あっという間に会食当日を迎えた。鏡の前で、綾香はしばらく動けなかった。ネイビーのワンピース。胸元は控えめで、シルエットだけが綺麗に見えるもの。優の母に以前、「こういう場は品が大事」と言われて買った服だった。悪い人ではないが。良くも悪くも、口を出す人だから。最初に合わせるのは、非常に苦労した記憶を思い出して。思わず苦笑いする。それにしても、久しぶりにちゃんとした服を着たな。ヒールも履いたし、髪も整えた。薄くメイクをして、鏡に映る自分を見る。——妻の顔。そんな言葉が、ふと頭に浮かぶ。昔は、こういう会食の日が少し好きだった。優と並べるから。夫婦として隣にいられるから。もしかしたら今日は少し話せるかもしれない。帰りにご飯くらい食べられるかもしれない。そんな小さな期待を。何度も、何度もして。その度に、諦めてきた。だから今は、もう何も期待していない。ただ。本当にただ、最後まで役割を果たすだけ。半年後に終わる結婚の、“最後の仕事”。そう思った時だった。コンコン。珍しく、ノックの音。「綾香」優だった。少し驚いてドアを開ける。そこにいたのは、黒のスーツ姿の優。ネクタイまで完璧に締められていて。相変わらず、隙がない。仕事ができる男。そういう空気が自然に滲んでいる。そして優の視線が、止まった。数秒置いたものの、何も言わない。ただ、こちらを見ている。少しだけ、困惑したみたいな顔。「……何?」思わず視線に我慢ができず、声をかけた。すると、優が聞こえないくらいの声の大きさで、ボソッと言った。「.....似合ってる」再び時間が、止まる。最近は、今までにない初めての経験ばかりで戸惑う。今日も、改めて驚いてしまった。そんな言葉。一度も言われたことがなかったから。綺麗とか。似合うとか。好きとか。何一つ。私に好意を示すような言葉は、優に言われたことがなかった。でも。一番不思議だったのは、私自身の気持ちだ。嬉しくない。ただ少しだけ、苦しかった。——もっと早く言ってほしかった。残った感情は、本当にそれだけだった。「……ありがとう」短くお礼だけ伝えた。すると、優が少しだけ安心した顔をした。その顔が、妙に引っかかる。本当に、今さら。どうしてそんな顔をしたり。今までになかったような言葉や行動を示すのか。*
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