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身代わり秘書、社長の親友に溺愛求婚されました
身代わり秘書、社長の親友に溺愛求婚されました
Author: むぎゅ

第1話 

Author: むぎゅ
午前3時、琴川澄音(ことかわ すみね)はスマホの着信音で目を覚ました。

まだ夢と現実の境目にいるような意識の中で、氷室清陽(ひむろ すばる)の低い声が聞こえてきた。

「企画書をバー『ノクターン』まで持ってこい」

澄音は一瞬で目が覚め、慌てて身支度を整えると、企画書を手にタクシーで店へと向かった。

指定された個室は19階だった。スタッフはエレベーターの前まで案内すると、そのまま立ち去った。

澄音は化粧と身なりを整えてから、個室の前へ向かった。

扉にはわずかな隙間が空いていた。そこから、中の会話がはっきりと漏れ聞こえてきた。

「氷室社長、琴川さんはもう随分長くあなたのそばにいますよね。年齢的にも、そろそろ身を固める時期じゃないですか?」

ノックしようと持ち上げかけた澄音の手は、空中でぴたりと止まった。

「あいつか?身ぎれいで従順ではあるが、家柄が平凡すぎる。氷室家が迎え入れる相手じゃない。ただの遊び相手だ」

清陽の口調は、まるで手慰みの品について語るように、淡々として冷たかった。

澄音は息を詰まらせ、宙に浮かせていた手をそっと下ろした。

――ただの遊び相手、か……?

澄音は個室に入らず、書類をスタッフに預けてその場を離れた。

夜更け、雨は土砂降りになっていた。通りには人影ひとつない。

澄音は30分待ってもつかまらない配車サービスをキャンセルし、傘を開いて雨の中へ踏み出した。

清陽のあの言葉が、せわしい太鼓のような雨音に混ざり、耳の奥で鳴り続けている。ばらばらと叩きつける音は、澄音の世界をまるごと呑み込もうとしているかのようだった。

周囲の人間は、澄音が清陽のそばにいて4年になることを知っていた。

けれど本当は、澄音が清陽を好きになってから、今年で8年目になっていた。

澄音は、初めて清陽に会った日のことを思い出した。

大学の入学式の日も、ひどい雨だった。講堂のマイクは調子が悪く、外の雨音に負けて、壇上の声がほとんど届かなかった。

新入生たちは話を聞き取れず、次々に眠り込んでいた。澄音もまた、うとうとと舟をこいでいた。

式がOBの祝辞に移った瞬間、それまで静まり返っていた講堂が、突然ざわめきに包まれた。天井まで震わせるような歓声が上がり、澄音も隣の同級生に揺り起こされた。

澄音は前から2列目の中央に座っていた。目を開けたその瞬間、壇上に立つ清陽と視線が合った。

白いシャツにスラックス姿の清陽は、近寄りがたいほど冴え冴えとしていて、群れの中にいてもひとりだけ浮かび上がって見えた。

清陽の顔は、忘れようにも忘れられないものだった。澄音はたった一目見ただけで、その顔を4年ものあいだ胸の奥に焼きつけていた。

卒業後、澄音は望み薄だと思いながら氷室グループに履歴書を送った。ところが、思いがけず採用が決まった。

そうして澄音は、流されるように清陽の秘書になった。

その2か月後、酒の席のあと、澄音はまた流されるように清陽と関係を持った。

いつもは自制的で、礼儀を崩さない清陽が、私生活であれほど箍を外れるなど、誰も想像していなかった。

月に数日、どうしても触れられない時期を除けば、清陽は澄音を手放そうとしなかった。

4年が経った。澄音はずっと待っていた。この関係が隠しごとではなくなり、人前に出せるものになる日を待っていた。

それなのに、澄音が待ち続けた果てに聞いたのは、「ただの遊び相手だ」という一言だけだった。

冷たい雨粒が斜めに吹きつけ、澄音の頬を濡らした。頬に残った一筋の水滴は、近くで見れば涙と少しも変わらなかった。

澄音が家に着いたときには、もう七時になっていた。バッグの中でスマートフォンがまた鳴り、澄音は取り出して画面を見てから、通話ボタンを押した。

電話の向こうから、年を重ねた父の声が聞こえてきた。父はいつものように、あれこれと長く話し続けた。

母は澄音を産んだときの難産で亡くなり、父はひとりで澄音を育ててきた。20年以上苦労を重ね、今はただ、澄音が少しでも早く結婚し、落ち着いた暮らしを築くことだけを願っていた。

近ごろ父は体調を崩しがちで、自分に残された時間が長くないのではないかと不安に思っていた。そのせいで、澄音に仕事を辞めて見合いをするよう、何度も促していた。

けれど澄音は、清陽のためにずっと、恋人はいないと嘘をつき続けてきた。

今もまた父がそのことで言葉を尽くして説得してきた。澄音の胸は、きゅっと痛んだ。

澄音は目尻に滲んだ涙を拭い、震えそうになる声を必死に抑えた。

「お父さん、もう1日だけ時間をちょうだい。ちゃんと答えを出すから。答えが出たら……きっぱり諦めて、仕事を辞めてお見合いする」

父は仕方なくため息をついて了承し、電話を切った。

澄音はぼんやりと窓の外を見つめた。もう堪えきれず、涙が糸の切れた数珠のようにぽろぽろとこぼれ落ちた。

初めて人を好きになったのに、その気持ちはこんなにも無惨に踏みにじられた。

それでも澄音は、まだ諦めきれなかった。最後にもう一度だけ、確かめてみたかった。

清陽が部屋に入ると、ソファに横たわる澄音の姿が目に入った。赤いドレスが雪のように白い肌に映え、妙に視線を奪う艶があった。

清陽は気のない仕草でネクタイを緩め、柔らかな腰に結ばれたベルトへ指をかけた。その動きは、贈り物の箱にかかったリボンをほどくときのように、あまりにも何げなかった。

清陽の動きは静かだった。それでも澄音は目を覚まし、腰に触れるその手をつかんだ。目尻の涙がこめかみを伝い、黒髪の中へ消えていった。

澄音が目を覚ましたと知ると、清陽はもう遠慮しなかった。顔を寄せ、柔らかな赤い唇に口づけた。

澄音は拒まなかった。

ひとときの熱が過ぎたあと、澄音はベッドに横たわり、そばでタバコに火をつける清陽を静かに見つめていた。

部屋に入ってから、清陽は一言も話していなかった。

どうして会員制クラブまで来たのに個室へ入らなかったのか、そう尋ねることもなかった。澄音があの会話を聞いたかどうかなど、少しも気にしていないようだった。

骨ばった長い指がライターをベッドサイドに放るのを見て、澄音はようやく探るように口を開いた。

「来月で私、27歳になるの。さっきお父さんから電話があって、早くお見合いして結婚しろって言われた。私、うなずいたよ」

空気が一瞬、静まり返った。

しばらくして、清陽は身じろぎもしないまま、軽くうなずいた。

「いいんじゃないか。お前もそろそろ、自分の将来を考えるべきだ。

卒業してすぐ俺の秘書になって、もう4年以上になる。そのときは見合い相手を俺に会わせろ。俺が見定めてやる。お前がつまらない男に傷つけられるわけにはいかないからな」

澄音が最後に抱いていた期待は、その薄情な声音の中で、ゆっくりと沈んでいった。

翌日。

澄音が会社に来て最初にしたことは、退職願を書くことだった。

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