All Chapters of 愛し続けた彼を、私は手放すことにした: Chapter 61 - Chapter 70

80 Chapters

第61話

 プロジェクトが始まってからというもの、紗月は異様なほど忙しくなった。 ほとんど毎日、定時を過ぎても会社に残り、終電ぎりぎりまで働いてから、ようやく帰るという生活が続いていた。 蒼空は毎日、数時間だけ会社に顔を出す。 それが彼に与えられた役割なのだろう。 出社している間、彼は紗月のすぐそばに立ち、彼女が行うデータ調査や比較、そして単調で地道な書類作業を眺めながら、ひっきりなしにプロジェクトの詳細や進行計画について質問を投げかけてくる。 仕事に対して熱心で献身的に見えるが、実際に手を貸すことは、一度もなかった。 それでも紗月は、毎回、細かいところまで丁寧に答えていた。 本来ならチームで進めるべき仕事は、いつの間にかほとんど紗月一人で担われていた。 他社や団体への調査も、常に彼女一人。 本社側のメンバーが同行することは一度もなかった。「紗月さん、みんなそれぞれ別の方向で調査してるんですよ」 蒼空はそう説明した。 紗月は完全に理解できたわけではなかったが、それでも小さく頷き、納得した様子を見せた。 一か月が過ぎ、紗月は定例報告書を仕上げる。 そして、朝倉レガリア・ホールディングス――朝倉グループ本社での報告に向かう準備を整えていた。 これは両社で取り決められたスケジュールで、月に一度の定例報告は、双方の会社を交互に会場として行われることになっている。 報告当日。 紗月は万全の準備を整えていた。 会議室の前で、蒼空に呼び止められる。 彼はにこりと笑い、覗く八重歯が年齢よりも幼く見せていた。 無邪気なその表情のまま、紗月の手から仕事用のノートパソコンを取り上げると、当然のように言った。「紗月さん、最初の報告ですし、今回は下で見てるだけで大丈夫ですよ。僕が代わりに発表します」「え……でも……」「これ、実は上層部の判断なんです。僕も抗議はしたんですよ? だって、これは紗月さんの努力の結晶ですし……紗月さんがどれだけ頑張ってきたか、僕はちゃんと見てますから。でも上はそれを知らないんです。今回、両社の共同プロジェクトってことで、かなり慎重になってて……紗月さん、子会社所属だから、どうしても信用が薄いんでしょうね」 筋の通った説明に、紗月は言葉を失う。「……それって、社長の意向でもあるんですか?」「大丈夫ですよ、紗月さん。今回の報告
last updateLast Updated : 2026-05-01
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第62話

 今日は、もしかしたら慎一に会えるかもしれないと、確かにそう思っていた。 こんなふうに部屋へ引きずり込まれるとは、紗月はまったく予想していなかった。「ど、どうして……」 明らかに取り乱している紗月を見て、慎一はくすりと小さく笑う。 その瞳には、隠そうともしない軽蔑が滲んでいた。 身体をぴたりと重ね、下にいる女の激しい鼓動を感じ取る。片腕で紗月の腰を乱暴に引き寄せ、彼女が痛がるかどうかなど意にも介さない。 男の体温と腰を締めつける圧迫感に包まれ、紗月はすぐに正気を取り戻した。 胸元に手を当て、慎一を押し返そうとする。だが、その力は弱く、本気で拒もうとしているわけではないことは、自分でも分かっていた。 当然、その程度の抵抗など、慎一にとっては痛くも痒くもない。「は……紗月、抵抗するなら、ちゃんとしろよ。それとも、それが男の誘い方か?」「ち、違う……待って、慎一……発表……」 発表のことを思い出し、紗月は言葉を紡いだ。 慎一はまったく気に留める様子もなかった。 焦りと戸惑いを見せる紗月を、どこか愉しむように見つめていた慎一は、彼女がさらに言葉を続けようとした瞬間、ふいに身をかがめた。 唇が、ほんのわずかに紗月の下唇をかすめた。 軽く触れただけで終わり、そのまま首元へと歯を立てた。 キスは、なかった。 それでも紗月は、すぐに声を失った。 人のいない会社の一室で、こんな行為に及ぶなど……紗月には想像すらできなかった。 しかも、まだ勤務時間中だ。 抑えきれない息遣いと、重たい呼吸音が、部屋の中に満ちていく。 慎一はほとんど言葉を発しない。 わざと動きを緩めるかのように、紗月の身体をじわじわと熱に染め上げ、欲求を引き出していった。 結婚してから、二人は何度も身体を重ねてきた。 そこに愛はなかったとしても、紗月のどこに触れれば反応するのか、慎一はよく知っている。 逃げようとする気配を見せるたびに、彼はさらに追い詰める。再び自分の腕の中へと引き戻すように。「や……慎一……っ、待って……発表……今日……」 言葉は途切れ途切れになり、まともに紡ぐことすらできない。 時間は刻々と過ぎていく。 薄暗い室内には時計もなく、そのせいで時間の感覚は曖昧になり、ただ焦燥と欲望だけがじわじわと膨らんでいった。「逃げるな」 紗月の思いなど意
last updateLast Updated : 2026-05-01
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第63話

 慎一はそれだけ言い残すと、先に部屋を出ていった。 紗月はその場に取り残され、しばらく床に座り込んだまま、ぼんやりと動けずにいた。 やがて身体に残っていた熱が少しずつ引いていき、我に返る。 慌てて机の端に手をつき、なんとか立ち上がると、乱れた服を整え始めた。 時間を確認する。 会議は、もう終わっているはずだった。 自分は出席していないのに、誰からも連絡はない。スマートフォンにも、蒼空からの連絡は一件も入っていなかった。 身なりに問題がないことを確かめると、紗月はドアの前で一度だけ髪を整え、深く息を吐く。 そして、扉を開けて外へ出た、その瞬間―― 視線が、正面からぶつかった。「……っ?!」 凑斗もまた、予想外の出来事だったのだろう。 一瞬、驚いたように目を見開く。 そのあと、紗月の背後にある人気のない部屋へとちらりと視線を向け、さらに、彼女の頬にまだ残る赤みを確認すると、ほんのわずかに眉を上げた。 すぐに表情を整え、穏やかに声をかける。「朝倉さん、ちょうど下に行くとこなんだけど、一緒に行かない?」「え……でも……」 紗月は、自分のノートパソコンがまだ蒼空のところにあることを思い出す。 すると凑斗は、柔らかく笑った。「実は今回の発表について、いくつか聞いておきたいことがあって」 仕事の話を持ち出されては、断る理由がない。 紗月はまだどこか落ち着かない様子のまま、小さく「はい」と答え、凑斗の隣に並んでエレベーターへ向かった。 移動する間、凑斗は鋭く、いくつかの質問を投げかけてくる。 それは今回の報告資料には含まれていない内容ばかりだった。 プロジェクトへの理解度は非常に高く、 先ほどの発表をすでに聞いていたからなのか、進捗の細部まで把握しているようだった。 紗月はひとつひとつ丁寧に答える。 そのたびに、凑斗は満足そうに頷き、どこか感心したような視線を向けた。「そういえばさ、今日の発表、慎一いなかったよね。……一緒だった?」 一階に到着したあと、凑斗が何気なくそう尋ねる。 紗月は一瞬、言葉に詰まった。どう答えればいいのか分からない。 そのわずかな沈黙で、凑斗はすべてを察したらしい。「朝倉さん。今回の発表、全部あなたが準備したものだよね」「……は、はい」「やっぱり。前にうちで発表してくれたときと、言い回しも
last updateLast Updated : 2026-05-02
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第64話

 今年の祖父の誕生日会が、これまでになく紗月にとって幸せに感じられた理由のひとつは、慎一が最初から最後まで彼女のそばにいてくれたことだった。 紗月が必死に引き留めたわけでも、祖父の前で仲の良い夫婦を演じてほしいと頼んだわけでもない。 最初から、彼は自らの意思で紗月の隣に立っていた。 贈り物を一緒に選ぶときも、祖父と食事を囲むときも、ずっと変わらずに。 もともと慎一は、もっと盛大な誕生日会を開くつもりでいた。 祖父は、自分の年ではあまりに派手な祝いは頭が痛くなるだけだと言い、結局は自宅でささやかな祝宴を開くことになった。 招かれたのは祖父の親しい友人が数名だけ。どちらかといえば、家族の延長のような、静かな集まりだった。 贈り物は、紗月と慎一が一緒に選んだものだった。 翡翠で作られた彫刻で、華やかで見事な造形に加え、縁起の良い意味も込められている。 祖父はこの歳になってから骨董品に強い興味を持つようになっており、慎一もそれを見越して選んだのだ。 品を見せたとき、祖父は目を細めて心から嬉しそうに笑い、紗月と慎一の手を取り、そのまま重ねるようにして強く握りしめた。「わしはもう、この先に望むものなんて多くはない。ただな……お前たちが、仲良く、ずっと一緒にいてくれれば、それでいいんだ……」 紗月は、自分の手の上に重なる慎一の手のぬくもりを感じた。 その指先がわずかに力を込める。まるで彼の意思で、自分を繋ぎ止めるかのように。 思わず頬が熱くなり、紗月は小さく俯いた。 照れているかのように。 その様子を見て、祖父はさらに嬉しそうに笑った。「そうだ、夫婦というのはそういうものだ。慎一、お前もようやく少しは分かってきたか」 慎一は軽く咳払いをして、その話題から目を逸らすように口を開いた。「じいさん、ほかにも用意してある。そっちも見てくれ」 午後になると、招待されていないはずの客が二人、別荘に姿を現した。 紗月の家族を名乗り、紗月を育ててくれた祖父の誕生日を祝うため、そして感謝を伝えるためだという。 門のところへ駆けつけた紗月の視界に入ったのは、美沙子。そして、その腕に親しげにしがみつく若い女性だった。 白いワンピースを身にまとい、首元にはダイヤのネックレス。光を受けてきらめくそれは、紗月よりもはるかに華やかで、場にふさわしい以上の装いだっ
last updateLast Updated : 2026-05-02
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第65話

 美月のあまりにも行き届いた物言いに、紗月は思わず戸惑った。二階の方へ視線をやり、少し考えてから口を開く。「慎一とおじいさまは、二階の書斎にいると思うけど……呼んできたほうがいい、かな……?」 おずおずと問いかけたその言葉を、美沙子は笑顔で遮った。 そして先ほど美月の腕を取っていたのと同じように、今度は紗月の腕へと手を伸ばし、そのまま絡め取る。「いいのよ、そんな気を遣わなくて。それより最近、どうして母さんに連絡をくれなかったの? ずっと待っていたのよ。せっかく会えたんだもの、今日は紗月、母さんと一緒にいてくれるわよね?」 言い終えると同時に、美沙子はさりげなく美月へと視線を送る。 それを受け取った美月は、すぐに柔らかく微笑んで口を開いた。「そうですよ、お姉さま。せっかくですし、今日はゆっくりママとお話ししてあげてください。……お姉さまがいらっしゃらない間も、ママはずっとお姉さまのことを気にかけていたんです。本当に、お会いしたがっていらっしゃいましたから」 二人は言葉を重ねるように、美沙子の「想い」を大げさに語ってみせる。 けれど実際には、この間、紗月が仕事に追われて美沙子のことを思い出す余裕がなかったのと同じように、美沙子の方からも一度も連絡はなかった。 今日こうして娘を連れて祖父の誕生日会に現れたことも、紗月はまったく知らされていなかった。 それでも、言葉で囲い込まれるようにされてしまえば、紗月には強く拒むことができない。「……お母さん、ご飯はもう食べました? 何か取ってきましょうか」「いいわね、紗月。こうして一緒にいられるだけで、母さんは嬉しいわ」 美沙子はあえて紗月を別の方向へと連れていき、その場に美月だけを残した。 二階へと続く階段を見上げながら、美月はほんの一瞬、満足げに口元を緩める。 紗月の背中が見えなくなった瞬間、あからさまに白い目を向けた。 ――母の言う通りだ。 とっくの昔に捨てられていたこの姉は、やはりたいしたことがない。 朝倉のような家の当主と並ぶには、あまりにも不釣り合いだった。 そう思いながら、紗月の視界から外れた隙を狙い、美月は足早に二階へと上がっていった。 美沙子は紗月の腕を強く掴んだまま、片時も離そうとしなかった。 しばらくすると、紗月もその違和感に気づき始める。 美沙子の態度は先日の喫茶
last updateLast Updated : 2026-05-03
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第66話

 美月は階段を下りる前、わざとらしいほど柔らかく、無垢な笑みを紗月に向けた。 声もか細く、いかにも育ちの良さを感じさせる響きで、「お姉さま、下でお待ちしていますね。お義兄さまとご一緒に、早くいらしてくださいね」 そう言い残し、軽やかな足取りで姿を消していく。 その背中が階段の先に完全に見えなくなったのを確認してから、紗月はゆっくりと顔を戻し、慎一を見た。 慎一は書斎の机の向こう、椅子に腰を下ろしている。 机の上には、ほかにもいくつか届けられた贈り物が並んでいた。その中にひとつ、淡いピンクの包装紙で包まれたものがある。 明らかに、祖父への贈り物ではない。 事実もその通りだった。 紗月の視線に気づいた慎一は、そのピンクの包みを何のためらいもなく手に取り、脇のゴミ箱へと放り投げた。「紗月、お前に妹がいるなんて知らなかったな。……面白い子だ。じいさんの祝いだと言いながら、真っ先に義兄の俺に挨拶の品を持ってくるとは」「……」 その声には、好意の色は一切なかった。 あるのは、ただの嘲りだけ。 美月が見せたあのはにかみも、結局は一人芝居に過ぎない。当の相手である慎一には、まったく通じていなかった。 慎一は椅子から立ち上がると、書斎の奥にある本棚の前へと歩いていく。 そこには、祖父が飾っているいくつかの写真立てが並んでいた。写っているのは三人――祖父と慎一、そして紗月。 小学校の入学式から高校、大学に至るまで、どの写真にも三人だけが並んでいる。 そこに、他の誰かが加わったことは一度もなかった。「母親が会いに来たんだってな。……一応、祝ってやるべきか?」 家族の話題になると、慎一の声色はいつものような棘をわずかに失う。ほんの一瞬だけ、過去に戻ったかのような感覚が、紗月の胸をかすめた。 その声音には、紗月に向けた、言葉にしがたい感情が滲んでいた。 同じものを失った者同士のような、どこか歪んだ共感と、わずかな憐れみ。 ほんの一瞬。 その一瞬だけ、慎一は紗月との間に積み重なった憎しみや確執を忘れたかのように、振り返り、問いかける。「母親が戻ってきて……嬉しいのか」 その瞳は、底の見えない黒い海のようだった。希望も、感情も、波紋ひとつもない、ただ静かな闇。 かつて、二人は家族の話をしたことがある。 そのときの慎一も、まさにこんな目をし
last updateLast Updated : 2026-05-03
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第67話

 祖父の誕生日会が終わった翌週の日曜日は、めったに仕事に追われることのない日だった。 調査の進捗がすでに技術開発の条件を満たしたことで、本社チームは次の工程へ進むことを決定していた。 その連絡が蒼空から紗月に届いたのは、金曜の夜だった。 ちょうどそのとき、紗月はいくつかのデータを比較しながら検証を続けていた。 蒼空は社内メッセージで、本社の決定を簡潔に一言伝えただけで、それ以上の詳しい説明はなかった。 紗月はもう少し詳しい情報を知りたいと思い、追加で問いかけたが、返事は来ないままだった。 ――自分こそが、このプロジェクトの責任者のはずなのに。 プロジェクトが始まって一か月以上が経っているにもかかわらず、紗月はまだ本社のプロジェクトチームと直接接触したことがなく、顔を合わせたことすらなかった。 これまでやり取りがあったのは、蒼空ただ一人だけ。 違和感は当然、感じている。 けれど紗月にとっては、これが初めてのプロジェクト参加であり、初めての案件担当、そして初めての支社と本社の共同業務だった。 他の企業ではどのようにプロジェクトが進められているのかも分からない。 もしかしたら、どこもこんなものなのかもしれない。 そう自分に言い聞かせて、それ以上は深く考えないようにした。* 日曜日。 珍しく凛子から誘いを受け、紗月は一緒にクライミングジムへ行くことになった。 待ち合わせは午前十時。 そこは、凛子が留学に行く前、よく二人で通っていた場所でもある。 到着してみると、優介の姿もあった。 凛子の後ろにぴったりとくっつき、行儀よく立っている。 紗月の姿を見つけると、先ほどまで少し不機嫌そうだった表情がぱっと明るくなり、柔らかな声で話しかけてきた。「紗月お姉さん、やっと来てくれました。僕も一緒に遊びたいって言ったのに、姉ちゃんが止めようとするんです」 わざと甘えるような口調に、凛子はうんざりしたように白い目を向ける。「来るなって言ったのに、勝手についてきたのはそっちでしょ。……ごめんねさっちゃん、この子。邪魔になるから連れてこないって言ったのに、どうしても来るって聞かなくて」 相変わらずの姉弟のやり取りに、紗月は思わず笑ってしまう。「優介くんが来てくれて、私も嬉しいよ。凛子、優介くんのことはちゃんと見るから、心配しないで」「休みの
last updateLast Updated : 2026-05-05
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第68話

 凛子がただの思いつきでそう言ったわけではない。 というのも、ここ最近、弟の優介が彼女の前でやたらと紗月のことを気にかける素振りを見せていたからだ。「紗月お姉さん、最近ちょっと疲れてるみたいで」「仕事が忙しすぎるんじゃないか」と、やけに心配そうに口にする。 さらには、紗月の結婚生活にまで勝手に踏み込んで、あれこれと気を回してくる始末で、凛子もさすがに頭の片隅に引っかかるようになっていた。 もっとも、優介が暇を持て余して余計なことを言っているだけだと、凛子は思っていたのだが。 それでも今回、久しぶりに顔を合わせてみれば、紗月の様子はやはりどこかおかしい。 化粧で隠してはいるものの、目の下の隈は薄く透けて見え、疲労の色を完全には消しきれていなかった。 それを見ていると、理由もなく胸が痛んだ。 まさかそんなことを突然聞かれるとは思っていなかったのか、紗月は一瞬言葉を失い、それからすぐに微笑みを浮かべる。「もちろんだよ。私に何かあるわけないじゃない。むしろ……凛子、今の私、たぶん一番幸せな時期かもしれない」 その笑顔には、確かに嘘のない幸福と、未来への期待が滲んでいた。凛子は何度か瞬きをしてから、ようやく胸を撫で下ろす。「よかった……。じゃあ最近、何かいいことあったんだ? 仕事忙しいって言ってたよね、誘ってもずっと仕事だって断られてたし。そんなに大変な仕事なの?」「最近、新しいプロジェクトに関わってて……すごく大事な案件なの。慎一も……私の成果を楽しみにしてるって言ってくれて。それに、もしかしたら本社に戻れるかもしれないんだ」 話しているうちに、紗月の表情は次第に明るくなっていく。その様子から、本当に嬉しいのだということが伝わってきた。 学生時代から勉強に打ち込むタイプだった彼女だ。 社会人になれば、きっと仕事にも全力で向き合うのだろうと凛子は思っていた。 そして今、紗月が満たされたように笑っているのを見て、凛子も素直に嬉しくなる。「よかったじゃん! じゃあさ、そのプロジェクトの成功を前祝いってことで、あとでご飯奢るよ」「奢る」という言葉を聞いた瞬間、優介がぱっと顔を上げた。「本当? じゃあ、ちゃんといいお店連れてってよ。……姉ちゃん、センスあんまり良くないし。紗月お姉さんが好きそうなお店、いくつか知ってるから紹介するよ」 弟の顔を
last updateLast Updated : 2026-05-05
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第69話

 その場にいたのは、紗月だけが呆然としたわけではなかった。 応接室に入ってきた紗月を見て、美沙子と美月もまた、明らかに反応が遅れていた。 どうして紗月がここにいるのか――そう言いたげに、戸惑いを隠しきれない表情を浮かべていた。 美沙子は落ち着きなく視線を泳がせ、紗月を見てから、すぐに慎一の様子を窺う。 どうやら慎一が紗月を呼んだのだと察したのか、次の瞬間には大げさな笑みを顔に貼り付け、親しげに立ち上がった。「紗月、あなたも来ていたのね。ちょうど今、慎一とあなたの話をしていたところなのよ」 そう言いながら、紗月の手を取って自分の隣へ引き寄せようとする。 本来の狙いは、慎一から遠ざけることだった。だが、その動きは実行される前に止められた。「紗月、こっちだ」 慎一は立ち上がろうともしない。 ただ冷えた目で美沙子を見据えているだけで、その思惑はすべて見透かされていた。 その視線に射抜かれ、美沙子の笑みがわずかに引きつる。 慎一から見えない角度で、紗月へと鋭い視線を向けながらも、声だけは相変わらず甘く整えていた。「そうそう、紗月。母さんね、あなたを見たら嬉しくて、ついそばに引き寄せたくなっちゃって……慎一も、きっとあなたと一緒に座りたいって思ってるわよね」 その言葉に、紗月と美月の視線が同時に慎一へ向く。 慎一は相変わらず無表情のままだったが、口元だけがわずかに歪んだ。 それはほんのかすかな嘲笑のようだったが、その言葉を否定することはなかった。 紗月が席に着くと、空気は一気に静まり返る。 妙に落ち着かない沈黙。 美沙子はそわそわと腰を浮かせたような状態で、膝を小刻みに揺らしている。 隣の美月も同じように、紗月が入ってきてからずっと眉をわずかに寄せたまま、何かに怯えるようにしていた。 誰も口を開かない中、紗月はそっと慎一の方を見やり、それから美沙子へ視線を戻す。「……お母さん、今日はどうして……?」「あ、あはは……大したことじゃないのよ。ただね、私と美月で会社の近くを通りかかったから、もしかしたら慎一がいらっしゃるかと思って、少し顔を出しただけで……。まさか本当にいらっしゃるなんて。それに、日曜日なのにこうして会ってくださるなんて、本当にお優しい方で……」 どこか不自然な笑い。 その言葉に、慎一は思わず低く笑った。「そうか。
last updateLast Updated : 2026-05-06
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第70話

 今日は、美沙子が朝倉本社に慎一の行方を探りに来た初めての日ではなかった。 祖父の誕生日会のあと、わずか一週間のあいだに、彼女はすでに三度も本社を訪れていた。 そのたびに受付で慎一の予定を尋ね、臆面もなく自分は慎一の義母だと言い、慎一に会えないかと取り次ぎを求めた。 受付責任者は二度にわたり、美沙子が面会を望んでいる旨を慎一へ電話で取り次いだが、そのいずれも、慎一は秘書を通して断らせた。 美沙子は慎一に会えなかった。代わりに慎一のほうは、会社の下にあるカフェで、そこに居座っていた美月と一度だけ“偶然”出くわした。 彼女がたった一杯のコーヒーだけで、いったいどれほどの時間そこに居座っていたのか、慎一には知る由もなかった。 慎一の姿を見つけると、美月は驚いたふりをした。近づいてくる動きには、少しのためらいもなかった。「お義兄さま、偶然ですね」 そう言い終えると、期待を込めた目でぱちぱちと瞬き、慎一の反応を待った。 芝居がかったその様子は、由衣にも引けを取らない。 慎一はただ、うんざりした。 紗月がいない場でこうして自分から擦り寄ってくる女など、慎一にとっては嫌悪の対象でしかない。 まして彼女は、紗月のいわゆる妹だ。なおさら不快だった。 慎一は美月を一瞥しただけで、余計な言葉を一つも与えず、そのまま振り返ることなく立ち去った。 美沙子母娘がここまで手間をかけて自分に近づこうとする目的を、慎一はまだ完全には掴めていない。 美沙子ひとりなら、朝倉の財力と影響力に目が眩み、そこから甘い汁を吸おうとしているだけかもしれない。 だが、そこに美月まで加わるとなれば、彼女たちが欲しがっているものは少しばかりの金では済まないのだろう。 もっと大きく、そして汚い野心がある。 慎一は、自分が誰かの計算の的にされることも、駒にされることも何より嫌っていた。 だから今日、美沙子が再び訪ねてきたとき、慎一はあえて無視しなかった。秘書に命じて、二人を上へ通させた。 ついでに紗月も呼びつけることにした。 自分の母親と妹が、どれほど浅ましい顔をしているのか、彼女自身にも見せてやるために。* 案の定、紗月が来る前、美沙子は熱心に美月の長所を語り始めた。 美月は性格がいい。忍耐強い。しかも、ある方面の能力も優れているのだと。 美沙子が得意げに話す一方で、美
last updateLast Updated : 2026-05-06
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