱すこと自体が目的であるかのように。 その姿を見た瞬間、慎一の眉間に深い皺が刻まれる。 今日の彼はもともと機嫌が良くなかった。そこへ現れたこの男の存在は、まさに火に油だった。「……御堂悠臣」 低く、押し殺した声で名を呼ぶ。 すると悠臣は、その声音に滲む苛立ちを聞き取ったのか、いっそう楽しげに口角を吊り上げた。 今にも声を上げて笑い出しそうなほど、愉快そうに。 次の瞬間には、慎一は何事もなかったように表情を整えた。私情を一瞬で引っ込め、完璧な社交用の顔へ切り替える。 周囲から見れば、旧知の友人同士が再会を喜んでいるようにしか映らない。 その完璧さが、逆に悠臣には退屈だった。「どうしてお前がここにいる。今日は朝倉グループ主催のプライベートな席だ。まさか、お前まで招くつもりはなかったが」「はは。そりゃ俺が金もコネも持ってるからだろ?」 悠臣は得意げに肩をすくめた。 慎一の言葉に込められた「招かれざる客がなぜここにいる」という露骨な悪意を、悠臣はまるで気づいていないかのように笑ってみせた。 そのまま警告めいた視線すら無視し、当然のように慎一の隣へ腰を下ろす
あれほど容赦なく、きつい言葉を浴びせられても、由衣が狼狽えたのはほんの一瞬だけだった。 次の瞬間には、糸の切れた真珠のように、涙が次々と頬を伝い落ちていく。 彼女は泣きの演技を何度も練習してきた。どう泣けばいちばん美しく見えるのか、誰よりもよく分かっている。 さっきまで顔に浮かんでいた熱を帯びた欲の色は、もう跡形もない。 そこにあるのは、ただひたすらに哀れで、心から踏みにじられたような痛々しい悲しみだけだった。「うっ……ごめんなさい、社長……っ。わ、私……ただ、社長ともっと……もっと近づきたくて……。社長がこんなに優しくしてくださるから、私、本当に……ただ、お返ししたかっただけなんです……っ、うぅ……」 泣きじゃくる合間に紡がれる言葉さえ、息の詰まり方も、間の取り方も絶妙だった。 台詞は涙に濡れながらも不思議なほど明瞭で、潤んだ瞳には薄い涙の膜が張りつき、濡れた睫毛は一本一本が艶を帯びて、かすかな光を宿していた。「うぅ……っ、社長……社長、私のこと嫌いにならないで……お願い、許してください……私、間違ってました……」 泣きながら由衣は身体を折るように身を縮めた。 肩は小さく震えている。 それすらも必死に抑え込もうとしているようで、余計に痛々しく、今にも誰かが抱き寄せて慰めたくなるほど悲惨に見えた。 先ほどまで、彼女が慎一を誘惑しようとしていた一部始終を見ていた久我でさえ、その泣き声にわずかな不安を覚え、思わずバックミラー越しに由衣の様子を確かめてしまう。 だが、慎一は相変わらず微動だにしなかった。 やがて由衣の嗚咽が少しずつ小さくなり、車も事務所の前へ差しかかった頃になって、ようやく慎一が口を開く。「由衣。会社が用意するリソースも、お前につけるチームも、お前を望む所まで押し上げることはできる。――余計なことをしなければな」 由衣の頬にはまだ涙の跡が残っていた。 慎一の声に、彼女はそっと顔を上げる。 その瞳には、いじらしいほどの想いと、近づくことを恐れる怯えが同時に滲んでいた。 慎一との距離も、先ほどまでとは打って変わってきちんと空けられている。 まるで、もう二度と踏み越えないと行動で証明してみせるかのように。「……社長、私……ちゃんと言うことを聞きます。だから、嫌いにならないでくれますか……?」 慎一は一度だけ彼女
由衣の顔に、いつしか隠しきれない愛欲が露わに滲み出ているのを見て、慎一の胸に冷たい嫌悪が走った。 最初に彼女の元所属事務所へ、業務提携の打ち合わせで招かれた日のことを、慎一はふと思い出していた。 あのときの由衣は、まるで世間を何も知らない無垢な少女のようだった。 瞳には一片の濁りもなく、ビルの片隅に身を潜めながら、電話口の相手に涙混じりで訴えていたのだ。 マネージャーから理不尽な扱いを受けていること。 会社から不公平な仕打ちをされていること。 ひとしきり泣いたあと、立ち上がった拍子に、彼女は偶然を装うように慎一の胸へぶつかった。「す、すみません……」 そう小さく謝ったきり、怯えたように目も合わせず、慌ててその場を走り去っていった。 まるで慎一をひどく恐れていて、決して関わろうとしないかのように。 打ち合わせを終え、エレベーター前で待っていたとき、慎一は再び彼女を目にした。 階段の踊り場の角で、数人の人間に取り囲まれていたのだ。罵声はフロア中に響き渡るほど大きく、自然と視線がそちらへ向いた。 由衣はその中央で俯き、両手で服の裾をきつく握りしめていた。 もともと華奢な体つきだった。 肩など、薄い紙片のように頼りなく、誰かに軽く突き飛ばされただけで、そのまま後ろへよろめき、背中を壁へ打ちつけた。 顔を上げたとき、その目は赤く染まっていた。 それでも負けまいとするように、強い意志を宿した瞳で相手を睨み返し、唇をきゅっと引き結んでいる。 その姿には、か弱さと芯の強さが同居していて、妙に人の目を惹きつけた。 慎一は何も言わず、ただ冷ややかにその様子を見ていた。 ふと、由衣の視線が慎一とぶつかる。 彼女の瞳はさらに赤く潤み、たちまち涙が込み上げた。今にも零れ落ちそうなほどに。 助けを求めようとはしなかった。 弱さを見せたくないとでも言うように、そっと顔を背けた。 ――見事な芝居だ。 慎一がそのとき抱いた感想は、ただそれだけだった。 やがて慎一の存在に気づいた周囲の人間たちは、気まずそうに顔色を変え、そそくさとその場を離れていった。 残されたのは由衣一人。俯いた肩が小さく震え、その姿はひどく哀れに映った。 慎一はゆっくりと彼女に歩み寄り、低く問いかける。「事務所を変える気はあるか?」 由衣ははっと顔を上げた。 泣







