義父の眉がピクリと動いた。「結婚早々、何の冗談だね」その声は穏やかだったが、底に冷たい棘が隠れていた。私はアールグレイの湯気をじっと見つめながら、ゆっくりと首を振った。「私も離婚する気はありませんでした」一瞬の沈黙。義父の指が、再びテーブルの縁を軽く叩き始めた。規則正しい、まるで計算機のようなリズムで。「……なら!」彼が声を荒げかけたその瞬間、瑞希は静かに、しかしはっきりと言葉を被せた。「婚姻の条件として、製薬会社と取り交わした契約書のコピーをいただけますか?」義父の指が止まった。部屋の空気が、一気に重くなった。エミール・ガレのランプの光が、黒光りする本革の椅子に冷たく反射している。「何のために」声が低く、明らかに警戒を帯びていた。瑞希は膝の上で指を組み直し、ゆっくりと息を吐いた。胸の奥で、鹿威しの音が遠くから響いてくるような気がした。こおん……。「この契約の『鍵』である私には、知る権利があります」義父の目が細くなった。それまで瑞希を「理想的な嫁」として見ていた視線が、初めて「敵」を見るような冷たさに変わるのがわかった。「瑞希さん……君は少し、勘違いをしているようだ」彼はゆっくりと背もたれから体を起こし、指を組んで瑞希を正面から見据えた。「確かに、君は条件を満たしていた。健康で、強く、双子の姉という立場も完璧だった。だがね、この契約は病院と製薬会社のビジネスだ。家族の私情を挟むものではない。君が『鍵』だなどと、勝手に思い上がる必要はない」瑞希は微笑んだ。腫れの残る頰が、わずかに痛んだが、それでも笑みを崩さなかった。「思い上がりではありません。新婚初夜に夫が妹のベッドにいたときから、私はただの『配偶者枠』を満たすための道具だと気づきました。結婚式で平手打ちをされたときも、家族みんなが真希の治療費を守るために私を犠牲にしているのだと、はっきり理解しました」アールグレイの香りが、急に甘く、胸苦しく感じられた。「だからこそ、契約書のコピーが必要です。私がこの結婚を続けるかどうかを決めるための、重要な資料ですから」義父の唇が、薄く引き結ばれた。部屋に、再び重い沈黙が落ちる。遠くの庭から、鹿威しの音が一つ、澄んだ響きを運んできた。こおん……。義父はようやく、静かに言った。「……契約書を見せる必要はない
Dernière mise à jour : 2026-04-15 Read More