夫の子を産まされ、妹の身代わりとして死んだ私――今世では冷徹CEOに執着されています のすべてのチャプター: チャプター 441 - チャプター 450

509 チャプター

仕事は遊びじゃない

 数日後。 佳苗は朝から請求書の確認に追われていた。 月末が近い。 取引先ごとに金額と締め日を確認し、不備があれば担当部署へ戻す。昼休みまであと十分というところで、営業部から一通のメールが届いた。「……金額、違う」 添付された発注書と請求データが一致していない。 佳苗はすぐに担当者へ連絡した。「この案件、発注書は八十六万円ですけど、請求データが九十六万円になってます」『え? あ、本当だ』「このまま処理できないので、確認して修正お願いします」『今日中?』「締めが今日なので」『分かりました』 電話を切り、該当箇所に付箋を貼る。 その様子を見ていた同僚が笑った。「榊原さん、相変わらず細かいですね」「十万円違いますから」「まあ、そうですけど」 佳苗は次の書類を手に取った。 すると別の社員が、冗談めかして言う。「でも榊原さんにとって十万なんて、もう誤差みたいなものでしょ?」 佳苗は顔を上げた。「どういう意味ですか?」「旦那さん社長だし」「会社のお金と私の夫は関係ないですよね?」「あ、いや、そういう意味じゃなくて」「十万円違ったら困るから確認してるんです」 相手が気まずそうに笑う。「真面目だなあと思って」「仕事なので」 それだけ答え、佳苗は作業へ戻った。     ◇ 午後、修正されたデータが届いた。 確認すると、今度は問題ない。 処理を終えたところで、上司に呼ばれた。「榊原さん、さっきの件ありがとう。危なかったね」「いえ。締め前に気づけてよかったです」「最近ちょっと処理件数増えてるけど、大丈夫?」「はい。ただ、急ぎの依頼が重なると厳しい日もあります
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社長夫人には逆らえない

 給湯室での一件から、数日が経った。 表立って何かを言われることは減った。 けれど、佳苗にはかえって居心地が悪くなったように感じられた。「これ、榊原さんに頼んでも大丈夫かな」「やめといた方がいいんじゃない?」 少し離れた席から聞こえた声に、佳苗は顔を上げる。「なんで?」「だって、この前……ねえ?」「ああ」 声が小さくなる。 けれど、聞こえないほどではなかった。「下手なこと言ったら、また上司に報告されるかもしれないし」「旦那さんにもね」 くすくすと笑う声。 佳苗は唇を結んだ。 雄吾には何も話していない。 そもそも、自分の職場の人間関係に雄吾を巻き込むつもりなどなかった。「榊原さん」「はい」 声を掛けてきたのは、別の同僚だった。「この契約書、確認お願いしていいですか?」「もちろんです」「あ……急ぎじゃないんで。いつでも大丈夫です」「明日の午前中まででいいですか?」「全然! 本当に暇なときでいいので!」 妙に気を遣われる。 以前なら普通に渡されていた仕事なのに。「明日の午前中に確認しますね」「お願いします」 同僚が去ったあと、また小さな声が聞こえた。「怖いよね」「何が?」「だって社長夫人だよ? こっちとは立場違うじゃん」 佳苗は思わず振り返った。 目が合った瞬間、二人は何事もなかったようにパソコンへ視線を戻した。     ◇ 昼休みになっても、状況は変わらなかった。 休憩室へ入ると、それまで話していた三人が一瞬だけ黙る。「……お疲れさまです」「お疲れさまです」
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大したことじゃない?

「それで?」 雄吾に促され、佳苗は少し迷ってから続きを話した。「最初は、本当にただの冗談みたいな感じだったの。旦那さんが社長なら働かなくてもいいでしょう、とか」「それだけじゃないんだろ」「……うん」 佳苗は給湯室で聞いた言葉も、仕事を押しつけられたことも話した。「私なら残業しても困らないって。生活のために働いてるわけじゃないからって」「それで仕事を回されたのか?」「一回だけね。そのときは本人にも言ったし、上司にも話したよ」「上司は?」「続くなら言ってくれって」「続いてるじゃないか」「ちょっと形が変わったの」 佳苗は苦笑した。「今度は逆。私に仕事を頼むのを怖がられるようになった」「なぜ?」「上司に言いつけられるから。あと――」 一瞬、言うのをためらう。「雄吾にも言いつけるかもしれないから、だって」 雄吾の眉間に皺が寄った。「俺?」「社長夫人には逆らわない方がいい、みたいな」「佳苗は俺の名前を出したのか?」「出してないよ。だから困ってるの」 佳苗は膝を抱えた。「私が何を言っても、『でも旦那さん社長でしょ』ってなるの。バッグも雄吾に買ってもらったものだからとか、お給料なんて全部お小遣いなんでしょうとか」「くだらないな」「うん。くだらない」 佳苗もそう思う。 けれど毎日続けば、くだらないだけでは済まない。「今日なんて、休憩室に入ったら急にみんな黙った」「それで大したことじゃないのか?」「……大したことになってほしくない、かな」 雄吾が佳苗を見る。「仕事、辞めたいのか?」「辞めたくない」 それだけは即答できた。「今の仕事、好きなの。別
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妻が安心して働ける会社

「……と、申しますと?」 役員の笑顔がわずかに引きつった。 雄吾は手にしていたグラスをテーブルへ置いた。「そのままの意味です。妻から少し気になる話を聞きまして」「何かございましたか?」「俺と結婚してから、『働かなくても困らない』『残業しても困らない』と言われているそうです」「それは……」「生活に困っていないからという理由で、本来の業務とは別の仕事を回されたこともあると聞いています」 役員の表情が変わった。「申し訳ございません。私は把握しておりませんでした」「でしょうね」 雄吾も、目の前の男が関与しているとは思っていない。「妻は自分で対応しています。上司にも相談したそうです」「でしたら、社内でも確認を――」「ただ、そのあとも『社長夫人には逆らわない方がいい』『仕事は社会参加みたいなものだ』と言われているようですが」「……そんなことまで?」「ええ」 役員は完全に笑顔を消した。「それは弊社としても看過できません。事実関係を確認いたします」 その言葉に、雄吾は一瞬黙った。 ――だから雄吾も、何もしないでね。 佳苗にはそう言われた。 それでも、ここまで話した以上、なかったことにはできない。「妻は仕事を辞めるつもりはありません」「はい」「あの会社で働くことを気に入っています。だから俺も、妻が安心して働ける会社であってほしいと思っています」「もちろんです」「俺の妻だから特別扱いしろと言っているわけではありません。むしろ逆です」 雄吾は相手をまっすぐ見た。「配偶者が誰であろうと、一人の社員として扱っていただきたい」「おっしゃる通りです」「よろしくお願いします」 雄吾はそこで話を終えた。
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大げさにしすぎ

 人事のヒアリングが始まってから、職場の空気はさらに変わった。 午前中だけで数人が会議室へ呼ばれた。 誰が何を聞かれたのかは分からない。 けれど、理由を想像するのは難しくなかった。「……私、別に悪口なんて言ってないんだけど」 午後、コピー機の前でそんな声が聞こえた。「私だって。ちょっと冗談言っただけ」「でも何言ったかまで聞かれたよ」「誰がそんな細かいこと覚えてるの?」 佳苗は資料を抱えたまま、その横を通り過ぎた。 すると会話が止まった。 まただ。 最近は、佳苗が近づくだけで会話が途切れる。     ◇ 翌日。「榊原さん」 以前、佳苗へ仕事を頼んできた社員が声を掛けてきた。「はい?」「ちょっといいですか?」 人の少ない廊下へ移動すると、相手は困ったような顔をした。「この前の仕事のことなんですけど」「ああ、はい」「私、別に榊原さんに嫌がらせしようと思って頼んだわけじゃないんです」「それは分かってます」「じゃあ、なんで人事にまで話したんですか?」 佳苗は目を瞬いた。「私は上司に相談しただけですよ」「でも今、人事からいろいろ聞かれてて」「会社が確認する必要があると判断したんじゃないですか?」「……こんな大げさになると思わなくて」 その言葉に、佳苗の眉がわずかに寄った。「大げさなんですか?」「そういう意味じゃなくて」「私は仕事を頼まれたことを問題にしたわけじゃないです。夫の収入を理由に、私なら残業しても困らないと言われたことを話しました」「だから、それは冗談というか……」「私は嫌でした」 はっきり言うと、相手は黙った。
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会社の判断

 人事のヒアリングは、それから数日続いた。 佳苗自身が呼ばれたのは最初の一度だけだったが、周囲の社員は何人も順番に話を聞かれていた。 そして翌週の午後。「榊原さん、少しいい?」 再び上司に呼ばれた。「はい」 会議室へ入ると、前回と同じ人事担当者が待っていた。「先日はありがとうございました」「いえ」「その後、複数の社員への聞き取りと、業務の割り振りについて確認を行いました」 佳苗は黙って続きを待つ。「まず、榊原さんがお話しくださった内容については、複数の証言が一致しています」「そうですか」「配偶者の職業や経済状況に関する発言が繰り返されていたことも確認できました。また、業務を依頼する際、それを理由にした発言があったことも事実と判断しています」 佳苗は少しだけ肩の力を抜いた。 自分が気にしすぎていただけではなかった。「会社としては、適切ではない言動だったと考えています」「はい」「関係した社員には個別に指導を行います。特に、繰り返し発言していた社員については、社内規定に沿って対応する予定です」「……処分されるんですか?」「詳細はお伝えできませんが、人事上の措置を含めて検討しています」 そこまでになるとは思っていなかった。 佳苗は少し戸惑ったものの、人事担当者は静かに続けた。「榊原さんが申し訳なく思う必要はありません。会社として確認した上での判断です」「でも……」「今回問題としているのは、単なる雑談だけではありません。配偶者の収入を理由に業務負担を決めようとしたことや、相談後の発言についても確認しています」 そう言われれば、佳苗に口を挟めることではなかった。「分かりました」「今後も何かあれば、上司か人事へ直接相談してください」「ありがとうございます」
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誰が動かしたの?

 翌日も、職場の空気は変わらなかった。 むしろ処分の話が広がったことで、佳苗への態度は以前より慎重になっていた。「榊原さん、この書類お願いしてもいいですか?」「はい」「急ぎじゃないので。本当に、手が空いたときで大丈夫ですから」「今日中に確認しますよ」「いやいや、無理しなくて大丈夫です」 そこまで気を遣われるような仕事ではない。「大丈夫です。これ、今日中に返した方が次の処理が早いですよね?」「まあ、そうなんですけど……」「じゃあやります」 佳苗が書類を受け取ると、相手は妙に恐縮しながら離れていった。 その背中を見送り、ため息をつきたくなる。 これでは普通に仕事をするだけでも、こちらが無理を言っているようだった。     ◇ 昼休み。 佳苗が席を外して戻ってくると、近くで話していた二人が急に声を落とした。「……だから、役員まで知ってたらしいよ」「役員?」「うん。人事に調べるようにって、上から話が来たって」 佳苗の足が止まる。「上司からじゃないの?」「違うみたい。もっと上」「なんでそんなところまで?」「知らないけど」 そこで二人が佳苗に気づいた。「あ……」 気まずそうに黙り込む。 佳苗は少し迷ってから、自分の席へ戻った。 役員。 その言葉だけが頭に残った。 上司へ相談した内容が人事に共有され、その報告が役員まで上がった。 そういう流れなら、別におかしくはない。 けれど――。     ◇ 午後、上司へ書類を届けたついでに、佳苗は尋ねた。「あの、今回の調査って、課長が人事に上げてくださったんですか?」「え?
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守ってほしかったわけじゃない

「確かに言った」 雄吾は言い訳をせずに認めた。「でも、佳苗の会社に連絡したわけじゃない。交流会でたまたま役員に会って、向こうから佳苗の話をされた。それで――」「それで話したの?」「ああ」「同じじゃない」 佳苗の声が少し強くなる。「私、雄吾に何もしないでって言ったよね?」「分かってる」「分かってないよ」 佳苗は立ち上がった。「私がどんな気持ちで会社にいるか、話したじゃない。社長夫人だから働かなくてもいいとか、仕事は暇つぶしみたいなものだとか、そういう扱いが嫌だって」「ああ」「だから自分で言ったの。上司にも相談した。ちゃんと自分でどうにかしようとしてた」「それで状況が悪くなってただろ」 雄吾の言葉に、佳苗は詰まった。 確かにそうだった。 けれど、それとこれとは違う。「だからって、雄吾が出てきたら駄目なんだよ」「俺は誰かを処分しろとは言ってない」「そういうことじゃない!」 思わず声が大きくなった。「雄吾が言えば、それだけで普通の人が言うのとは違うでしょう?」 雄吾が黙る。「私の会社の役員に、別の会社の社長が『妻がこんな扱いを受けてる』って言ったんでしょう? それで何も起きないと思ったの?」「問題がなければ、調査されても何も出なかったはずだ」「問題があったことを否定してるんじゃないよ」 佳苗は首を振った。「会社が調べて、問題があったから処分した。それは分かってる。でもみんなには、そんなの分からない」 今日聞いた言葉を思い出す。 役員まで知っていた。 上から指示が来た。「今だって、社長夫人には逆らわない方がいいって思われてるの。それなのに、本当に夫の社長が出てきて会社の上を動かしたら……」「俺が動かしたわけじゃない」
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私の仕事だから

 翌朝。 佳苗がリビングへ行くと、雄吾はすでに起きていた。「おはよう」「……おはよう」 いつもと同じ挨拶なのに、少しだけぎこちない。 テーブルには朝食が用意されていた。「食べる?」「うん」 向かい合って座る。 雄吾は昨夜のことを蒸し返さなかった。 佳苗も、出勤前にもう一度話し合う気にはなれなかった。「行ってきます」「ああ。行ってらっしゃい」 玄関を出る直前、佳苗は振り返った。「雄吾」「ん?」「昨日のこと、まだ怒ってるから」「ああ」「でも、嫌いになったわけじゃないからね」 雄吾が少しだけ目を見開いた。「分かってる」「ならいい」 佳苗は扉を閉めた。     ◇ 出社すると、異動が決まった社員の机はすでに片づけが始まっていた。「来週からだって」「早いね」「まあ、あれだけ大事になったらね」 そんな声を聞きながら、佳苗はパソコンを立ち上げる。 午前中は何事もなかった。 けれど昼前、別部署から届いた書類を確認していると、一か所数字が合わないことに気づいた。「すみません。ここの金額なんですけど」 担当者へ声を掛ける。「あ、本当だ。すみません」「こちらで直していいですか?」「お願いします」 いつものやり取りだった。 それだけのことなのに、少し嬉しかった。 夫が誰でも関係ない。 佳苗が確認したから、間違いに気づいた。 自分が欲しいのは、こういう当たり前のことだった。     ◇ 午後、上司から声を掛けられた。「榊原さん、最近どう?」「どう、というと?」「周りの態度。ヒアリングのあと、ちょっと変になってるだろ」 佳苗は苦笑した。「気づいてました?」「そりゃね」 上司は困ったように頭を掻いた。「人事からも、調査後に不利益な扱いがないか確認するよう言われてる」「不利益……」「仕事を回さないとか、仲間外れにするとか。そういうのも含めて」 佳苗は少し考えた。「じゃあ、一つお願いしてもいいですか?」「何?」「私を特別扱いしないでください」「してないつもりだけど」「課長じゃなくて、部署全体としてです」 佳苗は言葉を選んだ。「私に仕事を押しつけないでほしい。でも、怖がって仕事を頼まないのもやめてほしいです」「なるほど」「必要なら頼んでください。無理なら断ります。間違ってたら注
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待つこと

 雄吾が帰宅したのは、午後九時を少し過ぎた頃だった。「ただいま」「おかえり」 佳苗がリビングから顔を出すと、雄吾はいつも通りだった。 ただ、佳苗が何も言わないうちから会社のことを尋ねてはこなかった。「ご飯、温める?」「ああ。ありがとう」 雄吾が着替えている間に夕食を用意する。 二人で食べ始めてしばらくしてから、佳苗は自分から口を開いた。「今日ね、課長と話した」 雄吾は箸を置かなかった。「うん」「人事から、調査のあとに私が不利益な扱いを受けてないか確認するように言われてるんだって」「そうか」「それで、仕事を頼まれなくなるのも困るって話した。普通に扱ってほしいって」「うん」 相槌だけが返ってくる。 佳苗は思わず雄吾を見た。「……それだけ?」「何が?」「もっと何か言うかと思った」「聞くって言っただろ」「言ったけど」「佳苗が意見を聞きたいなら言う。でも、まずは聞く」 あまりにも律儀で、佳苗は少しだけ笑ってしまった。「極端なんだから」「反省中だからな」「じゃあ、意見を聞いてもいい?」「ああ」「私の言ったこと、おかしくないよね?」「おかしくないと思う」 雄吾は少し考えてから続けた。「仕事を押しつけるのも、逆に仕事から外すのも、佳苗が望んでることじゃないんだろ」「うん」「なら、普通に仕事を割り振ってくれっていうのは当然じゃないか」「そうだよね」 佳苗はほっと息を吐いた。 雄吾と喧嘩をしたからといって、意見を聞きたくなくなったわけではない。「昨日のことなんだけど」 佳苗が言うと、雄吾の表情が少し引き締まった。「うん」
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