「お父様」実花の声が落ちた瞬間、大広間の空気が変わった。ざわめきは止み、人々の視線が一斉に実花へと向く。シャンデリアの光を受けた藍色のドレスが静かに揺れ、その中心に立つ実花を照らしていた。実篤の目が娘を見る。実花もまた、真正面から父親を見返した。逸らさない。怯まない。前世では絶対にできなかった視線の交差だった。実篤は、ほんのわずかに目を細める。彼も娘の変化に気づいていた。いや、気づかざるを得なかった。これまでの実花なら、人前で父に口を挟むことなどあり得ない。ましてや、社交界の中心で、藤宮の当主の判断を止めるなど。そして何より――今夜の実花は、立ち方が違った。ただそこに立っているだけなのに、揺らがない。誰かに縋る気配がない。かつてのような、評価を求めて傅く気配が消えていた。実篤は無意識に、実花のドレスへ視線を落とした。紺に近い深い藍色。以前の実花なら選ばなかった色だ。恒一の好みに合わせ、淡く儚げな色ばかりを纏っていた娘が、自らの意思で選んだ色。その色が、不思議なほど今の実花に似合っていた。静かで、冷たく、芯があった。「待ってください」実花の声は静かだった。だが、その一言には否定の音が明確にあった。父親の判断を正面から訂正する声音。一瞬、実篤の眉が動く。だが実花は、父の反応を気にした様子もなく続けた。「軽率な振る舞いをしたのは、恒一さ……一ノ瀬さんのほうです」その瞬間、空気が揺れた。ざわ、と会場のあちこちから息を呑む音が漏れる。驚愕。困惑。理解不能。そんな感情が、一気に広がっていく。それも当然だった。藤宮実花が一ノ瀬恒一に惚れ込んでいることは、社交界では半ば公然の事実だったのだから。恒一の後ろを追い、彼の機嫌を窺い、彼の言葉に一喜一憂していた実花。その姿を、多くの人間が見てきた。だから皆、“この婚約を最も望んでいるのは実花本人”だと思っていた。実篤もまた、そう認識していた一人だ。だからこそ、娘の口から出たその言葉に、彼の目が鋭く細められる。前提を覆されるようなことに、実篤は不機嫌さを隠せなかった。だが、実花は止まらなかった。「一ノ瀬さんに、藤宮家の者のように振る舞う権利はありません」はっきりとした声だった。曖昧さも、逃げ道もない。会場の空気が張り詰める。恒一の表情がわずかに強張った。だが実花は構わない。そのまま、続けた。「もしそれが私の
Mehr lesen