LOGIN「……俺といる時」
少し間。
優が、言葉を探すみたいに視線を落とした。
「そんな顔、してた?」
部屋が静かになる。
キッチンの時計の音だけが、妙に大きく聞こえた。
私はすぐに答えられなかった。
スマホを握ったまま、視線を落とす。
そんな顔。
——笑ってた顔。
さっき。
綾瀬先生の前で。
気づけば何度も笑っていた。
無理してじゃなく。
空気を悪くしないためでもなく。
ただ、自然に。
それが。
少しだけ、怖かった。
「……どうだろう」
ぽつりと零れる。
優の視線が、こちらへ向く気配がした。
私はマグカップの横に置かれたケーキの箱を見る。
私が好きだった店。
忘れてたと思っていた。
でも。
覚えていたらしい。
——今さら。
その感情と。
少しだけ嬉しかった感情が、胸の中でぶつかる。
だから余計に苦しい。
「少なくとも」
少し間を空ける。
「最近は、してなかったかも」
優の指先が、テーブルの端で止まる。
何かを言いかけて。
でも、口を閉じる。
私は続けた。
声は驚くほど静かだった。
怒っているわけじゃない。
責めたいわけでもない。
ただ。
少し疲れていた。
「楽しいとか」
「安心するとか」
目線を少し窓の外へ逃がす。
夜の街がぼやけて見えた。
「そういう感覚、結構前に忘れてた」
優が動かない。
返事もない。
ただ。
何かを飲み込むみたいに、小さく喉が動いた。
視線だけが、こちらに残る。
その沈黙が、少し長い。
気まずいはずなのに。
不思議と、前みたいに怖くない。
たぶん。
私はもう。
優の機嫌を伺わなくなっていた。
「……綾香」
名前を呼ばれる。
少し低い声。
でも。
その続きが出てこない。
珍しい。
言葉に詰まる優なんて。
ずっと、完璧な人だったのに。
その時。
ふっと思い出した。
さっき。
クリニックの前で。
強くなってきたね
綾瀬先生がそう言って、少し笑った顔。
その瞬間だけ。
肩の力が抜けた気がした。
ああ。
私。
ちゃんと戻ろうとしてるんだ。
壊れたままじゃなく。
自分の人生へ。
その時だった。
スマホが震える。
画面が明るくなる。
【綾瀬隼人】
あ、そうだ。
土曜、研修説明のあと少し時間ある?
近くでご飯でも。
あと、普通に顔見たい。
指先が止まる。
……顔見たい。
少しだけ、胸の奥がくすぐったくなる。
でも。
同時に思い出す。
——土曜。
優との予定。
父親とのお茶の後。
「飯でも行く?」
珍しく、そう言われた。
四年間で、一度もなかった誘い。
なのに。
どうしてだろう。
少しも、心が浮かなかった。
むしろ。
迷った自分に驚く。
その時。
優の声。
「……仕事以外でも」
低い声。
でも。
どこか慎重だった。
「会うんだ」
顔を上げる。
優はこっちを見ていない。
ケーキ箱をぼんやり見たまま。
ただ。
指先だけが、ゆっくりグラスを回している。
考え事をしている時の癖。
珍しく、余裕がない。
私は少しだけ考える。
そして。
静かに言った。
「まだ、わかんない」
優が少しだけ顔を上げる。
「土曜、予定あるし」
少し間。
「時間次第かな」
空気が、少しだけ止まる。
優が何か言いかける。
でも。
代わりに出たのは。
ぽつりとした声だった。
「……そう」
その響きが。
少しだけ想像と違った。
安心。
でもなく。
嬉しい。
でもなく。
どこか。
ほっとしているのに、物足りなそうな声。
私は視線を落とす。
その感情に、気づかないふりをした。
だって。
もう遅い。
その時。
優が突然言った。
「……さっきさりげなくお店の名前言ってたけど」
少し間。
「俺も、昔予約取ろうとしてた」
時間が、止まる。
「え?」
優は視線を逸らしたまま。
少しだけ苦そうな顔をした。
「結婚二年目くらい」
「でも、忙しくて流れた」
短い声。
それだけ。
なのに。
なぜか、胸が少しだけ痛む。
知らなかった。
そんなこと。
一度も。
聞いたことなかった。
でも。
知ったところで。
戻れない。
あの時欲しかったものは。
もう、過ぎてしまった。
私はスマホを見る。
少し迷ってから。
綾瀬先生へ返信した。
【綾香】
土曜、少し予定があるので時間確認します。
また連絡してもいいですか?数秒後。
すぐ返信。
【綾瀬隼人】
もちろん。予約は気にしないで。
無理しない範囲で。
会えたら嬉しい。その一文に。
少しだけ、肩の力が抜ける。
急かさない。
責めない。
ただ、待ってくれる。
その優しさが。
今の私には、少しだけ救いだった。
そして。
ふと顔を上げる。
優が。
静かに、こっちを見ていた。
その表情が。
少しだけ。
見たことのない顔だった。
「……俺といる時」少し間。優が、言葉を探すみたいに視線を落とした。「そんな顔、してた?」部屋が静かになる。キッチンの時計の音だけが、妙に大きく聞こえた。私はすぐに答えられなかった。スマホを握ったまま、視線を落とす。そんな顔。——笑ってた顔。さっき。綾瀬先生の前で。気づけば何度も笑っていた。無理してじゃなく。空気を悪くしないためでもなく。ただ、自然に。それが。少しだけ、怖かった。「……どうだろう」ぽつりと零れる。優の視線が、こちらへ向く気配がした。私はマグカップの横に置かれたケーキの箱を見る。私が好きだった店。忘れてたと思っていた。でも。覚えていたらしい。——今さら。その感情と。少しだけ嬉しかった感情が、胸の中でぶつかる。だから余計に苦しい。「少なくとも」少し間を空ける。「最近は、してなかったかも」優の指先が、テーブルの端で止まる。何かを言いかけて。でも、口を閉じる。私は続けた。声は驚くほど静かだった。怒っているわけじゃない。責めたいわけでもない。ただ。少し疲れていた。「楽しいとか」「安心するとか」目線を少し窓の外へ逃がす。夜の街がぼやけて見えた。「そういう感覚、結構前に忘れてた」優が動かない。返事もない。ただ。何かを飲み込むみたいに、小さく喉が動いた。視線だけが、こちらに残る。その沈黙が、少し長い。気まずいはずなのに。不思議と、前みたいに怖くない。たぶん。私はもう。優の機嫌を伺わなくなっていた。「……綾香」名前を呼ばれる。少し低い声。でも。その続きが出てこない。珍しい。言葉に詰まる優なんて。ずっと、完璧な人だったのに。その時。ふっと思い出した。さっき。クリニックの前で。強くなってきたね綾瀬先生がそう言って、少し笑った顔。その瞬間だけ。肩の力が抜けた気がした。ああ。私。ちゃんと戻ろうとしてるんだ。壊れたままじゃなく。自分の人生へ。その時だった。スマホが震える。画面が明るくなる。【綾瀬隼人】あ、そうだ。土曜、研修説明のあと少し時間ある?近くでご飯でも。あと、普通に顔見たい。指先が止まる。……顔見たい。少しだけ、胸の奥がくすぐったくなる。でも。同時に思い出す。——土曜。優との予定。父親
玄関を開けた瞬間。リビングの灯りが、まだついていた。時計を見る。22時12分。少し遅くなった。でも。普段なら。もう誰も起きていない時間。そう思っていた。なのに。「……おかえり」低い声。顔を上げる。そして。思わず、止まった。——優がいた。一人で。リビングに。珍しく、テレビもついていない。ソファでもない。キッチンカウンターに寄りかかって。スマホを見ていた。でも。私を見ると、少しだけ視線を逸らす。なんだろう。……待ってたみたい。その考えに。自分で驚く。そんなわけない。優が?「……起きてたんだ」短く返す。優は少しだけ黙って。「ああ」それだけ。でも。すぐ帰ろうとしない。どこか、落ち着かない顔。その時。ふわっと甘い匂いがした。テーブルを見る。小さなケーキの箱。コンビニじゃない。駅前の、少し高めの店のもの。隣には、マグカップが二つ。……え?思考が少し止まる。「……どうしたの、それ」思わず聞く。優が少しだけ気まずそうな顔をした。「いや」短く言う。「遅そうだったから」少し間。「コーヒーくらい飲むかなって」時間が止まる。コーヒー。ケーキ。私が昔好きだった店。結婚したばかりの頃。一度だけ。仕事帰りに買ってきてくれたことがあった。——“これ好きだったよね”あの時。少しだけ、嬉しかった。でも。それ以来、一度もなかった。四年間。忘れていたと思っていた。なのに。なんで今さら。胸が少しだけざわつく。でも。すぐに冷える。……遅い。本当に。遅すぎる。「……食べてきた」静かに言う。優の動きが少し止まる。「そう」短い返事。でも。少しだけ肩が落ちた気がした。沈黙。変な空気。私はバッグを置く。すると。優がぽつり。「何食べたの?」時間が止まる。……また。そんなこと。今まで聞かれたことなんてなかった。「定食」短く返す。「病院の近くのお店」「ふーん」少し間。「……楽しかった?」また。その質問。でも。前みたいに責める感じじゃない。本当に。様子を探ってるみたいな声。私は少し考える。そして。正直に言った。「……うん」優の指先が少し止まる。「仕事の話、ちゃんとできたし」「久しぶりに、自分のこと考えられ
「ご飯」低い声。「……二人で?」空気が止まった。優の視線が、私の服に落ちる。ネイビーのニット。細めのスカート。少しだけ整えた髪。派手ではない。でも。少しだけ、自分をちゃんと扱いたくて選んだ服だった。「……うん」短く答える。「復職の話もあるし」優は少しだけ黙った。そして。「仕事の話なら、クリニックでよくない?」低い声。静かなのに。少しだけ棘がある。胸の奥がざらつく。「食事しながら話すだけだよ」できるだけ平静に返す。「何か問題ある?」優が少しだけ言葉に詰まる。「……別に」視線が逸れる。そして。ぽつり。「ただ」少し間。「最近、その先生と距離近い気がする」時間が止まる。……距離近い。また、その言葉。私は少しだけ笑ってしまった。乾いた笑い。「そう?」静かな声。「私は、普通に心配してもらってるだけだと思うけど」その瞬間。優の顔が少し止まった。何か言いたそうなのに。言葉にならない顔。でも。結局何も言わない。私はバッグを持つ。「行ってくる」そう言って玄関へ向かった。背後から。少し遅れて声。「……終わったら連絡して」まただ。最近の優。やたら聞いてくる。帰宅時間。予定。誰といるのか。今まで。一度だって気にしたことなかったのに。「余裕あったら」短く返して家を出た。***待ち合わせは、クリニック近くの小さなビストロだった。大通りから少し外れた場所。静かで。あたたかい灯りが漏れる店。店の前に、綾瀬先生が立っていた。長い黒髪を自然に後ろで束ねて。黒のジャケット。白シャツ。病院の時とは少し違う。でも。相変わらず、妙に整っている。「あ、来た」軽く手を上げる。そして。私を見る。少しだけ目を細めた。「今日、雰囲気違うね」心臓が少し跳ねる。「……変ですか?」思わず聞いてしまう。綾瀬先生は少し笑った。「逆」少し間。「似合ってるよ」息が止まる。その言葉は。不思議なくらい自然に胸に落ちた。優みたいに。“評価”じゃない。ただ。ちゃんと見てくれた言葉。「……ありがとうございます」少しだけ、照れる。綾瀬先生は何事もなかったみたいに店の扉を開けた。「じゃあ、仕事モード戻す作戦、始めよっか」その軽さに、少し救われる。***
翌朝は。珍しく、少しだけ目覚めが良かった。ちゃんと眠れた気がする。理由はわかっていた。仕事。復職。怖いのに。不思議と少しだけ前向きになれている。それに——金曜。綾瀬先生との“ご飯”。仕事に戻る前の復帰の相談。ただそれだけ。なのに。少しだけ楽しみな自分がいた。……危ない。そういうの。勘違いしちゃダメ。ただ。久しぶりに、人といて苦しくないだけ。そう言い聞かせながら、支度をする。その時。スマホが震えた。【優】>続けて。>時間が止まる。……え?思わず、画面を見返した。昼?優が?今まで。会食や父親関連の予定が終わったら、じゃあ先帰っててが普通だった。二人で何かするなんて。一度もなかった。しかも。“軽く昼でも行く?”なんて。夫みたいなこと。四年間で初めてだ。少しだけ。胸がざわつく。でも。遅い。本当に、遅すぎる。数秒迷って。短く返す。【綾香】>>送信。数秒後。既読。そして。すぐ返信。【優】>息が止まる。なんだろう。少しだけ、引っかかる。こんなこと。聞かれたことあったっけ。【綾香】>>既読。……止まる。返信が来ない。珍しい。でも、なぜか。少しだけ空気が重い気がした。***昼頃。リビングに降りると。珍しく。優がいた。平日なのに。在宅らしい。ソファでパソコンを開いていた。でも。綾香に気づくと。一瞬だけ手が止まる。「おはよう」低い声。珍しい。優の方から。私は少しだけ戸惑う。「……おはよう」沈黙。コーヒーを淹れる音だけが響く。その時。優がぽつり。「土曜」少し間。「午後、何時から?」振り返る。「え?」優はパソコンを見たまま。でも。少しだけ言いづらそうだった。「研修」「何時まで?」時間が止まる。なんで?そんなこと。聞く人だった?今まで。私の予定なんて。一度だって気にしたことなかったのに。「……夕方くらい?」少し曖昧に答える。すると。優が少しだけ黙った。何か考えてる顔。そして。ぽつり。「……なら」
——空気が止まった。「男できた?」咲子の声は軽かった。冗談みたいに。笑いながら。男という言い方が下品に感じる。でも、彼女はいつもこういう人だ。呆れと諦めで、乾いた笑いすら出ない。でも、彼女の表情から。目だけ少し探るようだった。ソファの向かい側で。優の動きが止まった。「……は?」自然と、出たような。少し動揺をはらんだ声。珍しく、反応が遅い。咲子は肩をすくめた。「だって最近変じゃん」悪気のない顔。むしろ、少し楽しそう。...しかも。女性だけがわかる、勘みたいなものがある。「綾香さん、前より綺麗になったし」「なんか余裕あるし」「最近、よく出かけるし」少し笑いながら。「仕事復帰も。その先生のためだったりして」優は何も言わない。グラスを持ったまま。ただ。少しだけ眉を寄せている。咲子が隣に座る。自然に腕に触れる。いつもなら。本当だったら。優は当たり前みたいに受け入れる。それなのに。今日は。反応が少し遅かった。「でも、よくない?」咲子が明るく言う。「その方が離婚、早そうじゃん」時間が少し止まる。彼女が離婚について言及するなんて。私と優の関係は、本当に。彼女にとって、なんでもないものだと。改めて、気付かされてしまう。「半年待たなくても済むかもよ?」ふふっと笑う。「そしたら、私たち早く結婚できるし」自然な笑顔。いつもの空気。いつもの未来。....今までだったら。優はたぶん、そうだねって流していた。でも、今日は。なぜか、何も言わなかった。沈黙。咲子が少し首を傾げる。「……優?」優が小さく息を吐く。そして。少しだけ、そっけない態度で。「……別に」少し間。「そういう問題じゃない」咲子が止まる。「え?」少し笑う。それでも、笑顔が少しだけ固い。「いや、だって良くない?」「元々その予定じゃん」「綾香さんも、好きな人できたなら幸せじゃない?」当然みたいに言う。悪気はない。だって。私は“契約妻”だから。最初から終わる前提。そういう認識で。優も同じだと思っていた。それなのに。*** 優は黙る。視線だけが落ちる。思い出していた。会食の日。「似合ってる」そう言った時の綾香。あまり嬉しそうじゃなかった顔。今日、綾瀬クリニックで。
空気が、止まった。クリニックの入口。夕方の少し冷たい風。仕事終わりの人たちが行き交うなか。そこに立っていたのは。スーツ姿の優だった。少し疲れた顔。ネクタイを緩めたまま。でも。視線だけが、真っ直ぐこちらを見ていた。「……優?」思わず声が出る。なんで。ここに?優は少しだけ視線を逸らす。「近くで打ち合わせだったから」短い声。でも。どこか硬い。それが嘘だとは思わない。ただ。——タイミングが良すぎる。そんなことを、少し思った。そして。優の視線が。ゆっくり隣へ動く。綾瀬先生。白衣の上に黒シャツ。長い髪を後ろで束ねて。さっきまで普通に笑っていたのに。空気を読んだみたいに、一歩だけ距離を取る。でも。逃げない。「こんにちは」自然な笑顔。「東郷先生、旦那さん迎え?」——迎え。その言葉に。綾香の心が、少し止まる。迎え。そんなこと。今まで一度もなかった。深夜残業。飲み会帰り。熱を出した日。全部、一人だった。なのに。今。優がここにいる。優は少しだけ黙る。それから。「……まあ」曖昧に返した。肯定でも否定でもない。でも。その目だけが。綾香と綾瀬先生の間を、静かに見ている。そして。ぽつり。「楽しそうだったね」時間が、止まる。綾香の呼吸が少し止まる。さっきの。“楽しみにしてます”聞いていた?あの空気。見ていた?少しだけ。気まずさが走る。でも。綾瀬先生が空気を変えるみたいに言った。「東郷先生、かなり頑張ってますよ」さらっと。自然に。でも、どこか守るような声。「まだ仕事始めてないのに、理解も早いし」少し笑う。「思ったより無理するタイプなんで、こっちが気にして見てるくらいです」その言い方が。不思議と自然だった。“俺が守ってる”じゃない。でも。ちゃんと味方の位置にいる。優の眉が、少しだけ動く。「……そうですか」低い声。静かだけど。少しだけ温度が低い。そして。視線が綾香へ戻る。「帰るよ」短い言葉。でも。いつもより少しだけ硬い。綾香は少し迷って。小さく頷いた。「……お疲れさまでした」綾瀬先生を見る。すると。少しだけ目を細めて。「金曜、無理そうならちゃんと言って」低い声。でも。少し笑う。「確認係なんで」思