Alle Kapitel von 愛されること~夫と義妹に殺されたので、今世では悪女になります: Kapitel 31 – Kapitel 40

89 Kapitel

第31話 トラウマ

  『ここでおっぱじめるなよ?』その言葉が耳へ飛び込んできた瞬間だった。実花は、はっと我に返る。まるで頭から冷水を浴びせられたようだった。ぼんやり熱を帯びていた思考が、一気に現実へ引き戻される。泣いた顔を隠された。慰められた。優しくされた。そこまでは理解していた。けれど、改めて状況を整理すると―――おかしい。いや、おかしいどころではない。ジャケットを被せられて、抱き上げられて運ばれたまではいい。でも、誰もいない駐車場に停まる高級車へ直行。それも男に抱え上げられたまま。どこをどう切り取っても、どう見ても、完全に“お持ち帰り”だった。「……っ!?」実花の顔が一気に熱くなる。羞恥と混乱で、心臓が爆発しそうだった。その隣で「……あの馬鹿」と東国光也が呆れたように呟いていたが、実花の耳にはほとんど入っていなかった。それどころではない。何をしているの、自分は。なぜ大人しく運ばれていた。なぜ途中で止めなかった。いや、気づいていた。駐車場へ向かっていることも、車に乗せられようとしていることも、薄々分かっていたのに。強引な男だと思いながら、どこかで「この人なら危険なことはしない」と安心してしまっていた。その事実が実花にはひどく恥ずかしかった。(ち、違うのよ!?)誰に向けた弁解なのかも分からないまま頭の中がぐちゃぐちゃになる。前世の記憶が不意に脳裏を掠めた。恒一から漂う嗅ぎなれた女物の香水の匂い、シャツについた見覚えのある赤い口紅。美鈴の痕跡を咎めれば嫉妬と思われ、仕方なさを隠さない態度の恒一に抱かれた。愛情のない触れ方、義務みたいに向けられた体温。それを思い出した瞬間、実花の背筋にぞわりと嫌悪感が走った。男と女。そういう空気。そういう関係。全てがそうではないと分かっていても、実花にとってそれは甘いものではなかった。むしろどこか気持ち悪くて、積極的になれない実花に恒一は嫌気がさし、恒一が実花を求めることはなくなった。(いえ、元からあったのかも分からない)愛がなくても、心がなくても性行為はできる。前世の十八歳の実花はそれを知らなかったが、今の実花は知っている。今の実花にとって男女の関係はもう純粋なものではない。夢みるようなことでもない。「あ……」今の状況が急激に恐ろしくなった。もし、このまま流されていたら。
Mehr lesen

第32話 腹式呼吸

  『藤宮実花!?』男の叫び声のほうが早かった。その勢いに押され、実花は逆に何も言えなくなる。(それにしても……)驚いた顔というものは、普通もっと取り繕うものではないのだろうか。だが目の前の男―――航はそんな体裁を整える余裕など一切ないという顔をしていた。目を見開き、口を半開きにし、信じられないものを目撃した人間そのものの表情で固まっている。その視線の先が自分だという事実に実花はじわじわ居たたまれなくなった。今の自分は泣いたあとで、髪も乱れ、ドレスまで裂けている。人生最悪レベルで人に見られたくない状態だった。(うぅ……)消えてしまいたい。できれば地面に埋まりたい。そんな実花の心情など知る由もなく、事態は止まらなかった。.航は数秒ほど完全停止したあと、次の瞬間には勢いよく反対側の扉を開けていた。そして。「お前ぇぇぇ!!」東国光也の腕を掴み、そのまま乱暴に引きずり出した。「……」実花は呆然とする。あの東国光也をこんな雑に扱う人間が存在するのかという驚きで頭がいっぱいだった。会場で見た東国光也は圧倒的だった。誰も逆らえないような空気を纏い、ただ立っているだけで周囲を支配していた。言葉一つで場の空気を変えて、恒一たちを一方的に追い詰めていた男。(その東国光也を……)「お前」と呼び、腕を引っ掴み、力づくで車外へ引きずり出している。一切の遠慮がない。扱いが雑すぎる。実花がぽかんとしていると―――。  バシィン!!小気味いい音が駐車場へ響いた。(引っぱたいた……!)実花の目がさらに見開かれる。かなり本気の音だった。躊躇も遠慮もない見事な平手打ちだった。だが、叩かれた光也は頭を押さえ「痛い」と普通に言っている。その様子があまりにも自然で、まるで叱られ慣れているようで、実花の理解が追いつかない。「なんて子に手を出そうとしてんだ、お前!」「出していない」「俺が止めたからな!」「そうではない」真顔で否定する光也と全力でツッコむ航、テンポが良すぎる。二人とも妙に慣れていた。長年繰り返されたやり取りなのだろう、そう思わせる空気がある。「お前、俺に感謝しろよ。この子には婚約者がいるんだぞ!」「いない」「だから、今夜……は?」ぴたりと航の動きが止まる。数秒遅れて自分の発言を処理したのか、航の顔
Mehr lesen

第33話 一ノ瀬恒一という男(1)

恒一の声を聞いた瞬間、実花の肩がびくりと震えた。つい先ほどまで航の軽口と光也の無愛想な返答が混ざり合っていた温かな空気は、まるで冬の水を浴びせられたみたいに一瞬で冷え切った。「笑い声が聞こえたぞ。大きな声で笑うな、みっともない」吐き捨てるような声音は昔からよく知っている声だった。責めるための声。実花の胸の奥が強張ったが、不思議なことに実花は自分が次第に落ち着いていくのを感じていた。怖かったのは恒一そのものよりも、“突然現れた”という事象に対してだったのだと気づく。前に出て庇おうとしてくれたのだろうか。動きだそうとした光也と航に、実花は感謝の気持ちをのせた目で制した。自分が対処しなければいけないと強く思った。(恒一さんのことだから、私が婚約を受け入れないのは美鈴への嫉妬とでも思っているのだわ)大丈夫と実花は自分に言い聞かせる。かつてはあれほど怯えていた『みっともない』という言葉は、いまの実花に刺さることはなかった。以前の実花ならそれを聞いただけで呼吸が浅くなった。恥ずかしくて、情けなくて、嫌われたのだと思って必死に取り繕っただろう。しかし今の実花の胸に浮かんだのは冷めた理解だった。(本当にこの人は私のことを見ていなかったのね)何があったのか。何が可笑しかったのか。そんなことに恒一は一切興味がない。ただ自分が不快に感じたから「みっともない」と切り捨てている。そこに実花の感情を理解しようとする意思は存在していない。.駐車場へ入ってきた恒一は苛立った顔をしていた。美鈴は一緒ではなく一人だった。荒々しい足取りで足早に近づきながら、地面へ座り込んでいる実花を見下ろす。「何をしている?」低い声は問いかけの形をしているのに、そこに心配は欠片もない。聞いておきながら興味もない―――なぜなら。「そんなところに座り込んでいないで早く立て」恒一が実花に向ける言葉は常に命令。確認は形だけの存在でしかない。今回もただ彼の思う正しい状態になれと、しっかりと立てと実花に命令しているだけ。(……状況が見えていないの?)実花は内心呆れていた。駐車場は暗いが、それにしたって周囲を見なさすぎだった。恒一の視線は実花にしか向いていない。いや、正確には“実花がここにいる”という事象だけしか見えていない。誰といるのか。この場が
Mehr lesen

第33話 一ノ瀬恒一という男(2)

「美鈴が泣いてる」恒一が責めるように言った。その言葉に、実花の脳裏にぶわりと過去が浮かび上がる。何か気に入らないことがあるたびに美鈴は泣いた。すると恒一はまるで条件反射みたいに実花を責めたて、そして謝らせた。「美鈴に謝れ」それは前世でも何度聞いたか分からない言葉。本当に悪いのか。本当に悪いのは誰なのか。そんなことは関係ない。ただ美鈴が泣けば実花が謝る―――それが当然だった。「あ……」実花の身体が固まる。頭ではなく身体が恐怖を思い出した。呼吸すらもできなくなったのか、息苦しさを感じていた。前世の記憶が自分を飲み込もうとしてくる。.それは結婚したあとのこと。夫婦の生活に美鈴以外の目がなくなると、恒一と美鈴の求める謝罪が変わった。それまでは基本的に言葉ですみ、ときどき美鈴が欲しいものを詫びの品という形で贈るだけだった。謝罪に土下座を求められたのは初夜の翌朝だった。恒一が実花と過ごしたことで寂しくなり、それで体調を崩したと言う美鈴。そんな美鈴は謝罪として実花に土下座を求めた。初夜に結婚した夫婦が共に過ごすことは一般的にみて何らおかしなことではなく、それに謝罪を、しかも土下座という屈辱的な行為を求められることは筋違いだと実花は抗議した。しかし美鈴は泣いて恒一に強請り、実花は恒一によって床に額を擦りつけさせられた。そしてこの一件が美鈴の箍を外した。狡賢い美鈴は恒一の許容範囲を測っていたのだ。それからの謝罪の形は地獄だった。狭いパントリーへ閉じ込められて何時間も立たされた。反省しろと言われてワインセラーに連れていかれ暗闇の中で何時間も蹲っていた。  『美鈴に謝れ』その言葉はいつしか実花にとって罰の始まりを意味するものになっていた。歯がカチカチと鳴り始める。指先が冷たい。息が上手く吸えない。前世のことだと自分に言い聞かせても、コントロールを失ったかのように体が恐怖に引っ張られる。「……っ」恒一はそんな実花を見て一瞬だけ驚いた顔をした。だが次の瞬間には満足そうな笑みに変わる。「美鈴に嫉妬したんだろう?」まるで聞き分けの悪い子どもへ言い聞かせるみたいな口調には満足気な響きがあった。「でも何度も言っているよな。美鈴は俺の義妹だ。家族なんだから大事にするのは当然だろう?」疲れたような顔まで作る演技
Mehr lesen

第34話 ストレートパンチ(1)

恒一を見る光也の目は氷を削ってそのまま刃にしたみたいだった。感情がないと言われる男なのに、今の光也からは明確な敵意が滲み出ていた。怒鳴っているわけではない。声を荒げてもいない。静かなのに肌へ刺さるような冷気がこの場の空気を満たす。実花は思わず息を止めた。怯える実花を宥めるように背を叩いていた男と同一人物とは思えなかった。一方で、恒一は眉を寄せただけだった。「……まだいたのか」その言い方に実花は思わず「うわ……」と思った。空気を読めていない。実花は思っただけだったが、航は実際に「うわぁ」と呟いていた。(この人……)恒一は自分が空気を読む必要などない立場だと思っていた。光也が怒っているかどうかなど意識する必要もない。なぜなら恒一の認識では彼は『藤宮実花の婚約者』であり、実花の婿となり藤宮家の後継者となると決まっている自分は東国家の後継者候補の一人でしかない光也よりも上の存在だと思っている。実花の婚約者だから実花を叱るのは当然のこと。部外者であり下の立場である光也が口を挟めることではない。そんな傲慢さが言動ににじみ出ていた。.「東国さん」恒一はわざとらしく笑みを作る。「これは婚約している者同士のいざこざですから」部外者だと光也を排除しようとしたその瞬間、光也の目がすうっと細くなった。「婚約している?」低い声は静かな音なのに剥き出しの嘲りが混ざっていた。プライドが高い恒一は嘲笑には敏感で、恒一の顔が険しくなる。「ええ。ご存じでしょう? 藤宮と一ノ瀬の間には―――」「知っている。そういう計画があったことはな」ぴしゃりと恒一の言葉を遮るように光也は応えた。敢えて『計画』という単語を強調した言葉に恒一の口元がぴくりと引き攣る。「だが、彼女はお前との婚約を断っただろう」空気が止まった。誤解のしようもないほど事実を突きつける様子には容赦がなく、実花は思わず目を瞬いてしまった。航は慌てて口を塞いでいたが「っぶ……!」と吹き出しかけた音はしっかりこの場の空気を揺らし、恒一の顔色が変わった。「断たって……」「断った。あの状況で誤解などあるわけがない」光也は淡々としていた。「彼女は拒絶の意志をしっかり示した。かなり分かりやすい理由付きでな」言葉の一つ一つが鋭いが、わざと恒一を傷つけようとして
Mehr lesen

第35話 ストレートパンチ(2)

「婚約者を名乗るなら最低限彼女が泣いていたことくらい気づけ。犬でも飼い主の機嫌くらい察するぞ」「っ……く……」光也の言葉に応える音を立てたのは恒一ではなく航だった。彼は耐えていた。必死に笑いを堪えていた。恒一のこめかみに血管が浮いた。「東国さん、言い過ぎでは?」「お前が言われたくないことを言われただけだ。言い過ぎではない」光也は一拍おいたあと口を開いた。「俺の推察が混じれば言い過ぎになる。例えば、彼女はお前の義妹へ嫉妬しているのではなく、お前と義妹を嫌悪している……とかな」嫌悪。その言葉が明確な音になった瞬間、実花の呼吸が止まった。「嫌悪……?」「自分の婚約者が義妹と距離感を間違えている。しかも周囲がそれを当然扱いする。気持ち悪いと思って当然だ」あまりにも容赦がない。(……気持ち悪い)婉曲な表現が好まれる、特に感情に関わる面ではそれが必要と思ってきた実花なので、当事者ながら「そこまで言う!?」と思ってしまった。「それにしても」光也が冷えた目で恒一を見る。「ここまで追いかけてきて言うことが義妹に謝れとは……」言葉を切って、光也は一人で何かに納得したように頷いた。「こういう場面では『俺を捨てないでくれ』と泣き縋るものだと思っていたが実際は違うのだな。優秀を自称する男はなかなか面白い」光也の発言に航がとうとう吹き出した。「っはは……! だ、駄目だ、無理……!」腹を押さえて笑っている。「何が面白い? 優秀だと言うなら先にご主人様が泣かされないように手を打つだろう」完全に止めだった。航が大爆笑する。「犬扱い! っはははは!」笑い転げる航とは対照的に、恒一の顔は怒りと屈辱で真っ赤になっていた。「東国さん、あなたには関係ないでしょう?」光也が眉をあげて意外そうな表情をする。「ある」光也はそう答えると、実花に顔を向ける。「俺は彼女の“婚約者候補”になるつもりだからな」空気が凍った。実花の目が見開かれる。恒一も固まる。航に至っては「は?」と間抜けな声を出していた。光也だけが平然としていた。「何をそんなに驚いている?」(……え? 私?)これまで会話の中心にいながら蚊帳の外に置かれていたため、光也が自分を見ているということは理解していても会話が振られると実花は思っていなかった。「……なんだ、その反応は?
Mehr lesen

第36話 これはプロポーズ?(1)

「冗談でしょう?」恒一の声には、露骨な疑念と苛立ちが滲んでいた。まるで“あり得ない”と言外に決めつけるような口調に実花のプライドが逆撫でされたが、その言葉を向けられた当の本人―――光也はわずかに眉間へ皺を刻んだだけだった。「フラれた男がごちゃごちゃ煩い」淡々とした声だがその平坦さが逆に容赦なく感じる。「お前には関係のないことだ」「フラれてなどいない」光也の言葉を恒一は否定する。その反応に光也は微かに目を細めたあと、不意に腕の中の実花へ視線を落とした。真っ直ぐ見られて実花の心臓がどくりと跳ねる。(この人、突然こういう目をするな)感情が薄いと思った次の瞬間、射抜くみたいに見つめてくるから心臓に悪いと実花は思った。そんな実花の思いをよそに。「婚約を断られたということは、フラれたことにならないのか?」「え……?」唐突に話を振られ、実花はぱちぱちと瞬きを繰り返した。(そんなことを考えて……あれ、でも、待って)実花の感覚ではそれらは“ほぼ同じ意味”だった。だが、こうして真正面から問われると妙に言葉の定義を考えてしまう。婚約拒否と失恋、厳密には違う気もするが結果だけ見れば同じとも言える気がする。「どう……なのでしょう?」自分でも驚くほど曖昧な返答だった。その瞬間、光也の眉間の皺がさらに深くなる。不機嫌さが露わだった。「どこで悩む」「いえ……“フッた”という表現は、普通は告白への返答ではありませんか? 今回は、そういうやり取りがあったわけではないので……何を基準に数えるのか分からなくて……」実花が真面目に考え込む姿に遠くから「真面目か」と航が突っ込んでいたが、光也はわずかに目を見開いただけだった。意外そうな顔で「なるほど」と低く呟き、少しだけ考えるように黙り込む。そして次の瞬間。「それでは、君はこの男と結婚するか?」あまりにも直球だったが、直球だったため深く考える必要なく実花は反射的に答えていた。「しません」それだけは絶対にない。前世のことも濃く関係してはいるが、恋愛フィルターのない状態で恒一の醜態ともいえる様子を見てしまうと、いまの実花には恒一と未来を築くという発想そのものが存在しなかった。その答えを聞いた光也は当然みたいに頷いた。「それならフッたと思えばいい」「……そういうものなのですか?」「そういうものだ
Mehr lesen

第37話 これはプロポーズ?(2)

「本気かどうかはお前には関係ない」光也の声は低い。「なぜお前に向けて俺がプロポーズしなければならない」光也の言葉に訪れたのは沈黙。「「「プロポーズ!?」」」三人分の声が綺麗に重なった。実花、恒一、航。 混乱の種類は全員違ったが、光也の言葉に驚いていることだけは一致していた。当の光也だけが、なぜ騒がれているのか分からないという顔をしている。「……?」むしろ不思議そうですらある。その視線が下りてきて実花と目が合った。「結婚の申し込みのことをプロポーズと言うのではないのか?」「え、いや……確かに、そう、ですね……」「だろう」光也は満足そうに頷いた。本当に“言葉の意味として正しいことを言っただけ”みたいな顔だった。だから余計に分からない。(この人はいま、どこまで本気なのだろう)実花は光也の顔をジッと見た。光也は実花の視線に気づいていたが目を逸らすわけでもなく、その態度は『見たければ好きなだけみればいい』とでも言っているようだった。(自信満々だわ……いえ、それよりも。とりあえず、冗談には見えない)でも真剣な求婚をする人間の空気とも少し違う。まるで。(……予告?)これから『そうする予定だ』と言われているような感覚で、実花の心臓が落ち着かない。そんな実花を見下ろしながら、光也の表情がほんの少しだけ柔らかくなった。会場で見せていた冷酷さとも違う。航へ向ける慣れや親しみのある顔とも違う。腰のあたりがそわりと落ち着かなくなるようなじんわりとした熱を感じる。胸の奥へ蜂蜜みたいな甘さがゆっくり沈んでいく。「安心しろ」「……何を、ですか?」思わず聞き返すけれど、実花は「何を」など気にしていなかった。妙に安心する声音だったから。光也は平然と言う。「こんな邪魔者だらけの場所でプロポーズする気などない」「ひえっ」間抜けな悲鳴が漏れた。淑女として終わっている声だったが仕方ない――― だって意味が分からない。「な、なんでプロポーズすることが前提なんですか!?」「する気があるから」「そ、そういう問題では……!」実花の顔は真っ赤だった。心臓がうるさい。(近い……なんか、こう、色々と近い……駄目になる)抱えられたままこんな会話をされているせいで逃げ場がない。しかし光也は平然としている。(この男、自分がどれ
Mehr lesen

第38話 「大人」の定義(1)

  『そんな子どもで遊ぶのは感心しませんよ』そう言った恒一の声は余裕を取り戻したように静かだった。諭すような声音。だが光也へ向けられる視線は聞き分けのない者に言い聞かせるような見下しと、じっとりとした敵意が滲んでいた。「子ども?」光也が眉を寄せ、腕の中の実花を見たあと顔を恒一に向ける。「彼女は成人している」「まだ十八歳、世間を知らない年齢です」恒一はわざとらしく肩を竦めた。「あなたみたいな世慣れた人間に振り回されるにはまだ幼すぎます」恒一の言葉に実花の胸がちくりと痛んだ。『世間知らず』や『未熟』と言った言葉は前世で何度も聞かされた。それが自分の思い通りに動くよう躾けていただけだと思ってはいるが、親の庇護から出ずに世間を知らないということは事実だった。(それに……)元は既婚者だったくせに、こうして男に抱き上げられただけで混乱してしまうし、少し距離を詰められただけで顔を真っ赤にしている。経験不足もいいところだ。普通なら、十八歳でももっと余裕があるものではないのか。もっと大人の対応を、もっと落ち着いていて、こういうやり取りも往なすように対処できるのではないのか。恒一の口元が緩む。彼は実花の揺らぎを見逃さなかった。「彼女に東国さんのような女性関係が華やかな男の相手は無理ですよ」航が「あー……」と微妙な顔をした。否定しないあたり事実なのだろう。実花の心が妙にざわつく。「あなたの女遊びに興味などありませんが、彼女は遊びには向きません。あなたのいつもの相手のように割り切れるほど大人ではない」いつもの相手。その言葉に実花は無意識に視線を伏せた。綺麗で、世慣れていて、男性との距離にも余裕のある女性たちが実花の頭に浮かぶ。そして光也の隣に並ぶならそういう人なのだろうと思う。自分みたいに抱き上げられただけで悲鳴をあげたり、ネクタイを引いて慌てたりしない。大人の駆け引きを知っていて、光也の軽口の応酬にも自然に対応できる女性。(……無理だわ)実花は自分がそこからあまりにも遠いことを痛感した。「彼女はまだ子どもですよ」恒一の子どもは毒のようにどろりと実花の心に沁みこんできた。その奥にある支配欲を知っているのに、抗い方が分からなかった。「あなたみたいな危険な男が近づくべきではありません」その断じた瞬間だった。「だから何だ
Mehr lesen

第39話 「大人」の定義(2)

恒一の言う通り、光也の女性関係は華やかなのだろう。本人もそれは否定していない。不特定多数の相手と関係を持つことについて嫌悪感や忌避感を感じるような、そんな綺麗な世界で実花は生きてきてはいない。幼い頃から大人の世界に接していて、周りが積極的に実花に見せたわけではないが光也の言う契約の関係を実花は見てきた。(そして、私には前世がある)あの夜の光景を思い出すと、女性関係において「この人に言われても」という白けた感覚を恒一に覚える。光也の明け透けな正直さを見れば、女性を騙してたどいないだろうと実花は感じられた。愛を囁いて期待させ、依存させ、自分だけが特別だと思わせて縛りつけるような真似は、今の実花にとってはゲスな行為。欲しいものを最初から明示し、そして相手は合意しているのだからある意味契約として成立しており、一方的に光也を悪者と断じるのは短慮と言える。実花が嫌悪感を感じるのは不誠実に対してであり、それは恒一に対して感じるが光也からは感じない。(この人の前に一夜でもいいって愛を求めない女性が並ぶのも分かる気がするし)何がとは具体的には言えないが、光也の雰囲気は実花の中の何かを揺さぶる。以前の十八歳の実花なら恋心と表現しそうだが、いまの実花ならそれがもっと原始的な、本能的な何かだと分かる。(前世の私も……)·「彼女はそういう女じゃない」恒一が苛立ったような声で実花は現実に戻った。(そういうって……)実花は恒一の言葉を疑問に思ったが、口を開いたのは実花より光也のほうが早かった。「当たり前だ。いつ俺がそうだと言った」(そう。そういう女性もいるという話で、女性だからで一括りにしているのは恒一さんのほう)「彼女が遊びのわけないだろう」光也はさらりと言った。実花の心臓が跳ねる。「……え?」思わず顔を上げたが、光也は特別なことを言った自覚もなさそうだった。「遊びもあれば本気もあるのは女も同じだ。遊びで満足する女もいれば、本気でなければ嫌だという女もいる。彼女が後者なのは分かっている。契約で男と関係を持つなどできやしない」なんとなく決めつけられた感があり、それに対して反抗心みたいなものは湧いたが、反論できそうにないので実花は黙っていた。「泣くし、揶揄うとすぐ固まるし、妙なところで真面目。駆け引きにも向いていない。俺も彼女相手に駆け引きはで
Mehr lesen
ZURÜCK
1234569
CODE SCANNEN, UM IN DER APP ZU LESEN
DMCA.com Protection Status