เข้าสู่ระบบ雄吾が帰宅したのは、午後九時を少し過ぎた頃だった。「ただいま」「おかえり」 佳苗がリビングから顔を出すと、雄吾はいつも通りだった。 ただ、佳苗が何も言わないうちから会社のことを尋ねてはこなかった。「ご飯、温める?」「ああ。ありがとう」 雄吾が着替えている間に夕食を用意する。 二人で食べ始めてしばらくしてから、佳苗は自分から口を開いた。「今日ね、課長と話した」 雄吾は箸を置かなかった。「うん」「人事から、調査のあとに私が不利益な扱いを受けてないか確認するように言われてるんだって」「そうか」「それで、仕事を頼まれなくなるのも困るって話した。普通に扱ってほしいって」「うん」 相槌だけが返ってくる。 佳苗は思わず雄吾を見た。「……それだけ?」「何が?」「もっと何か言うかと思った」「聞くって言っただろ」「言ったけど」「佳苗が意見を聞きたいなら言う。でも、まずは聞く」 あまりにも律儀で、佳苗は少しだけ笑ってしまった。「極端なんだから」「反省中だからな」「じゃあ、意見を聞いてもいい?」「ああ」「私の言ったこと、おかしくないよね?」「おかしくないと思う」 雄吾は少し考えてから続けた。「仕事を押しつけるのも、逆に仕事から外すのも、佳苗が望んでることじゃないんだろ」「うん」「なら、普通に仕事を割り振ってくれっていうのは当然じゃないか」「そうだよね」 佳苗はほっと息を吐いた。 雄吾と喧嘩をしたからといって、意見を聞きたくなくなったわけではない。「昨日のことなんだけど」 佳苗が言うと、雄吾の表情が少し引き締まった。「うん」
翌朝。 佳苗がリビングへ行くと、雄吾はすでに起きていた。「おはよう」「……おはよう」 いつもと同じ挨拶なのに、少しだけぎこちない。 テーブルには朝食が用意されていた。「食べる?」「うん」 向かい合って座る。 雄吾は昨夜のことを蒸し返さなかった。 佳苗も、出勤前にもう一度話し合う気にはなれなかった。「行ってきます」「ああ。行ってらっしゃい」 玄関を出る直前、佳苗は振り返った。「雄吾」「ん?」「昨日のこと、まだ怒ってるから」「ああ」「でも、嫌いになったわけじゃないからね」 雄吾が少しだけ目を見開いた。「分かってる」「ならいい」 佳苗は扉を閉めた。 ◇ 出社すると、異動が決まった社員の机はすでに片づけが始まっていた。「来週からだって」「早いね」「まあ、あれだけ大事になったらね」 そんな声を聞きながら、佳苗はパソコンを立ち上げる。 午前中は何事もなかった。 けれど昼前、別部署から届いた書類を確認していると、一か所数字が合わないことに気づいた。「すみません。ここの金額なんですけど」 担当者へ声を掛ける。「あ、本当だ。すみません」「こちらで直していいですか?」「お願いします」 いつものやり取りだった。 それだけのことなのに、少し嬉しかった。 夫が誰でも関係ない。 佳苗が確認したから、間違いに気づいた。 自分が欲しいのは、こういう当たり前のことだった。 ◇ 午後、上司から声を掛けられた。「榊原さん、最近どう?」「どう、というと?」「周りの態度。ヒアリングのあと、ちょっと変になってるだろ」 佳苗は苦笑した。「気づいてました?」「そりゃね」 上司は困ったように頭を掻いた。「人事からも、調査後に不利益な扱いがないか確認するよう言われてる」「不利益……」「仕事を回さないとか、仲間外れにするとか。そういうのも含めて」 佳苗は少し考えた。「じゃあ、一つお願いしてもいいですか?」「何?」「私を特別扱いしないでください」「してないつもりだけど」「課長じゃなくて、部署全体としてです」 佳苗は言葉を選んだ。「私に仕事を押しつけないでほしい。でも、怖がって仕事を頼まないのもやめてほしいです」「なるほど」「必要なら頼んでください。無理なら断ります。間違ってたら注
「確かに言った」 雄吾は言い訳をせずに認めた。「でも、佳苗の会社に連絡したわけじゃない。交流会でたまたま役員に会って、向こうから佳苗の話をされた。それで――」「それで話したの?」「ああ」「同じじゃない」 佳苗の声が少し強くなる。「私、雄吾に何もしないでって言ったよね?」「分かってる」「分かってないよ」 佳苗は立ち上がった。「私がどんな気持ちで会社にいるか、話したじゃない。社長夫人だから働かなくてもいいとか、仕事は暇つぶしみたいなものだとか、そういう扱いが嫌だって」「ああ」「だから自分で言ったの。上司にも相談した。ちゃんと自分でどうにかしようとしてた」「それで状況が悪くなってただろ」 雄吾の言葉に、佳苗は詰まった。 確かにそうだった。 けれど、それとこれとは違う。「だからって、雄吾が出てきたら駄目なんだよ」「俺は誰かを処分しろとは言ってない」「そういうことじゃない!」 思わず声が大きくなった。「雄吾が言えば、それだけで普通の人が言うのとは違うでしょう?」 雄吾が黙る。「私の会社の役員に、別の会社の社長が『妻がこんな扱いを受けてる』って言ったんでしょう? それで何も起きないと思ったの?」「問題がなければ、調査されても何も出なかったはずだ」「問題があったことを否定してるんじゃないよ」 佳苗は首を振った。「会社が調べて、問題があったから処分した。それは分かってる。でもみんなには、そんなの分からない」 今日聞いた言葉を思い出す。 役員まで知っていた。 上から指示が来た。「今だって、社長夫人には逆らわない方がいいって思われてるの。それなのに、本当に夫の社長が出てきて会社の上を動かしたら……」「俺が動かしたわけじゃない」
翌日も、職場の空気は変わらなかった。 むしろ処分の話が広がったことで、佳苗への態度は以前より慎重になっていた。「榊原さん、この書類お願いしてもいいですか?」「はい」「急ぎじゃないので。本当に、手が空いたときで大丈夫ですから」「今日中に確認しますよ」「いやいや、無理しなくて大丈夫です」 そこまで気を遣われるような仕事ではない。「大丈夫です。これ、今日中に返した方が次の処理が早いですよね?」「まあ、そうなんですけど……」「じゃあやります」 佳苗が書類を受け取ると、相手は妙に恐縮しながら離れていった。 その背中を見送り、ため息をつきたくなる。 これでは普通に仕事をするだけでも、こちらが無理を言っているようだった。 ◇ 昼休み。 佳苗が席を外して戻ってくると、近くで話していた二人が急に声を落とした。「……だから、役員まで知ってたらしいよ」「役員?」「うん。人事に調べるようにって、上から話が来たって」 佳苗の足が止まる。「上司からじゃないの?」「違うみたい。もっと上」「なんでそんなところまで?」「知らないけど」 そこで二人が佳苗に気づいた。「あ……」 気まずそうに黙り込む。 佳苗は少し迷ってから、自分の席へ戻った。 役員。 その言葉だけが頭に残った。 上司へ相談した内容が人事に共有され、その報告が役員まで上がった。 そういう流れなら、別におかしくはない。 けれど――。 ◇ 午後、上司へ書類を届けたついでに、佳苗は尋ねた。「あの、今回の調査って、課長が人事に上げてくださったんですか?」「え?
人事のヒアリングは、それから数日続いた。 佳苗自身が呼ばれたのは最初の一度だけだったが、周囲の社員は何人も順番に話を聞かれていた。 そして翌週の午後。「榊原さん、少しいい?」 再び上司に呼ばれた。「はい」 会議室へ入ると、前回と同じ人事担当者が待っていた。「先日はありがとうございました」「いえ」「その後、複数の社員への聞き取りと、業務の割り振りについて確認を行いました」 佳苗は黙って続きを待つ。「まず、榊原さんがお話しくださった内容については、複数の証言が一致しています」「そうですか」「配偶者の職業や経済状況に関する発言が繰り返されていたことも確認できました。また、業務を依頼する際、それを理由にした発言があったことも事実と判断しています」 佳苗は少しだけ肩の力を抜いた。 自分が気にしすぎていただけではなかった。「会社としては、適切ではない言動だったと考えています」「はい」「関係した社員には個別に指導を行います。特に、繰り返し発言していた社員については、社内規定に沿って対応する予定です」「……処分されるんですか?」「詳細はお伝えできませんが、人事上の措置を含めて検討しています」 そこまでになるとは思っていなかった。 佳苗は少し戸惑ったものの、人事担当者は静かに続けた。「榊原さんが申し訳なく思う必要はありません。会社として確認した上での判断です」「でも……」「今回問題としているのは、単なる雑談だけではありません。配偶者の収入を理由に業務負担を決めようとしたことや、相談後の発言についても確認しています」 そう言われれば、佳苗に口を挟めることではなかった。「分かりました」「今後も何かあれば、上司か人事へ直接相談してください」「ありがとうございます」
人事のヒアリングが始まってから、職場の空気はさらに変わった。 午前中だけで数人が会議室へ呼ばれた。 誰が何を聞かれたのかは分からない。 けれど、理由を想像するのは難しくなかった。「……私、別に悪口なんて言ってないんだけど」 午後、コピー機の前でそんな声が聞こえた。「私だって。ちょっと冗談言っただけ」「でも何言ったかまで聞かれたよ」「誰がそんな細かいこと覚えてるの?」 佳苗は資料を抱えたまま、その横を通り過ぎた。 すると会話が止まった。 まただ。 最近は、佳苗が近づくだけで会話が途切れる。 ◇ 翌日。「榊原さん」 以前、佳苗へ仕事を頼んできた社員が声を掛けてきた。「はい?」「ちょっといいですか?」 人の少ない廊下へ移動すると、相手は困ったような顔をした。「この前の仕事のことなんですけど」「ああ、はい」「私、別に榊原さんに嫌がらせしようと思って頼んだわけじゃないんです」「それは分かってます」「じゃあ、なんで人事にまで話したんですか?」 佳苗は目を瞬いた。「私は上司に相談しただけですよ」「でも今、人事からいろいろ聞かれてて」「会社が確認する必要があると判断したんじゃないですか?」「……こんな大げさになると思わなくて」 その言葉に、佳苗の眉がわずかに寄った。「大げさなんですか?」「そういう意味じゃなくて」「私は仕事を頼まれたことを問題にしたわけじゃないです。夫の収入を理由に、私なら残業しても困らないと言われたことを話しました」「だから、それは冗談というか……」「私は嫌でした」 はっきり言うと、相手は黙った。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。







