会食当日。鏡の前で、綾香はしばらく動けなかった。ネイビーのワンピース。胸元は控えめで、シルエットだけが綺麗に見えるもの。優の母に以前、「こういう場は品が大事」と言われて買った服だった。久しぶりに着た。ヒールも履いた。髪も整えた。薄くメイクをして。鏡に映る自分を見る。——妻の顔。そんな言葉が、ふと頭に浮かぶ。昔は。こういう会食の日が少し好きだった。優と並べるから。夫婦として隣にいられるから。もしかしたら今日は少し話せるかもしれない。帰りにご飯くらい食べられるかもしれない。そんな小さな期待を。何度も、何度もして。その度に、諦めてきた。だから今は。もう何も期待していない。ただ。最後まで役割を果たすだけ。半年後に終わる結婚の、“最後の仕事”。そう思った時だった。コンコン。珍しく、ノックの音。「綾香」優だった。少し驚いてドアを開ける。そこにいたのは、黒のスーツ姿の優。ネクタイまで完璧に締められていて。相変わらず、隙がない。仕事ができる男。そういう空気が自然に滲んでいる。そして。優の視線が、止まった。数秒。何も言わない。ただ、こちらを見ている。少しだけ、困惑したみたいな顔。「……何?」思わず聞く。すると。優がぽつりと言った。「似合ってる」時間が、止まる。四年間。そんな言葉。一度も言われたことがなかった。綺麗とか。似合うとか。好きとか。何一つ。でも。不思議だった。嬉しくない。ただ。少しだけ、苦しかった。——もっと早く言ってほしかった。それだけだった。「……ありがとう」短く返す。すると。優が少しだけ安心した顔をした。その顔が、妙に引っかかった。今さら。どうして。***会食会場は都内ホテルの高層階だった。優の父親関連の案件。大手企業の役員クラスが並ぶ。だからこそ。“完璧な夫婦”が必要。エレベーターを降りた瞬間。空気が変わる。「東郷さん!」「ああ、奥様も」「相変わらず素敵ですね」笑顔。名刺交換。丁寧な会釈。社交辞令。その全部が。もう慣れてしまった世界。でも。今日は少しだけ違った。「寒くない?」ふいに。優が低い声で言った。自分のジャケットを軽く差し出す。思わず、止まる。——え?こんなこと。今まであ
최신 업데이트 : 2026-05-12 더 보기