「気にしないで」そう口では言いながらも、絃葉はバッグから10万円の現金を取り出し、男性へ差し出した。男性は少し驚いたように目を瞬かせた。「えっ、これ......」「相乗りさせてもらったお礼だよ」絃葉は少し照れくさそうに笑う。「治療費も立て替えてもらったし、今日は車にも乗せてもらったから。このお金、ほんの気持ちだから」男性は思わず苦笑し、静かに首を振った。「......大丈夫だよ」差し出したままの絃葉の手が宙で止まる。「お金に困ってないのは分かってる。でも、何もせずに親切だけを受けるわけには......受け取ってくれないと、私も落ち着かないし」男性は微笑みながら、指先で彼女の手首をそっと押し返した。「それなら、こうしよう。お金はいらない。その代わり、最近時間があったら、俺を玉宴へ食事に連れて行ってよ。それでお礼ってことで」「玉宴?」その名前を聞いた瞬間、絃葉の食欲が一気に刺激された。「あそこって多磨城中の本場の軽食や名物料理が集まってるところだよね。いいよ、それで決まり!」「よかった」男性は笑みを浮かべて眉を上げる。その声にも同じような期待がにじんでいた。「俺もちょうど、ずいぶん長いこと行ってなかったから」故郷へ近づくにつれ、彼ははっきりと感じていた。記憶の中で明るく快活だったあの人が、少しずつ彼女の中によみがえってきていることを。弾むような語尾や、美味しいものを心から好きだという飾らない様子に、二人は一瞬で気の合う相手を見つけたような親しみを覚えた。......一時間後。車は絃葉の実家の門前に静かに停まった。庭は以前と変わらず青々と茂り、蔦が柵一面を覆い、屋敷の中の景色をすっかり包み隠している。絃葉は男性に静かに別れを告げ、荷物を持って車を降りると、しっかりとした足取りで重厚な鉄門へ向かった。コンコンコン――軽く扉を叩くと、ほどなくして銀髪に質素なワンピース姿の婦人が小走りでやって来た。顔を見た瞬間、彼女は目をこすり、思わず声を上げる。「まあ!絃葉様がお帰りになった!早く祐一郎様にお知らせして!」その一言で、静まり返っていた屋敷は、石を投げ込まれた湖のように一気に騒がしくなった。敷居をまたいだ途端、客間の奥から聞き慣れた杖の音が響いてくる。
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