เข้าสู่ระบบ綾人の車は、夕暮れの市街地を抜け、小さな公園の前で静かに停まった。「ここは……?」 澪は窓の外を見つめ、小さく息を呑む。 見覚えのある遊具。少し古びたベンチ。色とりどりの花が咲く花壇。 胸の奥が、懐かしさで静かに震えた。「降りよう」 綾人が車を降りる。 澪もそのあとへ続いた。 春風が頬を撫でる。 花壇には、季節の花々が穏やかに咲いていた。「……ここ、知っています」 澪はゆっくり辺りを見回す。 そして、一つのベンチを見つめた瞬間、小さく目を見開いた。「思い出したか」 綾人が静かに尋ねる。 澪はゆっくり頷いた。「……はい」 少しだけ涙ぐみながら笑う。「綾人くんと、初めて会った場所」 幼い綾人が、一人で座っていた場所。 分厚い花の本を抱えて、どこか寂しそうだった男の子。 ただ笑って欲しくて、話しかけ続けたあの日。 それだけの時間だった。 けれど、あの日があったから、今の自分たちがいる。「綾人くんも覚えていてくれたんですね」 澪がそう言うと、綾人は静かに笑った。「忘れられるはずがない」 短い言葉。けれど、その声には何年もの想いが込められていた。「お前は、少し忘れてしまっていたようだけれど」「はい」 澪は少しだけ照れたように笑う。「でも、今は全部思い出しましたよ? あの日々のこと」 あの日の風も。花も。笑顔も。 綾人に会うのが楽しみで教室に通っていたことも。 全部。全部。 綾人はゆっくりとベンチへ腰掛ける。 澪もその隣に座った。 しばらく二人は何も話さない。 ただ、春風だけが静かに流れていく。「昔の俺は、毎日がつまらなかった」 綾人がぽつりと口を開く。 神宮寺の跡取りらしくなるために、稽古漬けの日々。 勉強や礼儀も徹底的に叩きこまれた。今ならそれが全部大事なことだったと分かる。 でも。「誰も、俺自身を見てくれた気がしなかった」 澪は静かに耳を傾ける。以前、綾人が両親のことを話してくれた日のことも思い出していた。「でも、あの頃、澪だけが違った」 綾人は花壇を見つめた。「神宮寺家の跡取りじゃなくて、俺を見てくれていた」 だから不思議だった。初めて、一緒にいて苦しくない人だと思えた。「……ありがとう」 綾人のその一言に、澪はゆっくり首を振る。「違います。お礼を言うなら、私のほう
春風が柔らかく吹く休日。 神宮寺家の離れにある教室には、朝からたくさんの人が集まっていた。 子ども連れの家族や、年配の夫婦。友人同士で参加した女性たちもいる。 華道経験のない人ばかりだったが、その表情は期待に満ちている。 教室の中央には、色とりどりの春の花と、フローラルフォームの入った小さな籐の花かごが人数分並べられていた。 澪は教室の前へ立つと、小さく深呼吸をする。「本日は、ご参加いただきありがとうございます」 少しだけ緊張した声。何度登壇しても人前に立つのは緊張する。 それでも、集まった参加者たちは優しく微笑みながら耳を傾けてくれていた。「えっと……今日は、上手に生ける日ではありません」 澪が講師をやる日、決まって最初に紡がれる言葉。 その一言に、教室のあちこちで「え?」という小さな声が上がる。 澪は優しく目を細め微笑み、頷き返す。「今日は、お家へ連れて帰りたくなる花を作る日です」 そう言って、目の前の花かごを優しく持ち上げる。「玄関でも、食卓でも、お部屋でも。皆さんが『ここへ飾りたいな』と思う場所を想像しながら、楽しんで作っていただけたら嬉しいです」 その言葉に、参加者たちは嬉しそうに瞳を輝かせ、そして頷いた。 ◇「じゃあ、このお花はここ!」「いいねぇ」「お母さん、これでどう?」 教室には、すぐに賑やかな声が広がり始めた。 澪は一人ひとりの間をゆっくり歩く。「素敵ですね」 澪がそう声をかけると、年配の女性が少し照れながら笑う。「色を入れすぎちゃったかしら」 澪は優しく首を横に振った。「春らしくて、とても温かい雰囲気です」「本当?」「はい。見ているだけで元気になります」 その言葉に女性は嬉しそうに頬を緩めた。 少し先では、小さな男の子が真剣な顔で花を挿している。「先生!」 元気な声に振り向く。「これ、お母さんにあげるんだ!」 少し曲がったチューリップが花かごの真ん中で揺れていた。 澪はしゃがみ込み、その花かごを見つめる。「うん、とっても可愛い」「ほんと?」「はい」 澪は笑顔で頷いた。「お母さん、きっと喜びます」 男の子は照れくさそうに笑った。「先生」 今度は若い夫婦が澪を呼ぶ。「すごく楽しくて、毎週お花を飾ってみたくなりました」「ぜひおうちでも作ってみてくださ
神宮寺流大展が閉幕して数日後。 神宮寺家の客間には、春の柔らかな陽射しが差し込んでいた。 テーブルには湯気の立つほうじ茶と、佐伯が用意した季節の和菓子。 綾人と澪、そして綾人の両親が向かい合って座っている。「今年の大展は、例年以上に一般のお客様が多かったな」 父親が湯呑みを置きながら静かに口を開く。「ああ、そうだな」 綾人も小さく頷いた。「一般公開の日数を増やした効果もあったのでしょうね」 母親も穏やかに微笑む。 澪は会場の様子を思い出し、頬を緩めながら湯呑みを持ち上げた。「皆さん、とても楽しそうでした」 あの会場で交わした笑顔が自然と思い浮かぶ。「『家でも飾ってみたい』って言ってくださる方がたくさんいて嬉しかったです」 その言葉に、父親は静かに澪へ視線を向けた。「澪さん。そのことについてなんだが……」「はい?」「理事会でも話題になったんだ」 『理事会』という言葉に、澪は思わず姿勢を正した。あまりよく思わない人がいらっしゃったのだろうか、と澪は息を呑み込む。 その澪の緊張に気付き、父親はふっと表情をほころばせた。「君の花カゴは、一般のお客様の滞在時間が最も長かった作品だったそうだ」「え……」 思わず目を丸くする。「作品の前で会話が生まれ、足を止め、質問が続いた」 父親は穏やかな表情のまま続ける。「『飾ってみたい』『作ってみたい』という声も多かったと報告を受けている。だから一つ、提案がある」 父親は湯呑みを静かに置く。「神宮寺流で花カゴのワークショップを開いてみないか」「……花カゴのワークショップ、ですか?」 澪の思考が止まる。「ああ」 父親は静かに頷いた。「神宮寺流の門下生だけではなく、地域の方々にも参加していただき、花をもっと身近に感じてもらう催しとしてな」 澪は何度も瞬きを繰り返した。「で、でも……神宮寺流の雰囲気とは、全然違いますし……」 澪は助けを求めるように、思わず綾人を見る。「澪」 綾人は静かに澪の名前を呼ぶと、そっと澪の手に自分の手を重ねた。「あれも立派な神宮寺流の作品だ」 あまりにも迷いのない声だった。「全く問題ない。だからこそ、大展へもあれでいいと送り出したんだ」 その言葉を聞いて、澪の瞳が大きく揺れる。 そう言ってもらえたことは、とても嬉しい。けれどまだ少しだ
神宮寺流大展当日の朝。 まだ陽が昇りきらない時間にもかかわらず、神宮寺家の屋敷は静かな活気に包まれていた。 玄関先では相良が車の準備を整え、使用人たちも慌ただしく、それでいて乱れのない動きで最後の確認を進めている。 澪は深く息を吸い込み、自分の作品を見つめた。 何度も手直しを重ねた花カゴ。 ようやく、「これが私の花だ」と胸を張って言える作品になった。「緊張しているか」 隣に立つ綾人が静かに尋ねる。 澪は苦笑しながら頷いた。「はい。すごく。今までで一番緊張しているかも」 正直に答えると、綾人はふっと微笑む。「それでいい」 そう言って、澪の頭へ軽く手を置いた。「お前らしい花を見せればいい」 柔らかくかけられた綾人の言葉に、澪は胸元のお守りにそっと手を伸ばし、そして小さく頷いた。 私らしい花。 綾人の言葉を頭の中で繰り返す。澪は宝物を抱き寄せるように、そっと花カゴに優しく手を伸ばした。 ◇ 会場に到着すると、大きな展示会場が目の前に広がっていた。 高い天井。白を基調とした広々とした空間。 すでに多くの門下生たちが準備を始めている。 澪はその光景を見つめながら、小さく息を呑んだ。 今までは雑誌やテレビでこの光景を見るだけだった。 まさか自分がここに作品を展示するようになるなんて夢にも思っていなかった。「白石さん」 受付の門下生が笑顔で頭を下げる。「こちらが白石さんのスペースになります」 出展者として、自分の名前が書かれた札を受け取る。 その小さな札を見つめながら、澪は口元を緩め、頷いた。 指定された展示スペースに着くと、澪はそっと花カゴを置いた。 丁寧に位置を整え、花の向きを直す。 完成した作品を見つめ、静かに息を吐いた。 春らしい花々が、明るくカゴの中で咲き誇っている。「……花カゴですか?」 澪の近くで準備をしていた門下生が、小さく呟いたのが聞こえて、澪は振り向いた。「珍しいな。神宮寺流では見たことがないかもしれない」 他の門下生たちの視線も次々と集まってくる。 上品な花器ではなく、素朴な花カゴ。 豪華さを競う作品ではなく、暮らしへと寄り添う優しさが滲んでいる。 分かっていたことだけれど、場違いだっただろうかと、澪は少しだけ緊張しながら自分の作品へと視線を落とした。すると隣へ綾人が立
綾人の両親が帰国してから数日が経った。離れの華道室には、色とりどりの花が並べられていて、澪はその前で顎に手をやり考え込んでいた。 神宮寺流大展まで、あと二ヶ月半ほどある。 その頃には季節も春らしくなっているだろう。ならば今はベースの花材だけ選ぶべきだろうか。 そうすると、花器の雰囲気もそれに合わせたものが良さそうだ。大小さまざまなものが床へ整然と並べられているけれど、まだしっくりくるものはない。「難しい……」 ぽつりと本音が漏れる。 いつも悩むテーマは、今回すぐに決めることができた。 『自分らしい花』を生けること"。 けれど、その『自分らしさ』を表現する花材や花器に悩む。 目についた花器へ数本花を挿してみる。 何だか誰かの真似をしているようで、自分らしくないような気がした。 隣にいた綾人は何も口を挟まず、何度もやり直す澪の様子を静かに見守っていた。 澪は何度目かのため息をつく。 新しい、自分だけの花を生けたい。 そう思うほど、答えは見えなくなっていった。 ◇ 翌日。澪はアンジェリケに出勤していた。「いらっしゃいませ」 いつものように花の水を替え、お客様を迎える。 市場から届いた花の下処理をして、花筒へと入れ、店頭へと並べていると、「これ、ラッピングお願いできますか?」 と、小さな女の子を連れた女性が声を掛ける。 手には一輪のチューリップ。「はい、もちろんです」 澪は笑顔で花を包み始めた。「今日はプレゼントなんです」 女性がそう教えてくれると、女の子も嬉しそうに口を開いた。「おばあちゃんのお誕生日!」「まあ、そうなんですね」 澪も自然と笑顔になる。女の子に選んでもらった赤いリボンをきゅっと結んだそのとき。「あ! ママ、あのカゴかわいい!」 女の子が、店先にある、小さな花カゴを指差した。澪も顔を上げて、女の子の視線を追う。 そのまま飾れるよう、小さな季節の花をまとめたアレンジメント。 女の子は、早足で花カゴに近付くと、嬉しそうに両手で抱き上げた。「これなら、おばあちゃん、すぐ飾れるよ」「本当ね。これなら、花瓶もいらないし、そのまま飾れるものね」 母親も感心したようにうなずき、笑む。そして女の子が持っている花カゴを指差した。「こちらもいただけるかしら」「はい、かしこまりました」 澪が
父親は湯呑みを静かに置いた。「そういえば、綾人。年度末の神宮寺流大展だが——」 その一言で、客間の空気が少しだけ引き締まる。 澪は思わず父親の顔を見つめた。「今年は少し趣向を変えようと思っている」 父親は穏やかな口調のまま続ける。「海外で神宮寺流を紹介する中で改めて感じた。華道はもっと多くの人へ届けられるものだ、と」 綾人が静かに頷く。「一般公開の日程を増やすのか」「ああ。その予定で進めている」 神宮寺流大展。 年に一度開催される、神宮寺流最大の展覧会。 門下生たちが一年の成果を披露する場であり、華道界でも大きな注目を集める催しだ。 澪も何度か新聞や雑誌で見たことがある。 まさか、その話をこんな近くで聞く日が来るなんて思ってもいなかった。 父親はゆっくりと澪へ視線を向ける。「澪さん」「は、はい」「この大展に興味はあるかね」「え……?」 澪は目を瞬かせた。 その意味を理解するまで、ほんの数秒かかった。「わ、私が……ですか?」 思わず自分を指差す。 父親は静かに頷いた。「もちろん、無理にとは言わない」 穏やかな声で続ける。「まだ神宮寺流へ入って日も浅いことも承知している。だが、一度、澪さんの花を見てみたいと思っている」 その言葉に、澪は息を呑んだ。「綾人が、ここまで一人の人間を認め、熱心になっている姿を私は初めて見た」 客間が静かになる。 綾人は何も言わない。 ただ静かに父親の話を聞いていた。「だから私は興味がある」 父親は柔らかく微笑んだ。「綾人と私の父が信じた、君の花を」 ――自分が生ける花を見たい。 そう言ってくれることに、澪の胸は途端に熱くなった。「あなた」 母親がくすくすと笑う。「そんな言い方じゃ、澪ちゃんが余計に緊張しちゃうでしょう?」 父親は少しだけ眉を上げる。「そうか?」「そうよ」 母親は澪へ優しく微笑んだ。「難しく考えなくていいの。私たちはね、ただ澪ちゃんが生けたお花を見たいだけなの。お花や人に寄り添えるあなたの作品は、きっと素敵なのでしょうね」 そう、どこか夢でも見ているかのような雰囲気で綾人の母は続ける。「だから、一緒に参加してみませんか?」 その柔らかな言葉に、澪の肩から少しだけ力が抜ける。 それでも、不安は残っていた。「でも……ご迷惑にならな
車のドアが静かに閉まる。外の雨音が遠くなった。 澪は膝の上で手を握る。 隣には、先程出会ったばかりの男性が、窓際に頬杖をついて流れる景色を見ている。 車内は驚くほど静かだった。 隣に座っているだけなのに緊張する。 けれど……なぜだろう。不思議と怖くはない。 むしろ……どこか居心地の良ささえ感じてしまっているような――。「……寒くないか」 不意に掛けられた言葉に、澪の肩がびくりと跳ねた。「は、はいっ」 思わず声が裏返る。「全然、寒くないです」「それならいい」 「じ……神宮寺さんは、」 寒くないですか、と言いかけた言葉は、「綾人」 と短い声に遮られた。「え?」
「……澪?」 聞き慣れた声だった。 その瞬間、澪の体は強張る。 振り返った先には、息を切らせた拓真が立っていた。 雨に濡れた髪。 乱れた呼吸。 まるで必死に追いかけてきたみたいだった。「澪……!」 澪の姿を見て、安堵したように表情を緩めた拓真が、一歩近づいてくる。 けれど澪は思わず一歩足を後ろに引いた。 その仕草に、拓真の顔が傷付いたように歪む。「待ってくれ。話を聞いてほしい」「……」「誤解なんだ」 その言葉に、澪は思わず顔を上げた。 誤解。 その言葉が胸に刺さる。 だって澪は見たのだ。確実に。この目で。 ホテルの前で。 拓真が美羽に口づける姿を。「誤
温かかった。 冷え切っていた体が、じんわりと熱を取り戻していく。 雨の音が遠い。 白石澪は、抱き締められていることに気付いてからも、しばらく動けなかった。「……あの」 震える声が漏れる。 すると、男――神宮寺綾人は、ようやく我に返ったように目を伏せた。「……すまない」 けれどその腕は、なかなか離れない。 まるで、離したら消えてしまうものを抱えているみたいに。「あ、あの……」 澪がもう一度そう口を開くと、綾人はようやくゆっくりその腕を離した。 黒い手袋越しの指先が、最後まで名残惜しそうに澪のブラウスの袖に触れていたことに、澪は気付かない。「怪我
白石澪は、二十六年間の人生の中で、自分が『誰かに選ばれる人間』だと思ったことがない。「ごめんね、お姉ちゃん。私、ほんとダメでぇ……」 ソファに座った妹の美羽が、困ったように眉を下げる。 ふわふわに巻いたグレージュの髪。淡いピンクのネイル。思わず守ってあげたくなるような可愛らしい顔。「バイト先でも失敗ばっかりで……」「ううん。気にしないで。それよりも、美羽は早く休んで? 体に障るわ」 澪は笑った。美羽の代わりにノートパソコンの前に座って、大学の課題のレポートに向き合う。 澪が働く花屋は、比較的穏やかな客が多い、しかし今日は珍しくクレーム対応をして、頭