Alle Kapitel von 「君は俺の花だ」妹に婚約者を奪われた私を、冷徹華道家が溺愛して離してくれません: Kapitel 51 – Kapitel 60

107 Kapitel

第51話 幼い日の記憶

 綾人は、掌に乗せた白い花のお守りを静かに見つめていた。 もう何年も使い込まれた布は少し色褪せ、それでも丁寧に手入れされてきたことが分かる。 隣には、古びた写真。 幼い少年と少女が並んで笑っている。 綾人はその写真を指先でそっとなぞった。 すると、ゆっくりと遠い記憶が蘇ってくる。     ◇ ――十数年前。 夏の日だった。 蝉の鳴き声が耳いっぱいに響いている。 幼い綾人は、大きな屋敷を抜け出し、一人、公園のベンチに座っていた。 膝の上には分厚い本。花について書いてある本だ。 けれど、一文字も頭に入ってこない。「綾人さま」「姿勢を正してください」「神宮寺の跡取りなのですから」 今日も朝から何度も聞いた言葉だった。 勉強。 稽古。 礼儀。 毎日同じことの繰り返し。 誰も「疲れたか」とは聞かない。 誰も「楽しいか」とは聞かない。 綾人は本を閉じ、小さく息を吐いた。「……つまらない」 ぽつりと漏れた、その時だった。「いたーーっ!」 元気な声が公園中へ響く。 綾人が顔を上げる。 小さな女の子が、こちらへ向かって一生懸命走ってきていた。 肩で揺れる髪。汗で少し赤くなった頬。 そして両手には、小さな白い花。 彼女は、綾人の祖父が講師を務めている華道教室に最近入ったばかりの生徒だった。「はい! 綾人くんにあげる!」 息を切らしながら、その花を綾人へ差し出す。 綾人は丸い瞳を瞬かせた。「……俺に?」「うん!」 少女は満面の笑みで頷く。「元気ないから!」 あまりにも真っ直ぐな答えだった。 綾人は思わず自分の顔へ手を当てる。 そんなことを言われたのは初めてだった。「なんで……そう思った」「だって、綾人くん。ぜーんぜん笑ってないもん!」 少女は首を傾げながら笑う。 その一言に、綾人は言葉を失った。 屋敷では誰もそんなことを言わない。 笑う必要なんてない。 そう思って生きてきた。「だからね、これ、あげる。本当は綾人くんも、お花大好きなんだもんね」 少女は白い花を綾人の手へ乗せた。「お花見ると元気になるよね」 そう言って、にこっと笑った。 太陽みたいな笑顔だった。 綾人は掌の花を見る。 小さくて、白くて。 風に揺れるその花を見ていると、不思議と胸の奥の重たさが少しだけ軽くなる気が
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第52話 友達の名前

 翌週の華道教室の日。綾人は祖父の屋敷の廊下を静かに歩いていた。 以前なら稽古の日など憂鬱でしかなかった。 けれど今日は違う。長い廊下を歩きながら、無意識に庭のほうへ目が向く。「……」 まだ来ていない。 それだけなのに、小さく肩を落としてしまった自分に気付き、綾人は眉をひそめた。 何を期待しているんだ。 そう思った、その時だった。「綾人くん!」 元気いっぱいの声が庭のほうから響く。 綾人が顔を上げる。 門の向こうから、送ってくれたであろう父親に一言二言なにかを話した少女は、両手をぶんぶん振りながら綾人の方に向かって走ってきていた。 息を切らしながら、それでも笑っている。「おはよ!」 綾人の前でぴたりと止まり、満面の笑みを浮かべている。「……おはよう」 嬉しそうに笑う少女に、綾人も口元が自然と緩んだ。「綾人くん、今日、嬉しそう」 綾人はその言葉に思わず苦笑する。「……嬉しそう?」「うん!」 澪は何の迷いもなく頷く。「綾人くんのお顔、ちゃんと見てるから分かるよ!」 その言葉に、綾人は少しだけ照れたように視線を逸らした。     ◇ 稽古が始まるまでの少しの時間。 少女とともに綾人は庭に出ていた。少女は、咲く花を一つひとつ指差しながら歩いている。「あれはね、先生が昨日生けてたノリウツギ」「あっちはね、お父さんが好きなお花で、百日草」 楽しそうに話す澪を、綾人は少し後ろから眺める。「全部覚えてるのか」「うん!」 澪は振り返って笑う。「お花にはね、みんなお名前があるから。友達のお名前、忘れちゃかわいそうでしょ?」 綾人は足を止めた。 そんなふうに考えたことはなかった。 花は稽古のためのもの。 作品を作るためのもの。 そう教えられてきた。けれど、少女は違う。 一輪一輪、話しかけるように笑っている。「綾人くん」「なんだ」「このお花、今日元気ないね」 小さな花を心配そうに覗き込む。「昨日暑かったからかなぁ」 そっと葉っぱを撫でる、細くて小さな指。「がんばってね」 優しく微笑む。 たったそれだけなのに、綾人にはなぜか花がとても嬉しそうにしているように見えた。     ◇ 稽古が終わり、少女は帰る支度をしていた。「またね」 少女は玄関で綾人に手を振る。「来週も遊ぼうね!」「遊び
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第53話 白い花のお守り

 夏休みも終わりに近付いた頃。 華道教室の庭には、今日もたくさんの花が咲いていた。「綾人くん!」 澪は小さな手を大きく振りながら駆け寄ってくる。「見て見て!」 胸の前には、小さな布袋がぶら下がっていた。「……それは?」 綾人が尋ねると、澪は得意そうに胸を張る。「お守り!」「お守り?」「うん!」 澪は布袋を大事そうに両手で包んだ。「昨日ね、作ったの」 そう言って、袋の口を少しだけ開く。 中には、小さく押し花にされた白い花が入っていた。あの日、公園で二人が持って帰った白い花だった。「この前、一緒に摘んだお花だよ。綾人くんにも、あげる」 同じものが澪から差し出される。綾人は目を丸く見開いた。「押し花にするとね、ずーっと残るんだって、お父さんが教えてくれたの」 澪は少しだけ肩を竦めるようにして、嬉しそうに笑った。「おそろい!」 その一言だけで十分だった。 綾人は掌の上にそっと乗せられたお守りをじっと見つめる。 少し歪な縫い目。一生懸命作ったことが分かる。「これね、悲しいときとか、寂しいときとかね、私、これ見たら元気になれるんだ」 こんなふうに、自分のためだけに何かを作ってもらったことなんて、一度もなかったから、綾人は思わず口を閉ざしてしまう。「……ありがとう」 ようやく、そっと紡ぎ出したその言葉に、澪はぱぁっと表情を明るくさせた。「気に入ってくれた?」「ああ」 綾人は静かに頷いた。「絶対になくさない」     ◇ その日の帰り道。 澪は父親と手を繋ぎながら歩いていた。 楽しそうに今日あったことを話している。「今日はね、綾人くん、笑ってた!」 父親は優しく笑った。「そうか」「最初は全然笑わなかったんだよ?」 澪は少し考えてから、小さく笑う。「でもね、お花のお話すると、いつもニコニコーってしてくれるの」 父親は娘の頭を優しく撫でた。「澪は、人を笑顔にするのが得意なんだな」「そうかなぁ?」「そうだよ」 少し離れた屋敷の窓から、綾人は澪と父親が仲睦まじく帰って行く様子を静かに見つめていた。 掌の中には、小さな白い花のお守り。 そっと胸へ抱き寄せる。 心の奥が、ほんのりと温かくなるような気がする。部屋の中へと戻る足取りが、不思議と軽いような気がした。     ◇ 数日後の華道教室の日
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第54話 待つ花

 翌週も、綾人はいつものように祖父の屋敷の庭へ足を運んだ。 門の前を見る。けれど、この日も澪はまだ現れない。 風だけが静かに庭の木々を揺らしていた。「……」 少し待ってみる。もしかしたら遅れているだけかもしれない。 そう思って庭の白い花を眺めながら時間を過ごした。 けれど、その日も、稽古が終わる時間になっても澪は来なかった。     ◇ 稽古が終わり、帰ろうとした綾人は廊下で祖父を見つけた。「おじいさま」「どうした」 綾人は少しだけ迷ってから口を開く。「……澪……。白石澪さんは……?」 祖父は一瞬だけ目を細めた。「最近、お見かけしないので」 静かな沈黙が流れる。 祖父は庭へ視線を向けたまま、小さく息を吐いた。「白石さんのところは、しばらく来られん」「……どうして」「今は聞かんほうがいい」 祖父はそれ以上何も言わなかった。綾人も、それ以上は聞けなかった。ただ、良いことではないことだけは、ハッキリと分かった。     ◇ それから毎週。綾人は庭を見るようになった。 門を見る。 白い花を見る。 廊下を歩きながら、無意識に探してしまう。「綾人くん!」 あの元気な声が聞こえる気がして振り返る。 けれど、そこには誰もいない。 静かな庭だけが広がっていた。 そして、澪が来ないまま、夏が終わる。 秋がやって来る。 庭の花も少しずつ姿を変えていった。 それでも綾人は、屋敷へ来るたび門を見る。 自分でも理由は分からなかった。 ただ、今日こそ来るかもしれない。 そんな気持ちが、どこかに残っていた。「綾人」 ある日、祖父が声を掛けた。「待つことも華道だ」「……え?」 祖父は庭の一輪の蕾を見つめていた。「花は人の都合では咲かん」 静かな声だった。「咲く時を待つ。散る時を受け入れる。それもまた、花と向き合うということだ」 綾人は祖父の横顔を見つめた。 まだ意味はよく分からない。けれど、その言葉だけは胸の奥へ静かに残った。     ◇ その日、祖父の屋敷から自分の家へと帰る帰り道。綾人は胸元から、小さな白い花のお守りを取り出した。 少し色褪せた布袋。 澪が一針一針縫ってくれた、小さなお守り。「……また会えるよな」 誰に聞かせるでもない、小さな呟きだった。 返事はない。 風だけが静かに吹き
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第55話 またあの笑顔に

 数日後。華道教室の稽古が終わると、祖父が静かに綾人へ声を掛けた。「綾人」「はい」「今日は少し付き合え」 祖父はそれだけ言って歩き始めた。綾人は理由も分からないまま、その背中についていく。     ◇ 連れて来られたのは、小高い丘の上にある静かな墓地だった。 風が草木を揺らし、蝉の声だけが遠くで響いている。 祖父は花を一束取り出すと、一つの墓石の前へ静かにしゃがみ込んだ。 綾人もその隣へ立つ。 墓石に刻まれた名前へ自然と視線が向いた。『白石恒一』 その文字を見た瞬間、綾人は息を呑んだ。「……白石」 祖父は静かに頷く。「ああ。澪ちゃんのお父さんだ」 綾人は言葉を失った。祖父は花を供えながら、小さく目を伏せる。「夏の終わりだった。交通事故だったそうだ」 その短い言葉だけで十分だった。 綾人は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。「澪ちゃんも、一緒だった」 祖父は続ける。「澪ちゃんの命は助かった。だが……」 そこで一度言葉を止め、小さく息を吐く。「あの子の笑顔は、あの日から消えてしまった」 風が静かに吹き抜ける。 綾人は墓石を見つめたまま、何も言えなかった。     ◇ 帰り道。 祖父と並んで歩きながらも、綾人はずっと黙っていた。 頭の中に浮かぶのは、いつも笑っていた澪の姿だった。――綾人くん!――おそろい!――ずっと友達でいようね! 元気いっぱいに笑う姿ばかりが思い出される。 でも、その笑顔は消えてしまった。 ひとりで泣いていたのだろうか。 寂しかったのだろうか。 怖かったのだろうか。 何も知らなかった自分には、想像することしかできなかった。     ◇ その夜。 自室へ戻った綾人は、机の引き出しを静かに開けた。 一枚の写真。以前、華道教室が終わったときに、澪の父親が撮影してくれたものだ。 そして、小さな白い花のお守り。 澪が一生懸命作ってくれた、大切なお守りだった。 綾人はそれを掌へ乗せ、ゆっくりと握り締める。「……待ってる」 小さく呟く。「また、澪が笑える日まで」 返事なんて、どこからも聞こえてこない。 それでも綾人は、お守りを胸へ抱き寄せた。     ◇ ――そして、時は流れる。 静かな書斎。 机の引き出しの中には、今も変わらず
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第56話 お前に任せる

 今日も神宮寺家のダイニングには、穏やかな朝の空気が流れていた。「澪さま、おはようございます」 ひまわりや芹香たちがいつものように明るく澪を迎える。「おはようございます」 澪も自然と笑顔で挨拶を返した。 神宮寺家で暮らし始めた頃は、こんなふうに笑って朝を迎えることなんてできなかった。 けれど今は違う。いつまでもここにはいられないと分かっているのに、この屋敷で過ごす時間が、少しずつ当たり前になり始めていた。「今日はアトリエでしたね」 朝食を運びながら佐伯が微笑む。「はい。今日は新しいことを教えてくださるそうです」 澪は頷きながら答える。「まあ、それは楽しみですね」 佐伯は嬉しそうに目を細めた。 小さく頷いた澪の表情も、自然と柔らかく綻んでいた。     ◇ その様子を少し離れた席から綾人は静かに見つめていた。 使用人たちと笑い合う澪。 花の話をすると目を輝かせる澪。 困ったように笑う姿まで、あの頃と少しずつ重なっていく。「綾人さま?」 今日の仕事について話をしに来ていた相良が小さく声を掛ける。綾人は静かに視線を戻した。「どうかなさいましたか」「いや、なんでもない」 綾人はそう言いながらも、その口元はほんの少しだけ緩んでいた。     ◇ 支度を終え、アトリエへ向かう車の中。 澪は窓の外を眺めながら、小さく笑った。「最近、不思議なんです」「何がだ」「花を見るのが、前よりもっと楽しくなりました」 綾人は何も言わず、ただ静かに続きを待つ。「花屋で働いていた頃も好きでした。でも今は……」 澪は少し考えてから照れくさそうに笑って続けた。「花とお話しできるようになった気がするんです」 その一言に、綾人の瞳がわずかに揺れた。「そうか」 綾人はそっと目を閉じる。幼い日の記憶にそっと触れるように。     ◇ アトリエへ到着すると、入口で先に到着していた相良が待っていた。「お待ちしておりました」 そう言って一枚の資料を綾人へ手渡す。綾人は内容を確認すると、小さく頷いた。「……ちょうどいいな」 綾人のその言葉に、澪は首を傾げる。綾人は資料を閉じると、静かに澪を見た。「次の仕事が入った」「はい。次は一体どんな内容でしょうか」 一拍置いて、綾人は口を開く。「昔から世話になっている方からの依頼だ。……澪
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第57話 誰のための花

 先方から指定された日。綾人と澪は都内の閑静な住宅街を歩いていた。「こちらです」 相良に案内されて辿り着いたのは、手入れの行き届いた一軒家だった。 庭には季節の花々が咲き、小さな風車が風に合わせてゆっくりと回っている。 インターホンを押すと、しばらくして柔らかな笑顔の年配の女性が玄関へ現れた。「まぁまぁ。綾人先生、いらっしゃい」「お久しぶりです」 綾人が軽く頭を下げる。「今日はこの子を連れてきました」 そう言って澪を振り返って、女性へと紹介してくれる。「し……、白石澪です。本日はよろしくお願いいたします」 澪も慌てて頭を下げる。「うふふ、そんなに緊張しなくていいのよ」 女性は優しく笑った。「私は吉川和子。主人と二人暮らしなの。中に主人もいるから、紹介するわね」 初対面にも関わらず、拒んだり、怪訝な顔をされることなく柔らかな笑顔で迎えてくれる。澪の緊張が少しだけほぐれていく。 リビングへ案内されると、ロッキングチェアに座っていた白髪の男性がゆっくり立ち上がった。「先生、いつもありがとう」「いいえ。こちらこそ。正一さん、お元気でしたか?」 綾人は静かに微笑む。いつもよりも柔らかい雰囲気を纏っている。 男性――吉川正一は足を少し引きずるように綾人に近づいた。「最近、少し膝を悪くしてしまっての」 和子が正一の代わりに答え、苦笑する。「だから家にいる時間が増えてしまって」 澪は部屋を見回した。 大きな窓。 庭が見えるソファと、さっきまで正一が座っていたロッキングチェア。 二人掛けの食卓。 そして玄関まで続く廊下。 どこへ花を飾れば、この家で一番綺麗に見えるのだろう。 そんなことを自然と考えている自分に気付く。「今日は、彼女に担当させてもよろしいでしょうか」 綾人が静かに言った。 澪は小さく息を呑む。「もちろん、私も隣で見ていますので」 その言葉に少しだけ緊張したが、隣に立つ綾人の落ち着いた表情を見ると、不思議と心が静かになっていった。「ええ。もちろん。綾人先生から事前にお話は聞いていたし。どうぞ、自由にお花で飾ってくださいな」 和子はそう言って、澪を玄関先のほうへ促した。いつも玄関先に飾っているから、と。 案内された玄関先で、澪は花材へ目を向ける。 今日の依頼は、自宅に飾る季節の花。 豪華さでは
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第58話 束の間の甘い関わり

 その日の作業は、夕方にはひと段落していた。アトリエの中では、スタッフたちが後片付けを進めている。「澪」 綾人に名前を呼ばれ、澪は振り返った。「花器を片付けるから手伝え」「はい」 澪は返事をすると、使い終えた花器を両腕で抱えた。 大小さまざまな花器を棚に戻していく。しかし、一番上の段だけはどうしても届かない。「……ん」 背伸びをする。あと少し。けれど指先が届かない。花器を落としてしまいそうで、一度持ち直す。「もうちょっと……」 もう一度背伸びをした、その瞬間だった。すっと、頭の横から長い腕が伸びる。「わっ」 振り向くと、すぐ後ろに綾人が立っていた。 澪が持っていた花器を自然に受け取ると、そのまま一番上の棚へ戻す。「これでいいか」「……は、はい」 近い。思ったより近い距離に、澪の鼓動が一気に速くなる。ほんのりと甘いような、苦いような香りが澪の鼻をくすぐった。 綾人は何事もなかったように棚を閉めると、そのまま次の花器へ手を伸ばした。「重いものは無理に持つな」「でも、このくらいなら……」「落としたら危ない」 短く言って、また花器を持ち上げる。 澪は赤くなった顔を隠すように俯いて、小さく「ありがとうございます」と呟いた。     ◇ 片付けが終わる頃には、すっかり日も傾いていた。 澪は流し台で花ばさみを洗っていた。 今日は少しゆったりめの服を着てきてしまったせいで、何度も袖が落ちて来る。「……もう」 手が濡れているから触れない。 どうしようかと困っていると、そっと誰かの手が澪の服の袖に触れた。「えっ」 驚いて振り向くとそこにいたのは綾人だった。 何も言わず、澪の服の袖をそっと丁寧に捲っていく。「服が濡れる」 あまりにも自然な動作だった。澪だけが固まっている。「……あ、ありがとうございます」 声が少し裏返る。「あと、髪も邪魔だろ」 そう言って、澪の横髪をそっと耳にかけた。思わず落としそうになった花ばさみを、澪は慌ててぎゅっと握り込んだ。 綾人は気付いているのかいないのか、そのまま別の道具を片付け始めた。 澪は思わず自分の耳へ触れる。さっき触れられた場所だけ、少し熱い気がした。     ◇ 帰り道。車が赤信号で止まる。「澪」 今日は、綾人の車ではなく、運転手つきの仕事用の車での移動だった。
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第59話 華道展への案内

 次の休日。澪はアトリエに到着すると、その瞳を瞬かせた。先にアトリエに行くと言っていた綾人が、黙々と作業台の上へ静かに花を並べていたから。 百合や桔梗、カラーやクチナシ。 それから、淡い緑の枝葉。 澪がまだ扱ったことのない花もたくさん混ざっている。「今日は、これを使う」 綾人の言葉に、澪は小さく頷いた。「どんなテーマで生けるんですか?」 そう尋ねると、綾人は花を見つめたまま静かに答える。「俺のためだ」「……綾人さんの、ため?」 一瞬、意味が分からなかった。「俺をイメージして生けろ」 あまりにも自然に言われた一言に、澪は目を丸くする。「わ、私がですか?」「ああ」「でも……」 困った。 ホテル装花や吉川夫妻の家では、飾る場所や相手の暮らしを考えればよかった。 けれど今回は違う。 相手は綾人。 毎日顔を合わせているのに、どんな花が似合うのかと聞かれると分からなかった。「好きな花ってありますか?」「特別これというものはない」「好きな色は?」「特にない」「えぇ……」 澪は思わず困ったように笑ってしまう。綾人は腕を組んだまま、静かに続けた。「答えを聞くな」「え?」「俺を見て、考えろ」 その一言で、アトリエが静まり返る。 澪は小さく息を吐き出すと、綾人をじっと見つめた。 黒いシャツ。 無駄のない立ち姿。 穏やかだけれど、どこか近寄り難い空気。 厳しいのに、不思議と安心できる人。 そして、花を見る時だけ少しだけ優しくなる目。(……綾人さんらしい花) 澪はゆっくりと花へ視線を移した。 一輪目を選ぶ。 白い百合。 凛と立つ姿が綾人によく似ている気がした。 二輪目は桔梗。 派手ではないけれど、芯の強さを感じる。 最後に柔らかな緑を添える。 厳しさだけじゃない。 仕事では見せない優しさも、この人にはある。 そんなことを考えながら、澪は一本一本、丁寧に生けていく。 気付けば周囲の音は聞こえなくなっていた。ただ花と、綾人だけを思い浮かべていた。「できました」 しばらくして、澪は小さく息を吐いた。 綾人はゆっくり作品へ近付き、黙って眺める。 長い沈黙。澪の胸が少しずつ落ち着かなくなっていく。「やっぱり……違いましたか?」 不安になり尋ねると、「いや」 と、綾人は小さく首を横へ振った
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第60話 安心

 華道展への参加を決めた翌日。 澪はアトリエの作業台の前で、小さく深呼吸をした。 今日は作品を生ける日ではない。 それなのに、昨日以上に緊張している自分がいた。「そんなに力むな」 いつの間にか隣へ立っていた綾人が静かに言う。「は、はい」 返事はしたものの、肩に入った力はなかなか抜けなかった。 華道展。 自分の作品を、人に見てもらう。 そう思うだけで胸が落ち着かない。「まず決めるのは、花じゃない」 そんな澪を見て、綾人は机の上へ一冊のスケッチブックを置いた。「テーマだ」 澪は首を傾げる。「テーマ……ですか?」「ああ」 綾人は頷く。「何の花を生けるかじゃない。何を伝えたいか」 その言葉に、澪は静かに息を呑んだ。 華道は花を使って、想いを表現する世界。 だから最初に決めるべきなのは、使う花ではなく、自分が伝えたい気持ち。「何でもいい」 綾人は静かに言う。「嬉しかったことでもいい。悲しかったことでもいい。忘れられない景色でもいい」 綾人はそう言って、一拍息継ぎをするように言葉を置いた。「お前の中にあるものを探せ」 澪は小さく頷いた。 けれど、そう言われると難しい。 伝えたいこと。 自分の中にあるもの。 今まで誰かのために生きることばかり考えてきた。 自分が何を伝えたいかなんて、考えたこともない。     ◇ その日の午後。綾人は澪に何も教えなかった。 花や道具にも触れさせない。ただアトリエの庭へと澪を誘った。「見てみろ」 と、庭をゆったりと歩きながら綾人は言う。 澪はそっと足元の花へと視線を落とした。 春の終わりを告げる花。 風に揺れる若葉。 光を受けて輝く花びら。 澪も黙って歩く。 立ち止まる。 しゃがみ込む。 一輪の白い花へそっと触れる。 その瞬間だった。「……」 胸が少しだけ温かくなる。 懐かしい。 そんな感覚。 けれど理由は分からない。「何を感じた」 綾人が静かに尋ねる。 澪は花を見つめたまま答えた。「安心……しました」「安心?」「はい」 少しだけ澪は笑う。「この花を見ていると、なんだか……帰ってきた、って気持ちに。……変ですよね」 眉を下げて澪は綾人を見上げる。 綾人は、ただ静かに、澪のその笑顔を見つめていた。     ◇ 夕方。帰る支度
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