Alle Kapitel von 愛されること~夫と義妹に殺されたので、今世では悪女になります: Kapitel 41 – Kapitel 50

89 Kapitel

第40話 深夜のカフェ(1)

「……喉が渇いた」ぽつりと落ちた光也の声に、実花は瞬きをした。先ほどまで恒一への容赦ない言葉を浴びせていた人物とは思えないほど、唐突で生活感のある一言だったからだ。「随分しゃべったな」「いや、お前が一方的に言葉で殴ってただけだから」航が呆れたように突っ込む。光也は特に否定しなかった。「口を動かしたことには変わりない」「屁理屈!」そんなやり取りをしている間に、光也は実花を抱えたまま車へ向かう。「え、あの……」実花は慌てた。「開けろ」流れが自然すぎて、誰もその状況へ突っ込まない。航ですら「はいはい」とでも言いたげな顔をして車の鍵を操作していた。高級車らしい静かな電子音が鳴り、航が後部座席のドアを開いた。そして。「っ、え?」あまりにも自然な動きで光也は実花を後部座席へ乗せる。まるで壊れ物でも扱うみたいに、片腕で支えながらシートへ下ろされた。ふかりと身体が沈む。高級車特有の柔らかいシートの感触に実花が混乱している間に、光也は反対側から後部座席へ乗り込んできた―――ドアが閉まる。前方では航が当然みたいに運転席へ座っていた。「ちょ、待っ―――」低くエンジンが唸り、車は微かに震えたあと静かに動き出す。(誘拐犯!)実花は呆然とし、浮かんだのは“未遂”と言っていた誘拐がついに実行されたという事実だった。気づけば乗せられ、気づけば実花を乗せた車は発進している。「ど、どこに行くんですか?」慌てて尋ねると、光也は当然みたいに答えた。「いつものところ」実花が「それでは分かりません」と視線で訴えると、全国展開している有名チェーンの名前を光也は口にした。実花は目を瞬く。(え……?)思わず光也を見てしまう。勝手なイメージだが、東国光也みたいな男は夜なら会員制バーとかホテルラウンジとか、そういう場所にいそうだった。少なくとも、深夜のチェーンカフェという印象ではない。そのギャップに実花は妙に戸惑った。「……意外です」「何がだ」「もっとこう……高級なお店へ行くのかと」「コーヒーを飲むだけだろう」光也は本気で不思議そうだった。「味も安定しているし、二十四時間開いている。便利だ」「お前、その顔でファミレスとか普通に入るからな」運転席から航が言う。「お前が入店するたびにあちこち大騒ぎなことに気づいていないだろ」「なぜだ」
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第41話 深夜のカフェ(2)

「そいつ、ボタンをよく取るんだ。ネクタイの扱いも雑だからよく解れる」意外だな、と実花は思った。東国光也といえば、隙のない男という印象しかない。髪一本乱れているところさえ見たことがなく、スーツも常に完璧で、呼吸をするように周囲を圧倒する人間だ。そんな男が、ボタンを取ったりネクタイをほつれさせたりするなど、妙に生活感があって想像できない。その驚きを察したように、運転席の航が苦笑した。「資料の角でよく指切るし。今朝もカップ割って、雑に破片をかき集めるから手が血だらけだし」淡々と並べられていく事実。どれも大げさに言っている様子はなく、むしろ日常会話の延長みたいな口調だった。だからこそ、実花は思わず目を瞬く。「え……」あの光也が。血だらけになるほど手を切っても平然としている姿を想像してしまい、ぞくりと妙な感覚が背筋を撫でた。怖いというより、痛みへの感覚がどこか壊れているようで、不安になる。航は諦めたようなため息をつく。「血が出ても、本人は一切気にしない。基本は放置。血が邪魔ってときだけ、どうにかしてくれって俺のところにくる」「邪魔?」「書類に血が垂れると困るって理由さ。それがなければ、血が出ても“別に”で終わる」(それはまた……)呆れるべきなのか、感心するべきなのか分からない。普通の人間なら、小さな切り傷ひとつでも顔をしかめる。絆創膏を探し、沁みる痛みに眉を寄せるものだ。けれど光也には、その“普通”が欠けているらしい。「だから俺が気を使うしかない。救急セットと裁縫セットはいつも俺のカバンに入ってる」「……お母様みたいですね」ぽろりと零れた言葉に、航が吹き出した。「あははっ、俺もそう思ってる」「航」低く響いた声に、車内の空気がわずかに震える。バックミラー越しに見えた光也の目は冷えていたが、航はまるで気にした様子もない。「なんにでも無関心。それが東国光也なのに、周りにはなぜか『冷酷』って評価されてる」(そういうこの人も、前世では『冷徹な懐刀』って言われていたのよね……)実花はちらりと航を見る。陽気に笑いながら軽快にハンドルを回している姿は、とてもそんな異名を持つ男には見えない。前世で見た彼は、もっと鋭く、もっと危うかった。光也の隣で誰より冷静に刃を振るう男だったはずなのに、いま目の前にいる彼は、どこか世話焼きな兄のよう
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第42話 月が綺麗ですね(1)

ガラス張りの扉が開いた瞬間、温かな空気と甘い香りが実花を包み込んだ。夜だというのに店内は驚くほど明るい。天井から吊るされたオレンジ色の照明が木目調の内装を柔らかく照らし、カウンターの奥ではエスプレッソマシンが規則的な音を立てている。学生らしい若者たちが笑い合い、奥の席ではスーツ姿の会社員がパソコンを開いていた。遅い時間にもかかわらず店は賑わっていて、その喧騒すらどこか心地いい。「いらっしゃいませー!」明るい声。だが、その声は途中でわずかに揺れた。レジに立っていた女性店員が、光也を見た瞬間に目を見開いたのだ。「あ……」戸惑い。驚き。そして、ほんの数秒後には、頬が目に見えて赤くなる。実花はその変化を見逃さなかった。別の店員もちらりとこちらを見て、ひそひそと何かを囁き合っている。店の空気が微妙に浮き立ったのが分かった。(ああ……こうなるのか)理解してしまう。光也はただ立っているだけで人の視線を奪う。背が高く目立つほど整った顔立ちをしている上に、纏っている空気が普通ではない。黒いシャツ越しでもその体格の良さは分かり、近寄りがたいほど鋭い雰囲気は目を離せなくなる。彼女たちが浮つくのも無理はなかった。「お一人ですか?」「三人」短い返答だが、店員が残念そうにしているのが実花には分かった。実花はなんとなく居心地が悪くなり視線を逸らす。席に案内される。店員は光也にメニューを渡そうとしたが、光也が手で実花をさしたのでメニューは実花に渡される。渋々という態度を隠さない店員に対して、なぜか苛立ちよりも申しわけなさを感じてしまった。「好きなの頼め」光也が言った。実花は反射的にバッグへ手を伸ばそうとして、止まる。今日はパーティー会場からそのまま出てきたのだ。小さなドレス用バッグすら持っておらず、つまりもちろん財布がない。「あ……」今さら気づき、実花は固まった。「どうした」「わ、私……手ぶらで……」言った瞬間、自分でも情けなくなる。まるで子どもみたいだ。だが光也は呆れた様子もなく淡々と言った。「お前に金を出させる気はない。航が支払う」「お前じゃないのか」間髪入れずに航が突っ込む。すると光也は真顔のまま答えた。「俺の財布は車の中だ」実花は思わず窓から見える光也の車を見る。そして思い出す。自分の脚を隠すために貸し
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第43話 月が綺麗ですね(2)

「取ってきたぞー」軽い声とともに航が戻ってきた。だが席へ近づいた瞬間、その足がぴたりと止まった。「……え、何この空気」航は首を傾げる。店内の賑やかな音楽も、周囲の話し声も変わっていない。なのに、このテーブルだけ妙な静けさに包まれていた。光也はいつも通り無表情。対して実花は、顔を伏せたままぴくりとも動けない。耳が熱いのも分かっている。航がそんな自分と光也を見比べていることは、何となく分かる。でも、実花にはどうしようもなかった。「あー……お前、なんか言ったな?」光也は沈黙。「何があったんです?」「えっ」突然話を振られ、実花の肩が跳ねる。「な、なんで?」「いや、長い付き合いでこいつを問い詰めても無駄なんで」航がため息を吐く。「当たり障りのないことは答えるけど、都合の悪いことは平然と黙殺するんで」航は素直に実花に首を傾げてみせた。「それで、なにが?」「はえっ!」実花の反応に航は目を細めた。実は航は『可愛い反応だな』と思っていただけだが、実花にしたら目を細めて探っているように思えた。「そ、それは……」真面目な実花は問われたのだから何かしら返さなければと言葉に迷う。正直に言うのが一番楽だが、自分の口から光也に「一目惚れ」と言われたなんて言えない。自分でさえ聞き間違えだと思っているくらいなのだ。口にした瞬間、自分がどうなるか分からない。実花は必死に取り繕う言葉を探した。「あの……その……」視線が泳ぎ、実花の指先は落ち着かなさを示すようにメニューの端を撫でている。その初々しさに、航は数秒ぽかんとしたあと。「え、何、この可愛い子」そう言った次の瞬間。「見るな」ぐしゃ……という音はし
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第44話 東国光也という男(1)

「お父様……?」突然の父親の登場に、実花は呆然と目を見開いた。店の入口に立つ父親は、明らかに様子がおかしい。いつもなら髪の乱れひとつ許さず、姿勢も隙なく整っている人だ。スーツの皺でさえ滅多に見たことがないほど、藤宮家の当主として常に完璧であることを自分に強いているでさえあった。それなのに今の父親はネクタイがわずかに曲がり、前髪も乱れ、呼吸まで荒い。どう見ても『慌てている』であり、ここまで慌てた父親を実花は見たことがなかった。「ど、どうしたのですか?」驚き過ぎて、思ったことをそのまま問いかけてしまった。だが父親は答えなかった。実花に長く止まった視線は光也に、そして航へ、そしてなぜかまた光也へと戻る。いま光也を見る父親の目には純然たる怒りと、明確な敵意が籠っている。「お前が拐わされたと聞いてな」視線は光也に向いたまま、言葉は実花に向いていた。「かどわかす!?」思わず実花は素っ頓狂な声を上げた。時代劇の悪党みたいな古風な言い回しへの驚きもさることながら、それ以上になぜ自分がそんな扱いになっているのか。(いえ、確かに私もそう思ったけれど!)だが次の言葉で一気に納得した。「恒一君が血相を変えて私のところに報告に来た。実花が東国光也に連れていかれた、とな」「ああ……」一瞬で熱が引く。なるほど、恒一なら言いそうだった。自分の言動は何一つ言わず気に入らないこと、つまり実花が自分の元に来なかったことを愚痴るように父親に報告したのだろう。(いえ、でも、客観的に見れば確かに“連れていかれた”かもしれないわ)「チクったか」ぼそり、と光也が呟く。(チクる……小学校で聞いて以来の単語……)実花は思っただけ
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第45話 東国光也という男(2)

ほどなくして店員が新しいカップを運んできた。「ブレンドです」湯気の立つコーヒーが父親の前に置かれた。深く焙煎された香りがふわりと広がったが、父親はまだ険しい表情を崩していない。実花はそんな父親の様子を気にしてしまい、横目でちらちらと視線を送ってしまった。しかし、光也はまるで気にした様子がない。無言でテーブル中央のシュガーポットを実篤のほうに押し、その自然すぎる動作に実篤がぴくりと眉を動かした。「……するべき気遣いが違うのではないか?」その低い声にはもっと他に説明や謝罪があるだろう、という意味が滲んでいるように実花には感じた。しかし光也は意に介した様子もない。「コーヒーには砂糖を入れていたと記憶していますが?」そうなのかと実花が驚いて父親を見ると、父親は眉間にしわを寄せて光也を見ていた。「なぜ知っている?」(“知っている”ということは事実なのだわ)「一度見たものは記憶してしまう性質で」「なるほど。それでは先ほど来たパトカーのナンバーは?」「三九二三」あっさりとそれを答えた光也に感心した。「私はそんなもの覚えてはいない。合っているかと問われても困る」(……自分で聞いておきながら……)何て言い草だと内心呆れる実花の前で父親は何ごともなかったかのようにシュガーポットを引き寄せて、大盛り一杯の砂糖をカップに入れた。(……糖尿病にならなければいいけれど)「糖尿病になりますよ?」「君には関係ない」「私にはそうかもしれませんが、彼女が心配しています」光也が実花を見ると、つられて父親も実花を見た。あまりにも唐突だったので実花は表情を作ることを忘れた。「……こんなに入れるのは疲れたときだけだ」(もしかして……言い訳、みたいなもの? いつもじゃないから、糖尿病にはならない……というような)なんとなくだが優しさは感じた。しかし同時に『いま疲れている』と言われたようで気まずくなる。「あ、あの……パーティーは、その……どうなったのですか?」沈黙が気まずかった。何か話題と振らないとと思って口に出したが、言ってから『しまった』と思った。主役である自分が途中退場しておきながら聞くことではない。しかも行方不明という事態を作り出して、主催者である父親まで会場から退場してしまっている。「あ、あの……」実花は慌て、そんな実
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第46話 東国光也という男(3)

「私は口数は多いほうではありませんが、必要なことは口に出すようにしています」唐突に放たれた光也の言葉にテーブルの空気が一瞬止まる。実花の隣に座っていた父親が眉をひそめた。「今夜は随分と饒舌に思えるが?」嫌味混じりの声音だったが、実花も思わず心の中で同意していた。前世では必要最低限しか話さず、その無表情と冷徹な判断力から『冷酷』と恐れられた男。そんな光也を知る実花からすれば今夜の彼は異常だった。視線を光也の隣に座る航に移せば、航は父親の言葉に同意するように首を縦に振っていた。「痛っ!」その航の動作が鬱陶しかったのか光也は航の頭を片手でボールのように掴み、指が食い込んでいるのか航は痛みを訴えた。「今夜は特別です」航の訴えを完璧に無視して光也は淡々と言った。―――特別。それは意味深な言葉だと実花は思うが、その割に光也本人は驚くほど平然としている。実花の隣で父親ますます訝しそうな顔になった。「何が特別なんだ?」「お嬢さんをください」「……………………はあ?」父の間の抜けた声が響いた。実花も固まる。数秒遅れて言葉の意味を理解した父親が勢いよく椅子から身を乗り出した。「何を言っている!」光也は首を傾げる、本気で何がおかしいのか分からないという風に。「結婚したい相手の父親に言う、ごく一般的な台詞では?」「君が一般論を語るとは違和感……いや、そうではない」父親は頭を抱えた。「なぜそうなる?」すると光也の眉間にしわが寄る。珍しく悩んでいる顔だった。「やはり間違いか」「……今度は何だ」「婚約を願い出るのが先だということは分かった。だが、なんと言えばいい?」「……それは問い掛けか? それとも独り言か?」父親の言葉を完全に無視する形で、光也は真剣な顔で考え込む。そして―――。「婚約者にしてくれ?」その言葉は父親ではなく実花に向けて、真正面から放たれた。逃げ場のない距離だった。実花の思考が停止する。婚約者にしてくれと、実際には末尾に疑問符がついている疑問形だったが、言われたということとどこか変わりはない。光也なりに考えた末の言葉なのだろう。何かが間違っている気がするが、その何かをはっきりできない。何か言わなければと思うのに、声が出ない。顔が熱い。胸がうるさい。父親の存在すら忘れそうになったところだったが
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第47話 東国光也という男(4)

実花には意外な答えだったが、父親は鼻を鳴らして「分かるとも」と言った。父親の表情が変わったと実花は思った。戦闘態勢のようだった顔から、見慣れない、どこか誇らしげなものへと変わる。「実花のようないい子はいない、頭はいいし、運動はできるし、そうだな、君が言うことを肯定するのは至極嫌だが実花はとても努力家だ」(なんか語り始めた)もしかして酔っているのかと、実花は驚きで目を瞬いた。父がこのように自分の話をするなど初めてであり、珍しいを通りこしておかしいと思った。よく見れば目元が紅い気がした。(……酔ってる?)「実花は小さい頃から我慢強く、幼いうちに母を亡くしたというのに俺を困らせることは一切なかった」父親は遠い目をした。「寂しい思いをさせたと思うが……俺も忙しくて構う暇などなかった。全く、それに比べていまどきの者は働き方改革だとなんだのと……軟弱な! 俺など週休一日あるかどうかだ、今もな!」実花は息を呑む、いろいろな意味で。航が「溜まっているな」と呟いたので、働くとは大変だと思った。「分かります。私も週に一日休めればいいほう、連続五十連勤のときにはこいつを殺して俺も死のうかと思った」「俺!?」流れ弾に被弾したように航が驚いた声を出した。「家にろくに帰れず、気づけば娘は十八歳……時間の流れは早いものだ」父親を実花は見ていた。父親が実花を見ることはない、一人の世界に没入しているようだった。「友立ちの悩みにまるで自分のことのように悩む優しい子だ。それなのに自分が傷つくことには驚くほど鈍感らしい」父親は苦笑した。「まさか婚約が嫌だというとは思わなかった。実花なら……たとえ嫌だと思っても周りへの迷惑を考えて飲み込んだだろう」父親は深くため息を吐く。「そういう娘を俺が理想としたせいもあるのだろう」「努力家なことも災いしたのでしょう」(……どういうこと?)努力するのはいいことだと思っていた実花は、光也の言葉と、それに頷く父親の姿に首を傾げた。「頑張れば変わる……それを一ノ瀬恒一に期待するのは、いささか無謀だと思うが」「仕方がない、初恋の相手と言うのはそれほど輝くのだろう」「……どちらにせよ、彼女が目を覚まして良かったのでしょう」「そうだな。どんな愚行も言い訳は聞くが、浮気の言い訳だけは聞く気にならない。浮気などする男はくそっ
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第48話 一ノ瀬家の人々(1)

一ノ瀬家の応接間には重苦しい空気が漂っていた。誰もが口を開かない。三人揃って夜会仕様の華やかな装いのまま。それが沈黙を際立てる。「どういうことだ……話がなくなった、だと?」一ノ瀬家の当主、一ノ瀬恒彦は息子の恒一を詰問した。本来なら今頃は祝杯を挙げている予定だった。息子の恒一が藤宮家の一人娘である実花の婚約者と発表されたはず。その発表は事実上『藤宮家の次期当主』のお披露目であったはず。その両親として華々しく登場するため、仕事を理由に遅れて会場入りした。そこで恒彦に向けられたのは嘲笑の目。同情など見当たらないほどで、歓迎も称賛も一切なかった。何があったのかと息子を探した。しかし見当たらない。近寄ってきた自称「親切な人」が実花が恒一との婚約を拒絶したこと、その「原因」となった養女の美鈴は泣きながら退場したこと。にやにや笑いながらその状況を描写する男の顔に一発お見舞いしてやりたかったが、この男ぐらいしか説明してくれそうにないので恒彦は我慢していた。恒一はどうしたのかと聞けば目の前の男は恒一も退場したと、ただどこからか「女の尻を追いかけていった」という追い打ちがきた。どちらの尻を追いかけたのかと揶揄された。その屈辱を堪えられたのは、恒一が追いかけたのは実花であり、恒一ならば実花をこの場に連れてきて「やはり一ノ瀬恒一と婚約する」と実花に言わせられると信じていたからだった。―――藤宮実花が東国光也に連れていかれた。待ちに待った息子の第一声はそれだった。東国光也。有無を言わさぬ絶対的な雰囲気でそこに在りながら、全てに無関心とでもいうように眉一つ動かさない冷酷な男。常にその動きに注目されている男の、「藤宮実花を!?」という超ド級のニュースは会場を瞬く間に沸かせた。恒彦を唯一相手していた男も、それを聞いた途端に恒彦を無視して情報を集めに向かった。誰も一ノ瀬恒一に気を向けていなかった。その家族などなおさらである。◇◇◇「どうするつもりだ」困惑と苛立ちが滲んだ父親の言葉に恒一は苛立ったが、それよりもまだ信じられない気持ちでいた。藤宮実花が自分との婚約を断った。意味が分からない。どう考えてもあり得ない話だった。「何かの間違いではないの?」母親が震える声で言った。「あの実花さんよ?」同じ感想を抱く母親の言葉
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第49話 一ノ瀬家の人々(2)

「そうよ、とんだ恥をかいたわ!」今度は母親、一ノ瀬芳江が声を荒げた。「私の立場も考えてくれないと!」芳江は一ノ瀬家で代々家令を務める男の娘で元は一ノ瀬家の使用人だった。芳江の美貌に惹かれた一ノ瀬家の嫡男である恒彦が口説く形で、二人は男女の関係になり芳江は子を孕んだ。一ノ瀬家の先代当主夫妻は人徳家で善良な人柄だったため、妊娠させたなら責任をとるように息子を聡し、芳江を一ノ瀬家の嫁として迎えた。その後、恒彦は一ノ瀬産業の女性社員の由香利と不倫をして彼女との間に第二子の由彦を設けた。異母兄弟の恒一と由彦は年子、芳江の妊娠させながら恒彦は由香利とも関係をもっていたことになる。このことについて恒彦の両親である義父母は芳江に詫びたが、恒彦の不倫は二人が彼を叱ったせいだと芳江は思い義父母を恨んでいた。恒一は嫡子で長男であるが、勉強も運動も由彦のほうが上だった。そのため恒一は「所詮は使用人の息子」と言われたが、その立場ががらりと変わった―――藤宮実花が恒一に惚れ込んだからだ。恒一の容姿は芳江によく似ており、芳江の立場は一ノ瀬家だけでなく社交界でも一気に上位にきた。最近では有力者の茶会でも幅を利かせることができ、芳江の指示で貴婦人たちは動き由香利を爪弾きにしていた。未来の藤宮家当主の母。その肩書きは絶大だった。増えた招待状を芳江は由香利に自慢し、席順が変わり上座から見る風景を芳江は心から楽しんでいた。◇◇◇「皆に話してしまったのよ!」母親の叫び声に恒一は眉をひそめた。「今夜正式に発表されるって!」「落ち着いてください」「落ち着けるわけないでしょう!?」ヒステリックな声が部屋に響いた。「私がどれだけ苦労してきたと思っているの!?」母親は涙まで浮かべていたが、恒一は白けるだけだった。母親の口から出てくるのは自分のことだけ。(父も母も自分のことしか考えていない)恒一はそれを嘆くが、もっともそれは恒一も同じだった。恒一にとって実花の気持ちなどどうでもいい。考える余地もない。実花は自分に惚れていた。それが全てで、実花の我侭で自分が恥をかかされたということが問題だった。腹立たしい。非常に腹立たしい。なぜ自分があんな恥をかかなければいけない。なぜ両親からこんなにうるさく言われなけれ
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