LOGIN決まってから。 心配させないため。 中途半端なことを言わないため。 隼人くんなりの配慮なのだと思う。 けれど。 その言い方を。 私は知っている。 優も。 何かを決める時。 すべてが固まってから話した。 仕事のこと。 家のこと。 自分の中で結論を出してから。 私に伝えることが多い。 もちろん。 隼人くんと優は違う。 隼人くんは。 私の人生を勝手に決めようとしているわけではない。 ただ。 何かが決まるまで。 一人で抱える癖がある。 「決まってからじゃなくて」 綾香は。 ゆっくり口を開いた。 隼人くんの表情が。 少しだけ変わる。 「途中でも」 「聞かせてほしい」 声が。 思っていたより小さくなった。 「全部、説明してほしいわけじゃないよ」 「まだ分からないっていう話もたくさんあると思う」 「でも」 一度。 息を整える。 「何か考えてるなら」 「私は、知りたい」 恋人だから。 そう言うには。 まだ少し照れがあった。 それでも。 ここで引っ込めたくなかった。 「病院のことも」 綾香は続ける。 「私は、決まる前から隼人くんに話したでしょう」 「うん」 「だから」 「隼人くんのことも」 「決まってから報告されるんじゃなくて」 言葉を選ぶ。 「考えてる途中から」 「聞きたい」 隼人くんは。 何も言わなかった。 机の上へ置いていた手を。 少しだけ握る。 そして。 ゆっくり力を抜いた。 「ごめん」 静かな声だった。 「謝ってほしいわけじゃない」 「うん」 隼人くんが。 少しだけ困ったように笑う。 「慣れてなくて」 「何が?」 「決まってないことを」 「誰かに話すの」 いつも。 自分の中で決めて。 必要なことだけを。 周囲へ伝えてきた。 家を離れる時も。 クリニックを開く時も。 きっと。 同じだったのだろう。 「じゃあ」 綾香は。 机の上の書類を指した。 「今、どこまで考えてるの?」 隼人くんの目が。 少しだけ柔らかくなる。 「今?」 「うん」 「まだ、何
「毎日でも」 「それは無理」 敬語が崩れる。 「知ってる」 隼人くんが笑う。 「でも」 その笑みが。 少しだけ薄くなる。 「前と同じようには会えなくなるだろうなとは思ってる」 「うん」 「だから」 綾香が続ける。 「ここで働く時間も」 「大事にしたい」 患者のため。 臨床側の医師として。 それだけではない。 隼人くんと。 同じ場所で働く時間を。 全部なくしたくない。 隼人くんは。 何も言わず。 しばらく綾香を見ていた。 それから。 ゆっくり頷く。 「分かった」 短い言葉。 でも。 今度は。 院長としてだけではないと分かった。 綾香は。 机の上の書類へ視線を落とす。 「それ」 「うん?」 「何の資料?」 隼人くんが。 一瞬だけ。 答えるのを迷った。 ほんの短い間。 それでも。 綾香には分かった。 「クリニックのこと?」 「うん」 隼人くんは。 伏せていた書類を。 元へ戻した。 「前に話したでしょう」 「広げること?」 「そう」 患者が増えている。 予約が取りづらい。 診察室も。 人員も。 今のままでは限界が近い。 以前。 隼人くんから聞いていた。 「もう、具体的に動いてるの?」 「まだ」 隼人くんは答える。 「候補を見てるだけ」 机の上には。 現在のクリニックより広い物件の資料。 採用候補者の経歴。 融資や契約に関する簡単な書類。 思っていたより。 話は進んでいるように見えた。 「人も増やすの?」 「広げるならね」 「先生も?」 「うん」 隼人くんは。 書類へ視線を落とす。 「今のままだと」 「俺が診られる数にも限界があるし」 「綾香ちゃんの勤務が減る可能性もあるから」 「他の先生も探してる」 綾香は。 少しだけ胸が詰まった。 私が病院へ行くことも。 隼人くんの計画へ影響している。 「私が辞めるから?」 「それと、これは違うよ」 隼人くんはすぐに否定した。 「もともと必要だった」 「綾香ちゃんが来てくれたことで」 「少し先延ばしにできてただけ」 言い方に。 責める響きはなかった。 それでも。 自分が病院へ戻ることで。 隼人くんも。 変わらなければならないのだと実感した。 「大変?」
翌日、クリニックはいつもの忙しさだった。定期的に通ってくれる患者の診察が終わった。 「私、次も白松先生の日がいいんです」 受付へ向かう前に。 患者はもう一度、こちらを振り返った。 それから。 少しだけ言いにくそうに続けた。 「なんですが受付で、これから先生の診察日が」「減るかもしれないって聞いたのですが」 綾香は。 受付の方へ視線を向けた。 最近は面談等も重なっていたので、時間が少しいつもよりも不規則になっていた。 勤務日を調整する可能性がある以上。 事前に伝えておく必要がある患者もいる。 誰かが不用意に話したわけではないのだろう。 「減ることが確定したわけでもないですし、取れる日時があるので受付で確認してください」 綾香は答えた。 「よかった」 患者の声が明るくなる。 その言葉が。 思っていたよりも強く胸へ残った。 患者は続ける。 「ここに来たのは、前の病院から紹介されて」 「最初は、近いから来ただけだったんです」 「でも」 少し笑う。 「先生は、急がないで話を聞いてくれるから」 綾香は。 何も言えなかった。 医師として。 当たり前のことをしているだけだった。 症状を聞く。 不安を確認する。 治療を説明する。 必要なら。 その場ですべてを決めず。 患者が考える時間を残す。 それでも。 その人にとっては。 ここへ通う理由になっている。 診察室の扉が閉じる。 静かになった部屋で。 綾香はしばらく。 閉じた扉を見つめていた。 病院へ戻りたい。 その気持ちは。 変わっていない。 病棟で働きたい。 専門医取得に向けた研修も。 もう一度進めたい。 それは。 今の自分が選んだ道だった。 でも。 病院へ戻ることと。 このクリニックを完全に手放すことは。 同じではない。 少し前まで。 ここは。 臨床へ戻るための場所だった。 本当に患者を診られるのか。 医師として。 もう一度働けるのか。 それを確かめるための。 途中の場所。 そう思っていた。 けれど。 今は違う。 自分の診察を待つ患者がいる。 次も。 白松先生の日がいいと。 言ってくれる人がいる。 この場所でしか見えないこともある。 病院へ戻ったからといって。 それをすべて手放す必要はな
背中へ回っていた腕が。 ゆっくり離れていく。 手のひらが。 服の上を滑らないように。 一度その場で浮き。 それから。 自分の側へ戻る。 身体も。 同じ速さで離れていく。 急に立ち上がらない。 慌てて視線を逸らさない。 私が姿勢を戻すのを待ち。 きちんと座れたことを確かめてから。 隼人くんも。 元の位置へ戻る。 床へ落ちたままだったクッションを拾い。 ソファの端へ置く。 私たちの間へ。 壁のように置くことはしなかった。 ただ。 最初より。 少しだけ離れた場所へ座り直した。 今の距離が近すぎたとも。 これ以上は進まないとも。 言葉では説明しない。 二人が。 また落ち着いて話せる空間を。 自然に作り直した。 胸の奥が。 少しずつ落ち着いていく。 近づいたことが。 嫌だったわけではない。 むしろ。 腕が離れた瞬間。 少しだけ名残惜しいと思った。 もう一度。 近くへ行ってもいいと。 思う自分もいた。 でも。 その気持ちだけで。 どこまで進むのかを決めるには。 まだ少し怖い。 隼人くんは。 私が言葉にする前に。 その迷いごと受け取ったように。 勝手に先へ進まず。 だからといって。 何かを失敗したように。 遠くへ逃げることもなかった。 「……うん」 何への返事か分からないまま。 小さく声が出た。 隼人くんがこちらを見る。 「何?」 「お茶」 「うん」 「冷めるね」 言うと。 隼人くんが。 少しだけ笑った。 「そこは敬語じゃないんだ」 「もう、気にしないで」 「うん」 今度は。 いつもの笑い方に近かった。 私は茶器を持つ。 指先が。 まだ少し落ち着かない。 一口飲む。 淹れたばかりのはずなのに。 味がよく分からなかった。 「美味しい?」 隼人くんに聞かれる。 「たぶん」 「たぶん?」 「今、あんまり分からない」 「俺のせい?」 顔が熱くなる。 「……そうかも」 答えた瞬間。 隼人くんが。 少し驚いたように目を見開いた。 それから。 嬉しそうに笑った。 「そっか」 「何?」 「俺のせいでいいよ」 綾香は。 誤魔化すように。 茶器へ口をつけた。 隼人くんも。 自分の茶器へ手を伸ばす。 けれど。 持ち上
指先ではなく。 手の甲へ。 隼人くんの指が触れる。 温かい。 そう思った時には。 二人とも。 前へ屈んだ姿勢のまま。 動きを止めていた。 顔を上げる。 隼人くんの顔が。 思っていたより近い。 あの日のように。 どちらかが。 はっきり近づいたわけではない。 同じものへ手を伸ばして。 顔を上げたら。 すでに。 互いの呼吸が分かる距離にいた。 隼人くんの目が。 私を見る。 そこから。 ゆっくりと。 唇へ落ちる。 短い視線。 でも。 今度は。 見間違いではなかった。 胸の音が。 急に大きくなる。 隼人くんの指が。 私の手の甲から離れる。 けれど。 身体は離れない。 代わりに。 ソファへついていた片手が。 私のすぐ横へ移る。 私を囲うためではない。 傾いた身体を支えるため。 それでも。 腕の内側に。 私がいるような距離になる。 「綾香ちゃん」 名前を呼ばれる。 声が近い。 あの日よりも。 少し低く聞こえた。 「……うん」 返事は。 自然に敬語ではなかった。 隼人くんの目が。 ほんの少しだけ揺れる。 でも。 すぐには近づいてこない。 私が顔を背けないことを。 確かめるように。 静かに待っている。 私は。 動かなかった。 嫌ではない。 怖くもない。 むしろ。 あの日のように。 もう一度触れてほしいと思った。 その気持ちが。 少しだけ顔に出ていたのかもしれない。 隼人くんの顔が。 ゆっくり近づく。 唇が触れる直前。 互いの呼吸が。 一度だけ重なった。 それから。 柔らかく。 唇が合わさる。 あの日の最初のキスより。 ずっと自然だった。 触れる場所を。 二人とも。 もう知っている。 だから。 迷いながら距離を測る時間は短かった。 それでも。 急いではいない。 唇が重なり。 短く触れて。 一度離れる。 隼人くんの目が。 すぐ近くで私を見る。 離れたのは。 わずかな距離だけだった。 鼻先に。 隼人くんの呼吸が触れる。 私も。 目を逸らさなかった。 隼人くんの視線が。 もう一度。 唇へ落ちる。 今度は。 言葉で確かめなかった。 私も。 何も言わなかった。 ただ。 少しだけ顔を上げた。 そ
「お邪魔します」 隼人くんの声が。 静かな玄関へ落ちた。 外で聞くよりも。 少しだけ低く響く。 私は。 改めて。 自分の部屋へ、隼人くんを招いたのだと実感した。 あの日。 初めてキスをした人を。 自分から。 「どうぞ」 そう言って。 先に廊下を進む。 背後で。 扉が静かに閉まった。 鍵には触れない。 勝手に奥へ入ろうともしない。 隼人くんは。 脱いだ靴をきちんと揃え。 私が数歩進んでから。 少し遅れてついてくる。 いつも一人で歩いている廊下。 壁際の小さな棚。 読みかけの本。 花を挿した細いガラスの器。 毎日見ているものばかりなのに。 隼人くんが後ろにいるだけで。 自分の部屋が。 急に違う場所へ変わったように感じた。 リビングへ入る。 隼人くんは。 入口を少し越えたところで足を止めた。 部屋の中を。 大きく見回すわけではない。 窓辺。 テーブル。 棚の上の花。 ソファの端に置いたクッション。 一つずつ。 確かめるように。 視線がゆっくりと移っていく。 「……何?」 見られているのは。 私ではない。 それなのに。 少し落ち着かなくなった。 隼人くんは。 窓辺を見たまま。 わずかに口元を緩めた。 「綾香ちゃんの家だなと思って」 「どういう意味?」 聞き返してから。 自然に敬語が落ちたことに気づく。 けれど。 言い直すほどでもない気がした。 隼人くんの目元が。 ほんの少しだけ柔らかくなる。 「静かで」 少し考えるように。 言葉を止める。 「綾香ちゃんが、自分で選んだものがちゃんとある」 胸の奥が。 小さく揺れた。 高価な家具を揃えたわけではない。 部屋全体に。 決まった雰囲気があるわけでもない。 ただ。 この部屋で一人で暮らすと決めて。 少しずつ。 自分で選んだ。 必要だから買ったものだけではない。 好きだと思った色。 触れた時に落ち着く素材。 形が可愛いと思った器。 誰かに見せるためではなく。 自分がここで過ごしたいと思えるものを。 一つずつ置いていった。 隼人くんの視線が。 窓へ向かう。 夜の窓を覆っている。 淡いグリーンのカーテン。 外の明かりを受けて。 昼間よりも少し深く。 落ち着いた色に見えてい
「……誰それ?」優の声に、思わず指が止まった。寝室へ向かおうとしていた足も、その場で止まる。振り返ると、優はソファに座ったままこちらを見ていた。正確には、私ではない。私の手の中にあるスマホ。そこに表示されている名前を見ている。【綾瀬隼人】たった四文字の名前。それだけなのに、優は珍しく視線を外さなかった。私は少し戸惑う。こんなこと、今までなかった。私が誰と会おうと。誰と連絡を取ろうと。優は興味を示したことがない。会社の同僚。学生時代の友人。みかのことだってそうだ。誰とどこへ行くのか聞かれた記憶はほとんどない。だからこそ、その反応が妙に不自然だった。「……知
「逃げる準備、始めよっか」綾瀬先生がそう言った瞬間、その言葉だけが妙に耳に残った。逃げる。たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじくりと痛む。離婚する。家を出る。今の生活を終わらせる。頭では何度も考えていたはずなのに、「逃げる」という表現にすると急に現実味が増した。同時に、どうしてか罪悪感も湧いてくる。私は被害者のはずだった。夫は愛人を家に住まわせている。結婚生活なんて、とっくに壊れている。誰が見てもおかしい状況なのに。「逃げるのは悪いことなんじゃないか」という感覚が残っていた。ずっと我慢することが当たり前だったからだ。気づけば、自分の気持ちより相手を優先する癖が染
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦
「返信しなよ、このタイミングだし」みかが、にやにやしながらスマホを指差した。「いや、無理でしょ」即答した。「なんて返すのよ、そもそも」「普通に、“どうしました?”でいいじゃん」「え、でもそんな感じの距離じゃないし」言いながら、スマホの画面を見る。【綾瀬隼人】『こんばんは。 この前の学会ぶりです。 急だけど、今少し話せたりする?』おかしい。なんで、このタイミングなんだろう。学会で少し話しただけの相手だ。連絡先だって、半ば強引に交換された。『現場戻りたくなった時のため』そう言って、名刺を渡されて。ついでみたいにメッセージアプリまで聞かれた。断るほどの理由もなく







