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第2話

Auteur: 橙川こがね
翌日の午前十時、インターホンが時間どおりに鳴った。

紗羽がドアを開けると、京介がきちんとプレスされたスーツ姿で立っていた。手にはファイルを持ち、表情はよそよそしい。

「離婚協議書だ。署名しろ」

彼はまっすぐリビングへ入ると、ファイルをローテーブルの上に置いた。

紗羽はドアを閉め、彼の向かいに座った。協議書には目を向けず、ただ静かに彼を見つめた。

「皐月は元気?」

彼女がここまで落ち着いているとは思っていなかったらしく、京介はわずかに眉をひそめた。

「元気だ。医者も、子どもは順調だと言っている」

少し間を置いて、彼は付け加えた。

「協議書に署名したら、まず君が出ていけ。本宅のほうにはまだ言うな。タイミングを見て、俺が処理する」

「役所には行かなくていいの?」

紗羽は目を上げて彼を見た。

「当面は必要ない」

京介はソファにもたれ、くつろいだ姿勢を取った。

「今手続きをするのは面倒だ。皐月が子どもを産んでからでいい。安心しろ、その間の生活費は今までどおり渡す。お前んちの厄介ごとも、引き続き俺が片づけてやる」

彼はそれを、さも当然のように言った。まるで彼女は感謝してしかるべきだとでも言いたげに。

紗羽は協議書を開き、一項目ずつ目を通していった。

京介は確かに気前がよかった。協議書では、彼女は都心のマンションの一室と相当額の慰謝料を受け取ることになっていた。その条件は、離婚の理由を外部に漏らさないこと、そして少なくとも一年は周防家の人々の前で表向きの夫婦関係を維持することだった。

「読み終わったなら署名しろ」

京介はペンを差し出した。

「お前が断れないことくらい、分かっている」

紗羽はペンを受け取り、署名欄のところでしばらく手を止めた。それから顔を上げ、彼を見た。

「京介、結婚したとき、あなたが私に何と言ったか覚えている?」

「何を?」

彼は少し苛立っていた。

「一生、浮気はしないって言ったの」

彼女は静かに言った。

京介は一瞬固まったが、すぐに鼻で笑った。

「紗羽、今さらそんなことを言って何になる。人は変わるんだ。お前だってそうだろ。今のお前は、文句を言って、疑って、何もかも悪いほうに勘ぐるだけだ」

紗羽は彼を見つめ、ふっと小さく笑った。

京介は、彼女がこんなふうに笑うのを初めて見た。媚びるためでも、悔しさをこらえるためでも、無理に取り繕うためでもない。その笑顔を見た瞬間、なぜか胸の奥がひやりとした。

「何がおかしい?」

彼は眉を寄せた。

「別に」

紗羽は首を横に振り、協議書にさらさらと自分の名前を書いた。

「ただ、この五年間は本当に笑い話だったんだと思っただけ」

彼女は署名を終えた協議書を押し戻した。京介は、そこに残された迷いのない筆跡を見て、さらに眉間を険しくした。

京介は、彼女が泣いて取り乱し、離婚しないでくれとすがると思っていた。少なくとも、簡単には署名できないはずだと。

だが彼女は、あまりにもあっさりと署名した。迷いの欠片もないその様子が、京介の神経を逆なでした。

京介は低い声で言った。そこには、はっきりとした警告が滲んでいた。

「お前が大人しくして、余計な騒ぎを起こさず、前みたいに面倒なことを言わなければ、本当に離婚するつもりはない。皐月が子どもを産んだら、そのときはお前にも筋は通す」

紗羽は目を伏せ、返事をしなかった。

京介は、どこか上の空な彼女を見つめ、わずかに目を眇めた。だが次の瞬間には、いつもの傲慢な表情に戻っていた。

「お前に選択肢なんてない。明石家はもうおしまいだ。お前の兄はまだ刑務所の中だ。俺以外に、誰があの厄介ごとを片づけてやれる?」

「つまり私は、あなたに頼って生きるしかないと?」

紗羽は穏やかに尋ねた。

「違うのか?」

京介は立ち上がり、彼女を見下ろした。

「紗羽、現実を見ろ。俺から離れたら、お前は何者でもない」

京介は協議書を手に取り、そのまま出ていこうとした。玄関まで来たところで、ふと彼女を振り返った。

紗羽はソファに腰を下ろしたまま、背筋を伸ばし、静かに窓の外を見つめていた。陽射しがその身に降り注ぎ、華奢でありながら、どこか頑なな横顔を浮かび上がらせていた。

なぜか、京介の胸に苛立ちが込み上げた。

京介は、彼女が涙を流してすがってくる姿に慣れていた。自分に頼り、折れてくることにも慣れていた。けれど、こんなふうに静かに距離を置く紗羽を見たことは一度もなかった。

「紗羽」

彼の声は低かった。

「俺は、今のお前みたいな顔が一番嫌いなんだよ。まるで、世の中のすべてに恨みでもあるみたいな顔をしている」

返ってきたのは、長い沈黙だけだった。

京介は冷たく鼻を鳴らし、ドアを叩きつけるように閉めて出ていった。

今回、紗羽は揺れるドアを見ることさえしなかった。

彼女はただ静かに座っていた。彼が本当に去ったことを確認してから、ようやくゆっくりと息を吐き、全身から力を抜いた。

そのとき、スマートフォンが鳴った。病院からのメッセージだった。

【明石様、現在、人工授精に適した時期に入っています。成功率は85%です。今回の人工授精をキャンセルされますか?】

紗羽はそのメッセージを見つめ、指先をかすかに震わせた。

子どもを授かるために、この五年間、彼女はあらゆる方法を試してきた。最後には、人工授精を受け入れざるを得なかった。

毎回、その過程は耐えがたいほどつらかった。そして失敗するたびに、京介の目は少しずつ冷たくなっていった。

最後の挑戦のとき、医師は遠回しに忠告した。

「明石様、正直に申し上げますと、今のお身体は頻繁に人工授精を行うのに適した状態ではありません。健康への負担が大きすぎます」

そのとき、京介は何と言ったのだったか。

「妊娠できるなら、多少の代償は当然だ」

紗羽は目を閉じ、深く息を吸った。それからスマートフォンに素早く文字を打ち込んだ。

【今後の予約はすべてキャンセルしてください。ありがとうございます。もう伺いません】

送信が完了すると、彼女は今まで感じたことのないほどの軽さを覚えた。

五年ぶりに、彼女は初めて自分のために選択した。もう誰かの期待を満たすために、自分を傷つけることはしなかった。

続いて、彼女は親友の相原寧々(あいはら ねね)に電話をかけた。

「紗羽ちゃん?どうしてこんな時間に?」

受話口から聞こえた寧々の声には、心配が滲んでいた。

「寧々ちゃん」

紗羽の声はとても落ち着いていた。

「私、離婚したの」

電話の向こうは数秒沈黙した。次の瞬間、寧々の驚いた声が響いた。

「えっ?!本当に別れたの?」

「協議書に署名した」

紗羽は言った。

「写真を送るから、見てくれる?こういう協議書って、法的効力があるのか知りたいの。彼は、今すぐ役所に行く必要はない、皐月が子どもを産んでからでいいって言ってた」

「皐月?あの若い家政婦のこと?!」

寧々の声が一気に跳ね上がった。

「やっぱりね、やっぱりあの女、ろくなことを考えていないと思っていたのよ。京介もどれだけ見る目がないの——」

「寧々ちゃん」

紗羽はそっと彼女を遮った。

「とにかく協議書を見に来て。今の私は、この結婚を完全に終わらせるにはどうすればいいのか、それだけが知りたいの」

寧々は離婚専門の弁護士として、すぐに冷静さを取り戻した。

「分かった。すぐ行く」

寧々は、思っていたよりも早くやって来た。

インターホンが鳴ったとき、紗羽は床まである窓の前に立ち、階下の庭にある一本の木を見ていた。それは、京介が彼女のために植えた木蓮だった。

五年が過ぎ、木はまっすぐに育っていた。花が咲き、そして散るたびに、彼女が期待に胸を膨らませていた頃から、心が燃え尽きるまでのすべてを見届けてきた。

「紗羽ちゃん!」

ドアが開くなり、寧々は飛び込んできて、彼女を強く抱きしめた。声は涙で詰まっていた。

「つらかったね」

紗羽はそっと抱き返した。鼻の奥が少し痛んだが、目は乾いていた。

この五年で、流せる涙はもうとっくに枯れてしまったのかもしれない。

寧々は彼女から離れ、全身を見回した。

紗羽はシンプルなオフホワイトの部屋着を着て、長い髪をゆるくまとめていた。顔色は少し青白かったが、その目は澄んでいた。以前のように無理に平静を装う目ではなく、本当に重荷を下ろしたあとの淡々とした目だった。

「協議書は?見せて」

寧々はきびきびとソファに座り、バッグから眼鏡とペンを取り出した。すっかり専門家の顔だった。

紗羽は、署名済みの協議書を彼女に渡した。

寧々は素早くページをめくっていった。読み進めるにつれて表情は険しくなり、最後まで目を通したころには、怒りを必死にこらえているようだった。

「京介って、本当に最低ね!よくもまあ、ここまで自分に都合のいいことを思いつくわね!あなたに夫婦ごっこを続けさせて、愛人が子どもを産むまで待たせる?いったいあなたを何だと思ってるの?都合のいい保険?隠れ蓑?それとも、ただで使える周防家の妻の看板?」

彼女はばしんとファイルを閉じ、怒りで胸を上下させた。

「こんな協議書、ただの紙切れよ!署名したところで、離婚届を出していない以上、法律上はまだ夫婦のままなの。あいつはできるだけ安くあなたを縛りつけて、都合のいい隠れ蓑にしようとしているだけよ。愛人とは好き放題やりながら、周防家の次男としての世間体だけは守るつもりなの。柴崎皐月が男の子を産んだら、今度はあなたを用済みみたいに切り捨てるわ。そのときになって泣いても、もう遅いのよ!」

紗羽は静かに聞いていた。寧々が怒りを吐き出し終えるのを待ってから、そっと尋ねた。

「じゃあ、今すぐ離婚訴訟を起こしたら?」

寧々はいくらか冷静になり、分析し始めた。

「もちろんできるわ。彼の不倫、それに相手が妊娠していることを理由に離婚を申し立てて、慰謝料も請求する。証拠として使えるのは、柴崎の妊婦健診の記録、あの挑発するようなメッセージ、それから彼が自分で認めた録音。録音があれば、かなり強いわ。財産分与については、たしかに婚前契約書はあるけど、結婚後の五年間で増えた彼の会社の株式の価値、それに二人で住んでいるこの家についても、夫婦共有財産として主張できる可能性がある。あなたには財産分与を求める権利があるの。明石家の債務については……」

彼女はそこで言葉を切り、紗羽を見た。

「あれはあなたのご両親の会社の債務よ。原則として、あなた個人が背負うものじゃない。京介がここ数年してきた手助けだって、実際にはビジネス上の取引や利害関係が絡んでいる部分が大きい。きちんと整理すれば、あなた個人の問題とは切り離せる可能性があるわ」

寧々は紗羽の冷えた手を握った。声をやわらげると、その響きに深い痛ましさが滲んだ。

「紗羽ちゃん、本当に決めたの?本当にもう吹っ切れた?この五年、あなたが彼のためにどれだけ苦しんできたか、私はちゃんと覚えてる。あなたは何より痛みに弱かったのに、子どもを授かるために何度も検査を受けて、注射にも耐えて……昔のあなたは、あんなに誇り高い人だった。それなのに今は、彼と彼の家族にどれだけ傷つけられてきたと思ってるの」

寧々の言葉に、紗羽の脳裏にはこの五年の出来事が次々とよみがえった。日に日に苛立ちを隠さなくなっていった京介の目。兄が収監されたときの、自分の無力さと必死の懇願。その一つひとつが、まるで昨日のことのように鮮明だった。

紗羽は寧々の手を握り返した。指先にはわずかに力が入っていたが、その声は驚くほど落ち着いていた。

「もう吹っ切れたよ、寧々ちゃん」

彼女は顔を上げ、まっすぐな目をした。

「本当に、もう吹っ切れた。前の私は、我慢して、言うことを聞いて、努力し続ければ、いつか少しは優しくしてもらえると思っていた。この結婚を守れば、彼の心も取り戻せるんじゃないかって。でも、違った。愛されていない関係は、どれだけ縋っても愛には変わらない。私が自分を押し殺して、顔色をうかがえばうかがうほど、彼は私を見下して、ただの重荷だと思うようになっただけだった」

彼女の口元には、ごく淡い自嘲が浮かんだ。

「この五年、私は京介と、もう形だけになった結婚のために、自分をすり減らしてきた。自分がどんな人間だったのかさえ、忘れかけていた。もう、あんな生き方はしたくない。あの協議書に彼が署名しようがしまいが、私は正式な手続きを進める。必要な期間が過ぎて、十分な証拠がそろったら、離婚を申し立てる。今度は、私のほうから彼を手放す」

寧々は呆然と紗羽を見つめた。彼女の中に染みついていた遠慮や諦めの色は、もう薄れていた。その奥から、紗羽本来のしなやかな強さが、静かに戻ってきているのが分かった。

寧々の目が赤くなった。けれど、それは安堵の涙だった。

「紗羽ちゃん、やっと目が覚めたのね。これでこそ、私の知っている紗羽よ!離婚したからって何だっていうの?京介から離れたら、あなたはきっと今よりずっと幸せになれる!」

紗羽はうなずいた。胸の奥に長く埋もれていた思いが、いっそうはっきりと形を取っていった。

「寧々ちゃん、私は自分を取り戻したい」

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