Masuk休みが終わり、再び撮影現場へ出勤すると、紗月は由衣の周囲の空気がどこかおかしいことに気づいた。 これまでも由衣の機嫌がいいことはなかった。 だが今日は、紗月が現場に来た時から、由衣が何とも言えない視線でじっと彼女を観察していた。 その視線に、紗月はなんとなく背筋が寒くなる。 幸い、今日は由衣の撮影スケジュールがかなり詰まっていた。 ほとんどの時間をスタジオでの撮影に費やしており、紗月と顔を合わせる機会もあまりない。 それに、紗月は少しだけ安堵する。 今日は美咲から、セットの解体作業を手伝うよう指示されていたからだった。 本来であれば、この作業は専門の大道具会社の担当であり、解体スタッフの配置もすでに決まっていた。 そのため、紗月が来たところでかえって邪魔になるだけで、スタッフたちも困ったような顔をしていた。 結局、運搬などの簡単な作業だけを任されることになった。 それでも、美咲や由衣の傍にいるよりは、こちらの方がずっと居心地がよかった。 解体チームの雰囲気はとても良い。 四人しかいないからか、全員仲が良く、仕事中も笑い声が絶えない。 紗月が一人で黙々と作業をしていると、退屈しているのではないかと気を遣い、わざわざ会話に巻き込んでくれることもあった。 こんな職場の空気は、紗月にとってほとんど初めてのものだった。 朝倉サポートソリューションズでの日々は、毎日が息苦しく、張り詰めた空気の中で過ごすばかり。 由衣の傍も同じだった。 だからこそ、解体スタッフたちの楽しそうな会話を聞きながら、紗月も時折つられるように微笑み、小さな笑い声を漏らしていた。* 昼休み。 紗月は近くの椅子に腰を下ろし、ぼんやりと時間が過ぎるのを待っていた。 何気なく顔を上げた時、別の方向から由衣がこちらへ歩いてくるのが見えた。 迷いのない足取り。 その視線もずっと紗月へ向けられている。 明らかに、自分を目当てにしているのだと分かった。 紗月の前まで来ると、由衣はゆっくり顔を上げ、目の前にある解体途中の背景セットへ視線を向けた。 それは数日前の撮影で使われていたセットだった。 二階建てほどの高さがある、マンションのバルコニーを模したセット。 高層階のベランダを演出するために作られたものだ。 今は、もともと取り付けられていた透かし彫りの装
不安な数日を過ごした後、紗月は休みの日に病院を訪れ、改めて検査を受けた。 そして結果を告げられた瞬間、彼女は全身から力が抜け、そのまま診察室の椅子へ崩れ落ちる。 そんな紗月の反応を見て、医師もすぐには言葉を続けなかった。 少し間を置き、言葉を選ぶようにしてから、穏やかな声で口を開いた。「現在は妊娠四週前後ですね。二週間後にもう一度来院していただいて、胎嚢の位置を確認しましょう。その後、今後の検査予定なども一緒に決めていきますが……朝倉さん、それでよろしいですか?」 紗月の思考は止まったままで、視線もずっと宙の一点を見つめたまま動かなかった。 医師の言葉は耳に入っていた。けれど、それを理解するまでには少し時間が必要だった。 しばらくしてからようやく、何を告げられたのかをゆっくり理解し始める。「あ……はい……」「では、今日のうちに次回の予約もできますが……」 医師は手元の予定表を確認しながら日付を口にした。 それでも紗月の反応が遅いからといって急かすことはなく、ただ辛抱強く返事を待ってくれる。 こうして突然妊娠を告げられ、頭が真っ白になってしまう患者は珍しくないのだろう。 医師の落ち着いた態度からは、そんな慣れた優しさが感じられた。 彼女は意識してゆっくりとした口調で話し、紗月から再び返事を聞くと、安心させるように穏やかな声で続けた。「朝倉さん、まだ赤ちゃんは小さいですから、どんな決断も遅くはありません。もし迷いや不安があるようでしたら、ご相談をお受けする専門の窓口もございますので、ご希望でしたら予約をお取りできます。また、必要であれば産科への紹介状をお作りすることもできますよ」「あ……」 一瞬、紗月の心が揺れた。 ぼんやりと医師を見つめた後、気づけば無意識のうちに小腹へ手を添え、少し迷うように首を横に振った。「いえ……大丈夫です。二週間後にまた来ます」 医師は頷き、ゆっくり立ち上がる紗月を見ながら、最後に一言付け加えた。「朝倉さん、できれば診察にはご主人も一緒に来られるといいですね。妊娠中の注意点は、ご家族にも知っておいていただいた方がいいですから」「……はい」 婦人科を出ると、外は気持ちがいいほどの晴天だった。 人で賑わう街の中に立ちながら、紗月は自分がどこへ向かえばいいのか分からなくなっていた。 足が重い。
飯野は普段から口が軽く、思ったことをそのまま口にするタイプだった。今の言葉も、ただ下品な冗談のつもりで口にしただけだ。 まさか紗月が一瞬で顔色を変えるとは思っていなかった。 目を大きく見開き、何かに怯えるような表情を浮かべる。 その反応はあまりにも異様で、飯野も思わず呆気に取られた。 さらに冗談を続けようとしていた口も止まる。「まさか……当たったの? 本当に妊娠してるとか? ちょっと待ってよ、怖いんだけど! 俺、妊婦とどうこうする趣味はないからね」「あ……違います……違う、そんな……」 紗月は慌てて否定しようとする。 あまりにも動揺していて、飯野の言葉がどれほど失礼かを考える余裕すらなかった。 ただ、胸の奥には奇妙な恐怖がじわじわと広がっていく。 ――もし、本当に当たっていたら。 こんなひどい生活の中で、もし本当に慎一との子供ができていたら……。 そう考えただけで、紗月の顔からさっと血の気が引いた。 あれほど自分を嫌っている慎一が、その子を歓迎してくれるはずがない。 気づけば、紗月の手は無意識のうちにお腹へ伸びていた。 まだ何の実感もない。 けれど、ここ数日は確かに疲れやすく、食欲もなかった。 ずっと仕事の疲れだと思っていた。 しかし今、この止まらない吐き気が、紗月に別の可能性を疑わせる。 そう考えた瞬間、顔色はみるみる失われ、頭の中は真っ白になった。 そんな紗月に、飯野が再び手を伸ばそうとしたことで、彼女はようやく我に返る。「すみません……」 小さくそう言い残すと、紗月は逃げるようにその場を後にした。 バッグを取りに戻る余裕すらなかった。 紗月はスマートフォンで検索し、一番近いドラッグストアへ向かうと、そのまま妊娠検査薬を購入した。 こういうものを買うのは初めてだった。 結婚してから夫婦生活はあったが、慎一は毎回きちんと避妊をしていて、その可能性を徹底的に排除していた。 ただ、最近の数回だけは確かに……。 検査薬の箱を握りしめながら、紗月はこれまでのことを思い返していた。 慎一でさえ余裕を失うほど激しかった時もあり、何度かは完全に避妊できていなかったこともあったのかもしれない。 その頃の紗月は、意識を失うほど疲れ切っていて、目を覚ました時にはいつも慎一がすべてを片付け終えていた。 だからこそ、これま
由衣としても、紗月を傍に置いているだけで目障りだったのだろう。 だからこそ、こんなやり方で自ら諦めて身を引いてくれればいいと考えた。 それに、今日立花が紗月にオーディションの話を持ちかけたことを思い出すだけで、由衣の胸には苛立ちが込み上げてくる。 一刻も早く紗月を自分の前から消してしまいたかった。 視界に入らないだけで、どれほど気が楽になることか。 慎一がどういうつもりで紗月を自分の傍に置いたのか、由衣には分からなかった。 最初は、数日だけ自分のおもちゃ代わりにして遊ばせるつもりなのだと思っていた。 だが、どうやら由衣の思っていたような話ではなかったらしい。紗月は毎日律儀に現場へ顔を出し、慎一は一度として撮影所に姿を見せない。 由衣自身、もうこんな嫌がらせじみた遊びを続ける気力はなくなっていた。 紗月が嫌いなのは本当だが、慎一のいない場所でどれだけ紗月を虐めたところで、自分には何の得もない。 それどころか、毎日の撮影でようやく保っている機嫌まで悪くなる。 まったく割に合わなかった。 もちろん由衣は知らない。 もし選べるのなら、紗月だって好きでここで仕事をしているわけではないことを。 目の前に置かれた、今にも溢れそうなほど並々と注がれたビールジョッキを見つめながら、紗月はわずかに躊躇した。 すると、周囲から「飲んで!」「いけるいける!」と囃し立てる声が上がった。 一人ではない。 次々と声が重なり、その場の空気はみるみるうちに熱を帯びていく。 まるで、紗月が飲み干すまでこの騒ぎは終わらないと言わんばかりだった。 由衣は冷ややかな笑みを浮かべながら、迷っている紗月を眺める。やがて紗月は両手でジョッキを持ち上げ、ゆっくりと何口か続けて飲んだ。 しかしジョッキを下ろしても、中身はほんの少し減っただけだった。 それを見た一人の俳優が面白そうに笑う。 もっと飲めと囃し立てながら、男はしつこく紗月を急かした。 もともとは向かいの席に座っていたが、それでは不便だと思ったのか、いつの間にか隣のスタッフと席を替わり、紗月のすぐ横へ移動してきていた。 そして、笑顔のまま、一口飲むたびにまた次の一口を勧めてくる。 由衣はそんな様子を黙って見ていた。 当然、その男の下心にも気づいている。 紗月は女優ではない。 ただの付き人だ。 そし
由衣は立花に対しても、いつも通りの甘く愛らしい笑顔を浮かべていた。 だが、立花は特別な反応を見せることはない。 他のスタッフのように機嫌を取ることもなく、終始一人の役者として接しているだけだった。 穏やかに頷き、「分かりました」と一言だけ返すと、再び紗月へ視線を向ける。「さっきの話は、また今度にしましょう」 紗月ははっとして、慌てて頷いた。「……あ、はい」 立花の姿が完全に見えなくなるまで見送った瞬間、由衣の顔から、それまでの愛らしい笑みが跡形もなく消えた。 紗月の肩を掴んでいた指先にも力がこもり、痛みに思わず身を引こうとした。 しかし、由衣は手を離さなかった。 それどころか、逃げられるのを恐れるかのように、さらに強く肩を掴んだままだった。 一瞬、由衣の表情が醜く歪む。けれど、何かを思い出したように、すぐさま無理やり笑顔を作った。 その笑みはひどく不自然だった。 演技力には定評のある女優なのに、紗月を前にすると、どうしても感情を隠しきれないらしい。「ねえ、あんたも役者になりたいんだ?」 由衣は唇を吊り上げる。「そういえば、昔立花監督の映画を受けたことがあるって聞いたことあるなぁ。だからあんなに気にかけてくれるってわけ?」 立花の作品に出演するため、由衣は以前から立花本人のことはもちろん、その交友関係や人脈についてもかなり調べていた。 その過程で、紗月がかつてオーディションに合格し、事務所から出演決定の連絡まで受けていたことも知っている。 けれど、その話はいつの間にか立ち消えになっていた。 どうして由衣がそんなことまで知っているのか、紗月には分からなかった。 もしかしたら、慎一が話したのかもしれない。 そう考えた瞬間、胸の奥がずしりと重くなる。 紗月が何も答えずにいると、由衣は苛立ったように口元を歪めた。 その無反応な態度が気に障るらしく、腹立たしさを滲ませながらも、どうにか感情を押さえ込む。「理由は知らないけど、芸能界に入りたいなら私が力になってあげてもいいよ?今夜、打ち上げがあるの知ってるでしょ? この世界って人脈も大事だから。分かるよね?」 そう言ってから、由衣はにっこりと笑った。 その口ぶりでは、紗月も一緒に参加させるつもりらしかった。 紗月は反射的に断ろうとする。「いえ、私は――」「ねえ」 由
紗月にも、自分がどこでまた慎一の癇に障ったのか分からなかった。 慎一の顔色は完全に沈み込み、明らかに怒っている。 塗り終えた薬を無造作に置くと、立ち上がり、再び上から見下ろすように紗月へ視線を向けた。 紗月は何も言わない。 短い沈黙のあと、慎一は怒りを押し殺すように低く笑った。「紗月。これはお前が自分で選んだことだ。後悔しても知らないぞ」 それだけ言い残し、慎一は控室を出ていった。そして、その後は二度と戻ってこなかった。 今日以降、撮影現場に姿を見せることもない。 由衣の付き人として過ごす日々も、思っていたほど辛いものではなかった。 慎一が来なくなってからというもの、由衣も紗月を相手にする気を失ったらしく、任されるのは細々とした雑用ばかりだった。 だが、怪我の功名と言うべきか――。 そのおかげで、紗月は撮影スタッフたちと接する機会が増えた。 由衣が撮影に入っている間、手の空いた時には、撮影の流れや現場の進行を間近で見ることができた。 認めざるを得なかった。 由衣は私生活では決して性格がいいとは言えない。けれど、ひとたびカメラの前に立てば、まるで生まれながらの女優のようだった。 演技は自然で完成度も高く、台本の理解力にも優れている。 ミスをすることもほとんどなく、時には紗月自身も思わず見入ってしまうほどだった。 暗闇の中から、ライトに照らされたセットを見つめていると、いつの間にか自分の感情までも役者たちと共に揺さぶられ、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。 かつて紗月が憧れていた世界。 夢見ていた景色が、今こうして目の前に広がっている。 ただ一つ違うのは――その中に、自分の居場所がないことだった。 その現実は、撮影が終わるたびに美咲から別の雑用を言いつけられる度に重くのしかかり、自分がかつて手放したものがどれほど大切だったのかを、嫌というほど思い知らせてくる。 そんなある日。 紗月が小道具を片付けていると、こちらへ歩いてくる立花の姿が目に入り、思わず手を止めた。 立花はちょうど一つの撮影を終えたばかりで、現場全体もちょうど休憩時間に入っている。 特別に紗月を探していたわけではない。 だが、彼は紗月を見つけた瞬間、わずかに足を止めた。 歩調を緩めながら近づいてくると、やがて紗月の前で立ち止まる。 その視線は、
今回は、これまでで一番長かった。 そのうえ、終わりの見えない苦しさだった。 ただ欲を発散するだけなら、慎一はもっと早く終わらせる。 今夜の彼は違った。紗月を壊したいかのように、じわじわと逃げ道を塞いでくる。 慎一の指先は、少しも容赦をくれなかった。紗月の知らない触れ方を、彼はいくつも知っていた。 途中から紗月は泣きすぎて声が掠れ、まともに言葉も出せなくなっていた。 身体は震え続け、息も上手くできない。 それなのに慎一だけは、最後まで乱れない。 シャツもきっちり閉じられたまま。ネクタイこそ外れているものの、それ以外は普段の彼と何も変わらない。 ただ一か所だけ、隠しきれない
慎一の手つきは、いつも以上に荒々しかった。 紗月の肩を押さえ込む手には一切の容赦がなく、身体の奥を抉るように侵してくる指先も乱暴だった。熱を帯びた指が無理やり内側を掻き回すたび、粘膜を擦られる鈍い痛みがじわじわと広がっていく。「っ……ぁ……」 紗月は小さく息を詰まらせた。 準備もないまま無理やり弄られる感覚は、快楽というより拷問に近い。奥を何度も掻き回されるたび、身体がびくりと震える。 声すらうまく出せなかった。 逃げようとするみたいに身体が無意識に強張り、そのせいで慎一の指をきつく締め付けてしまう。 慎一は喉の奥で冷たく笑った。「紗月。そんなに締めて……どこの男に仕込まれ
慎一は感情の読めない目で由衣を見つめていた。 もしかすると、少し酔っているのかもしれない。 でなければ、どうして頭の中に浮かぶのが、また紗月のことなのだろう。 もし相手が紗月だったなら――。 彼女は、こんな露骨な誘い方はしない。 情事に対する羞じらいは、大人の女とは思えないほど初々しく、結婚して三年経った今でも、ベッドの上の彼女はどこか控えめで、耐えるようなところがあった。 慎一はぼんやりと思い返していた。 結婚したばかりの頃、紗月がほんの数回だけ、ベッドの上で自分から歩み寄ろうとしてきたことを。 だがそのたびに、自分はきっと、酷く傷つけるような言葉を投げたのだ。だから紗月
プロジェクトの件を引き続き確認すると言っていたものの、実際に紗月が車へ乗り込んでから、慎一はその話題に一切触れなかった。 隣に座る紗月を気にする様子もなく、ただ手元の資料へ目を落としている。 その資料は、先ほど秘書から受け取ったものだった。 渡す際、新人らしいその秘書は、気になって仕方ないというように何度も紗月を見ていた。視線には隠しきれない好奇心が滲んでいる。 対して久我だけは、慎一が紗月を連れて車へ乗り込んだ時から、ずっと口元へ薄い笑みを浮かべていた。 慎一は仕事モードへ入ると、驚くほど集中する。 車内には音楽も流れていない。 そのせいで空気は静まり返り、少し大きく息をす