Semua Bab 愛し続けた彼を、私は手放すことにした: Bab 51 - Bab 60

80 Bab

第51話

 社内で行われる公開説明会や謝罪について、慎一はまったく興味を示さず、現場にも姿を見せなかった。 そもそも、この手の説明会などは形式に過ぎない。 今回の案件も、実行に移る前の段階で慎一がデータの不正を見抜いたものであり、子会社どころか、朝倉グループ全体に対しても一切の損失や影響は出ていなかった。 もともと、朝倉サポートソリューションズが提出する企画書は、どれも形だけのものだった。 グループ側も、切り捨てられた子会社に対して資金を投じるつもりなど最初からなく、この案件自体、最初から成立する見込みのない“死んだ案件”だったのだ。 そのことを社内の人間たちは知らない。 朝倉グループとの縁を盾に、自分たちを特別だと思い込んでいる上層部が、好き勝手に振る舞っているだけ。 慎一にとってそれは、ただの茶番にしか見えなかった。大人が本気でやっているごっこ遊びのような。* 名目上の「取引先企業」のリストは下河が提示したものだったが、慎一はそれに満足しなかった。 自ら選び直し、上場企業を一社、指名する。 その企業の社長は、慎一にとって数少ない友人と呼べる相手だった。 慎一の依頼を受けると、事情も聞かずに即座に動き、大型の会議室を用意し、一部門の社員を集めて、この“存在しない謝罪会”の観客として配置した。 時間は午後三時。 紗月は、正田に急かされるようにして早めに現地へ連れて来られ、狭い応接室で二時間も待たされていた。 応接室とは名ばかりで、実際には急ごしらえの部屋のようだった。 何に使われていたのかも分からないその部屋は、扉も廊下側の壁もすべてガラス張りで、通り過ぎる人間がわざわざ足を止め、中の紗月を一瞥していく。 そして、聞き取れないほどの小声で何かを囁き合う。 ようやく三時になり、紗月は案内役の社員に連れられて会議室へ向かった。扉を開けた瞬間、ほぼ満席の室内を目にして、息が止まりそうになる。 プロジェクターに資料を映す準備をしている間も、紗月の手は小さく震えていた。 この資料は、一週間ほとんど寝ずに作り上げたものだ。 それでも正田からは「不十分だ」「分かりづらい」と何度も差し戻され、ようやく形になった。 案件についても、紗月は何度も何度も調べ直した。 地方医療連携型スマート生活プラットフォームの開発計画――そう名付けられたこの案件は、
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-22
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第52話

 慎一から放たれる威圧と、こちらへ向けられた視線の重圧を必死に振り払うようにして、紗月は一度、深く息を吸い込んだ。 キーボードに手を置き、視界に入る慎一の存在を意識から切り離すように、前列の社員たちへと視線を固定する。 そして、パワーポイントのスライドを再生した。 順序に従い、今回の案件についての説明を始める。 手元に原稿はない。それでも、話すべき内容はすべて頭の中に叩き込まれていた。 スライドが一枚ずつ切り替わるたびに、紗月は一定のリズムを崩すことなく、今回のデータ不備や不十分だった対応について説明し、自らの責任を引き受けていく。その話しぶりは、驚くほどに的確で、そして落ち着いていた。 謝罪を目的とした場であるにもかかわらず、残された時間を使い、紗月はこの企画の実現可能性と今後の展望についても丁寧に語っていった。 この一週間、彼女はこの案件に関する資料を徹底的に読み込み、分析を重ねていた。 会社から求められているのは、あくまで謝罪だけ。 それでも、ようやく巡ってきた「まともな案件」に、気づけば、必要以上に踏み込んでしまっていた。 もしかすると、無駄なことだったのかもしれない。 だが、最初はただ悔しさに押し潰されそうだったはずのこの場で、次第に胸の奥に、熱のようなものが灯り始める。 朝倉サポートソリューションズに配属されて以来、雑務ばかりを押し付けられ、仕事らしい仕事を任されることはなかった。 今、紗月はようやく、自分が「仕事をしている」という感覚を取り戻していた。 それはまるで、かつて自分の力で役を勝ち取ったときのように、学生時代、必死にレポートや論文を書き上げていたあの頃のようだった。 何かをやり遂げることで得られる、あの確かな手応えが、彼女の内側を満たしていった。 はじめはどこか怯えた様子だった紗月の所作が、ある瞬間を境に、はっきりと変わった。 声には芯が通り、仕草にも迷いが消える。その瞳には、かすかな光が宿っていた。「……ほう」 慎一の隣に座る男――この会社の社長である桐生凑斗が、ある説明に差し掛かったところで、明らかに興味を示した。 やや崩れていた姿勢を正し、紗月を見つめるその目には、好奇心と、わずかな賞賛が浮かんでいる。 もともと、この場は慎一の気まぐれに過ぎないと思っていた。 紗月には
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-23
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第53話

 慎一の言葉が発せられた瞬間、会場のあちこちから息を呑む音が上がった。 信じられない、という空気が一斉に広がる。 そもそも、今回の謝罪会自体があまりにも突然で、不可解なものだった。 紗月が案件の説明を始めてからは、多くの人間がそれを単なるプロジェクト説明だと思い始め、いつの間にか彼女の話に引き込まれていた。 なのに、慎一が求めたのは、「跪け」という命令だった。 それも、これだけ大勢の前で。 慎一を知らない社員も多い。 社長の隣に座り、あれほど傲然と振る舞っている以上、相当な地位にいる人物だということだけは誰の目にも明らかだった。 それでもなお、彼へ向けられる視線の中には、驚きと戸惑い、そして抑えきれない不快感が混じっている。 その中で、たった一人だけが違っていた。 慎一の隣に座る由衣は、心の底からこの状況を楽しんでいた。 笑い出しそうになる衝動を必死に押し殺しているが、マスクの下では口元が大きく歪んでいる。 ここ数日、慎一からの連絡が途絶え、電話もまともに繋がらない。捨てられるのではないかという恐怖と焦りに、彼女はずっと囚われていた。 昨夜、酒の勢いに任せて再び電話をかけた。 珍しく応じた慎一に対して、由衣は泣きながら自分の非を訴え、情けも誇りも捨てて、見捨てないでほしいと懇願した。 それが効いたのかどうかは分からない。 長い沈黙のあと、慎一は彼女の翌日の予定を確認し、秘書として同行させ、この「見世物」を観るよう命じた。 本来、由衣が期待していたのは、紗月が皆の前で責め立てられる光景だった。 予想に反して紗月の立ち回りは見事で、社会経験の浅い由衣ですら、それが分かるほどだった。 歯噛みするほどの苛立ちが募る。 そんなとき、慎一が彼女に跪くよう命じた。 ――こんなに愉快なことがあるだろうか。 興奮のあまり、由衣は思わず慎一のスーツの裾を掴んだ。だが、その手はすぐに、無関心な仕草で軽く払いのけられた。 それでも、構わなかった。 今はただ、紗月が膝を折るその瞬間を見たくて仕方がない。できることなら、この光景を録画して、何度も見返したいとすら思った。「……慎一、さすがにやりすぎじゃないか」 張り詰めた空気の中、声を上げたのは凑斗だった。 壇上の紗月は、硬直したまま動けずにいる。自分の耳を疑うように、慎一のほうを見つめて
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-23
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第54話

 慎一がここまで理性を欠いた、しかも露骨に悪意のある一面を凑斗の前で見せることは、滅多にない。 それだけに、凑斗は思わず息を呑んだ。 二人は大学時代からの付き合いだった。 当時から凑斗はすでに父の会社の仕事に関わっており、慎一も同様だと知ると、自ら距離を詰めた。 学生のうちにいくつかの取引を成立させ、はっきりと利益が見込めると判断してから、ようやく慎一は凑斗の実力を認めた。 それをきっかけに、二人の関係も徐々に近づいていった。 慎一という男は、一見すると穏やかで柔和に見える。だが実際には、誰に対しても警戒を解かず、一定の距離を保ち、決して簡単には他人を信用しない。 凑斗が大雑把で裏表のない性格でなければ、ここまで長く友人関係が続くことはなかっただろう。 逆に言えば、慎一にとってもそれは同じだった。 凑斗は駆け引きを好まず、地に足のついたやり方で仕事に向き合う。 若くして家業を継ぎながらも、その手腕は確かだった。ゆえに、大学を卒業したあとも、慎一は彼との関係を断つことはなかった。 慎一が結婚したことも、凑斗は知っている。 そして、今、壇上に立つ紗月が、その妻であることも。 ここ数年で慎一に何があったのか、性格がここまで歪んだ理由までは分からない。 あまりにも常軌を逸した提案を耳にした瞬間、凑斗は反射的にそれを遮り、左手の薬指に光る指輪を、わざと見せるように掲げた。「慎一、勘弁してくれよ。俺、ついこの間婚約したばっかなんだ。知ってるだろ? 俺、こう見えて一途なんだよ。やっと好きな子を振り向かせたんだ、この先、咲茉以外の女なんて考えられないって」 好きな相手の話になると、凑斗の表情は隠しきれないほどに緩む。声にも視線にも、隠しようのない愛情が滲んでいた。 その相手は、幼い頃からの幼なじみだ。 ただし関係は対照的で、彼が一方的に追い続け、十年以上かけてようやく婚約にこぎつけた。 慎一と紗月とは、まるで正反対だった。 そんな凑斗の様子が、慎一にはひどく滑稽に見えた。愚かしいとすら思い、軽く鼻で笑う。 視線を逸らし、壇上へと戻す。 そこにいるのは、沈黙したまま怯える紗月。 彼はもうずいぶんと、忘れていた。 誰かを心から愛し、その人ひとりに感情を揺さぶられる、そんな感覚を。 今の自分の中にあるのは、満たされない苛立ちと、行き場の
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-24
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第55話

 凑斗からの肯定を受けると、紗月は資料の構成に沿って、このプロジェクトの各方向性と問題点を一つひとつ丁寧に説明し始めた。 この資料を書いている時点で、自分が無駄なことをしているのは分かっていた。謝罪文の作成や説明会用のスライドだけでも、すでに多くの時間を取られている。 それでも、自分に任された以上、たとえ責任を押しつけられただけの案件だとしても、手を抜きたくはなかった。 もともと紗月は調査や分析を得意としていた。 大学時代、論文を書く際には、膨大な資料や先行研究にじっくりと向き合い、気がつけば時間を忘れて没頭していたものだ。 まさか、それをこんな形で人前に出すことになるなんて、思ってもみなかった。 説明を続けるうちに、紗月の声はいつの間にか少しずつ張りを帯びていく。 自信を取り戻したその姿は、彼女自身の印象を一段と引き立て、同時に凑斗の視線に宿る興味と賞賛も、次第に強まっていった。 そのすべてを、慎一は黙って見ていた。 彼の眉間には、さらに深い皺が刻まれる。周囲の空気も、どこかひやりと冷え込んだ。 苛立ちは隠そうともせず、滲み出ていた。 紗月がああして光を放つ姿が、気に入らない。 結婚してからというもの、そんな彼女を見ることは一度もなかったのに。 それでもなぜか、慎一は口を挟まなかった。異例なほどに、その説明を最後まで続けさせていた。 由衣もまた、面白くない様子だった。 マスクの下で唇を尖らせ、何度も紗月に向かって白い目を向ける。 もっとも、それに気づく者はいない。「……以上の改革案はいずれも仮説段階のものですが、市場にあるいくつかのサービスでも、類似の展開が見られました。もしアプリ化によって制約が増えるのであれば、まずはプラットフォームとして展開し、その後ユーザー層を拡大していくほうが、初期から開発コストを投じるよりもリスクを抑えられると考えています」 会議室の中で、紗月の話を真剣に聞いていたのは、凑斗ただ一人だった。 彼は説明が終わると、その場でしばらく思考を巡らせる。やがて秘書に指示を出し、数名を追加で呼び寄せた。 現れたのは、新規事業部の責任者と企画担当者たちだ。 凑斗は紗月の説明内容を簡潔かつ的確に整理し、彼らに伝える。それを聞いた彼らも、次々と頷いた。「社長、これ……最近うちで検討している新規企画とかなり方向
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-25
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第56話

「社長……どうして同意されたんですか? あんなことをしたら、奥様がもっと良くなってしまうじゃないですか」 凑斗たちが紗月とプロジェクトの詳細を詰めている隙に、由衣はこらえきれず、慎一の傍で小声で問いかけた。  その視線は紗月へと向けられ、隠しきれない怨念と不満が滲んでいる。 この仕事が自分とは無関係であることなど関係ない。  ただ、紗月があんなふうに晴れやかな顔をしているのが、気に入らなかった。 あの女は、本来なら誰よりも低い場所に這いつくばり、踏みつけられ、尊厳もなく、泣き崩れている姿のほうが似合っている。 今のように、凑斗たちに囲まれて、中心に立っているなど……ありえない。 由衣の言葉に、慎一は一切応じなかった。ただ視線だけを、紗月へと向け続ける。 凑斗に向けて見せる、あの控えめな笑み。  まるで幸運が自分に訪れたと信じているような、あの表情。 思わず、笑いが込み上げる。 自分がこの提案を受け入れた理由など、欠片も想像していない。 これから彼女が何を味わうことになるのか。 そう考えるだけで、慎一の胸には期待が満ちていった。*「さて、慎一。今回の契約については、まずこちらの法務で基本のひな形を作らせる。その後、細かい条件は改めて日程を合わせて詰めよう」「いいだろう。これまで何度も組んできたし、お前の手腕は信用している。ただ、この案件を動かす以上、朝倉グループとしても本部にプロジェクトチームを立ち上げる。それがこちらの誠意だ」「はは、さすが慎一だな。やっぱりお前は頼りになる」 大まかな方向性を確認したところで、慎一は席を立った。 由衣を伴い、そのままエレベーターへ向かう。紗月に対しては、一言も声をかけない。 最初から知り合いでもないかのように。 来たときとは違い、帰り際の由衣は慎一との距離をわずかに詰めていた。そして会議室を出る直前、わざとらしく振り返り、紗月へと挑発的な視線を向ける。 それを受け止めた紗月は、ただ何も言わず、視線を落とし、静かに自分の資料をまとめ始めた。 凑斗はその傍に立ったまま、彼女を見守っている。 帰り際、紗月は深く頭を下げた。「ありがとうございました、桐生社長」 凑斗は、屈託のない笑顔を浮かべる。「いや、礼を言うのはこっちだよ。こんな面白い案件に出会えたうえに、こんな優秀な責任者まで見つけ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-25
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第57話

 あの夜の出来事以来、紗月はしばらく慎一の顔を見たくなかった。 車に乗れば、どうせまた皮肉を浴びせられる。そこに由衣までいれば、まともな時間になるはずがない。 それでも、久我の穏やかな表情を前にすると断りきれず、小さく息を吐いてから彼の後を追った。 後部座席のドアを開けられ、車内に身を滑り込ませる。 案の定、慎一がそこにいた。ただし隣は空いており、由衣は助手席に座っている。 無言のまま座り直すと、久我が静かにドアを閉めた。 発車前、前方から由衣がわざとらしく鼻を鳴らす音が落ちてきた。スマートフォンを見ていた慎一が一度だけ顔を上げて彼女を見やるが、咎める様子もなく、言葉も交わさない。 車内は息が詰まるほど静まり返り、紗月は落ち着かないまま、そっと体をドア側へ寄せて窓の外へ目を向けた。 視界の端に、見慣れた建物が映る。ヴァレンティス・プロダクションへ向かう道。  ……先に由衣を送るつもりなのだろう。 沈黙に耐えかねたのか、先に口を開いたのは由衣だった。 振り返った顔には甘やかな笑みが浮かび、声も柔らかく、どこか媚びる響きを帯びている。「社長~、今夜は一緒にいられませんか? 立花監督の件、正式に決まったんです。ご褒美として……少しくらいわがまま、聞いてもらえません? これから撮影に入ったら、会える時間も減っちゃうし……きっと寂しくて」 紗月がいることを逆手に取るような、自信に満ちた物言いだった。断られるはずがないと信じて疑わない声音。 返事を待つ彼女に対し、慎一は淡々と視線を向けるだけ。 由衣に甘える気配を見せていないときの彼は、いつもこんな無機質な表情だ。  たまに折れて受け入れることはあっても、それが好意でないことくらい、見れば分かる。 本来なら、それは紗月のいないところで見せる顔のはずだった。  なのに、今この場でも変わらない。 由衣の胸が、わずかにざわついた。「そうか。で、何が欲しいんだ?」 拒絶ではない。 それだけで彼女はすぐに笑みを取り戻す。「無理なことは言いません。ただ……少しだけ一緒にいてくれたら。それだけでいいんです。今夜、一晩でも」 言葉に合わせるように表情を整え、健気さをにじませる。思わず庇いたくなるような仕草だった。 そのやり取りを聞きながら、紗月の指先がかすかに震えた。「いいでしょ、社長~?」
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-26
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第58話

 慎一の一言は、由衣を呆然とさせ、信じられないというように目を見開かせた。 それだけでなく、紗月の驚きも決して彼女に劣るものではなかった。 運転席の久我でさえ思わず視線を上げ、無意識にバックミラー越しに慎一の表情をうかがう。そこには、紗月を思ってか、かすかに口元が緩む気配があった。「社長……! どうして……」 由衣は諦めきれず、なおも食い下がろうとする。 車はちょうど事務所の前で静かに停まり、慎一は彼女に目も向けないまま、冷えきった声音で言い放った。「由衣、降りろ」 由衣の顔がかっと赤く染まる。 羞恥か、怒りか。 慎一の命令に逆らうことはできず、鬱憤のやり場を紗月へと向けるしかなかった。ドアを開けて降りる直前、彼女は紗月を鋭く睨みつける。 その目に宿る憎悪と怒りが刃だったなら、紗月はすでに何度も切り刻まれていただろう。 紗月は何も言わず、動かない人形のように、ただ静かに座っていた。 車は再び走り出す。 慎一は久我に、ひとつのレストランの名前を告げた。 強張っていた紗月の身体が、かすかに震えた。 そこは――かつて二人の関係がまだ穏やかだった頃に、訪れたことのあるレストランだった。 高校時代、ある年の誕生日。 紗月は慎一に忘れられない思い出を贈りたくて、祖父に内緒でアルバイトをし、一か月分の給料を使って、その店のバースデー特別コースを予約した。 キャンドルの灯りの中で願い事をしていた慎一が、目を開けたあとに見せたあの眼差し。 橙色の光を宿したように、柔らかく輝いていた。 その記憶は、もう遠く薄れていたはずだった。 それでも、彼の口からその店の名前が出たことで、鮮やかによみがえってしまう。 紗月はそっと横目で慎一を盗み見ようとした。 その瞬間に視線がぶつかる。 驚いて反射的に目を逸らしたその直後、耳元で慎一の低い笑いがかすかに響いた。 紗月の頬もわずかに赤くなり、しばらくしてからようやく気づく。 ――もし慎一がずっと自分を見ていなかったのなら、あんなふうに視線がぶつかるはずがないのに。* その夜の食事は、ひどく息が詰まりそうなものだった。 そして結婚して以来、初めて紗月と慎一が二人きりで向き合う外食でもあった。 店内の内装はすっかり変わっていた。 学生の頃には手の届かないほど豪奢に思えた場所も、大人になって見
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-28
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第59話

 あの食後酒のアルコール度数がどれほどだったのか、紗月には分からなかった。 レストランを出て、車に乗り、そして家の玄関へ。 ドアが閉まった瞬間、自動で灯った玄関の明かりは、すぐに慎一の手によって消された。 闇が落ちたその刹那、紗月の腰を強く掴まれ、そのまま扉へと押しつけられる。 正面からドアに押しつけられた冷たい感触が一瞬肌に伝わったが、それ以上に、背後から覆いかぶさる男の体温のほうが強く、すぐにその冷たさをかき消した。「っ、慎一……?!」 あまりにも突然の出来事だった。 慎一が自分と一緒に帰ってきた時点で、紗月の心はどこか浮ついていた。 それだけで嬉しかったのに、玄関の扉を閉めた途端、彼はまるで待ちきれなかったかのように押し寄せてきた。 思わず、声が漏れる。 すぐに、後ろから手で口を塞がれた。「静かに。そんな大きな声、外に聞かせたいのか?」 慎一の体はぴたりと紗月に密着し、逃げ場など一切与えないまま、狭い玄関へと押し込めた。 衣服は乱暴に引き乱され、慌てる中で、シャツのボタンが弾け飛ぶ音がかすかに響いた。 紗月の呼吸は、彼の動きに合わせて次第に荒くなる。胸が大きく上下し、抑えきれない熱がこみ上げてくる。 慎一の手がシャツの下へと滑り込み、肌の上をなぞりながら上へと這い上がる。 その掌は熱く、触れられるたびに、紗月の身体も同じように熱を帯びていく。「……っ」 脚が震えているのが分かった。 スカートが強引にたくし上げられたとき、その震えはさらに強くなる。 こんな場所で……玄関でこんなことをするなんて。 言葉にしようとしても、喉から漏れる声は掠れてしまい、それを慎一はわざと違う意味に受け取る。「紗月……そんなに反応してるじゃないか。知らなかったな、お前、こういうのが好きだったのか?」「ち、違……待って、慎一……」 止めようとしても、彼の手は一切止まらない。 身体を押し広げられ、これまでとは違う調子の声音で、恥ずかしさを煽るような言葉が落とされる。「この前、御堂に電話かけながらのときも、随分楽しそうだったよな。今回も誰かに見せてやるか? 凑斗あたりがいいんじゃないか?」「や、やめて……」「今日だって、凑斗と楽しそうに笑ってただろ。見せたいんじゃないのか? こうやって乱れてるところを。……どうせ、お前はそういう女だろ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-28
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第60話

 今回ばかりは、慎一は本当に、紗月がプロジェクトの投資提携を取りつけたことに満足したらしかった。 彼の動きは早く、ほとんど翌日には、朝倉グループ本社のプロジェクトチーム編成が正式に発表された。 さらにその日の午後には、本社側の責任者が朝倉サポートソリューションズへと足を運び、紗月と今後の業務内容やスケジュールについて打ち合わせを行った。 正田は事態がここまで動くとは思ってもおらず、本社の責任者が紗月を訪ねてきたのを見た瞬間、目を丸くして言葉を失い、椅子からずり落ちそうになっていた。 他の社員たちも、程度の差こそあれ今回の件を耳にしており、これまでは紗月がただの責任の押し付けられ役だとばかり思って、裏では同情したり、あるいは見世物のように笑おうとしていた。 それが、たった一日でプロジェクト責任者へと立場を変えたことで、不満と嫉妬の視線が突き刺さるように背中へと集まる。 誰一人として、紗月の実力を認める者はいなかった。 すべては彼女の能力ではなく、裏で何か卑劣な手段を使ったのではないかと噂されるばかりだった。 悪意ある憶測はすぐに広がり、彼女へ向けられる視線はどれも露骨な敵意を帯びている。 そんな中で、本社から来た人間だけが、ただ一人、紗月に穏やかな笑みを向けていた。「紗月さん……とお呼びしてもいいですか?はじめまして。本社企画部第一課の松山蒼空です。名前で呼んでいただいて構いません。紗月さんはヴェリタス・パートナーズから直接この提携を取ってきたんですよね? あそこの桐生社長はすごく厳しいことで有名ですし、本当にすごいです。会社からも、紗月さんのもとでしっかり学べって言われてまして……これから、よろしくお願いします」 ヴェリタス・パートナーズ――それは凑斗の会社だった。 蒼空は人懐こい性格で、年齢もまだ若い。大学を出たばかりといった印象だ。 それでいてこの規模のプロジェクトチームに配属され、しかも二社間の窓口を任されているあたり、上からの期待も大きいのだろう。 紗月は彼を見ていると、ふと優介のことを思い出した。 無邪気に笑う表情がどこか似ているからか、それとも蒼空の性格が柔らかいからか、自然と距離が縮まるような感覚を覚える。「松山くん、こちらこそ、これからよろしくお願いします」「いえいえ、むしろ僕のほうこそです……紗月さんのほうが会社
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-04-29
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