All Chapters of 新婚初夜あなたは妹のベッドにいた: Chapter 11 - Chapter 20

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義父との対面②

義父の眉がピクリと動いた。「結婚早々、何の冗談だね」その声は穏やかだったが、底に冷たい棘が隠れていた。私はアールグレイの湯気をじっと見つめながら、ゆっくりと首を振った。「私も離婚する気はありませんでした」一瞬の沈黙。義父の指が、再びテーブルの縁を軽く叩き始めた。規則正しい、まるで計算機のようなリズムで。「……なら!」彼が声を荒げかけたその瞬間、瑞希は静かに、しかしはっきりと言葉を被せた。「婚姻の条件として、製薬会社と取り交わした契約書のコピーをいただけますか?」義父の指が止まった。部屋の空気が、一気に重くなった。エミール・ガレのランプの光が、黒光りする本革の椅子に冷たく反射している。「何のために」声が低く、明らかに警戒を帯びていた。瑞希は膝の上で指を組み直し、ゆっくりと息を吐いた。胸の奥で、鹿威しの音が遠くから響いてくるような気がした。こおん……。「この契約の『鍵』である私には、知る権利があります」義父の目が細くなった。それまで瑞希を「理想的な嫁」として見ていた視線が、初めて「敵」を見るような冷たさに変わるのがわかった。「瑞希さん……君は少し、勘違いをしているようだ」彼はゆっくりと背もたれから体を起こし、指を組んで瑞希を正面から見据えた。「確かに、君は条件を満たしていた。健康で、強く、双子の姉という立場も完璧だった。だがね、この契約は病院と製薬会社のビジネスだ。家族の私情を挟むものではない。君が『鍵』だなどと、勝手に思い上がる必要はない」瑞希は微笑んだ。腫れの残る頰が、わずかに痛んだが、それでも笑みを崩さなかった。「思い上がりではありません。新婚初夜に夫が妹のベッドにいたときから、私はただの『配偶者枠』を満たすための道具だと気づきました。結婚式で平手打ちをされたときも、家族みんなが真希の治療費を守るために私を犠牲にしているのだと、はっきり理解しました」アールグレイの香りが、急に甘く、胸苦しく感じられた。「だからこそ、契約書のコピーが必要です。私がこの結婚を続けるかどうかを決めるための、重要な資料ですから」義父の唇が、薄く引き結ばれた。部屋に、再び重い沈黙が落ちる。遠くの庭から、鹿威しの音が一つ、澄んだ響きを運んできた。こおん……。義父はようやく、静かに言った。「……契約書を見せる必要はない
last updateLast Updated : 2026-04-15
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コンビニ弁当

瑞希はコンビニの袋を提げ、マンションへと戻った。鍵を回す瞬間、いつも胸に刺さる切なさが走る。カチャリ、という小さな金属音が、今日も虚しく響いた。そこには、陸斗の気配はなかった。結婚当初は違った。エプロンを着け、笑顔で帰りを待ち、好きなハンバーグを作ってテーブルに並べたものだ。「遅くてもいいから、温めて待ってるね」LINEを送った夜もあった。今は違う。瑞希は一人、ソファに腰を下ろし、コンビニの惣菜弁当を開けた。箸を持ち、静寂の中で咀嚼する音だけが、部屋に響く。カリカリという音が、自分の耳にだけ大きく聞こえる。味など、ほとんど感じない。冷蔵庫を開けると、昨日作った陸斗の好きなハンバーグが、まだ綺麗にラップされたまま残っていた。瑞希はそれを無言で取り出し、ゴミ箱に落とした。プラスチックの蓋が閉まる音が、妙に大きく響いた。その瞬間、自分の中の最後の灯火が、静かに消えた気がした。温かみのない部屋。ベッドはいつも冷たい。陸斗は真希の特別個室に泊まり続け、ほとんど帰ってこない。「急患が続いている」とだけ短いメッセージが来る日々。本当はわかっている。あれは急患などではなく、真希の治療枠を守るための時間なのだと。寂しさに耐えきれず、夜中に一人で泣いたこともあった。枕を濡らし、声を殺して嗚咽した夜も、何度かあった。でも、それも長くは続かなかった。涙が枯れるのと同じように、心の奥底で何かがゆっくりと死んでいった。代わりに生まれたのは、冷たい、透明な何かだった。義父の応接室で聞いた言葉が、頭の中で繰り返される。『君は条件をすべて満たしていた。』『配偶者枠』『研究費数億円』『真希の治療費など、端金だよ』瑞希はベッドに横になり、天井を見つめた。暗闇の中で、鹿威しの音が幻のように聞こえた気がした。こおん……。もう、泣かない。もう、待たない。ただ、静かに、鍵を外す準備をしよう。その朝も、気だるい体を引きずって目覚めた。鏡に映る自分の顔は、以前より少しだけ鋭くなっていた。腫れの痕はもう消えていたが、代わりに、目の中に冷たい光が宿り始めていた。陸斗は今日も、真希のベッドサイドにいるのだろう。瑞希は静かに、コンビニの袋を片付けながら、独り言のように呟いた。「新婚初夜、あなたは妹のベッドにいた。それでいい。私は、も
last updateLast Updated : 2026-04-15
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勘の良い友人

午後のカフェは、窓から柔らかな日差しが差し込んでいた。瑞希は窓際の席に座り、アイスコーヒーをゆっくりと回しながら待っていた。寿退社してから初めての「昔の仲間とのお茶」だ。「瑞希ー! 遅れてごめん!」佐倉美咲が、軽やかな足取りで現れた。ショートボブに明るいベージュのトレンチコート、いつものようにエネルギッシュな笑顔。新聞社の社会部で今も第一線を走っている彼女は、結婚披露パーティーに来られなかったことを本気で申し訳なさそうに頭を下げた。「本当に、おめでとう! 陸斗先生みたいなイケメン医師と結婚なんて、羨ましい限りだよ。プレゼント、遅くなったけど受け取ってね」小さな紙袋を渡され、私は微笑んだ。「ありがとう。わざわざありがとう」美咲は席に着くなり、メニューも見ずにカフェラテを注文した。そして、私の顔をじっと見つめてきた。「……瑞希、どうしたの?」最初の一言で、私は少し背筋を伸ばした。勘の良いところは相変わらずだ。「え? 何が?」「なんか……目が死んでる」美咲はストローを指でくるくる回しながら、軽い調子で続けた。「新婚なのに、こんなに早く『主婦の顔』になるなんておかしいよ。陸斗先生、忙しいのはわかるけど、帰ってきてくれないんでしょ?」私はアイスコーヒーのグラスを握る手に力を込めた。美咲は笑いながらも、目は一切笑っていない。記者としての勘が、すでに私の異変を捉えていた。「まあ……病院の先生って、そういうものじゃない?」「うーん、そういうもの、で片付けられる雰囲気じゃないよね」美咲は少し声を落とし、身を乗り出してきた。「披露パーティーの話、ちょっと聞いてるよ。陸斗先生が瑞希を……その、平手打ちしたって。本当?」私は一瞬、言葉を失った。美咲は慌てて手を振ったが、目は鋭いままだ。「ごめん、変な聞き方。でも、瑞希が急に寿退社して、連絡も減ったから心配してたの。双子の妹さんが入院してるって聞いたけど……何か、複雑な事情があるんじゃないかって」私は静かに息を吐いた。この瞬間、義父の応接室で聞いた「家族特別枠」の言葉が、頭の中でフラッシュバックした。新婚初夜の冷たいベッド、ハンバーグをゴミ箱に落とした瞬間、鹿威しの音。私はカップを置いて、ゆっくりと美咲の目を見た。「……美咲、勘が良すぎるのは相変わらずね」美咲はにっこり笑
last updateLast Updated : 2026-04-16
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付き添い①

陸斗も真希の病室に入り浸る訳にもいかず、私も交代で特別個室に付き添うことになった。表向きは「家族の協力体制」。実際は、研究プログラムの「配偶者家族」としての体裁を保つためだということは、もう誰も口にしなかった。その日も、私は真希の病室にいた。「ねぇ、瑞希。外の景色が見たいわ」真希の声は、いつものように弱々しく甘えた響きを帯びていた。確かに窓の外の空は青く、日差しは柔らかく温かい。私は無言で車椅子を準備し、真希の華奢な体を支えて移した。細い肩、ほとんど肉のついていない腕。——今にも折れそうなこの体に、陸斗が何度も触れていると思うと、背筋に冷たい悪寒が走った。(この二人は……どこまでの関係なんだろう)そんな下世話な想像が、頭の中で勝手に膨らむ。陸斗の手が、真希の細い足首を優しく撫でる様子。深夜の特別個室で、二人きりで交わされる言葉。ベッドの上で、瓜二つの私の顔をした妹に、陸斗がどんな表情を向けているのか。私は自分の思考に、強い嫌気がさした。こんなことを考える自分が、汚らわしくてたまらない。健康な姉として、真希を支えてきたはずなのに、今はただ、嫉妬と猜疑心で胸が腐っていく。真希は車椅子に座ったまま、窓の外を眺めながら小さく微笑んだ。「気持ちいい……。お姉ちゃん、ありがとう。陸斗くんも、いつも優しくしてくれるけど……やっぱりお姉ちゃんの支えが一番安心するわ」その言葉は優しく聞こえたが、どこかで私を試しているようにも感じられた。私は真希の後ろに立ち、車椅子のハンドルを握りしめた。指の関節が白くなるほど強く。「陸斗は……最近、忙しそうね」「うん。でも、私のことが一番大事だって言ってくれるの。新婚なのに、ごめんね。お姉ちゃんが我慢してくれているおかげで、私はこうして日差しを浴びられるんだから」真希の声は穏やかだった。しかし、その穏やかさの裏側に、静かな優位感がちらりと覗いている気がしてならなかった。華奢な体、弱々しい笑顔——それが真希の武器であり、私の枷だ。私は車椅子をゆっくりと押しながら、窓辺に移動させた。外の景色は確かに美しかったが、私の目にはただ、空虚な青にしか映らなかった。鹿威しの音が、遠くの記憶の中で響いた。こおん……。私は心の中で、静かに呟いた。(もう、十分我慢したわ)「もっと外が見たい、屋上に連
last updateLast Updated : 2026-04-16
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付き添い②

その時だった。真希の指先が、白くなるほど強く私のスカートを掴んだ。一瞬の力。バランスを崩した私は、壊れた操り人形のように屋上の人工芝の上に倒れ込んだ。膝と手のひらが擦れて、じんわりと痛みが広がる。周囲の入院患者や付き添いの視線が、一斉に集まった。クスクス、という小さな笑い声が、屋上庭園の空気に溶けていく。「……真希! 何をするの!」ふり仰ぐと、そこにあったのは——姉を見下ろす、歪んだ笑みだった。真希の唇は優しく弧を描いているのに、目は冷たく、静かに勝利を味わっているように輝いていた。「お姉ちゃん、元気だから大丈夫でしょう? 羨ましいわ」その言葉は甘く、しかし鋭い棘のように胸に刺さった。私は声を荒げた。「ふざけないで!」差し出された真希の手を、勢いよく振り払った。その瞬間——私の手首は、痛みを感じるほど力強く掴まれた。「何をしているんだ! 真希は病人なんだぞ!」陸斗だった。彼は真希の車椅子の横に立って、私を睨みつけていた。白衣の袖が風に揺れ、いつもの穏やかな医師の顔はどこにもない。そこにあるのは、明確な非難と、真希を守るための冷たい苛立ちだけだった。私は地面に片手をついたまま、ゆっくりと顔を上げた。膝の痛みより、手首を掴まれる痛みより、胸の奥が焼けるように熱かった。「……陸斗。あなたは今、私が倒されたのを見なかったの?」「真希がそんなことをするはずがない。お前が何か粗相をしたんだろう。真希は足が不自由で、感情のコントロールが難しいんだ。少し優しくしてやれ」陸斗の声は低く、しかし周囲に聞こえるように響いた。クスクスという笑い声が、また少し大きくなった気がした。入院患者の一人が「可哀想に……」と小さく呟くのが聞こえた。可哀想——それは、私ではなく、真希に向けられた言葉だった。真希は車椅子に座ったまま、弱々しく陸斗の袖を引いた。「陸斗くん、ごめんね……。お姉ちゃんに迷惑かけちゃった。でも、お姉ちゃんが元気で羨ましくて、つい……」その声は震え、涙ぐんでいるようにさえ聞こえた。陸斗はすぐに真希の肩を抱き、優しく背中をさすった。その手は、先ほど私を掴んだのと同じ手だった。私はゆっくりと立ち上がり、スカートの埃を払った。膝から血がにじんでいるのが見えたが、痛みはほとんど感じなかった。代わりに、心の奥底
last updateLast Updated : 2026-04-16
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月150万円の結婚

病院を後にした私は、タクシーに乗り、実家へと向かった。窓の外を流れる街並みが、ぼんやりと過ぎていく。白い芍薬の残り香が、まだ指先にまとわりついている気がした。腫れた頬は化粧で隠したものの、鏡で見るたび、昨夜の平手打ちの感触が蘇る。実家——暖かく優しい思い出のかけらなど、最初からなかった家。玄関の鍵を回す音が、妙に大きく響いた。中に入ると、いつものように母の声が飛んできた。「あら、瑞希? どうしたの、こんな朝早くに。……陸斗くんは?」母はキッチンから顔を出し、いつもの柔らかい笑みを浮かべていた。父はリビングのソファに座ったまま、新聞を広げていた。二人とも、結婚披露パーティーで私が頬を打たれた瞬間、何も言わず、ただ息を呑んで傍観していた顔が、まだ目に焼きついている。私は玄関に立ったまま、静かに、しかしはっきりと言った。「離婚するわ」一瞬、家の空気が凍りついた。母が慌ててエプロンを外しながら駆け寄ってきた。「え……何を言ってるの? 結婚したばかりじゃないの!」父も新聞を乱暴に畳み、立ち上がった。声が低く、明らかに動揺している。「待て、瑞希。お前、真希の治療費のことを考えてるのか?陸斗くんの病院の『家族特別枠』がなくなったら、どうするつもりだ?月百五十万円以上かかるんだぞ! 今までタダ同然で受けられてきた治療が、全部実費になるんだ!」母の顔が一瞬で青ざめ、声が震えた。「そうよ! 真希の新薬とリハビリ、全部あの枠のおかげなのよ!離婚なんかしたら、真希はすぐに枠から外されるって、理事長さんからも言われてるじゃない!あの子が寝たきりになったら……あなた、どう責任を取るの?」私はゆっくりと息を吸い、声を低くした。「真希のことも考えて?今までずっと、そう言われてきたわ。『お姉ちゃんだから』『あなたは健康なんだから』『真希の世話をしてあげなさい』 三歳の頃から、真希の車椅子を押して公園に行かされた。私が膝を擦りむいて泣いても、『真希ちゃんより痛くないでしょ?』って。陸斗が真希の肩を抱くのを、横で笑顔で我慢しなきゃいけなかった。結婚だって、陸斗の両親が『瑞希なら家を守れる』って言ったから、陸斗は仕方なく私に指輪を渡しただけでしょう?」母が必死に言葉を重ねてきた。「そんな……言い方……。真希の治療費が払えなくなったら
last updateLast Updated : 2026-04-17
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絶望と抱擁

真希のベッドサイドで、陸斗は膝をつくように座っていた。彼の長い指が、真希の細く冷たい足首を、まるで壊れやすいガラスのように優しく包み込んでいる。その指先が、わずかに震えていた。「真希……今日のデータ、思ったより悪化してる」「そう......」陸斗の声は低く、掠れていた。彼はカルテを握りしめ、目を伏せた。白衣の肩が、まるで重い荷物を背負ったように落ちている。「余命宣告を更新した。……3年以内だ。最長で5年。治療を続けても、この進行を完全に止めるのは……俺にはもう、限界かもしれない」真希が弱々しく微笑むと、陸斗の目尻に、うっすらと涙が浮かんだ。医師として何百人もの患者を見てきた彼が、幼馴染の妹の前でだけ、声を詰まらせる。「ごめん……俺がもっと早く、もっと良い治療を見つけてれば……お前を、こんな体にさせてしまった」陸斗は真希の手を両手で包み、額をその手に押しつけた。肩が小さく震え、声にならない嗚咽が漏れた。「ずっと一緒にいるって、誓ったのに……俺は、守れてない」その姿は、ただの医師のものではなかった。幼い頃から真希を守ると誓った少年が、大人になってもなお、罪悪感に潰されていく姿だった。瑞稀は病室のドアの隙間から、そっと中を覗いていた。陸斗は真希のベッドに額を埋め、両手で頭を抱えていた。白衣の背中が、激しく上下している。「真希……俺は、何のために医者になったんだ……」声は嗄れ、涙がシーツに落ちて小さな染みを作っていた。「余命3年って宣告した瞬間、お前が笑った顔が忘れられない。『陸斗くんなら、きっと大丈夫』って……俺を信じてるのに、俺は何もできない」「陸斗くんがそばにいてくれるならそれでいいの」陸斗は拳を握り、ベッドの柵を叩いた。一度、二度。静かな、しかし抑えきれない慟哭だった。「瑞希には……悪いと思ってる。でも、お前がいなくなったら、俺は……」彼はそこで言葉を飲み込み、ただ真希の冷たい手を頰に押し当て、涙を堪えきれずに肩を震わせ続けた。医師としての冷静さはどこにもなく、ただ一人の男が、幼馴染の命の炎が消えゆくのを前に、崩れ落ちている姿だった。「陸斗くん……泣かないで」真希の声は、弱々しく甘く、しかしどこか勝ち誇った響きを帯びていた。「私、まだここにいるよ。あなたがいる限り、私は頑張れる。余命なんて…
last updateLast Updated : 2026-04-17
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妊娠

「おめでとうございます。三ヶ月です」マタニティクリニックの診察台で、私は凍りついた。医師の明るい声が、遠くから聞こえるように響く。呼吸が止まり、耳鳴りが激しくなって、思考回路が現実に追い付かなかった。……三ヶ月?元々、生理周期が定まらず、遅れがちな体だった。「また遅れているのか」程度にしか考えていなかった。まさか、こんなタイミングで——。私は診察台の上で体を起こし、ゆっくりと息を吐いた。白い紙のガウンが、かすかに震える。陸斗に抱かれたのは、二度だけだった。一度目は、結婚が正式に決まった夜。彼の部屋で、ぎこちないキスから始まり、義務のような抱擁だった。「これで家族が喜ぶ」とでもいうように、陸斗は淡々と私を抱いた。その時、私はまだ「愛されるかもしれない」と、ほんの少しだけ期待していた。二度目は……真希が余命宣告を受けた夜のことだった。あの夜、陸斗は特別個室から戻ってきて、珍しく酒の臭いをさせていた。真希の「余命5年」という言葉が、彼を追い詰めていた。私はただ、夫として寄り添おうとした。でも、陸斗の目は私を見ていなかった。暗い部屋の中で、彼が私の体を抱きしめるとき、囁いた名前は「真希」だったのかもしれない。避妊は、していたはずだった。コンドームを着けていたはずだった。なのに——。今思えば、あの二度目の夜、陸斗が私を抱いたのは、同じ顔をした私の中に、真希を投影していたからかもしれない。華奢で、弱々しく、すぐに壊れてしまいそうな真希の体を、健康で強い私の体で代用しようとしていたのかもしれない。「……避妊は、していたはずなのに」私は独り言のように呟いた。医師が心配そうに私の顔を覗き込む。「奥様? 大丈夫ですか? 三ヶ月ということは、もう胎児の心拍も確認できていますよ。旦那様に連絡しましょうか?」私は首を横に振った。連絡など、できるわけがない。今、陸斗は真希の病室で、余命を宣告された妹を熱く抱きしめ、キスを交わし、涙を流しているはずだ。あの熱い抱擁の記憶が、鮮やかに蘇る。真希の細い腕が陸斗の首に絡みつき、陸斗の大きな手が真希の背中を必死で引き寄せる姿。私はその夜、ドアの隙間からすべてを見ていた。そして今、私の体の中には、陸斗の子供がいる。呆然としたまま、診察室を出た。病院の廊下を歩きながら、左手で自分の下
last updateLast Updated : 2026-04-18
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真希の挑発

その夜も、私は特別個室のドアをほんの数センチだけ開け、息を殺して中を覗いていた。前回とは違う日だった。陸斗は私たちのマンションにほとんど帰って来ない。来ても、着替えを持ってタクシーに乗り込む。真希の容態が少し悪化したと言って、陸斗がまた泊まり込んでいた夜。私はもう、ただ見ているだけではいられなかった。スマホを片手に、静かに録画ボタンを押した。画面に映る二人の姿を、しっかり記録する。音声も、息遣いも、すべて。陸斗は真希のベッドの横に座り、彼女の細い手を両手で包み込んでいた。白衣の袖が乱れ、疲れきった顔に深い影が落ちている。「真希……今日の検査結果、思ったより悪かった。呼吸筋の低下が止まらない。余命のカウントが、確実に減っている……」陸斗の声は掠れ、医師としての冷静さを失っていた。真希は弱々しく微笑み、陸斗の頰に自分の冷たい掌を当てた。「大丈夫よ、陸斗くん。あなたがそばにいてくれるだけで、私は生きていける。私を、もっと近くに感じて……」真希の細い腕が陸斗の首に絡みつき、ゆっくりと引き寄せる。二人の唇が重なり、静かなキスが始まった。前回より深く、熱を帯びたキス。真希の弱々しい吐息が陸斗の口内に流れ込み、陸斗は抵抗するように一度体を硬くしたが、すぐに真希の背中に腕を回し、強く抱きしめた。「真希……お前がいなくなったら、俺は……」陸斗の声がキスの合間に漏れる。彼の大きな手が、真希の華奢な腰を引き寄せ、病衣の上から背中を何度も撫でる。真希の細い体が陸斗の胸に密着し、二人の影が壁に大きく揺れた。私はスマホを少し傾け、しっかりと録画を続けていた。画面の中で、二人が絡み合う姿が鮮明に映っている。新婚の妻である私が、ドアのすぐ外にいるというのに——。その時、真希の目が、わずかに開いた。瓜二つの私の顔をした妹の視線が、ドアの隙間を正確に捉えた。キスをしながら、彼女の唇がゆっくりと弧を描く。ほくそ笑みだった。勝ち誇った、甘く、残酷な微笑み。目が細められ、唇の端が上がる。まるでこう言っているようだった。『見てて、お姉ちゃん。今も、陸斗くんは私の唇を求めている。あなたが健康で、強い体を持っていても……結局、彼の心はここにあるのよ。羨ましい? 悔しい? もっと、ちゃんと見ててね』真希は陸斗の首に腕をさらに強く絡め
last updateLast Updated : 2026-04-18
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離婚届

夜のマンションは、いつものように静かだった。陸斗が珍しく早めに帰宅したその夜、私はリビングのテーブルに離婚届を広げて待っていた。ドアが開く音がして、陸斗が入ってきた。白衣のまま、疲れ切った顔で靴を脱ぐ。真希の病室から直接帰ってきたのだろう。彼の首筋には、まだ真希の香水のような甘い匂いが微かに残っている気がした。「瑞希……今日はどうした?」私は立ち上がり、テーブルに置いた離婚届を静かに押し出した。すでに私の署名と実印は捺してある。残るは陸斗の署名と印鑑だけ。「離婚しましょう、陸斗」陸斗の動きが止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、私をまっすぐに見つめた。一瞬、医師としての冷静な表情が戻ったが、すぐに困惑と苛立ちが混じった。「……何を言ってるんだ。急に」「急じゃないわ。新婚初夜から、あなたは私のベッドではなく、真希のベッドにいた。結婚式で私を叩いた夜も、真希の病室に駆けつけた。そして、真希の余命宣告を受けた夜……あなたは私を抱きながら、真希の名前を呼んでいたかもしれない」私は淡々と、しかしはっきりと言った。声に感情を乗せないよう、喉の奥に力を込めた。陸斗の眉が寄せられる。「真希の容態が悪いんだ。余命3年……俺が主治医として、そばにいてやらなきゃいけない。お前は健康なんだから、少し我慢してくれ」「我慢?」私は小さく笑った。冷たい笑みだった。「家族特別枠の治療費が月150万円以上かかること、知ってるわ。あなたと結婚している限り、真希は無料で新薬と血管再生療法を受けられる。私が離婚したら、即座に枠から外される。それが、あなたが私と結婚した本当の理由でしょう?」陸斗の顔色が変わった。彼はテーブルに手をつき、声を低くした。「瑞希……真希は本当に死ぬかもしれないんだ。お前まで離婚なんて言い出したら、真希はどうなる?家族が崩壊する。俺の父の研究予算も……」「それが、私の責任?」私は離婚届をもう一歩、彼の方に押しやった。「私はもう、真希の影で生きるのはやめる。あなたが真希をどれだけ愛おしそうに抱きしめ、キスをしていたか……全部知ってるわ。ドアの隙間から、ちゃんと見ていた。録画も、している」陸斗の目が見開かれた。初めて、彼の表情に動揺が走った。「……瑞希、お前……」「印鑑を捺して。今すぐ」私はペンを彼
last updateLast Updated : 2026-04-18
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