Alle Kapitel von 愛されること~夫と義妹に殺されたので、今世では悪女になります: Kapitel 21 – Kapitel 30

89 Kapitel

第21話 格の違い(3)

「お父様」実花の声が落ちた瞬間、大広間の空気が変わった。ざわめきは止み、人々の視線が一斉に実花へと向く。シャンデリアの光を受けた藍色のドレスが静かに揺れ、その中心に立つ実花を照らしていた。実篤の目が娘を見る。実花もまた、真正面から父親を見返した。逸らさない。怯まない。前世では絶対にできなかった視線の交差だった。実篤は、ほんのわずかに目を細める。彼も娘の変化に気づいていた。いや、気づかざるを得なかった。これまでの実花なら、人前で父に口を挟むことなどあり得ない。ましてや、社交界の中心で、藤宮の当主の判断を止めるなど。そして何より――今夜の実花は、立ち方が違った。ただそこに立っているだけなのに、揺らがない。誰かに縋る気配がない。かつてのような、評価を求めて傅く気配が消えていた。実篤は無意識に、実花のドレスへ視線を落とした。紺に近い深い藍色。以前の実花なら選ばなかった色だ。恒一の好みに合わせ、淡く儚げな色ばかりを纏っていた娘が、自らの意思で選んだ色。その色が、不思議なほど今の実花に似合っていた。静かで、冷たく、芯があった。「待ってください」実花の声は静かだった。だが、その一言には否定の音が明確にあった。父親の判断を正面から訂正する声音。一瞬、実篤の眉が動く。だが実花は、父の反応を気にした様子もなく続けた。「軽率な振る舞いをしたのは、恒一さ……一ノ瀬さんのほうです」その瞬間、空気が揺れた。ざわ、と会場のあちこちから息を呑む音が漏れる。驚愕。困惑。理解不能。そんな感情が、一気に広がっていく。それも当然だった。藤宮実花が一ノ瀬恒一に惚れ込んでいることは、社交界では半ば公然の事実だったのだから。恒一の後ろを追い、彼の機嫌を窺い、彼の言葉に一喜一憂していた実花。その姿を、多くの人間が見てきた。だから皆、“この婚約を最も望んでいるのは実花本人”だと思っていた。実篤もまた、そう認識していた一人だ。だからこそ、娘の口から出たその言葉に、彼の目が鋭く細められる。前提を覆されるようなことに、実篤は不機嫌さを隠せなかった。だが、実花は止まらなかった。「一ノ瀬さんに、藤宮家の者のように振る舞う権利はありません」はっきりとした声だった。曖昧さも、逃げ道もない。会場の空気が張り詰める。恒一の表情がわずかに強張った。だが実花は構わない。そのまま、続けた。「もしそれが私の
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第22話 side 藤宮実篤

【side 藤宮実篤】実篤はまだ状況を整理しきれていなかった。娘である実花の言葉が頭の中で何度も反響している。  『一ノ瀬恒一との婚約を望まない』その一言はこれまで積み上げてきた前提を根底から覆すものだった。.実花の言う通り、藤宮家の一人娘である実花の婚約者候補は複数存在していた。家格・事業規模・将来性・血縁など様々な条件を加味した上で名前が挙がっていた男たち。だが、それでも実質的には最初から一ノ瀬恒一で決まっていたと言っていい。一ノ瀬家との繋がりは藤宮にとって利益が大きいからだ。表向きは穏健な家風でありながら金融と流通の両方に深く根を張っている一ノ瀬家。そことの結び付きは藤宮にとって極めて有用だった。何よりも決定的だったのは―――実花自身が、恒一を慕っていたという事実だった。幼い頃からの交流で穏やかな関係を築いていた二人。恒一は常に礼儀正しく、藤宮家に対しても敬意を忘れない。実篤に対しても物腰は丁寧で、感情を荒げることも少ない。恒一に野心がないとは言わないが、恒一のそれは上を目指す者として好ましいレベルだった。実篤にとって実花は政略の駒であると同時に娘でもある。父親としては、娘に『幸せな結婚』を望んでいる。だからこそ、娘の幸福と藤宮の利益。その二つが両立するこの縁談を理想的なものだと思っていた。.だからこそ、今の状況が理解できない。実花が恒一を拒絶している。公の場であり、この場で冗談の言えるような娘ではない。つまりそれは事実となるのだが、それがどうしても実篤の中で噛み合わなかった。「実花」実篤の声はいつも通り落ち着いた低音だったが、その中には父親としての困惑と、藤宮家当主としての苛立ちが混ざっていることを自覚していた。「婚約者の選定は、お前の感情だけで決められることではない」言葉は冷静だったが、完全に切り捨てる声音にはならなかった。だから実篤は言葉を続けてしまった。「藤宮として、一ノ瀬家との関係を築くことは重要だ」本来ならこんな説明などしない。黙って従え―――それだけで済んだはずなのに、説くように話を続けていた。「何より、恒一君は悪い相手ではない。むしろ、これ以上ないほど穏当な相手だ」言葉を重ねながら、実篤は自分の違和感に気づく。娘に言い聞かせているつもりが、まるで自分に言い聞かせるように感じてき
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第23話 筋と違和感(1)

実花は父親を静かに観察していた。まるで感情を切り離したように相手の表情の動きだけを冷静に追っていく。視線の揺れ。わずかな口元の硬さ。娘を見る目に灯る戸惑い。そこから見えてくるものは、あまりにも明白だった。(お父様には、私はまだ変わって見えないのかしら)従順で、素直で、父親や恒一の言葉を疑いもしなかった娘。そんな実花はもう存在しない。期待されるまま微笑み、都合よく傷つく役を引き受けていた頃の自分はあの日に死んだ。冷えた感情が胸の奥に沈みかけたその瞬間。父親の目が、わずかに変わったことに実花は気づいた。(……理解、しようとしてくださっているの?)父親の目に灯る微かな理解の光。自分を理解しようとしている。認められたいということは同じでも、父親の希望する姿を認めてもらおうとするのとは違う。『自分』が認められようとしていることに実花は高揚感に似たものを感じた。変化は確実に起きている。実花は父親からそっと視線を外し、近くにいる恒一を見た。恒一と美鈴は、まるでそれが当然であるかのように並んでいた。互いの距離を空けようともせず腕を組み、美鈴は自然な顔で寄り添っている。(ちゃんと見なくては、分からないものがあるわよね)恒一はどこか勝ち誇ったような顔をしていた。実花が離れていくはずがないと信じている男の顔。美鈴も安心しきった表情で彼に寄り添っている。この二人の間に入ろうとした以前の自分の愚かさを実花は痛感した。感情を整えるように、怒りを削ぎ落とすように―――実花はゆっくりと息を吐いた。「お父様」静かな呼びかけに実篤の視線が娘へ向く。その瞬間、実花は一ノ瀬恒一へ一瞬だけ目をやり父親へ視線を戻した。逃がさないように。理解させるために。「申しわけありません。ただ、私が愚かだったのです」穏やかな声を心がける。責め立てる響きは好まれない。謝りながらも被害者であることをアピールする―――美鈴のお馴染みの手口。 一拍置いてから、実花は続ける。「確かに私は一ノ瀬さんが好きでした。一ノ瀬さんのためなら、全てを投げ出してしまうほどに」会場の空気が静かに張り詰める。まさか実花がそれを自分で認めるとは思わなかったという驚きと、やすやすと感情を吐露するなどプライドはないのかという憤りを感じる。「でも、私の片思いだったのです」わずかに空気が揺れ
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第24話 筋と違和感(2)

「恒一君、君もそうなのか?」実篤の低い声が、静まり返った会場に重く落ちた。問いかけというより確認に近い声音だった。その視線に射抜かれた瞬間、恒一の肩がわずかに震える。予想外だったのだろう。実花が感情的に泣き崩れるでもなく、美鈴を責め立てるでもなく、冷静に状況を積み上げてきたこと。その結果として実篤の目がいつものように「娘の無礼を謝罪する父親」ではなく、「藤宮家当主として事実を精査する者」へ変わったこと。恒一は返答を一瞬ためらった。ほんのわずかな沈黙だが、その間こそが動揺を証明してしまっていた。すかさず実花が静かに割って入る。「お父様が、そうやって威圧的に振る舞うからですわ」声にははっきりと怒気を滲ませる。ここで実花が恒一を「悪い」にしてはいけない。「悪い」は父親自身が気づくか、恒一が自ら認めなければいけない。だからここでは恒一を庇うような言葉をかける。「一ノ瀬さんもご実家のことを考えれば、お父様の機嫌を損なうわけにはいかなかったのでしょう」実花はゆっくりと言葉を重ねる。「ですから一ノ瀬さんはこのような形でしか意思表示ができなかったのです」実花の言葉に実篤が眉を寄せる。「……どういうことだ?」本当に理解していないのだ。実花はその事実に呆れた気持ちを抱えつつ、以前の自分も気づかなかったのだから仕方がないとその評価を甘くした。「お父様。残念ながら、今の私たちは、一ノ瀬さんにとって“悪役”なのですわ」「悪役……だと?」実篤が低く繰り返す。その言葉自体が信じられない、という顔だった。実花はそこで初めて、少しだけ悲しげに微笑んでみせた。傷ついた娘の顔を作る。父親の耳にきちんと届くように。「どうしてお分かりにならないのです?」静かな声で、その穏やかさで胸を刺すように訴える。「私たちが婚約を強く望むからこそ、一ノ瀬さんはこうして抗議していらっしゃるのですよ」「……抗議」実篤が呟く。「そうでなければ、説明がつきませんわ」実花はゆっくりと恒一を見る。「婚約者である私ではなく、美鈴さんを伴って現れたこと。しかも、これほど人目のある場で、隠す様子すらなく寄り添っていること」それはつまり“恒一が誰を寵愛しているか”を示しているに等しい。言葉で否定したところで、態度はもっと雄弁だ。「一ノ瀬さんは美鈴さんのほうが大切だと
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第25話 美談の裏側

静まりかけた空気の中で東国光也の声だけが静かに落ちていく。それは低く抑揚の少ない声だった。感情を煽るでもなく、誰かを責め立てるでもない。ただ事実を並べているだけの声音。だからこそ、その一言一言は妙に重かった。感情論ではない。断罪でもない。冷静な視点から切り取られた“現実”だけが、その場に突きつけられていく。.「君については、もう少し補足が必要だろうな」東国光也の視線が美鈴へ向けられる。その瞬間、周囲の空気がわずかに揺れた。誰もが察したのだ。彼はただ横から口を挟んだのではない。この場を見たうえで、意図的に言葉を落としているのだと。美鈴の笑みが、ほんのわずかに強張る。だが東国光也は気づかないふりをしたまま淡々と続けた。「一ノ瀬家には過去、屋敷で火事があった」その一言だけで場の空気が静かに変わる。軽い話ではないと誰もが察した。美鈴の指先がぴくりと動く。ほんの一瞬だけ浮かんだ緊張を、実花は見逃さなかった。だが東国光也は構わない。相手の感情など考慮していないかのように、事実だけを続ける。「そのとき、屋敷に取り残されていたのが一ノ瀬恒一だ」今度は視線が恒一へ向く。恒一の表情がわずかに強張る。「救出したのは使用人だった女性。それが一ノ瀬美鈴の母親で、彼女はその火事で命を落としている」静かな説明だが、その内容は重かった。会場の空気がさらに沈んでいく。華やかなパーティー会場だったはずなのに、いまは誰一人として軽々しく口を開けない。「その経緯により、一ノ瀬家は恩義として美鈴を養女に迎えた」東国光也はそこで一度言葉を切る。間が落ちる。誰も急かさない。急かせない。彼の言葉には、自然と周囲を黙らせる力があった。「確かに彼女は一ノ瀬恒一の義妹なのではあろう」淡々とした声が続く。「だが、養女として迎えられた時点で二人は共に十代半ば。その年頃の男女に兄妹の情が芽生えないとは言わないが……」一瞬だけ視線が二人をなぞる。「……果たして、この二人の場合はどうなのか」その言葉に会場の空気がわずかに揺れた。誰も口には出さない。だが今この場にいる人間たちの頭の中には、同じ疑問が浮かんでいる。東国光也はそこで小さく言葉を訂正する。「いや……違うな」ゆっくりと視線を巡らせた。「この二人の場合、“どう見えるか”だ」その
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第26話 「嬉しい」

  『義妹という肩書きは、万能の免罪符ではない―――よく覚えておけ』その声も淡々としていたけれど、ただ静かに、容赦なく事実だけを切り分けた言葉が実花の胸に響く。ぎゅっと締めつけられた胸を押さえる。義妹や家族という言葉で、これまでどれほど自分は押し黙らされてきただろう。不安を口にすれば「考えすぎだ」と笑われた。傷ついたと言えば「嫉妬深い」と呆れられた。苦しいと訴えれば「未熟だ」と諭された。恒一も、美鈴も、周囲の人間たちも、誰も彼もが当然みたいに「実花のほうがおかしい」と扱った。 だから実花は自分を疑うしかなかった。嫌だと思う自分が悪いのだ。息苦しいと感じる自分が幼いのだ。心が狭い―――そう思い込もうとしてきた。(本当はずっと苦しかった)恒一が美鈴を優先するたび、二人だけの空気を作るたび、嫌だと思っていた。悪者になることが嫌で、飲み込んだ自分が嫌だった。でも、東国光也は実花の“不安”を、あっていい感情として扱った。笑わなかった。否定しなかった。我慢しろとも言わなかった。そのことが、実花には衝撃だった。(ああ……)初めて自分の感情が踏みにじられなかった。自分でさえ踏みにじってきた感情を、東国光也は認めてくれた。その事実に実花の胸の奥が熱くなる。おかしいと感じる感覚は、誰かに否定されるものではない。正しいとか間違っているとか、そんな理屈で押し潰していいものでもない。『嫌だ』と思う気持ちは尊重されるべきだったのだ。自分自身にも。(もっと私の心を大切にするべきだった……)そう思った瞬間、目覚めてからずっと張り詰めていた糸がふっと緩んだ。実花の目にじわりと涙が滲む。今まで必死に押さえ込んでいたものが、堰を切ったみたいに溢れそうになる。泣いてはいけない、こんな場所で取り乱してはいけない――― 頭では分かっているのに心が追いつかない。涙腺が熱くて、喉が詰まる。揺らぐ視界の向こうで、東国光也がこちらを見たのが分かった。(……え?)実花は思わず目を見開く。東国光也の表情が、切れ長の目をわずかに見開く、驚いたみたいな無防備な反応が意外だった。 先ほどまで恒一たちを冷酷なほど論理的に追い詰めていた男と同じ人物とは思えない。前世も、東国光也は感情を見せない、何を考えているのか分からない人だと思っていた。(……戸惑って
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第27話 強制退場

「ひえっ」間の抜けた声が反射みたいに飛び出した。驚きすぎて取り繕う余裕など一切なかった。ぐらりと傾いた視界に混乱したまま、実花は咄嗟に何かへ縋ろうとして伸ばした手が触れたのは、硬くてしっかりした感触だった。男性特有のがっしりした身体。実花の思考が完全に止まる。(え、え、えっ……!?)抱き上げられていると理解した途端、頭の中が真っ白になった。東国光也の腕の中だということだけは分かるけれど状況の理解が追いつかない。(お姫様抱っこ……ではない)横抱きではなく、まるで荷物でも運ぶみたいに縦に抱え上げられている。女性として特別小柄ではない実花を東国光也は信じられないほど軽々と抱えていた。支える腕は骨ばって太く、服越しでも分かるほど力強い。 男の身体だと実花は嫌でも意識させられる。(近いっ……! 近すぎる……!)自分の身体が押しつけられているのは東国光也の胸元で、服越しでも分かる硬さ。呼吸に合わせて僅かに動く胸。 自分とはまるで違う体格。 その全部が実花の羞恥心を容赦なく刺激してくる。息が苦しい。心臓がうるさい。耳の奥でどくどくと音を立てている。前世の実花は恒一と身体の関係を持ったけれど、こんなふうに“男”を強く意識したことなどなかった。実花へ触れるときはどこか義務的で、熱を感じたことがない。いまでは恒一の性の対象が美鈴だからだと分かる。父親に抱き締められた記憶も、守るみたいに包まれた記憶もない。だから実花はこんな距離感を知らない。男の人に抱えられるということが恥ずかしくて、どうしようもなく落ち着かないと感じるのに、どうしてなのか安心するものだなんて知らなかった。(ど、どうしよう……!)東国光也は、そんな実花の動揺など一切気に留めていないようだった。足取りは一定で迷いがなく、抱えた重さなど感じていないみたいに淡々と歩いていく。その余裕が実花を余計に恥ずかしくさせた。自分だけが勝手に意識しているみたいで顔が熱くなる。(いっそのこと、気を失ってしまいたい……!)本気でそう思った。だが、こんな状況でも実花の頭の片隅は妙に冷静だった。(……とりあえず、黙ってじっとしていよう)そう結論づけた自分を、実花はどこか他人事みたいに「偉い」と思ってしまっていた。◇◇◇ひやりとした空気が肌を撫で、実花は自分が外へ出たのだと知る。
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第28話 囲い込む腕

  『断る』東国光也の返答は、あまりにも迷いがなかった。一切の逡巡もなく、まるで“降ろす”という選択肢自体が最初から存在していないみたいな口調だった。実花は一瞬、言葉を失う。(え……?)降ろしてほしいなど、ごく当然の願いのはずだった。男に抱え上げられたまま運ばれているなど、どう考えても異常事態だ。しかも相手は東国光也。こんな状態を誰かに見られたら最後、噂になる未来しか見えない。それなのに返ってきたのは拒絶。しかも少しも悩んだ気配のない拒絶だった。「な、なぜですか……?」恐る恐る問い返すと、東国光也は歩調を乱さないまま淡々と答える。「今のお前を、人目に晒したくない」低い声に感情は薄い。しかし、その言葉だけが妙に耳へ残って実花は思わず息を呑む。(……人目に、晒したくない?)その言い方はまるで……自分を隠して守っているみたいではないか。「だ、大丈夫です。夜なので見えません」慌てて言い返すけれど。「分かる。泣いたのも、目が腫れてるのも分かる」「っ……」一気に羞恥が込み上げた。ジャケットを被せられているのに、そんなことまで見抜かれている。泣いた顔をしていることが妙に恥ずかしくて、実花は思わずジャケットの下で俯いた。けれど問題はそこではない。「で、ですが……このまま抱えられているほうが、ずっと目立つのでは……」男に抱き上げられて運ばれる女性、しかも頭から男物のジャケットを被せられている。どう見ても普通ではない、むしろ怪しい。「だから見せないようにしてるだろう」あまりにも当然みたいに返され、実花は一瞬だけ納得しかけた。いや、違う。そういう話ではない。「お前、今かなり無防備だぞ」「む、無防備……?」「泣いていて危なっかしい。動揺も顔に出ている」淡々と分析され、実花はぐうの音も出なくなる。「そういうときの女は、だいたい面倒な連中に絡まれる。だから運んでいる」当然みたいに言われて実花は完全に黙った。何を言っても無駄だと本能が察する。東国光也は理屈で動いているようでいて、一度“こうする”と決めたら絶対に曲げないのかもしれない。 それが分かる口調だった。(……困るのよ)強引で、横暴で、人の話を聞かない―――なのに不快ではない。むしろ、 自分が少し安心していることに実花は気づいてしまった。(この人……)自
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第29話 気を抜ける相手

黙って運ばれるままでいると、耳に届いていた東国光也の足音が途中から変わったことに実花は気づいた。先ほどまでの硬い石畳を踏む音ではなく、細かなものを踏みしめるような乾いた音。靴底が砂利を踏む音だと理解した瞬間、実花はぼんやりと自分たちのいる場所を思い浮かべた。(駐車場……?)頭の中にホテルの構造を描く。バンケットルームから庭園を抜け、その先へ進めば招待客用の駐車場があるはずだ。今夜は貸切とはいえ、全員が正面玄関へ車を回せるわけではない。東国光也もそこへ車を停めているのだろう。つまり今、自分は彼の車へ向かって運ばれている。その事実を改めて認識した瞬間、実花の胸が妙にざわついた。男性の車。二人きり。しかも抱き上げられたまま。冷静に並べればかなり危うい状況のはずなのに、不思議と恐怖はなかった。むしろ困るくらい安心してしまっている自分がいて、実花はジャケットの下でそっと唇を噛む。(どうして怖くないの……)東国光也は強引だ。人の話も聞かない。降ろしてほしいと頼んでも即座に却下するし、気遣いの言葉だって決して優しくはない。それなのに、乱暴さだけは一切感じない。抱え上げる腕は安定していて、歩幅も実花が揺れないよう一定だ。腕に込められている力は強いのに、苦しくない。まるで壊れ物でも扱うみたいな慎重さだった。その“気遣いが”が、実花には未知だった。前世で夫からも感じたことはないし、「他人に見せたくない」などという独占欲を向けられたこと自体が前世含めて人生で一度もなかった。だからこそ分からない、東国光也はなぜこうも自分に構うのか。前世にも、今世のこれまでにも、思い当たる縁はない。(きっとこの人はこういう性格なのよ、ほら、女子どもには優しいみたいな)実花が知っているのはあくまでも社交界や経済界の噂。そこに女子どもはいない。だから面倒見がよくて放っておけない性質だと知られていなかった。実花はそう結論付けた。そう考えたほうが自然だから。自分なんかを特別扱いする理由など、どこにもないのだから。そんなことを考えているうちに、ぴたりと東国光也の足が止まった。(……え?)どうしたのだろうと実花が首を傾げた、その時だった。  ピコーン! 場違いなほど軽快な電子音が響く。(……ゲーム?)妙な賑やかさのある音は、夜の静けさの中ではやけに存在感があった。そし
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第30話 side 瀬名航

【side 瀬名航】「そんなことより扉を開けろ」目の前の“どう見ても誘拐現場”な状況を、東国光也は「そんなこと」の一言で片づけた。瀬名航は口をぱくぱくと開閉させる。言いたいことは山ほどあった。むしろ言わなければならないことしかない。―――だが、彼はそれを全部飲み込んだ。航は光也ほど有名人ではないが、知る人ぞ知る存在である。光也の幼馴染であり、唯一の親友。幼い頃からずっと行動を共にし、現在は仕事面でも光也を支えている男。光也に対して遠慮なく物を言える数少ない人物でもある。―――相棒。そう呼ぶのが最も近い。.数時間前。突然「藤宮家のパーティーに行く」と言い出した光也に、航は本気で呆れ返った。藤宮家と東国家は対立しているわけではない。だが決して近しくもない。互いに無闇に干渉せず、気にはなるがあえて無視する。招待状は常に社交辞令で、暗黙の了解で参加はしない。 それが長年の両家の間にある均衡。それなのに 「藤宮家に行く」 と光也は平然と言い出した。航は頭を抱えた。止めても無駄だ。光也は昔から一度決めたら絶対に曲げない。人の忠告を聞かないという意味ではなく、聞いた上で変えない。だから航は無駄な抵抗を諦め、せめてトラブルだけは起きないでくれと祈りながら運転手役を引き受けたのである。もっとも、社交嫌いの光也はパーティー会場に長居はしない。目的の人物とだけ話して即帰還。 今回もそうだろうと思っていた。だから航は車内で気楽にソシャゲのイベント周回をしていたのである。そして、 アスファルト混じりの砂利を踏む音が聞こえて顔を上げた。街灯の逆光。長時間スマホ画面を見続けていた目。疲労した視界の中で、近づいてくる人影を辛うじて光也だと認識する。  『戻ってきた……か?』そう声をかけている途中で航の思考は固まった。体の機能も完全に停止し、スマートフォンが手から滑り落ちて地面へ落下したことにすら気づかなかった。それほど衝撃的だった。光也は腕に、頭からジャケットを被せられた女性を抱えていた。どう見ても怪しく、夜の駐車場で見るにはあまりにも犯罪臭が強すぎた。光也の返答をまとめると、「誘拐してきたわけではない」とのこと。信じなかったが、納得させられた。女性はジャケットに顔を隠されているものの動いていたから意識はあるようで、それな
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