Share

第3話  

Author: むぎゅ
社長室はその一言で、死んだように静まり返った。

清陽は眉間を押さえた。声には、かすかな怒りが滲んでいた。

「引き継ぎも終わらせず、勝手に辞めるつもりなら、責任を問わないわけにはいかないな」

澄音は息がうまく吸えない気がした。目を伏せ、乱れかけた感情をどうにか整えた。

「社長、この件はすでに恋羽さんへ引き継ぎました。3回も念を押してから退社しております」

清陽は不快げに澄音を見やり、机の上のファイルを無造作に投げつけた。

「卒業したばかりの新人に責任を押しつける気か?澄音、お前は曲がりなりにも4年、俺の下にいた。それで思いつく言い訳がその程度か?」

ファイルが澄音のこめかみに鈍い音を立ててぶつかった。一瞬、視界が滲んだ。

――そうだ。4年も清陽のそばにいたのに、自分は入社して1か月の新人にも及ばないのだ。

「下がれ!1日だけ猶予をやる。今すぐ挽回策を考えろ!」

怒りを孕んだ清陽の冷たい声が耳にまとわりついた。澄音は結局、何も説明しなかった。黙ってファイルを拾い、うつむいたまま返事をした。

挽回策を考えるため、澄音は深夜まで本社ビルで仕事を続けた。

最後の社員がいなくなってから、澄音はようやくパソコンを閉じた。バッグを手に取り、帰ろうとして立ち上がった。

けれど本社ビルを出た途端、強いめまいが襲ってきた。澄音は無理に数歩進もうとしたが、やがて視界が真っ暗になり、その場で意識を失った。

次に目を覚ましたとき、澄音は病院のベッドに横たわっていた。

看護師は澄音が目を覚ましたのを見ると、眉をひそめて小言をこぼした。

「あなたね、妊娠2か月なのに、丸1日何も食べないなんてどういうこと?自分の体を大事にしなさすぎよ。親切な通行人が病院まで連れてきてくれたからよかったけれど、そうじゃなかったらお腹の子も危なかったんだから。

しばらく横になっていなさい。この点滴が終わったら帰れるから」

その言葉を聞いた瞬間、澄音の頭の中で雷が落ちたようだった。

――自分が妊娠している?

――もう2か月?

澄音はベッドに横たわったまま、頭の中が真っ白になった。

1時間後、点滴の薬液が残り少なくなってきた。澄音は窓の外に広がる真っ暗な空を見つめ、長いあいだ迷った末、清陽にメッセージを送った。今夜、あの家で会いたいと伝えるためだった。

【今夜、帰ってきてくれる?あなたに大事な話があるの。本当に大事な話なの】

点滴が終わると、澄音はひとりで弱った体を引きずるようにして家へ戻った。

邸宅街の一帯は停電していた。澄音は暗闇の中を手探りで玄関を開け、バルコニーへ出て、下にあるエントランスを見下ろした。

澄音は清陽を待っていた。

清陽が帰ってくるのを待っていた。妊娠を告げる瞬間を待っていた。そして、清陽が2人の未来に最後の判断を下すのを待っていた。

けれど時間は1分、また1分と過ぎていった。澄音は星が現れ、やがて消えるまで待った。朝いちばんの光が澄音の体を照らしても、清陽の姿は現れなかった。

澄音はスマホを手に取り、LINEを開いた。清陽からの返信は一言もなかった。

その代わり、会社の同僚たちがこっそり作った噂話用のグループチャットが、異様なほど盛り上がっていた。

澄音はそこを開き、大量のメッセージを遡った。最初は何の話か分からなかったが、1枚の写真にたどり着いた瞬間、ふいに動きが止まった。

写真の中の女性は、カメラに向かって花がほころぶように笑っていた。身につけている服もアクセサリーも高価なものばかりで、どこかの令嬢なのだろう。

けれど澄音を凍りつかせたのは、その華やかな装いではなかった。

その顔だった。

自分と八割ほど似た顔だった。

グループチャットには、すぐに新しいメッセージが流れ込んできた。写真の女性は社長の初恋の相手だと、誰かが書いていた。

その一文を見た瞬間、澄音は頭から足の先まで冷水を浴びせられたように、全身が冷えきった。

その一瞬で、澄音はすべてを理解した。

――だから清陽は、膨大な数の履歴書の中から私を選んだのだ。

――だから清陽は、いつも私の顔を見つめたまま黙り込んでいたのだ。

――だから清陽は、恋羽を選んだのだ。

すべて、自分たちがその初恋の相手に似ていたからだった。

何を感じているのか、自分でも分からなかった。澄音はただ目の前がぼやけていくのを感じながら、無意識に画面を滑らせた。

【社長の初恋って、この宝生家令嬢の宝生舞衣(ほうしょう まい)らしいよ。幼なじみで一緒に育って、舞衣が18歳のとき、海外で本格的に学ぶために社長へ別れを告げたんだって】

【昨日、舞衣のダンスカンパニーが国内ツアーを終えて、また海外へ発つ予定だったらしいんだけど、社長は夜にそれを聞いて、そのまま車を飛ばして空港へ行ったらしいよ。しかも伝手を使って、飛行機の出発まで遅らせたって!】

【だから仕事人間の社長が、今日に限って会社に来なかったんだ。初恋の相手とヨリを戻してたってことか】

乾いた音を立てて、スマホが床に落ちた。画面は蜘蛛の巣のようにひび割れた。

澄音は体を丸めた。大粒の涙が次々にこぼれ、服を濡らしていった。胸の奥には、無数の針を突き立てられたような細かな痛みが広がっていた。

ぞっとするような冷たさが手足へ伸びていった。朝日が差し込む穏やかな朝なのに、澄音は寒さに耐えきれないように震えていた。

過去の場面が、次々と目の前に浮かんだ。

――だから清陽は、いつも最新の海外ダンス誌を取り寄せさせていたのだ。

――だから清陽は、肌を重ねるたびに明かりをつけ、自分の顔を見ようとしていたのだ。

――だから昨夜、清陽は何の音沙汰もなかったのだ。

すべて、舞衣のためだった。

清陽は人を愛せないわけではない。ただ、愛している相手が自分ではなかっただけだ。

この瞬間、澄音は認めるしかなかった。

――もう、完全に終わったのだと。

澄音は真っ青な顔でクローゼットからスーツケースを取り出し、自分の荷物を一つずつ詰めていった。

たった30分で、澄音はこの家から自分の痕跡をすべて消した。

澄音は鍵をテーブルに置き、スーツケースを引いて玄関を出た。一歩ずつ、邸宅街を後にした。

通りまで出ると、澄音はタクシーを止め、病院の名を告げた。それから父に電話をかけ、退職の手続きが済んだこと、明日から見合いを始められることを伝えた。

父の声は、心から安堵しているようだった。

車は走り出した。窓の外の景色は瞬く間に流れていき、木々は緑の枝を揺らしながら、まるで別れを告げるように手を振っていた。

後部座席に座った澄音は、スマホに残っている写真を黙って見返した。この4年間、こっそり撮りためてきた清陽の写真だった。数秒後、澄音は一括削除を選んだ。

――もう、清陽を好きでいるのはやめる。

――もう、何も期待しない。

――終わった。

この瞬間から、自分と清陽の物語はすべて終わったのだ。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 身代わり秘書、社長の親友に溺愛求婚されました   第30話

    小さな階段の踊り場には、一つの窓があった。そこは、2人が初めて出会った場所だった。思い出の場所に戻ってきて、澄音は嬉しそうに目を細めた。「どうしてここへ連れてきたの?」悠臣は懐からあるものを取り出し、澄音の手へ渡した。澄音は一目見た瞬間、その笑顔を固まらせた。――結婚に必要な書類?悠臣の声は、得意げな響きに満ちていた。「さっき両親が俺たちをあれこれ問いただしているあいだに、藍姉さんがみんなの目を盗んで2階へ上がって、こっそり探し出してくれたんだ。金庫の暗証番号を割り出すのに、かなり苦労したらしい。さっき家を出るときに渡してくれて、兄貴を見習えって言われたよ」澄音は思わず、藍が個性的なスカート姿のまま、こそこそ家中を探し回る様子を想像してしまった。――どうして結婚するだけなのに、こんなに後ろめたいことをしているような気分になるのだろう。澄音が何も言わないのを見て、悠臣はようやく顔から笑みを消した。澄音の表情を注意深く観察した。澄音の顔には、怒っているような、喜んでいるような、悲しんでいるような、笑っているような、複雑な色が浮かんでいた。悠臣には読み解けなかった。だが以前、実家から書類をくすねて入籍を強行する話をしたときのやり取りから、今は責任をなすりつけるべき場面だと判断した。「もちろん、これは全部藍姉さんの提案だ。俺は少し意見を言っただけで、最終決定権は君にある。澄音、もう少し待ちたい?」澄音は顔を上げた。複雑な表情を和らげると、その書類を大切そうに悠臣の手へ戻した。「こうやってこっそり持ち出すのは、やっぱりよくないと思う。ご両親も、いつか気づくわ」悠臣の顔に、かすかな失望が浮かんだ。けれど澄音の顔には、いたずらっぽい笑みが広がった。「だから、急いで役所で手続きを済ませて、元の場所に戻しておかないと。ご両親に気づかれる前に!」突然変わったその言い方に、悠臣は完全に不意を突かれた。少し固まってから、ようやく澄音の言葉の意味を理解した。嬉しさのあまり、また澄音を抱き上げて回ろうとした。幸い、その場所は狭くて動き回れなかったため、澄音はどうにか難を逃れた。だが悠臣は喜びで頭がいっぱいになっていた。一晩眠ったら澄音の気が変わるのではないかと心配し、今すぐ夜が明けてほしいとさえ

  • 身代わり秘書、社長の親友に溺愛求婚されました   第29話

    悠臣は2人が初めて会ったときの細部を、すべて覚えていた。ゆっくり歩きながら、一つずつ語っていった。「『君のワンピースは、たしかにお姫様が着るようなものじゃない』って俺は言った。すると君の顔は、一瞬でさっと青ざめた。どうして君がそんなに悲しむのか、あのときの俺には分からなかったんだ。でも俺は慰めるつもりで、こう言った。きれいなドレスを持っていなかったシンデレラも、最後にはガラスの靴を履いた。だからドレスなんて、そんなに大事じゃないだろうって」澄音の頭の中でぼやけていた記憶が、悠臣の声に導かれて少しずつ蘇った。――思い出した。あのとき、自分が何と返したのかを。「じゃあ、ガラスの靴は持ってきたの?」2人が同時にその言葉を口にしたとき、ちょうどホールの中央にたどり着いていた。澄音はテーブルの上に置かれた透明な箱を見た。中には銀色のハイヒールが入っていた。悠臣は重ねた2人の手を、その箱の上へそっと置いた。声は柔らかかった。「澄音、今日はガラスの靴を持ってきた。もうすぐ12時だ。俺と一緒に行ってくれる?」一方、その頃。 朔哉が澄音の番号を呼び出そうとスマホに触れた瞬間、別の手によってその動きは止められた。朔哉が顔を上げると、ソファに横たわっていた清陽が目を覚ましていた。いつから起きていたのか、どこまで聞いていたのかは分からなかった。朔哉は慌てて説明しようとした。「清陽、俺はただ、お前のために澄音に聞いてみようと……」言いかけたところで、清陽に遮られた。その声はひどくかすれ、本来の響きが分からないほどだった。「分かっている。でも、もういい」部屋はそのまま静かになった。清陽はソファにもたれたまま、少しも動かなかった。また眠ってしまったようにも見えた。朔哉は黙って立ち上がり、明かりを消して部屋を出た。長いあいだこらえていた清陽の涙は、ようやく誰の目にも触れることなく流れ落ちた。清陽は、澄音を取り戻せると思っていた。だから時間をかけて新居を整え、プロポーズの準備をし、式場まで用意していた。胸いっぱいの期待を抱いて、プロポーズしに行くつもりだった。だが澄音の淡々とした拒絶の言葉で、清陽の感情は完全に崩れ去った。ポケットに入れていたダイヤモンドの指輪を、清陽は取り出す勇気がなかった。

  • 身代わり秘書、社長の親友に溺愛求婚されました   第28話

    悠臣は澄音を、営業を終えて静まり返ったホテルへ連れて行った。入口で澄音に目隠しをし、手を引いてゆっくりとホールへ入っていった。階段を一段ずつ上がるたび、悠臣は澄音を支え、とても慎重に歩いた。ホールの入口に着いたところで、澄音のポケットの中のスマホが鳴った。目隠しをされていて見えないため、澄音はスマホを悠臣に渡し、誰からか見てほしいと頼んだ。悠臣は画面に表示された名前を見つめ、嘘をついた。「知らない番号だ。たぶん迷惑電話だろう」澄音は切っておいてと頼んだ。悠臣は前方の扉を開け、澄音の目隠しを外した。そして通話ボタンを押して応答するのと同時に、口を開いた。「澄音、今日ここへ連れてきたのは、君にプロポーズするためなんだ。気づいていた?」澄音は気づいていた。ホテルの名前を見た瞬間、悠臣の考えは分かっていた。ここは、澄音が初めて悠臣と出会った場所だった。あのころ、澄音は大学を卒業したばかりで、清陽の秘書になったばかりだった。清陽に連れられて、このパーティーへ出席したのだ。澄音は名家の集まりに厳しいドレスコードがあることなど知らなかった。そのため、ごく普通のワンピースを着てきてしまった。清陽の秘書としてそんな場に出席した彼女の装いは、当然のように会場中の嘲笑を招いた。清陽もそのことで腹を立て、澄音を1人置き去りにして姿を消してしまった。澄音は広い会場で途方に暮れた。四方から向けられる冷たい視線やヒソヒソ話に耐えながら、1人で出口を探した。恥ずかしくて、悲しくてたまらなかった。逃げるようにして人気のない片隅へたどり着き、そこで1人くつろいでいた悠臣に出会った。悠臣は窓辺に座っており、足音を聞いて振り返った。澄音は、そのとき悠臣がこちらを見た瞳を今でも覚えている。きらきらと明るく輝いていた。まるで夜空に瞬く星のようだった。今、このホールには誰もいない。けれど室内には、何年も前のあのパーティーの飾りつけがそのまま再現されていた。人の背丈ほどあるケーキ、美しいフラワーアレンジメント、積み上げられたシャンパンタワー、色とりどりのスイーツ。ぼんやりと、澄音は4年前の、まだ右も左も分からなかったころの自分に戻ったような錯覚に陥った。悠臣は澄音の手を取り、会場の中へ歩いていった。「澄音、

  • 身代わり秘書、社長の親友に溺愛求婚されました   第27話

    朔哉がこれほど打ちのめされた清陽を見るのは、久しぶりだった。朔哉の記憶の中で、親友がここまで自暴自棄になったのは、舞衣に振られたときまでさかのぼる。頼んだばかりの酒20本がまた空になり、清陽はもう酔って意識もおぼつかない。それでもスタッフに、早く酒を持ってこいと催促していた。清陽の意識はすでにぼやけていた。だが胸の痛みだけはまだ暴れ続けていた。清陽は朦朧としたまま1杯、また1杯と飲み下したが、どうしても自分を麻痺させられなかった。朔哉はスタッフにチェイサーを持ってこさせた。それから清陽の手にあるグラスを奪い取り、中身をテーブルへぶちまけ、必死に言い聞かせた。「清陽、もう飲むな。これ以上飲んだら胃がもたない。また病院へ運ばれるぞ」だが清陽はテーブルに突っ伏し、縁から滴る酒を口で受けようとした。砂漠に閉じ込められた死にかけの人間が、最後の水をすするような、痛ましい姿だった。朔哉には止められなかった。清陽が壊れていくのを、ただ見ているしかなかった。清陽は澄音に容赦なく拒絶されてから、毎日のように酒に逃げていた。朔哉は椅子に深く沈み込み、清陽が酔った勢いで漏らした本音を思い出した。胸の奥に、かすかな苦さが広がった。朔哉は清陽を長く知っていた。清陽は普段は冷徹に見えても、内には熱い感情を秘めており、いつも本心とは裏腹な行動をとってしまう男だった。清陽が澄音を特別に思っていることにも、朔哉はずっと前から気づいていた。だから何度も親友に忠告し、2人きりになれる時間も作ってやった。清陽が素直に自分の気持ちを打ち明けられるようにと。だが、結局は遅すぎたのだ。スタッフが先ほどのチェイサーを運んでくると、清陽は一口飲んだだけで、水はいらない、酒を出せと騒ぎ、もがくようにカウンターへ向かおうとした。朔哉が慌てて追いかけると、酔った清陽は見知らぬ女性を抱きしめ、声を上げて泣いていた。舞衣に振られたときでさえ、清陽は涙を一滴も流さなかったというのに。清陽が澄音をどれほど深く愛していれば、ここまで取り乱すのか。朔哉には想像もつかなかった。朔哉は前へ出て親友を支え、個室へ引きずるように戻した。ひとしきり泣いたあと、清陽は深く眠り込んだ。朔哉は長いあいだ、ぼんやりと座っていた。そして意を決して、清陽のスマホを手に取った。

  • 身代わり秘書、社長の親友に溺愛求婚されました   第26話

    だが澄音には、凌たちのように実家から書類をくすねて入籍を強行する気もなければ、悠臣の両親に会ってすべてを打ち明ける勇気もなかった。藍と一緒にいるとき、澄音はときどき遠回しに桐生家の両親について尋ねてみた。豪快な藍でさえ、義父母の話になるとため息をついた。澄音はますます、自分から挨拶に行きたいとは言い出せなくなった。1日、また1日と時間が過ぎていく。父の退院の日が近づくにつれ、澄音は不安で胸がいっぱいになり、食事も喉を通らなくなった。悠臣はそんな彼女を黙って見守っていた。澄音が何に悩んでいるのか、悠臣にはよく分かっていた。だから思い切ってある週末、悠臣は半ば強引に澄音を実家へ連れて帰り、両親に引き合わせたのだ。悠臣にも、両親の考えは読みきれなかった。この数日、凌がそれとなく吹き込んでくれた話が効いているのかどうかも分からなかった。ところが事態は、桐生家の兄弟にも、藍にも、そして澄音にも予想外の展開を見せた。両親は賛成とも反対とも言わなかった。ただ、とても静かに食事を終えたのだ。食後、全員でリビングに集まり雑談をしていた。悠臣も澄音も、内心ではひどく緊張していた。桐生家の両親は結婚が遅く、40歳近くになってからようやく2人の子に恵まれた。そのため、息子たちへの教育は厳格だった。凌は幼いころから跡取りとして厳しく育てられてきた。にもかかわらず、実家から必要書類をくすねて勝手に入籍するという前代未聞の騒動をしでかし、両親を長く怒らせた。悠臣は凌よりは甘やかされて育った。だが長男の1件があったため、母はずっと悠臣の結婚相手選びに目を光らせていた。普段は親孝行な悠臣が、結婚のことになるとここまで反抗的になるとは誰も思っていなかった。しかも連れてきたのは、家格も釣り合わず、界隈でよからぬ噂まで流れている女性だったのだ。桐生家の両親はそのことで、長いことため息をついていた。だが2人は、悠臣が凌と同じ無茶をするのも恐れていた。そのため頭ごなしに反対する姿勢は見せられず、ひとまず静観を装うしかなかった。それなのに悠臣は、両親の意向も確認せず、突然澄音を家へ連れてきたのだ。両親は内心では腹を立てていた。けれど、ここで怒りをぶつけるわけにもいかなかった。2人はソファにかしこまって座る澄音を、黙ってじっくりと観察

  • 身代わり秘書、社長の親友に溺愛求婚されました   第25話

    澄音は自信たっぷりにその挑戦を受けて立ち、賭けの条件を尋ねた。悠臣は意味ありげに笑った。「今はまだ教えない。そのときになれば分かる」澄音が入社した初日、悠臣は仕事を口実に、彼女の執務室へ何度も顔を出した。そのせいで澄音はすっかりうんざりしていた。澄音は何度も、きちんと仕事をして自分の邪魔をしないよう悠臣に釘を刺した。悠臣は表面上は素直にうなずくものの、実際には少しも態度を改めず、空き時間ができるたびにふらりとやって来た。やがて、そんな頻繁な行き来はすぐに凌の耳に入った。凌は2人を自らの執務室に呼び出し、静かで威圧感のある声できっちりと説教をした。澄音は凌の執務室を出るなり、悠臣の耳を引っ張った。「来ないでって言ったのに聞かないから、桐生社長に見つかったじゃない。初日から私の立場がないでしょ!」悠臣は謝ろうともしなかった。悪びれる様子など微塵もなく、にやにやと笑っていた。「澄音、君は初日から叱られた。君の負けで、俺の勝ちだ」澄音は最初、何を言われているのか分からなかった。勝ち負けとは一体何の話なのか。悠臣が数日前の賭けを持ち出して、澄音はようやく気づいた。――すべて悠臣がわざと仕組んだことだったのだ。澄音が叱られるように仕向け、あの賭けに勝つために、わざとあんな真似をしたのだ。澄音の怒りは頂点に達した。悠臣を押しのけ、眉をひそめたまま執務室へ戻ると、まず秘書に言いつけた。今後は悠臣を必ず引き留め、もう執務室へ通さないように、と。勝つために手段を選ばなかった悠臣は、結局その高くつく代償を払う羽目になった。それから1週間、澄音は徹底的に悠臣を無視した。最後は悠臣が藍に泣きつき、間に入って弁解してもらって、澄音はようやくしぶしぶ態度を軟化させた。けれど悠臣は後悔していなかった。その賭けを使って、とても大事な目的を果たそうとしていたからだ。だから悠臣は、何としても勝たなければならなかったのだ。澄音の父は、娘から悠臣との結婚というおめでたい話を聞いて以来、見違えるほど前向きに治療に取り組むようになっていた。医師たちの懸命な治療の甲斐あって体は少しずつ回復し、もうしばらく様子を見れば退院できるとまで告げられた。だが、澄音は密かに頭を抱えていた。あのとき澄音は悠臣のペースに押し切られ

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status