Masukその夜も、紗月はなかなか眠ることができなかった。 ようやく少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた眠りは、慎一が何の前触れもなく口にした「おやすみ」という一言と、再び二人を縛りつけたあの契約によって、すっかり乱されてしまった。 翌朝、鏡に映るひどく気力のない自分の顔を見つめ、紗月はしばらくぼんやりとその場に立ち尽くしていた。 目の下には薄く隈が浮かび、どれほど疲れているのかは鏡を見るまでもなく自分が一番よく分かっている。 やがて我に返ると、疲れの色を少しでも隠すように慌ただしく化粧を施し、重く沈んだ身体と頭を無理にでも目覚めさせようと、いつもより濃いブラックコーヒーを淹れた。 以前の紗月は、コーヒーが好きではなかった。 もともと苦いものがひどく苦手で、わざわざ好んで口にしようと思ったことさえない。 けれど、いつからだっただろう。 日々そのものがコーヒーよりもずっと苦くなってしまえば、舌に残る程度の苦さなど、驚くほど簡単に受け入れられるようになっていた。 幸い、家を出る頃には、鏡に映る自分もいくらか元気を取り戻したように見えた。 朝より顔色もよくなり、念入りに化粧を整えたおかげもあって、少なくともひどく憔悴しているようには見えない。 紗月は約束の十分前に店へ到着した。 ところが、凛子から紹介されることになっていた監督は、紗月や凛子よりもさらに早く店へ着き、すでに席に着いて待っていた。 紗月の姿を見つけると、すぐに礼儀正しく立ち上がって握手を交わし、どこか改まった様子で自ら名乗る。「源間俊行と申します。友枝さんは、私の名前を聞いたことがありますか……? まだそれほど知られていませんし、撮った作品も決して多くありません。それでもよろしければ、ぜひ今回の作品をお願いしたいと思っています」「そんなことありません。源間監督の映画はどれも素晴らしいです。上映されたとき、私も映画館まで観に行きました」 紗月は慌てて首を横に振った。社交辞令で褒めているのではなく、本当に彼の映画を観ていたことを伝えたくて、特に印象に残っている場面や演出についてもいくつか具体的に話していく。 源間は途中で口を挟むこともなく、紗月の言葉へ真剣に耳を傾けていた。 話が進むにつれて、その瞳は目に見えて輝きを増し、興味を隠そうともせず、まっすぐ紗月だけを見つめている。 好き
凛子は、一度何かをすると決めれば、昔から驚くほど行動が早かった。 紗月がその話を聞かされたのは、まだ朝のことだ。それなのに、その日の夜にはもう、凛子から弾んだ声で電話がかかってきた。 監督と会う時間も場所も、すでにすべて決まったらしい。 しかも約束は翌日の昼だという。話があまりにも早く進み、紗月のほうが驚いてしまうほどだった。「そんなに早く?」 思わず驚いて尋ねると、電話の向こうから凛子の得意げな笑い声が返ってきた。「それだけ向こうが本気でさっちゃんを気に入ってるってことでしょう? きっと、直接会うのが待ちきれないのよ。これから映画館の大きなスクリーンでさっちゃんを見られるようになるのかな。そうなったら私、本当に嬉しい! 絶対何回も観に行くからね」 仕事を紹介してもらったのは紗月のほうなのに、凛子の喜びようは、まるで自分自身が主演女優に選ばれたかのようだった。声を聞いているだけで、その浮き立つような気持ちがこちらにまで伝わってくる。 そんな凛子の明るさにつられ、紗月も思わず声を立てて笑った。 慎一と別れて家へ戻ってからも、胸の奥にはずっと重苦しいものが沈んでいた。昼間に見た夢のせいで、忘れたつもりだった過去まで掘り返され、気持ちはなかなか晴れなかった。それが凛子と話しているうちに、いつの間にか少しずつ薄れていく。 明日は、どんな監督に会うのだろう。 どんな映画で、どんな役なのだろう。 まだ何も決まってはいない。それでも、もう一度芝居へ近づけるかもしれないと思うだけで、胸の奥には久しく感じていなかった小さな期待が芽生えていた。* 昼間、慎一は夜になったら電話をすると言っていた。 その言葉どおり、凛子との通話を終えてから数分も経たないうちに、今度は慎一から電話がかかってきた。 画面に表示された名前を見た瞬間、先ほどまで浮き立っていた紗月の気持ちが、ほんの少しだけ現実へ引き戻される。 紗月はすぐには電話に出なかった。 鳴り続けるスマートフォンを手にしたまま、長いこと画面を見つめて迷う。できることなら、このまま出ずにやり過ごしてしまいたかった。 けれど、頭に浮かんだのは、あの契約書だった。結局、紗月は小さく息を吐き、気の進まないまま通話ボタンを押した。 電話に出たことが意外だったのか、それとも素直に出たことがおかしかったのか。慎一
慎一の言葉を聞いても、紗月はすぐにはその意味を理解できなかった。「私がいつ……」 そこまで口にしたところで、言葉がふいに途切れた。 紗月の表情がわずかに強張り、慎一の言う「この前」がいつのことを指しているのか、ようやく思い当たる。 あのときの記憶は、今も紗月の中に恐ろしいほど鮮明に残っていた。 休憩室で慎一と一夜を過ごした翌朝、紗月は何度も迷った末、ようやく勇気を振り絞って、一緒に朝食を食べられないかと尋ねたのだ。 慎一のオフィスまで会いに行ったものの、中へ足を踏み入れる勇気さえ持てず、扉の前に立ったまま声をかけることしかできなかった。 それほど勇気を振り絞って口にした願いに、慎一が返した言葉もまた、今なお耳の奥に焼きついている。『紗月。調子に乗るな』 忘れたつもりでいたあの日の記憶が、一瞬にして鮮明によみがえった。 紗月の表情は目に見えて強張り、さっきまで目の前に並んでいた豪華な朝食さえ、急に色褪せたもののように映る。 食欲はすっかり失せ、もう一口たりとも喉を通りそうになかった。「……朝倉社長。あのとき、私に何て答えたかも覚えてる?」 まさか慎一のほうから、あの日のことを持ち出してくるとは思ってもいなかった。 自分ではもう気にしていないつもりだったのに、こうして思い出しただけで胸の奥が鈍く痛む。 これ以上慎一と言葉を交わす気にもなれず、紗月は冷えた眼差しを逸らした。「どうやら、ずいぶんひどいことを言ったらしいな」 慎一は悪びれる様子もなく、相変わらず余裕を崩さなかった。 紗月が席を立ち、そのまま部屋を出ていこうとすると、背後から慎一の声が追いかけてくる。「紗月。食べたくないなら、せめてもう少し俺に付き合え。あのときのことが気に障ってるなら、今ここで埋め合わせをしてもいい」 そこでわずかに間を置き、慎一はまるで紗月の機嫌を取ることさえ楽しんでいるかのように、改めて尋ねた。「欲しいものでも、してほしいことでも。何でもいい、言ってみろ」「私が欲しいのは……今すぐ、あなたの顔を見ないで済むことよ」 苛立ちに任せてそう言い放つと、紗月はもう慎一の反応を確かめようともせず、自分のバッグを探してすぐに立ち上がった。 休憩室を出ようとドアノブへ手を伸ばしたところで、その手に慎一の手が重なる。 紗月が振り返るより早く、背後から近
「どんないい知らせなの?」 凛子の声を聞いた途端、一晩中張りつめていた紗月の心は、ようやくほんの少しだけ緩んだ。 胸の奥を締めつけていた重苦しさが、わずかに和らいだような気がする。 朝食が所狭しと並べられたテーブルの前へ腰を下ろした途端、凛子が話し始めるよりも早く、休憩室の扉が静かに開き、昨日とほとんど変わらない服装の慎一が入ってきた。 おそらく、一睡もしていないのだろう。 顔色はあまり優れず、普段はどんな場面でも隙を見せない彼には珍しく、その目元には隠しきれない疲労の色が濃く滲んでいた。 ネクタイも昨日と同じままで、夜通し働いていたことが一目で分かる。 何気なく顔を上げた紗月と目が合う。 慎一は無意識だったのか、ごく浅く口元を緩めた。紗月が電話中だと気づくと、声をかけることもなく、そのまま向かい側のソファへ静かに腰を下ろす。 その姿を目にした途端、ようやく少しだけ解けかけていた紗月の身体は、再び小さく強張った。 さっきまで凛子の声だけを聞いていられた穏やかな時間は、一瞬で消えてしまう。「さっちゃん! 聞いて。私の知り合いに若手の映画監督がいるんだけど、まだそれほど有名じゃないの。でも、これまで撮った映画は何本も興行成績がよくて、評判もすごく高いのよ。今度の映画で主演女優を探してるっていうから、試しにさっちゃんの写真を見せてみたら、『ぜひ一度会ってみたい』って言ってくれて!」 凛子は、紗月が先日オーディションを受けたことを知っていた。 だからこそ、自分にできることはないかと考え、人脈を頼りに密かにあちこちへ声をかけてくれていたらしい。 そのことを思うだけで、紗月の胸は少しだけ温かくなった。「オーディションなの?」 慎一には聞かれたくなくて、紗月は思わず声を潜める。そう口にしたあと、気づかれないようにそっと慎一の様子を窺った。 向かいに座る慎一は、携帯電話へ視線を落としたまま、特にこちらへ反応を示す様子はない。紗月の電話を盗み聞きしようという気もないのか、それとも聞こえていても興味がないのか、その表情からは何も読み取れなかった。「もう、ほとんど決まりみたいなものなの……。勝手に話を進めちゃって嫌だったら、ごめんね。でも、本当にいい人なのよ。海外にいた頃に知り合ったんだけど、そのとき彼がチームを率いて私の学校へ撮影に来ていて……」
慎一は、どうしても自分の持つ力や機会を紗月へ与えたいらしい。その理由だけは、紗月にはどうしても分からなかった。 立花監督の映画のことを思い出す。 自分の選択を誤ったせいで、一度は手を伸ばしかけた機会を逃した。 もう一度その役へ手が届くかもしれないと聞かされ、まったく心が動かなかったと言えば嘘になる。 それでも、以前、朝倉サポートソリューションズ株式会社で任された仕事が脳裏をよぎった。 あの案件には、多くの時間も労力も費やし、心血まで注いだ。それなのに、慎一にとっては、すべてほんの気まぐれに過ぎなかった。 最後に紗月の手元へ残ったものは、何一つなかった。 あの頃の紗月には、まだ慎一への愛情があり、彼を信じる気持ちもあった。今はもう愛も失い、一度壊された信頼を取り戻すことなど、そう簡単にはできない。「あなたのことは信じられない、慎一。前に私へ何をしたか、あなた自身が一番よく分かっているでしょう。それに、あなたは商人よ。何の利益にもならないことをする人じゃない」 紗月は静かに言い切った。 何度も考えた末に出した答えは、それでも慎一の申し出を受け入れられないというものだった。 少し間を置き、できるだけ感情を押し殺した声で尋ねる。「朝倉社長。今夜、私はどこで寝ればいいんですか?」 慎一はしばらく紗月を見つめ、何かを考えているようだった。やがて口を開きかけたものの、急かすように鳴り響いたスマートフォンに言葉を遮られる。 画面へ視線を落とした慎一は、わずかに眉を寄せた。 それでもすぐには電話へ出ず、一度考えるような間を置いてから紗月へ視線を戻す。「俺の休憩室を使え」 慎一がその気になれば、今からでも紗月のために別の部屋を用意させることくらいできるはずだった。 だが、そんなつもりはないらしい。「でも……」「安心しろ。邪魔はしない」 紗月が何を言おうとしているのか察したのか、慎一はすぐに言葉を継いだ。返事を待つこともなく、そのまま電話へ出る。 今度の連絡は、先ほどよりも切迫した内容だったらしい。話を聞くにつれ、慎一の表情もわずかに険しさを帯びていく。「分かった。すぐ確認する」 短くそう告げて通話を終えると、慎一は立ち去る前にもう一度だけ紗月へ目を向けた。「おやすみ」 低く落ち着いたその一言に、紗月は思わず目を瞬かせる。 慎一が
慎一の言葉に、紗月はしばらく黙り込んだ。 車が止まらない以上、降りることはできない。重苦しい沈黙を乗せたまま走り続けていた車は、やがて朝倉グループ本社の前へ静かに滑り込んだ。「一緒に上がるぞ、紗月」 放っておけば、そのまま帰ってしまうと思ったのだろう。慎一は車を降りる前、逃げ道を塞ぐようにそう告げた。 久我はすでに車外へ回り、慎一のためにドアを開けて待っている。 それでも慎一は、紗月の返事を聞くまで動こうとしなかった。 紗月は慎一を一瞥し、しばらく考えた末、小さく首を横へ振る。「朝倉社長、私は自分の家へ帰りたい。もう送っていただかなくても結構だから……」 最後まで言い終える前に、慎一が小さく笑った。 何がおかしいのかは分からない。 あるいはまた、「朝倉社長」と呼ばれたことが気に入らず、呆れ半分に笑っただけなのかもしれなかった。「紗月。契約書には、必要と認められる場合、乙は甲の要求に従い、協力しなければならないと明記してある」 契約条項を持ち出され、紗月は眉を寄せた。「今がその『必要な場合』だとは思えない。契約書に書いてある協力って、人前で夫婦として振る舞う必要があるときとか、会社のイメージに関わる場合だけだと思ってた」「紗月。甲の欄に書かれているのは俺の名前だ。朝倉グループじゃない。つまり、俺が必要だと判断すれば、それが『必要な場合』になる」「……」 紗月はどうにか断る理由を探そうとした。 だが、その考えは慎一の次の一言であっさり断ち切られる。「俺は、お前が契約を破っても構わない。だが、お前の友人の縁談を白紙に戻せたように、もう一度進めることもできる。それでも――」「……もういいから、一緒に上がる」 ここまで来てしまった以上、これ以上厄介事を増やしたくはなかった。 最上階へ向かう途中、慎一は何本か電話に出た。 紗月の前で話を隠す様子もなく、相手は芸能事務所の広報チームらしい。すぐ隣にいた紗月の耳にも、そのやり取りが途切れ途切れに届いてきた。 どうやら、由衣を広告に起用している企業から抗議が入ったようだった。 今回のスキャンダルは由衣自身が招いたものだけに、契約を解除できないか、慎一の意向を探ろうとする広告主も少なくないらしい。「違約金……」 慎一が電話口の言葉を繰り返す。 告げられた金額は驚くほど高額で、紗月
家。 二度目のアラームが鳴り響いて、玄関でぼんやり立ち尽くしていた紗月は、ようやく我に返った。 目の奥がじんと痛み出し、手の甲で押さえて和らげようとする。だが触れた肌は熱く、熱はまったく引いていなかった。 この体調では休んだほうがいいのではないかと、そう思いかける。 けれど、部下の体調など一切気にも留めず、ただ頭ごなしに怒鳴りつける部長の性格を思い出し、結局は考えるのをやめた。 そのまま部屋へ戻り、出勤の支度を始める。 結婚してから、紗月はようやく契約を結んだばかりだった芸能事務所を辞め、ほぼ話がまとまっていたドラマ出演の契約も断った。 すべては慎一の「妻が外で目立つのは好
やがて由衣を迎えに来た車が到着した。 まるでこの世の終わりでも訪れたかのように名残惜しげに別れを告げる彼女を見ても、慎一はその場に立ったまま、形だけの笑みを浮かべるだけだった。 そしてそのまま踵を返し、自分専用の駐車スペースへと向かう。 すでに運転手は彼からの連絡を受けて車内で待機しており、まるで時間を計算していたかのように、慎一が後部座席のドアに手をかける寸前、すぐに車を降りて恭しくドアを開けた。「ありがとう」 運転手の名は久我誠。 二十年以上前、朝倉家に仕える補佐役として働いていた人物で、ここ数年で慎一の専属運転手兼個人秘書となった。 長年この家に仕えてきた彼にとって、慎
由衣を連れて地下駐車場まで下りると、慎一はようやく、自分にぴたりと寄り添っていた彼女を少し強めに引き離した。 今度ははっきりと力を込めており、由衣がこれ以上まとわりつくことは許さない。「次からは、断りもなく来るな」「えー、社長ってひどい。利用したらそれで終わりなんて。奥様、顔色すごく悪かったですよ? 今ごろ上でこっそり泣いてるかも」 由衣はにこにこと笑いながら、両手で慎一の腕を掴み、甘えるように揺らした。 だがその言葉には、どこか底の見えない悪意が滲んでいる。 慎一はそんな彼女を見つめ、ふっと笑
翌朝、紗月が目を覚ますと、昨日よりもさらに体調が悪かった。 全身に力が入らず、めまいがして、手足は冷えきっている。歩くだけでも、身体が小刻みに震えているような感覚さえあった。 キッチンで薬を飲んでいると、ちょうど慎一も部屋から出てきた。アイランドキッチンに置かれた薬をちらりと目にしたが、彼はほんの一瞬視線を流しただけで、気にかける様子はまるでない。 紗月は彼がすでに出勤用の服に着替えていることに気づく。 まだ時間は早いのに、彼は今すぐにでも出ていきたいというように、どこか落ち着かない様子だった。この家に一秒でも長くいたくな