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第3話

Auteur: 橙川こがね
寧々はうなずいた。紗羽の胸の内も、もう察していた。

「京介には、あなたの気持ちを受け止めるだけの器がなかったのよ。あんな男と離れたほうがずっと幸せになれる。さっき仕事に集中したいって言ってたけど、文化財修復をもう一度始めるつもり?」

その話になると、紗羽の瞳にようやく本物の光が宿った。だがすぐに、不安そうな色も浮かんだ。

「うん。恩師に連絡してみるつもり。でも、先生がこんなふがいない教え子にまだ会ってくださるかどうか……」

当時、彼女は結婚のために、さらに研究を続ける道と、国立博物館に勤める機会をきっぱりと諦めた。恩師が痛ましげに嘆いていた姿を、今でもはっきり覚えている。

「絶対に会ってくれるわよ!」

寧々は励ました。

「高田(たかだ)教授、あなたのことを一番かわいがっていたじゃない。当時は、期待していた分、悔しかっただけよ。今のあなたがもう一度この道に戻りたいって知ったら、先生だって喜んでくれるに決まってる。早く連絡してみなさい!」

そう言われると、紗羽は胸につかえていたものが少し取れたように感じた。寧々が仕事の都合でどうしても帰らなければならなくなったあと、彼女はもう迷わず、連絡先の中から久しく使っていなかった番号を探し始めた。

ところが、ちょうど「高田教授」と登録された連絡先を見つけたとき、スマホの画面上部に、LINEの通知が次々と表示された

送り主は皐月だった。

紗羽の目がわずかに鋭くなり、トーク画面を開いた。

最初に目に入ったのは、一枚の写真だった。

背景はオープンキッチンだった。暖かな灯りの下、京介は紗羽が買ったあの白いシャツを着たまま、別の女のために料理をしていた。その横顔は、紗羽の前ではもう見せなくなった柔らかさを帯びていた。

続いて、二枚目の写真が届いていた。細い手が下腹部に添えられ、薬指にはまぶしいほどのダイヤの指輪がはめられていた。見たことのないデザインで、紗羽の持っているどの指輪とも違っていた

最後に、一文が添えられていた。

【紗羽さん、京介さんを譲ってくれてありがとうございます】

吐き気が一気に喉まで込み上げた。紗羽は、見慣れたキッチンの背景を見つめた。そこはかつて、京介が彼女に買ってやると言っていたマンションだった。今ではそこで、別の女のために自ら料理を作っている。

そのわざとらしい文章を見ても、不思議なことに彼女は胸の痛みを感じなかった。残ったのは、ただ冷静さだけだった。

彼女は相手の望みどおりに取り乱すことはなかった。感情的な言葉を返すことさえしなかった。

ただ、トーク画面に一行だけ打ち込んだ。

【彼が隠している秘密を知っている?】

送信完了の表示が出た、まさに次の瞬間だった。スマホが激しく震え出した。皐月からの着信だった。

紗羽は、画面に点滅する名前をじっと見つめた。胸の内は、不思議なほど冷えていた。こういう相手には、同じやり方で返してやればいい。

それもまた、あの人が教えてくれたやり方だった。

彼女は電話に出なかった。ためらうこともなく、電源ボタンを長押ししてスマホの電源を切った。

世界は一瞬で静かになった。

紗羽は黒い画面になったスマホをソファに放り、書斎へ向かった。今の彼女には、もっと大事なことがあった。恩師に連絡し、長く棚上げにしていた仕事への道を考えること。

そして証拠を集め、離婚訴訟を起こすことだった。

静かになったあと、紗羽は書斎で長い時間座っていた。

彼女はスマホに保存してある大学時代の写真をめくった。修復室で文化財の欠片を慎重にクリーニングしていた日々、図書館で古典資料を調べていた日々、恩師に同行して発掘現場に入り、現地保存に携わった日々。それらは大変ではあったけれど、純粋な充実感と喜びに満ちていた。

指先は最後に、高田教授との写真の上で止まった。写真の中の紗羽は、恩師の腕にそっと手を添え、屈託なく笑っていた。その目には、これからの未来を信じて疑わない光があった。

彼女は深く息を吸い、勇気を振り絞って長いメッセージを打った。過去の自分の身勝手さを心から反省し、夢をもう一度取り戻したいという決意を伝え、大学へ伺い、先生にお目にかかる機会をいただけないかと尋ねた

送信が完了すると、彼女はスマホを脇に置いた。もう焦って返信を待つことはせず、仕事に戻る準備のために、専門書やノートを整理し始めた。

どれほど時間が経ったのか分からない。やがて彼女は疲れと、進むべき方向を再び見つけた安堵に包まれたまま、深い眠りに落ちた。

翌朝、紗羽は階下からかすかに聞こえてくる物音で目を覚ました。

彼女は眉をひそめ、時間を確認した。まだ朝の七時過ぎだった。ガウンを羽織ると、音を立てずに二階の螺旋階段の踊り場まで歩き、下を見下ろした。

すると、リビングでは京介が皐月をやさしく支えながらソファに座らせていた。皐月はゆったりとしたワンピースを着ていて、もともと守ってやりたくなるようなその雰囲気を、いっそうか弱く見せていた。

彼女は京介のそばに寄り添い、片手でまだ平らな下腹部を何気なく撫でていた。

かつて紗羽と京介のものだったこの家は、今や別の女の気配で満ちていた。

紗羽は無意識に手すりを握りしめた。指の関節が、わずかに白く浮いた。けれど表情は少しも変わらず、ただ静かに二人を見つめていた。

「まだ気持ち悪いか?」

京介の声は、これまで聞いたことがないほどやさしかった。彼は皐月の手を自分の手の中に包み込んでいた。

「朝はあんなに吐いていたんだ。もう少し水を飲むか?」

皐月は首を横に振り、甘くやわらかな声で言った。

「大丈夫だよ、京介さん。この子はいい子だから。朝、少し気持ち悪くなっただけ」

彼女は少し間を置き、上品に整えられたリビングを見回した。その目の奥に、ほんのかすかな得意げな色がよぎった。

「ここが、あなたと紗羽さんが五年間住んでいた場所なの?」

京介の身体がわずかにこわばった。だがすぐに自然な様子を取り戻した。

「ああ。でも、もうすぐここは変わる」

彼は立ち上がり、周囲を見渡した。声は淡々としていた。

「彼女は今日中に出ていく」

その言葉が落ちた瞬間、彼が顔を上げると、階段の上から紗羽の静かで波立たない視線が向けられていた。

京介は眉をひそめた。先ほど皐月に向けていたやさしさは一瞬で消え失せ、代わりに見慣れた冷淡さが浮かんだ。

「起きたのか。ちょうどいい。荷物はもうまとめたか?」

紗羽はすぐには答えなかった。彼女はゆっくりと階段を下りていった。長い髪はゆるく肩にかかり、思わず目を奪われるような静かな美しさがあった。

皐月は紗羽を見た瞬間、無意識に京介のほうへ少し身を寄せた。目には一瞬警戒が走ったが、すぐに従順そうな笑みに塗り替えられた。

「紗羽さん、おはようございます」

紗羽の視線は彼女をかすめ、最後に京介の顔に止まった。

「私たちはまだ正式に離婚の手続きをしていないはずよ。法律上は今も夫婦関係にある。それなのに、もう不倫相手を家に連れてくるなんて、小島さんに見られるのは怖くないの?」

彼女の声には何の起伏もなかった。ごく普通の事実を述べているだけのようだった。だがその一言で、京介の顔色は一瞬にして陰った。

小島は、周防家の本邸から二人の身の回りの世話をするために通っている年配の女性だった。表向きは世話係だが、実際には先代当主の周防千治(すおう せんじ)が一族の各家庭に置いた目付け役のような存在でもある。

彼女は毎週水曜と土曜に決まってやって来て、掃除をし、本邸のほうで用意した食材や滋養のある品を届ける。今日はちょうど土曜日だった。

京介も明らかにそのことに気づいた。だが皐月の気持ちを気遣ってか、隣にいる皐月の肩をさらに強く抱いた。

「見られたらどうだっていうんだ。皐月は今、俺の子を身ごもっている。皐月に我慢ばかりさせるわけにはいかない。それに、俺たちのことは遅かれ早かれ祖父も知ることになる」

皐月は絶妙なタイミングで京介の袖を引き、声をさらにやわらかくした。

「京介さん、そんなきつい言い方をしないで。紗羽さんが聞いたらつらくなっちゃうよ。私は大丈夫だから。少しくらい我慢しても平気……」

そう言いながら、彼女はこっそり紗羽を観察していた。相手の顔から、苦痛や嫉妬の痕跡を少しでも見つけようとしていた。

昨日、紗羽が最後に送ってきた「秘密」に関するメッセージは、棘のように皐月の胸に刺さり、一晩中眠れなかった。

彼女が今日、京介に甘えてここへ来たのは、一つには自分の勝利を見せつけるためだった。もう一つは、その秘密がいったい何なのか探るためだった。あの件で自分が何か尻尾を出し、紗羽に弱みを握られたのではないかと確かめたかったのだ。

しかし彼女が失望したことに、紗羽の表情は相変わらず穏やかだった。皐月が話している間でさえも、その目は少しも揺れなかった。

京介は皐月の言葉を聞くと、かえってさらに高圧的になった。

「つらい?子ども一人産めない女が、事実を言われたくらいで傷ついたっていうのか?」

彼は、紗羽が終始落ち着いている様子を見て、瞳の冷たさをいっそう深めた。

「紗羽、お前の考えていることくらい、俺に分からないとでも思っているのか。お前は——」

「京介さん」

皐月が再び彼を遮った。その声には、ほどよい心配が滲んでいた。

「もう言わないで……」

京介は彼女を見下ろした瞬間、目つきがやわらいだ。彼は皐月の髪をそっと撫で、やさしい声で言った。

「皐月、お前は優しすぎるんだ。いつも人のことばかり気にして。でも覚えておけ。今の俺にとって何より大事なのは、お前だ。お前と子どもが無事で、穏やかに過ごせること。それだけが、俺の一番の望みなんだ」

そう言いながら、彼はわざと紗羽のほうへ目を向けた。

紗羽は最初から最後まで、ただ静かにそこに立っていた。冷めた目で二人の仲睦まじい様子を見ているだけだった。

京介の胸に、得体の知れない苛立ちが込み上げた。どうして彼女はこんなに平静でいられるのか。どうして、あんな見知らぬ他人を見るような目で彼を見られるのか。

彼女が自分の手の届かないところへ離れていくような感覚が、彼にはひどく不快だった。声もいっそう冷たく硬くなった。

「今日中に自分の荷物をまとめろ。この家は皐月の名義に移す。彼女と赤ちゃんへの贈り物だ。ここに居座ろうなんて考えるな」

そのとき、玄関のほうから鍵の回る音が聞こえた。

三人は一斉に入口を見た。

ドアが開き、質素な服装をした小島が保温容器を二つ提げて入ってきた。顔にはいつもの穏やかな笑みがあった。

「京介様、紗羽様、大旦那様のご指示で、栄養食をお持ちしました——」

小島の声は、そこでぴたりと途切れた。リビングにいるはずのない皐月の姿に気づき、顔に浮かべていた笑みが一瞬だけこわばった。だがすぐに何事もなかったように表情を整え、その目にわずかな探る色を残しただけだった。

京介は、小島がこんなに早く来るとは思っていなかったのだろう。顔色が少し変わったが、すぐに落ち着きを取り戻した。皐月の肩を抱く手を離しもしなかった。

「小島さん、今日はずいぶん早いな」

小島はさすがに場数を踏んでいるだけあって、何事もなかったかのように保温容器を食卓に置き、笑って言った。

「大旦那様が、最近は天候が変わりやすいからお身体に気をつけるようにとおっしゃいまして。早めに届けるよう言われたんです」

彼女の視線は皐月にしばらく留まり、それから紗羽を見て、最後に京介の顔へ戻った。

「京介様、皐月さんとは?」

皐月は緊張したように、京介の腕を掴んだ。

京介は彼女の手を軽く叩き、堂々と言った。

「皐月は今妊娠している。俺の子だ」

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