Share

第33話

Author: るるね
last update publish date: 2026-04-12 23:44:14
 あれほど容赦なく、きつい言葉を浴びせられても、由衣が狼狽えたのはほんの一瞬だけだった。

 次の瞬間には、糸の切れた真珠のように、涙が次々と頬を伝い落ちていく。

 彼女は泣きの演技を何度も練習してきた。どう泣けばいちばん美しく見えるのか、誰よりもよく分かっている。

 さっきまで顔に浮かんでいた熱を帯びた欲の色は、もう跡形もない。

 そこにあるのは、ただひたすらに哀れで、心から踏みにじられたような痛々しい悲しみだけだった。

「うっ……ごめんなさい、社長……っ。わ、私……ただ、社長ともっと……もっと近づきたくて……。社長がこんなに優しくしてくださるから、私、本当に……ただ、お返ししたかっただけなんです……っ、うぅ……」

 泣きじゃくる合間に紡がれる言葉さえ、息の詰まり方も、間の取り方も絶妙だった。

 台詞は涙に濡れながらも不思議なほど明瞭で、潤んだ瞳には薄い涙の膜が張りつき、濡れた睫毛は一本一本が艶を帯びて、かすかな光を宿していた。

「うぅ……っ、社長……社長、私のこと嫌いにならないで……お願い、許してください……私、間違ってました……」

 泣きながら由衣は身体を折るように身を縮めた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第33話

     あれほど容赦なく、きつい言葉を浴びせられても、由衣が狼狽えたのはほんの一瞬だけだった。 次の瞬間には、糸の切れた真珠のように、涙が次々と頬を伝い落ちていく。 彼女は泣きの演技を何度も練習してきた。どう泣けばいちばん美しく見えるのか、誰よりもよく分かっている。 さっきまで顔に浮かんでいた熱を帯びた欲の色は、もう跡形もない。  そこにあるのは、ただひたすらに哀れで、心から踏みにじられたような痛々しい悲しみだけだった。「うっ……ごめんなさい、社長……っ。わ、私……ただ、社長ともっと……もっと近づきたくて……。社長がこんなに優しくしてくださるから、私、本当に……ただ、お返ししたかっただけなんです……っ、うぅ……」 泣きじゃくる合間に紡がれる言葉さえ、息の詰まり方も、間の取り方も絶妙だった。 台詞は涙に濡れながらも不思議なほど明瞭で、潤んだ瞳には薄い涙の膜が張りつき、濡れた睫毛は一本一本が艶を帯びて、かすかな光を宿していた。「うぅ……っ、社長……社長、私のこと嫌いにならないで……お願い、許してください……私、間違ってました……」 泣きながら由衣は身体を折るように身を縮めた。 肩は小さく震えている。  それすらも必死に抑え込もうとしているようで、余計に痛々しく、今にも誰かが抱き寄せて慰めたくなるほど悲惨に見えた。 先ほどまで、彼女が慎一を誘惑しようとしていた一部始終を見ていた久我でさえ、その泣き声にわずかな不安を覚え、思わずバックミラー越しに由衣の様子を確かめてしまう。 だが、慎一は相変わらず微動だにしなかった。 やがて由衣の嗚咽が少しずつ小さくなり、車も事務所の前へ差しかかった頃になって、ようやく慎一が口を開く。「由衣。会社が用意するリソースも、お前につけるチームも、お前を望む所まで押し上げることはできる。――余計なことをしなければな」 由衣の頬にはまだ涙の跡が残っていた。 慎一の声に、彼女はそっと顔を上げる。 その瞳には、いじらしいほどの想いと、近づくことを恐れる怯えが同時に滲んでいた。  慎一との距離も、先ほどまでとは打って変わってきちんと空けられている。 まるで、もう二度と踏み越えないと行動で証明してみせるかのように。「……社長、私……ちゃんと言うことを聞きます。だから、嫌いにならないでくれますか……?」 慎一は一度だけ彼女

  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第32話

     由衣の顔に、いつしか隠しきれない愛欲が露わに滲み出ているのを見て、慎一の胸に冷たい嫌悪が走った。 最初に彼女の元所属事務所へ、業務提携の打ち合わせで招かれた日のことを、慎一はふと思い出していた。 あのときの由衣は、まるで世間を何も知らない無垢な少女のようだった。  瞳には一片の濁りもなく、ビルの片隅に身を潜めながら、電話口の相手に涙混じりで訴えていたのだ。  マネージャーから理不尽な扱いを受けていること。  会社から不公平な仕打ちをされていること。 ひとしきり泣いたあと、立ち上がった拍子に、彼女は偶然を装うように慎一の胸へぶつかった。「す、すみません……」 そう小さく謝ったきり、怯えたように目も合わせず、慌ててその場を走り去っていった。 まるで慎一をひどく恐れていて、決して関わろうとしないかのように。 打ち合わせを終え、エレベーター前で待っていたとき、慎一は再び彼女を目にした。 階段の踊り場の角で、数人の人間に取り囲まれていたのだ。罵声はフロア中に響き渡るほど大きく、自然と視線がそちらへ向いた。 由衣はその中央で俯き、両手で服の裾をきつく握りしめていた。 もともと華奢な体つきだった。  肩など、薄い紙片のように頼りなく、誰かに軽く突き飛ばされただけで、そのまま後ろへよろめき、背中を壁へ打ちつけた。 顔を上げたとき、その目は赤く染まっていた。 それでも負けまいとするように、強い意志を宿した瞳で相手を睨み返し、唇をきゅっと引き結んでいる。 その姿には、か弱さと芯の強さが同居していて、妙に人の目を惹きつけた。 慎一は何も言わず、ただ冷ややかにその様子を見ていた。 ふと、由衣の視線が慎一とぶつかる。 彼女の瞳はさらに赤く潤み、たちまち涙が込み上げた。今にも零れ落ちそうなほどに。 助けを求めようとはしなかった。 弱さを見せたくないとでも言うように、そっと顔を背けた。 ――見事な芝居だ。 慎一がそのとき抱いた感想は、ただそれだけだった。 やがて慎一の存在に気づいた周囲の人間たちは、気まずそうに顔色を変え、そそくさとその場を離れていった。 残されたのは由衣一人。俯いた肩が小さく震え、その姿はひどく哀れに映った。 慎一はゆっくりと彼女に歩み寄り、低く問いかける。「事務所を変える気はあるか?」 由衣ははっと顔を上げた。 泣

  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第31話

     車内がしばらく静まり返ったあと、由衣はもう我慢できないとでもいうように、そっと身体を動かした。 先ほど慎一に突き放されたにもかかわらず、懲りる様子もなく、柔らかな身体を再び彼のほうへ寄せる。 もっとも、今度は完全にもたれかかることはせず、ほんのわずかに距離を残したまま。「社長〜、このあとどこに行くんですか?」 甘えた声音でそう尋ねながら、由衣は慎一の顔色を窺うように見上げる。その視線の合間にも、少しずつ、少しずつ彼との距離を詰めていく。 そんな小さな仕草など、慎一が見逃すはずもなかった。 彼は咎めることなく、ただ鼻で笑う。「久我に先に事務所まで送らせる」 午後には由衣のオーディションが控えている。 そのあとには雑誌のインタビューも入っていることを、所属事務所の代表である慎一は当然把握していた。 自分と長く一緒にいるつもりがないと知った瞬間、由衣はあからさまに不満そうな顔を見せた。 そっと指先を伸ばし、慎一のスーツの袖口をつまむ。「社長〜……インタビューまで、まだ一時間以上ありますよ? 本当に送って終わりなんですか?」 上目遣いで見上げるその姿は、いかにも庇護欲を誘う愛らしさに満ちている。 慎一は視線だけを落とし、淡々と返した。「何だ。今日、あれだけ与えてやったのに、まだ足りないのか?」 今日だけで、オーディション用の新しい服もアクセサリーも買い与えた。 由衣が欲しいと口にした八十万円の懐中時計も、慎一は一瞬たりとも迷わず支払っている。 今日はもう、十分に面白い見世物を見せてもらった。 あれを褒美とするなら、由衣には十分すぎるほどだ。 それに、車内で紗月を降ろしたいという由衣の思惑も、彼はそのまま叶えてやった。 これ以上を求めるのは、さすがに図々しい。 もっとも、慎一がそれらを惜しみなく与えたのは、紗月の目の前で見せつけるためにすぎない。 彼にとっては、その程度の額など端金にすぎなかった。 由衣の将来的な商業価値を考えれば、いずれいくらでも回収できる投資だ。 だから痛くも痒くもない。 そんな思惑など知らない由衣は、目をくるりと動かした。細い小指が、慎一の手の甲をそっとなぞる。 探るような仕草。 慎一が何の反応も示さないのを見て、彼女は怯むどころか、さらに身体を前へ傾けた。 少しでも彼の視線を自分に留めたい。

  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第30話

    「ふふ……社長、そんなふうにおっしゃるなんて。奥様、なんだか可哀想ですねぇ」 由衣はわざと驚いたふりをしながらそう言ったものの、その声音には隠しきれない笑みと、あからさまな愉悦が滲んでいた。 人の不幸を楽しんでいることを、隠そうともしない声音だった。 そうして彼女はためらいもなく身を寄せ、さらに紗月との距離を詰める。「奥様。男を誘惑したいなら、それ相応の魅力がないとだめですよ?」 言い終えると、由衣はくすくすと喉を鳴らして笑った。 見せつけるように、次の瞬間、彼女はそのまま慎一の胸元へ上半身を預けるように身を倒し、両腕をそっと彼の肩へ回した。 妖しく潤んだ瞳が、まっすぐ慎一を見上げる。 先ほどまでの棘を含んだ声とは打って変わって、その声音は甘く、とろけるように柔らかい。「社長〜……今夜は私のことも、ちゃんとたくさん構ってほしいなぁ。……ご褒美、いただけます?」 慎一は小さく笑った。 その視線が一度だけ、紗月をかすめるように向けられる。それから、余裕を含んだ口調でゆっくりと言った。「……お前次第だな」 その言葉に、由衣はまた甘ったるい笑い声を漏らす。そして振り返り、まるで教師が生徒に教え諭すような口ぶりで紗月を見た。 わざとらしく首を傾げて、可愛らしく微笑む。「奥様、見ました? 男を惹きつけるって、こういうことなんですよ。……まあ、私みたいな“武器”がないと難しいかもしれませんけど……。でも、教えてあげたんですから、社長を取ったりしないでくださいね? 今夜の社長は、私のものなんですから」 そう言いながら、由衣は完全に慎一の首へ腕を回した。 慎一は何も答えない。 拒みもしない。 拒絶されないという事実だけで、それはもう受け入れられているのと同じだった。 それ以上、その場に居続けることは紗月にはできなかった。 唇をきつく噛みしめ、震える手でバッグを掴むと、そのまま車を降りる。 車から離れようとした、その直前。わざと聞かせるような由衣の大きな声が、背後から追いかけてきた。「もう〜社長。奥様って本当に図々しいですよねぇ。降りてって言われたのに、あんなに長く居座るなんて。おかげで私、社長と早く二人きりになれなかったじゃないですかぁ」* 車のドアが静かに閉まる。 紗月の姿が車外へ消えた、その瞬間だった。 慎一はすっと手を伸ば

  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第29話

     紗月はすぐには動けなかった。 血の気を失った顔のまま、自分から視線を逸らす久我を見つめる。 数秒の沈黙のあと、ようやく勇気を振り絞るように慎一へと顔を向け、これまで幾度となくそうしてきたように、卑屈なほど低い声でそっと問いかけた。「……慎一、今夜は……帰ってきてくれる?」 自分をどこまでも低く置けば、彼が少しでも自分を見てくれるのではないかと願うように。  慎一に、ほんの一瞬でもいいから、自分を見てほしかった。 こんな状況で、なおそんな言葉を口にするとは思っていなかったのか、慎一はわずかに眉を上げた。  深く冷えた双眸が、氷の刃のように紗月の顔を射抜く。 この数年、紗月は彼の傍らに幾人もの女が入れ替わり立ち替わり現れては去っていくのを、ただ見てきた。  それでも彼に何かを求めたことは一度もない。  怒りをぶつけたことも、責め立てたこともない。  まるで嫉妬という感情すら持たない、夫の浮ついた振る舞いさえ受け入れる“できた妻”であるかのように。 今この瞬間も同じだった。 慎一が由衣をあからさまに傍に置いていても、紗月はそれを見ないふりをして、ただ彼が家に帰ってきてくれることだけを願っていた。「帰ってきてくれる?」だと? ふいに、慎一の胸の奥で、名状しがたい苛立ちがじわりと燃え上がった。こうして耐え忍ぶような顔をされるたびに思い出す。 表では従順で無垢な顔をしながら、裏では平然と人を陥れる――そんな女の本性を。 かつて彼は、その顔に騙された。 心を許した相手に裏切られ、誰よりも愛していた人を奪われた。「……はっ」 喉の奥で、乾いた嘲笑が漏れる。 過去を思い出すたび、紗月を見る目には自然と冷酷さが宿った。再び向けられた視線には、隠しようのない残酷さが滲んでいた。「紗月。前に言ったよな」 低く、鋭い声が静かな車内に落ちる。「お前が俺に“帰ってきてほしい”なんて言えるのは、抱かれたい時だけだ」 その言葉に、紗月の顔からさっと血の気が引いた。 確かに、彼はそう言った。 そして、ずっとその通りにしてきた。 結婚して間もない頃、慎一が何日も家に戻らず、どうしても会いたくてたまらなくなった紗月は、祖父の前で彼に電話をかけたことがあった。 甘えるように、祖父からも「少しは仕事ばかりに夢中になりすぎるな」と言ってほしくて。

  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第28話

     由衣は、慎一が自分をある程度は許容していること、そして紗月に対して露骨な嫌悪を抱いていることを、すでに確信していた。 その言葉の裏に隠した二重の意味も、あからさまな悪意も、もはや隠そうとすらしない。 この車内にいる誰もが、その意図を痛いほど理解していた。 紗月の前に姿を現したのは、これでまだ三度目にすぎない。 それでも由衣はもう見抜いていた。 この女は決して噛みついてこない。どれだけ傷つけられても、ただ俯いて耐えるだけ。 そして、慎一の隣に立つべきなのは、少なくともこんな女ではないと。 慎一に何度か気にかけられ、ほんの数度、彼にとっては気まぐれにも等しい褒美を与えられたこと。 それに加えて、今日のオーディションが予想以上に順調だったこともあって、由衣の欲はすでに次の段階へと膨らんでいた。 もっと欲しい。 本来なら自分が手にすべきものを。 ――たとえば、慎一の隣にいるべき人間の座を。「社長〜……今日は、社長と二人きりでいたいです。関係のない人には、降りてもらえませんか?」 最後の一押しのように、由衣はあえて言葉にした。 大きな瞳を見上げるように瞬かせながら慎一を見つめるその仕草は、どこか小悪魔めいている。 その美貌も相まって、たとえこうして露骨に悪意を向けていても、不思議と人を惹きつける魅力があった。 普通の男なら、容易く心を奪われてしまうだろう。 慎一は微動だにしなかった。値踏みするようにゆっくりと視線を落とし、由衣の顔を見つめる。 この女で唯一価値があるとすれば、その顔だけだ。 由衣は期待を込めて何度か瞬きを繰り返し、彼の答えを待った。慎一はそこで、ゆっくりと視線を横へ流す。 紗月は俯いたままだった。 両側に垂れた髪が横顔のほとんどを隠していて、表情は見えない。 強張った座り方と、膝の上で固く握りしめられた両手を見れば、今どれほど追い詰められているかなど、考えるまでもなかった。 その様子を見て、慎一の喉の奥で低い笑いが漏れる。 由衣は確かに天才だった。 この三年、慎一は紗月を苦しめるためだけに、何人もの女を傍に置いてきた。 ここまで露骨に、本人の目の前で踏みにじるように追い込んできた女は、由衣が初めてだった。 傍に置いてまだ三週間にも満たない。それなのに、ここまで欲望を膨らませるとは。 慎一はむしろ、その

  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第14話

     慎一と由衣が突然現れたことで、紗月は完全に不意を突かれた。 スマートフォンを持つ手先はかすかに震え、視線を向け続けていいのかもわからず、慌てて背を向ける。 意識はどうしても背後の二人へと引き寄せられてしまっていた。「お客様? 何かお困りでしょうか?」 登録の手が止まったままなのを見て、店員が声をかけてくる。「あ、あ……いえ……なんでもありません」 我に返った紗月は、慌てて視線を落とし、途中まで入力していた画面へ再び文字を打ち込んだ。 その一方で、由衣も紗月の存在に気づいているのだろう。わざと聞こえるような甘い声で、慎一に話しかけ続けている。 そして慎一の返す声は、紗月がもう

  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第15話

     紗月はさらに強く下唇を噛みしめた。 唇に走るかすかな痛みだけが、胸の奥で渦巻く感情をどうにか押し留めてくれる。 背後の声が聞こえなかったふりをして、店員に小さく頷き、そう答えた。「……はい、お願いします」「お客様、商品の最終確認はよろしいでしょうか。当ブランドでは、重大な不備がない限り、ご購入後の返品は承っておりません」 店員はそう言いながら、確認のためにもう一度懐中時計を手に取り、紗月の前に差し出した。 紗月としては、もはや確認する必要など感じていなかった。 だが、店員がそれを持ち上げた瞬間、少し離れた背後にいた由衣が急に興味を示したように、まるで紗月のことなどまったく知ら

  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第22話

     あまりにも率直な言葉に、紗月は息を呑んだ。 まさか優介の口から、ここまで真っ直ぐに離婚という言葉が出てくるとは思っていなかった。 返す言葉が見つからず、その場で立ち尽くす。 脳裏に、あの混乱した結婚式の光景がよみがえる。 そして、ほんの少し前、慎一から受けたばかりの屈辱も。 胸の奥に押し込めていた痛みが、またじわりと滲み出してくる。 結婚してからの三年間、心から幸せだと感じられた日は、一日としてなかった。 それでも、愛というものは、まるでゆっくりと身体を蝕む慢性の毒のようだった。 慎一を好きになったあの頃は、たしかに胸が高鳴っていた。 片想いをしていた日々は、空気の中にさ

  • 愛し続けた彼を、私は手放すことにした   第20話

     凛子のそのひと言が落ちた瞬間、まるで部屋の空気そのものが、一瞬だけ止まったように感じられた。 優介は紗月の一挙手一投足を、じっと見つめていた。彼女の顔に浮かぶ、ほんのわずかな感情の揺らぎさえ見逃すまいとするように。 紗月の表情に一瞬よぎったかすかな哀しみを、彼ははっきりと捉えた。 その刹那、優介はわずかに目を細める。 さっきまで柔らかく微笑んでいた顔から、ふっと温度が消えた。瞳の奥に沈んだ色は、ぞっとするほど陰っていて、ひどく冷たかった。 凛子は気づかない。 もともと細かな空気の変化には鈍いところがあり、性格もさっぱりしている。ほんの数秒の沈黙など、そこまで気にも留めなかった。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status