登入『何回言っても足りないので』 『じゃあ明日も言う?』 『言うかもしれない』 少しして。 『来てほしい時は』 『ありがとうより先に呼んで』 指が止まった。 来てほしい時は。 ありがとうより先に。 呼ぶ。 私は。 誰かへ頼る前に。 相手の都合を考える。 忙しいかもしれない。 迷惑かもしれない。 嫌がられるかもしれない。 そうやって。 頼る前から諦める。 今日だって。 何度も迷った。 隼人くんを呼ぶ理由なんてないと思った。 自分で断ればいい。 自分で帰ればいい。 それでも。 一人では無理だと思った。 だから。 初めて呼んだ。 そして。 隼人くんは来てくれた。 理由を聞かず。 困った顔もせず。 私の隣へ立った。 画面の上には。 隼人くんの言葉が残っている。 来てほしい時は。 呼んで。 綾香はスマホを持ったまま。 しばらく動けなかった。 今日だけではなく。 これからも。 本当に。 呼んでいいのだろうか。 困った時。 会いたい時。 一人でいたくない時。 隼人くんを。 私は。 どこまで頼っていいのだろう。 指先が、ゆっくり動いた。 『また』 そこまで打って。 一度、止まる。 消そうかと思った。 でも。 消さなかった。 続きを打つ。 『また、頼ってもいい?』 送った瞬間。 胸の奥が少し痛くなった。 怖かった。 頼りたいと思っていることを。 本人へ知られるのが。 隼人くんがいなくなったら。 また、一人で立てなくなるのではないかと。 どこかで思っている。 既読がつく。 けれど。 返事はすぐには来なかった。 数秒。 それだけなのに。 長く感じる。 重かっただろうか。 恋人になったばかりなのに。 期待しすぎただろうか。 不安が膨らみ始めた時。 画面が動いた。 『何回でも』 息が止まる。 続けて。 『俺じゃない方がいい時は』 『無理に選ぼうとしなくていい』 綾香は画面を見つめた。 何でも自分へ頼ってほしいと。 そう言うのではない。 私が選ぶことを。 ちゃん
自動扉が閉まる。 静かなロビーに、一人分の足音だけが残った。 さっきまで乗っていた車のエンジン音も、もう聞こえない。 綾香はエレベーターのボタンを押しながら、小さく息を吐いた。 鏡のような壁に映る自分は。 少し疲れていて。 まだ、頬が熱い。 今日。 何度笑っただろう。 父の知人に。 真哉兄さんの仕事相手に。 優の知り合いに。 白松家の娘として。 医師として。 離婚した元妻として。 相手が何を知っているのかを考えながら。 間違えないように。 ずっと、言葉を選んでいた。 でも。 隼人くんが来てからは。 そんなことを考える余裕がなくなった。 優の前で。 あの人の隣へ立った。 抱き締められた。 キスをした。 思い出した瞬間。 綾香は唇をそっと閉じた。 エレベーターの扉が開く。 誰もいない箱の中へ入り。 自分の階のボタンを押す。 扉が閉じると。 胸の中に押し込めていたものが、少しずつ浮かび上がってきた。 隼人くんは。 ああいう場所が好きではない。 家の名前を知っている人たちに囲まれて。 誰かに声をかけられるたびに。 何でもない顔で答えていたけれど。 本当は。 行かなくて済むなら、行きたくなかったはずだ。 それでも来てくれた。 私が呼んだから。 『呼ばれたから』 運転席で。 少しだけ口元を緩めていた横顔を思い出す。 『綾香ちゃんに』 名前を呼ばれただけなのに。 胸の奥が、また静かに熱くなった。 部屋へ入る。 玄関の灯りをつけ。 靴を脱ぐ。 バッグを置いて。 ようやく肩の力が抜けた。 静かな部屋。 誰もいない。 少し前まで。 この静けさを手に入れるために、必死だった。 優の帰宅時間を気にしなくていい。 帰ってくるかも分からない人のために。 食事を用意して待たなくていい。 誰かの気配へ耳を澄ませなくていい。 一人の部屋。 一人の時間。 それが欲しかった。 今も。 一人でいることが嫌なわけではない。 それなのに。 今日は。 隼人くんが帰ってしまったことを。 少しだけ寂しいと思っている。 車を降りなかったことも。
「よく言われる」少しだけ間が空く。「親父が、持っとけって」肩をすくめるように笑ってから続けた。「こういう会食の時だけ乗る車」その言い方が、どこか隼人くんらしくて少し笑ってしまう。「乗って」助手席のドアを自然に開けてくれる。「ありがとうございます」車へ乗り込むと、静かにドアが閉まり、エンジン音だけが夜の静けさをゆっくりと破った。車は夜の街を静かに走っていた。流れる景色を眺めながら、綾香はふと助手席から隼人を見た。「……この車、好きじゃないんですか」少しだけ間があく。隼人は一瞬だけこちらへ視線を向けると、すぐ前へ戻した。「嫌いじゃないよ」信号が赤に変わる。車がゆっくりと止まった。「でも、好きでもないかな」穏やかな声だった。「乗りたいから乗ってるわけじゃないし」少しだけ笑う。「これに乗ってれば、向こうも何も言わないから」その"向こう"が誰なのか、説明はなかった。でも、聞かなくても分かった。「……だから」綾香は窓の外へ視線を向ける。「先生、ああいう場所にはあまり行かないんですね」隼人は小さく笑った。「うん」少し考えるような間があってから続ける。「断り続けてたら、いつの間にか誘われなくなった」「その方が楽だったしね」横顔は穏やかなままだった。どこか吹っ切れているようにも見える。「好きじゃないんだ」少しだけ肩をすくめる。「ああいう集まりは」綾香もつられて笑う。そして、少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。「……でも」その一言に、隼人が静かに視線を向ける。「今日は来てくれた」その言葉だけで十分だった。隼人は前を向いたまま、小さく頷く。「呼ばれたから」少しだけ口元が緩む。「綾香ちゃんに」それだけで、胸がじんわりと温かくなる。好きじゃない場所へ。きっと断ることもできたはずなのに。私が呼んだから来てくれた。その事実だけで十分だった。車内には、また静かな時間が流れる。信号待ちで、隼人が不意にこちらを見た。その視線は、さっき部屋で見せた熱をまだ少しだけ残していた。「正直」少し笑う。「思ってたより、心臓に悪かった」思わず笑ってしまう。「私?」「それ以外ある?」隼人も笑った。「あそこまで声かけられると思ってなかったし」少しだけ言葉を切る。視線がドレスへ落ちる。「そ
どれくらいの時間を、こうして過ごしていたのだろう。身体に残る熱が、時間の感覚だけを静かにさらっていく。ゆっくりと身体を離す。それでも、互いの間には心地よい沈黙が残っていた。さっきまで交わしていた視線も、触れた温度も、何もなかったことにはならない。言葉にしなくても、二人の距離が少しだけ変わったことだけは、その静けさが教えてくれていた。ふと壁の時計へ目を向ける。思っていたよりも、ずいぶん遅い時間になっていた。「……そろそろ、行こうか」隼人くんが穏やかに口を開く。さっきまでの熱を引きずることもなく、それでいて無理に切り替えようとする様子もない。その自然さが、この人らしいと思った。「お腹、空いてる?」不意にそんなことを聞かれて、自分の身体のことを考える。そういえば、何も食べていなかった。それでも、お腹が空いているという感覚だけがどこか遠い。今日はいろいろな感情が、一度に胸へ流れ込んできていた。そのせいで、自分が疲れていることさえ、今まで気づいていなかった。「……空いてません」少し考えてから首を振る。隼人は「そうだよね」と小さく笑った。そのまま何かを思い出したように、ふっと目を細める。「また」「え?」「敬語、なくなってた」思わず瞬きをする。「……あ」自分でも気づいていなかった。照れ隠しのように視線を逸らすと、隼人は少しだけうれしそうに笑う。「そのくらい自然になってくれたんだなって思っただけ」そう言って、それ以上は何も続けない。嬉しいとも、もっと聞きたいとも言わない。ただ、その小さな変化を大事そうに受け取ってくれる。そんなところまで、この人らしかった。「……また敬語に戻るかもしれないですよ」少し照れながらそう言うと、「それでもいいよ」隼人は穏やかに笑う。「綾香ちゃんが自然に話せる方で」その一言だけで、胸の奥がまた少しだけ温かくなる。「家に帰ったら、何か軽く食べて」ほんの少し間を置いてから、「今日はもう、送るね」穏やかな声だった。けれど、その選択だけは揺るがない。この部屋でもう少し一緒に過ごすことは、きっと隼人くんの中にはない。さっき抱きしめてくれた腕も、熱を帯びた視線も、全部そのまま残っているのに。だからこそ、自分で決めた一線を守ろうとしている。その誠実さが、少しだけ切なかった。
キスがゆっくりとほどけても、額は離れなかった。互いの息だけが重なる距離で、静かな沈黙が部屋を満たしていく。隼人は何も言わない。ただ、綾香を見つめていた。熱を帯びた視線がゆっくりと唇へ落ちる。そのわずかな動きだけで、さっきまで触れていた熱がまだ残っていることを思い出してしまう。喉が静かに上下する。抱き寄せた腕に、ごくわずかに力が入った。その力はすぐにほどける。もっと引き寄せたい。そんな衝動を、自分の中だけで静かに受け止めているようだった。綾香は少しだけ身体を離す。けれど、完全には離れない。腰へ添えられた手も、そのまま残っていた。引き寄せるでもなく、離すでもない。ただ、綾香が自分で選ぶのを待っている。そんな穏やかな温度が、その手にはあった。「もう帰りたい?」低く落ち着いた声が静かに響く。帰ると言えば、きっとそのまま送ってくれる。引き止めることはしない。でも、その目だけは、帰してしまうことを惜しんでいるように見えた。綾香は小さく息をつく。「……まだ」気づけば敬語は消えていた。「少し、ここにいたい」その一言に、隼人はゆっくりと目を閉じる。肩がわずかに上下し、息を整えるように静かに吐き出した。何かを落ち着かせようとしている呼吸だった。「綾香ちゃん」「うん」「……そのまま、そうやって寄ってこられると」そこで言葉が途切れる。視線がもう一度だけ唇へ落ちた。困ったように小さく笑い、肩の力を抜く。「今日は、ちゃんと帰ってもらわないと困るかな」綾香は首を傾げる。「……困る?」隼人は少しだけ視線を逸らし、照れたように笑った。その笑顔には、いつもの余裕がなかった。「うん」短く答えてから、もう一度綾香を見つめる。「もっと近づきたいって思うから」その一言だけで十分だった。綾香は思わず息を止める。隼人は頬へ落ちた髪を骨ばった指先でそっと耳へ掛ける。その指はすぐに離れた。長く触れてしまえば、自分が離したくなくなることを知っているように。「今日はもう送るね」穏やかな声だった。命令でもなく、我慢を押しつける響きでもない。自分で決めた約束を、静かに守ろうとしている人の声だった。綾香は黙ったまま隼人の横顔を見つめていた。もっと一緒にいたい。もう少しだけ、この腕の中にいたい。そんな気持ちが胸いっぱいに
呼吸が近い。どちらのものか分からないほど、熱が混ざっている。目を開ける。隼人くんも、私を見ていた。頬へ触れている親指が。一度だけ、ゆっくり肌を撫でる。「今までの距離に」低い声で言う。「もう戻さなくてもいい?」問いかけは甘かった。けれど。曖昧ではない。今日だけではなく。この先も。手をつなぐだけの距離へ、何もなかったようには戻らない。キスをして。抱きしめて。私が近づくのを待つだけではなく。隼人くん自身も、触れたい時には一歩近くへ来る。その意味を含んでいる。私は少し考えた。今日。優の言葉に揺れた。兄の考えに疲れた。多くの人へ見られ。自分が誰なのか、分からなくなった。その夜に。大きな決断をするべきではないのかもしれない。それでも。隼人くんに抱きしめられ。自分から腕を回し。キスをしてほしいと伝えたことは。疲れていたから生まれた感情だけではないと思えた。ずっと。手が離れることを寂しいと感じ始めていた。触れないように距離を置かれていることを、意識するようになっていた。私の心は。今日突然ここへ来たわけではない。少しずつ。自分でも分からないほど静かに。この距離へ近づいていた。「戻したくない」私は答えた。隼人くんの目が、ゆっくりと細められる。「本当に?」最後の確認。私は頷いた。「はい」「今までより、近くにいたいから」言葉にすると。胸の奥が、静かに満たされていく。隼人くんは、すぐにキスをしなかった。私の頬を大きな掌で包んだまま。しばらく、その答えを受け取っているように見えた。親指が唇のすぐ横へある。目は熱を残し。抱いた腕も、私を離してはいない。もっと近づきたいと思っていることが。何も言わなくても分かる。それでも。隼人くんは、私の答えをもらったからといって、一度にすべての距離をなくそうとはしなかった。「分かった」やがて、とても静かに言う。「じゃあ、もう遠慮しすぎないようにする」その言い方に。胸がまた大きく鳴った。「遠慮していたんですか」尋ねると。隼人くんは、ごく薄く笑った。「かなり」「どのくらいですか」「それ、今説明してほしい?」目が、少しだけ意地悪く細められる。女性に慣れている人が。私がどこまで聞けば困るのかを知った上で、あえて返す表情だっ
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦
「返信しなよ、このタイミングだし」みかが、にやにやしながらスマホを指差した。「いや、無理でしょ」即答した。「なんて返すのよ、そもそも」「普通に、“どうしました?”でいいじゃん」「え、でもそんな感じの距離じゃないし」言いながら、スマホの画面を見る。【綾瀬隼人】『こんばんは。 この前の学会ぶりです。 急だけど、今少し話せたりする?』おかしい。なんで、このタイミングなんだろう。学会で少し話しただけの相手だ。連絡先だって、半ば強引に交換された。『現場戻りたくなった時のため』そう言って、名刺を渡されて。ついでみたいにメッセージアプリまで聞かれた。断るほどの理由もなく
青山駅前のカフェは、平日の夜なのに妙に混んでいた。窓際の席で、大きく手を振る女がいる。派手な金髪ボブだからこそ、いつもすぐに見つけられる。「綾香、こっち」香山みか。高校1年からの付き合いで。大学も違ったし、就職後はお互い忙しくなった。それでも。私が唯一、本音を言える相手だった。席に着いた瞬間。疲れ果てた表情が滲み出ていたのだろうか。みかの表情が固まる。「……え、待って」眉を寄せる。そして、急に顔が険しくなった。「本当にどうしたの、その顔」私は苦笑いした。「そんなにひどい?」「ひどすぎるレベル。大学のときに元カレに振られた次の日みたい」その言葉に、なぜか笑ってしま
6月10日。4回目の結婚記念日。そして——私が、あと1年で離婚しよう。そう、決めた日。本当なら、こんな日になるはずじゃなかった。少なくとも、4年前の私はそう思っていた。その日の午後6時にちょうどなった。さっきから、時計が次の針に進むのを見つめては。帰ってこない夫への諦めが募り。ため息が溢れた。私東郷綾香(とうごうあやか)はテーブルの上にまだ湯気の立つ料理を並べる。壁の時計をもう見たくなかった。さっきから、穴が開くほど見つめている。夫である東郷優(とうごうゆう)の帰宅予定は、7時だったはず。もう、1時間前なのに。連絡は、全く取れずにいた。まだ、遅くない。——期待なんて







