LOGINギャラリーには、重苦しい静寂が流れていた。 誰も口を開けない。 美羽は床へ座り込んだまま、唇を震わせている。「ち……違うんです」 涙を零しながら首を横へ振る。「私、本当に、お姉ちゃんに押されて……っ」 しかし、その言葉に返事をする者はいなかった。 綾人は拾い上げた花を静かに花器の横へ置く。 折れた茎を見つめ、小さく息を吐いた。「……残念だな」 その一言だけだった。 怒りでもない。 失望でもない。 ただ静かに落とされた言葉。 それが美羽の胸へ重くのしかかる。「……綾人さん」 美羽は縋るようにその名を呼んだ。 綾人は視線すら向けない。代わりに、ギャラリーのオーナーへ静かに一礼した。「申し訳ありません。大切な個展を……。お騒がせしました」 オーナーはゆっくりと首を横へ振る。「いいえ」 そう答えると、オーナーは美羽の前へ歩み寄った。 その穏やかな表情は変わらない。けれど、その瞳だけは真っ直ぐだった。「白石先生の、妹さんでいらっしゃいましたよね」 美羽はゆっくり顔を上げる。「申し訳ございませんが、本日はお引き取りください」 静かで、穏やかな口調が、ハッキリとそう告げた。美羽は、眉根を寄せるように「え?」とその表情を歪めた。「ほかのお客様も、不安になってしまいます」「そ、そんな……っ、どうして!? 私、本当にお姉ちゃんに突き飛ばされたんです!」「本日の個展は、白石先生の大切な日です」 オーナーは優しく微笑む。「その時間を守ることも、私の務めです」 美羽の表情が固まった。周囲の来場者たちの視線が突き刺さる。「そ、そうね」「今日は個展を見に来たんだもの」「先生、お怪我はありませんか?」 そして、ぽつり、ぽつりと聞こえる声。 美羽は初めて、自分へ向けられる視線の変化を感じた。 そのときだった。「澪先生」 小さな手が、そっと澪の服の裾を掴む。先ほど泣いていた女の子だった。「うん? どうしたの?」 澪はゆっくりしゃがみ込み、視線を合わせた。 女の子は涙を拭きながら、小さく首を振った。「先生、泣かないで」 その一言に、澪ははっと目を見開く。 自分では気付いていなかった。いつの間にか、自分の頬を涙が伝っていたことに。「先生のお花、また作れるよ」 女の子は崩れた作品を見て、それから澪を見る。「
ギャラリーは、静まり返っていた。 誰も言葉を発することができない。 床には割れた花器と散った花びらや折れた枝。 そして、震えるように座り込む美羽。「ご、ごめんなさい……」 美羽は涙を浮かべながら肩を震わせていた。「私が、お姉ちゃんを怒らせちゃったから……」 か細い声が静かな空間へ落ちる。 来場者たちは困惑したように顔を見合わせていた。「白石先生が……?」「まさか……」 小さなざわめきが広がる。 その中で、綾人だけが静かだった。 彼はゆっくりとしゃがみ込み、床へ落ちた花を拾い上げる。 折れた茎へ、そっと指を添えた。それから、視線を床へ落とす。 割れた花器。 飛び散った破片と、倒れ込む花たち。 何も言わず、ただ、静かにそのひとつひとつを見つめていた。「綾人さん……」 美羽が涙声で、綾人を呼ぶ。「私、お姉ちゃんに押されてぇ……」 その言葉に澪の肩が跳ねる。「違う」と言いたかったけれど、狭まった喉はうまく言葉を紡いでくれなくて、ただ震える手を握りしめた。 綾人は答えない。美羽のほうを見ることもなかった。 その代わりに、床へ落ちていた花ばさみを拾い、静かに閉じた。 カチリと、小さな音だけが響く。 その仕草に、ギャラリーは再び静寂へ包まれた。 しばらくして、綾人は立ち上がる。「相良」「はい」「こっちに来い」 相良はすぐに歩み寄った。 綾人は割れた花器を指差す。「どう見える」 突然の問いだった。相良はしゃがみ込み、破片を静かに見渡す。 しばらくして、小さく目を細めた。「……妙ですね」 その声に、美羽の肩がぴくりと震える。「花器は本来、ぶつかっただけではこちらに倒れないはずです」 その一言に、周囲が息を呑んだ。 綾人は何も言わない。 相良が続ける。「他の作品を見ていただければ分かると思うのですが……」 そう言って、他の作品へと視線を向けた。周りの人たちも、同じように視線を巡らせる。「私たちはこういう風に誰かがぶつかってしまうことも想定して、奥側に倒れてもいいように展示することを心がけております」 澪は、その言葉に「あっ」と声を上げた。 初めての展覧会のとき、展示台の少し奥側に置くようにと綾人に指示されたのを思い出した。 決して通路側に花器が落ちてしまうことがないように、と。 今回も、そ
個展が始まって三十分ほどが過ぎる。ギャラリーには、穏やかな時間が流れていた。「先生、この作品、とても優しい気持ちになりますね」「ありがとうございます」 澪は来場者一人ひとりと言葉を交わしながら、静かに作品への想いを伝えていた。「この『ありがとう』は、どなたへの想いなんですか?」 年配の女性が、一つの作品の前で尋ねる。澪は少し照れくさそうに笑った。「一人だけではないんです」「え?」「ここまで出会ってきた皆さんへ。そして……花へ」 その言葉に、女性は優しく微笑んだ。「素敵ですね」 柔らかな空気が、ギャラリーいっぱいに広がっていた。 そのとき、入口のベルが、小さく鳴った。 澪は反射的に入口を見る。そこに立っていた人物を見た瞬間、その笑顔が止まった。「……美羽」 白いワンピースに柔らかなカーディガン。 長い髪を揺らしながら、美羽はいつも通り可愛らしく笑っていた。「こんにちはぁ」 まるで、何事もなかったかのような笑顔。 少し離れた場所にいた相良が、一歩だけ前へ出る。 そのときだった。「相良」 綾人の低い声が静かに響く。 相良は足を止めた。 綾人は美羽から目を離さないまま、小さく告げる。「今日は澪の個展だ」「……承知いたしました」 相良は静かに一礼し、それ以上動かなかった。 美羽はその様子を見て、小さく口元を緩める。(やっぱり、私のこと、ここでは追い出せないんだ) 心の中だけで笑う。 今日は澪の晴れ舞台。大勢のお客さんがいる。 騒ぎにはできない。 それを、美羽は分かっていた。「お姉ちゃん」 美羽は花を眺めながら、ゆっくり近付く。「個展、おめでとう」 その声に、近くにいた来場者が振り返る。「あら? 妹さんですか?」 美羽は照れたように笑った。「はい。小さい頃から、お姉ちゃんにはいっぱいお世話になってるんです。だから、今日はどうしても来たくて」 美羽の柔らかい笑顔に、周りの雰囲気も明るくなる。「まぁ。仲の良い姉妹なんですね」 そんな声があちこちから聞こえる。「……ありがとう」 澪は、その場で何かを否定するわけにもいかず、ただ小さく微笑んだ。「先生!」 不意に、元気な声がギャラリー内に響く。扉を開けて入ってきたのは、ワークショップに参加してくれた小さな女の子だった。「白石先生、来ちゃい
個展初日の朝。 澪は綾人とともにギャラリーへとやって来た。 秋晴れの空の下、庭ではコスモスが風に揺れている。 木製の扉の前で、ギャラリーのオーナーが穏やかな笑顔で二人を出迎えた。「おはようございます」「おはようございます。本日はよろしくお願いいたします」 澪が深く頭を下げると、オーナーは嬉しそうに目を細めた。「こちらこそ。今日という日を、ずっと楽しみにしていました」 その言葉に、澪も自然と笑みを返す。 扉が開かれる。 柔らかな木の香りと、花の香りが静かに迎えてくれた。 ◇ ギャラリーには、十五作品が静かに並んでいた。 大きな作品もあれば、小さな作品もある。 けれど、そのどれもが『ありがとう』という想いで繋がっている。 澪はひとつひとつの作品の前に立ち、ゆっくりと見つめた。 花びらの向きを少しだけ整える。 葉の角度を直す。 ほんの数ミリだけ枝を動かす。 その細かな手入れを終えるたび、小さく頷いた。(うん……大丈夫) 花たちも、この穏やかな空気の中でどこか嬉しそうに見えた。 少し離れた場所では、綾人が静かにその様子を見守っていた。 何も言わない。 何も手を貸さない。 今日は澪の個展だから。 ここに並ぶ花たちは、もう澪自身の作品だった。 ふと、一つの作品へ視線が止まる。 一輪だけ、ほんの少しだけ角度が変わっていた。 綾人は動かず、そのまま黙って見つめる。 そして、数秒後。「あっ」 澪も同じことに気付いた。 作品の前へ歩み寄り、そっと枝へ触れる。 ほんの少しだけ向きを変えると、それだけで、作品全体の空気がすっと整った。 綾人は静かに目を細める。(もう、大丈夫だ) 自分が何か指示をしなくても自分で気づき、整える澪の姿を見て、綾人は何も言わず小さく頷いた。 ◇「白石先生」 オーナーが澪へと歩み寄る。「はい」「やっぱり、白石先生をお呼びして良かったと思いました」 澪は驚いたように目を瞬かせる。「作品はもちろん、本当に素敵です」 オーナーは作品をひとつずつゆっくりと見回し、優しい眼差しを向けた。「でも、それ以上に感じるんです。先生は、最後までお花へ『ありがとう』って伝えていらっしゃるんですね」 澪は思わず作品たちに目を向けた。 花びらを整えるときも、葉へ触れるときも、
個展まで、一ヶ月を切った。 綾人のアトリエの一角では、澪が大きなスケッチブックを机いっぱいに広げている。 ページには花の名前や色の組み合わせ、作品のイメージが何度も書き直されている。「うーん……」 思わず唸り声が漏れた。 個展のテーマは決まった。『ありがとう』 けれど、その想いを十五作品でどう表現するのか。 考えれば考えるほど、難しく思えてしまう。「十五作品って……思っていたより多いですね」 少し離れた場所では、綾人が静かに花を生けていた。「個展だからな」 その一言に、澪は苦笑した。「全部同じような作品になっちゃいそうで」 ノートへと視線を落とす。 どのページにも『ありがとう』という文字だけが並んでいる。「もっと、ひとつひとつ違う想いを込めたいんです」 綾人は一本のリンドウを花器へ添えながら、小さく口を開いた。「ありがとうにも種類がある」 澪は顔を上げる。「種類……ですか?」「ああ」 綾人は花へ視線を向けたまま続けた。「親への感謝」 一輪の花を添える。「友への感謝」 もう一本。「恩師への感謝」 枝の向きを少し変える。「花への感謝」 葉を整える。「そして、自分への感謝」 最後の一輪が静かに花器へ収まった。 澪はその言葉を繰り返すように小さく呟く。「自分への……感謝」 その瞬間だった。「あっ!」 勢いよくノートを開く。「そうか!」 夢中でペンを走らせる。『父へ』『宗一郎先生へ』『アンジェリケ』『子どもたちへ』『支えてくれた人へ』 次々と言葉が浮かんでいく。「ありがとうって、一つじゃないんですね……!」 澪は嬉しそうに笑った。「ひとりひとり、相手を想い浮かべれば……!」 その姿を見て、綾人はほんの少しだけ目を細めた。そのときだった。 コンコン、と扉がノックされる。「失礼いたします」 相良がいつもの白い、澪のスケジュールが書かれた手帳を手に入ってきた。「ギャラリーのオーナー様からご連絡です」「はい」「個展の案内状を作成されるそうで、テーマと、ご来場くださる皆さまへの一言をお願いしたいとのことでした」「……一言?」 ペンを握り、ノートに向き合っていた澪の手が止まる。「コメントも必要なんですか?」「はい」 相良は穏やかに微笑んだ。「作品だけではなく、先生
個展の開催が正式に決まってから数日後。 澪は綾人とともに、小さなギャラリーを訪れていた。 街の一角に佇む木造の建物。 白い壁には蔦が優しく絡み、小さな庭には季節の花が風に揺れている。「まぁ、来てくださったんですね」 扉を開けると、穏やかな笑顔の女性が出迎えてくれた。 ワークショップで出会った、あの白髪の女性。「本日はよろしくお願いいたします」 澪が深く頭を下げると、女性も嬉しそうに微笑む。「こちらこそ。ずっと楽しみにしていました」 ギャラリーの中は木の温もりに包まれていた。 大きな展示会場ではない。 けれど、その分、一輪一輪の花をゆっくり眺められるような、優しい空間だった。「こちらで十五点ほど展示していただければと思っています」 オーナーは壁や展示台を指差しながら説明していく。 澪は真剣な表情で頷き、一つひとつ確認していった。「そして、もしよろしければ、今回の個展にテーマを付けていただけませんか?」 オーナーは優しく笑う。「テーマ……ですか?」「ええ。作品を見に来てくださる方へ、白石先生が一番届けたい想いです」 その言葉に、澪は少し考え込んだ。 届けたい想い。 今、自分が一番伝えたいもの。 すぐには答えが見つからなかった。「急がなくても大丈夫ですよ」 オーナーは湯呑みにお茶を注ぎながら柔らかく笑う。「花は不思議ですから。無理に言葉を探さなくても、その方らしい答えを運んできてくれます」「……はい」 澪も自然と笑みを返した。 ◇ 打ち合わせを終えた帰り道。 ゆっくりと並んで、紅葉に満ちた並木道を歩く。「テーマ、難しいですね」 澪が小さく笑う。「まだ全然思い浮かばなくて」 綾人は前を向いたまま答えた。「難しく考えるな」「え?」「お前が今、一番伝えたいことでいい。前の展覧会のときも、そうだっただろ」 綾人からは余計な説明もアドバイスもない。 けれど、その言葉は澪の胸へ静かに落ちていく。(そっか。私が、一番伝えたいこと……) 答えはまだ見つからないままだけれど、不思議と不安はなくなった。 澪は神宮寺家の屋敷までの道を歩きながら、小さく世界を見渡した。 ◇ その夜。自室の机に向かった澪は、一冊のノートを開いた。 白紙のページに思いつく言葉を書いていく。『季節』『笑
車のドアが静かに閉まる。外の雨音が遠くなった。 澪は膝の上で手を握る。 隣には、先程出会ったばかりの男性が、窓際に頬杖をついて流れる景色を見ている。 車内は驚くほど静かだった。 隣に座っているだけなのに緊張する。 けれど……なぜだろう。不思議と怖くはない。 むしろ……どこか居心地の良ささえ感じてしまっているような――。「……寒くないか」 不意に掛けられた言葉に、澪の肩がびくりと跳ねた。「は、はいっ」 思わず声が裏返る。「全然、寒くないです」「それならいい」 「じ……神宮寺さんは、」 寒くないですか、と言いかけた言葉は、「綾人」 と短い声に遮られた。「え?」
「……澪?」 聞き慣れた声だった。 その瞬間、澪の体は強張る。 振り返った先には、息を切らせた拓真が立っていた。 雨に濡れた髪。 乱れた呼吸。 まるで必死に追いかけてきたみたいだった。「澪……!」 澪の姿を見て、安堵したように表情を緩めた拓真が、一歩近づいてくる。 けれど澪は思わず一歩足を後ろに引いた。 その仕草に、拓真の顔が傷付いたように歪む。「待ってくれ。話を聞いてほしい」「……」「誤解なんだ」 その言葉に、澪は思わず顔を上げた。 誤解。 その言葉が胸に刺さる。 だって澪は見たのだ。確実に。この目で。 ホテルの前で。 拓真が美羽に口づける姿を。「誤
温かかった。 冷え切っていた体が、じんわりと熱を取り戻していく。 雨の音が遠い。 白石澪は、抱き締められていることに気付いてからも、しばらく動けなかった。「……あの」 震える声が漏れる。 すると、男――神宮寺綾人は、ようやく我に返ったように目を伏せた。「……すまない」 けれどその腕は、なかなか離れない。 まるで、離したら消えてしまうものを抱えているみたいに。「あ、あの……」 澪がもう一度そう口を開くと、綾人はようやくゆっくりその腕を離した。 黒い手袋越しの指先が、最後まで名残惜しそうに澪のブラウスの袖に触れていたことに、澪は気付かない。「怪我
白石澪は、二十六年間の人生の中で、自分が『誰かに選ばれる人間』だと思ったことがない。「ごめんね、お姉ちゃん。私、ほんとダメでぇ……」 ソファに座った妹の美羽が、困ったように眉を下げる。 ふわふわに巻いたグレージュの髪。淡いピンクのネイル。思わず守ってあげたくなるような可愛らしい顔。「バイト先でも失敗ばっかりで……」「ううん。気にしないで。それよりも、美羽は早く休んで? 体に障るわ」 澪は笑った。美羽の代わりにノートパソコンの前に座って、大学の課題のレポートに向き合う。 澪が働く花屋は、比較的穏やかな客が多い、しかし今日は珍しくクレーム対応をして、頭