LOGIN使者の男に導かれ、朱璃(しゅり)は延明宮の勝手知ったる華やかな回廊を離れ、王宮のさらに奥深くへと歩みを進めていた。
後宮を区切る重厚な門をくぐり、政治の表舞台である外廷エリアへ。その一角にある、成人した皇子たちが居を構える宮殿の一つ――第二皇子、劉 瑛凱(リウ・エイガイ)の住まう『驍駿宮(ぎょうしゅんきゅう)』が、今回の目的地だった。 お付きの侍女として連れてきた春蘭(しゅんらん)は、あまりの厳重な警備と張り詰めた空気に、生きた心地がしない様子で朱璃の斜め後ろを付いてきている。 やがて、驍駿宮の奥深くにある、一見すると何の変哲もない、しかし周囲に人の気配が一切ない不気味な一室の前へと辿り着いた。 「瑛凱皇子殿下。朱璃様をお連れいたしました」 使者の男が扉に向かって低く声をかける。 一瞬の静寂の後、奥から響いたのは、どこか気だるげで、それでいて不思議と耳に残る低音だった。 「――入れ」 朱璃は一度、後ろの春蘭を振り返った。怯える彼女を安心させるように小さく頷いて見せると、「ここで待っていなさい」 と静かに告げる。そして、引き締まった表情のまま、一人で部屋の扉を押し開けた。 「失礼いたします。第二皇子、瑛凱様に拝謁いたします」 入室するなり、朱璃はお妃様としての完璧な所作で膝を突き、深々と頭を下げた。 龍蘭(りゅうらん)帝国の第二皇子、劉 瑛凱。国民から「優しく賢いお兄ちゃん」として絶大に慕われている太子・劉 瑛良(リウ・エイラ)のすぐ下の弟であり、世間では「身の程をわきまえない、やんちゃでちゃらついた皇子」と噂されている人物だ。 「面を上げよ。そこに楽に座れ」 投げやりな声に促され、朱璃は静かに顔を上げた。 視線の先、豪華な椅子に浅く腰掛け、だらしなく片足をひじ掛けにかけながら、退屈そうに金の扇を弄んでいる若き皇子の姿があった。整った容姿にはどこか不真面目な笑みが浮かんでおり、噂通りのちゃらけた風情に見える。 ――しかし、朱璃の「武人の目」は騙せなかった。 (……見事な構えだわ) 朱璃は内心で息を呑んだ。 だらしなく座っているように見えて、彼の身体の軸は寸分のブレもない。呼吸は深く、衣服の擦れる音一つ立てていない。いつどの方角から、いかなる暗殺者が襲撃してこようとも、一瞬で腰の剣を抜き、相手を細切れに仕留められる――それほどまでに研ぎ澄まされた、まぎれもない「一流の武人」の身のこなしだった。他王子よりも武術や戦に関して秀でているという噂は、どうやら本物のようだった。 「いやあ、あの夏の『千涼祭』での剣舞、実に素晴らしかったよ。あんなものを見せられたら、ただの落ちこぼれの落第姫だなんて、とても思えないなぁ?」 瑛凱はニヤニヤとした笑みを浮かべ、朱璃を値踏みするように見下ろしてくる。 朱璃は臆することなく、真っ直ぐに皇子の瞳を見つめ返した。 「お褒めに預かり光栄に存じます、瑛凱様。……ですが、殿下こそ、ずいぶんと重い『仮面』を被っていらっしゃるのですね」 その言葉が放たれた瞬間、瑛凱の弄んでいた扇がぴたりと止まった。 彼の細められた瞳の奥から、ちゃらついた光が完全に消え失せる。次の瞬間、部屋中の空気が一気に凍りつくような、圧倒的な「覇気」が室内に満ちた。普通の女人であれば、その気迫だけで呼吸を忘れて腰を抜かすほどの、凄まじい威圧感。 「――ほう」 瑛凱の口元から、低く愉しげな笑みが漏れた。 「世間の奴らは誰も気づかねえ俺の化けの皮を、一目で見抜くか。やはり、俺の目に狂いはなかったわけだ」 「お初にお目にかかります、朱璃様」 その時、瑛凱の椅子のすぐ傍ら、影のように控えていた一人の男が、楽しそうにクスクスと笑いながら一歩前に出た。 朱璃はその顔を見て、ハッと目を見張る。 「あっ……あの時の……!」 夏の深夜、最果ての離れの裏庭に音もなく現れ、朱璃の渾身の木剣を平然と受け流した、あの「夜の謎の男」だった。 男は表向きの顔として、恭しく丁寧な一礼を捧げる。 「瑛凱皇子殿下の身辺のお世話を任されております、典衛(てんえい)の梁 雲雀(リャン・ユンケ)と申します。夜道では大変失礼いたしました。以後、お見知り置きを」 典衛――すなわち、皇子の側近従者としての肩書きを名乗った雲雀。しかし朱璃は、この男がただの従者(世話係)ではないことを知っている。ただの従者が、あれほどの剣の腕を持つはずがない。 事実、雲雀の本当の裏の肩書きは、皇帝直属の特務部隊にも匹敵する隠密組織を束ねる『武衛典侍(ぶえいてんじ)』。この驍駿宮の、ひいては瑛凱皇子の「裏の牙」を統括する最高責任者だった。 「挨拶はそのくらいにしておけ、雲雀」 瑛凱は椅子から立ち上がると、本来の、低く鋭い切れ者の声音で本音を語り出した。 「単刀直入に言う。お前はこれから、こいつ(雲雀)の元で、俺の側近として仕えよ。……ただし、妃としてではなく、一人の『武人』としてな」 その言葉に、朱璃はわずかに眉をひそめた。嬉しさが込み上げるのを理性で抑え、わざと渋るような声を出す。 「……しかし、私は後宮の妃。いくら夜間とはいえ、そのような身分で驍駿宮や外廷を出歩けば、すぐに近衛の検問に捕まります。何より、妃が男のふりをして王宮を歩くなど、あまりに無謀ではございませんか?」 「ふっ、お前がそんな初歩的なことで怯むタマじゃないことくらい、分かっているさ」 瑛凱は不敵に笑うと、懐から一つの小さな木札を取り出し、朱璃の足元へと放り投げた。カラン、と軽い音が部屋に響く。 朱璃がそれを拾い上げて表面を見つめると、そこには自分の本名ではなく、見知らぬ他人の名前と役職が、見事な達筆で刻まれていた。 ――『驍駿宮直属・見習い近衛 高 漣(ガオ・レン)』―― 「それは、ここで働くための偽の通行証だ。お前はこれから夜の間だけ、その名前と役職を名乗り、ここで働くのだ」 雲雀が補足するように、細い目をさらに細めて笑みを深める。 「お妃様としての身分は、夜の間だけ私がお預かりいたします。王宮の武官たちには、私が直々に連れてきた期待の新入り(見習い)だと紹介しますので、ご安心を。……な? 高見習い」 高 漣。見習い近衛。 木札に刻まれたその文字を見つめる朱璃の胸の奥で、かつて倭国(日本)で剣を握っていた頃のような、熱い衝動が跳ね上がった。 (男として……一人の武人として生きるチャンス。この窮屈な鳥籠を、夜の間だけでも抜け出して、自分の力で戦える!) 朱璃は木札を強く握り締め、真っ直ぐに瑛凱皇子を見据えた。 「――承知いたしました。これより夜の間は、驍駿宮の見習い近衛『高 漣』として、殿下の盾となり、矛となりましょう」 「いい返事だ。近いうちに最初の任務を与える。精々、俺を楽しませてくれよ」 瑛凱の満足げな笑みを背に受けながら、朱璃は一礼し、部屋を退出した。 重い扉が閉まった瞬間、外の廊下で生きた心地がしないまま待っていた春蘭が、弾かれたように駆け寄ってきた。 「朱璃様……! お、お怪我はありませんか!? 一体、皇子殿下から何を言われたのですか……!?」 涙目になりながら自分の身体をペタペタと触って確かめてくる忠実な侍女に、朱璃は懐の木札をそっと衣の奥へと忍ばせながら、普段通りの穏やかで美しい微笑みを浮かべた。 「ええ、大丈夫よ、春蘭。少し、秋の祭りのお手伝いのお話をね。……さあ、延明宮へ戻りましょう。みんなが待っているわ」 優しくはぐらかしながら歩き出す朱璃の背中を、春蘭はまだ不安そうに見つめている。 しかし、前を見据える朱璃の瞳には、かつてないほど鋭い武人の光が宿っていた。 (これで本当に、引き返せない二重生活が始まる。私の本当の戦いは、ここからだ――) 秋の乾いた夜風が、王宮の長い回廊を吹き抜けていく。その風は、新しい運命の始まりを告げるかのように、朱璃の黒髪を激しく揺らしていた。 神凪朱璃(しゅり)が九等嬪から一気に『七等嬪』へと飛び級昇格を果たしてから数日。延明宮(えんめいきゅう)は、どこか浮き立ったような華やいだ空気に包まれていた。「麗華様、朱璃様! 内務府の太監様より、お二人の日頃の慰労と昇格のお祝いにと、結構なお品が届きましたよ!」 無邪気な声をあげて部屋へ入ってきたのは、離宮の若い侍女たちだ。うやうやしく掲げられた塗りの盆には、見たこともないような豪勢な銘菓と、色鮮やかな茶葉の詰まった壺が載せられていた。「あら、内務府から……? 珍しいこともあるものね。」 離宮の主である麗華は嬉しそうに目を細め、側近の翠蘭(スイラン)へ目配せをする。「翠蘭、せっかくのお心遣いだもの。皆でいただきましょう。お茶を淹れてちょうだい。」「かしこまりました、麗華様。」 手際よくお湯が注がれると、壺の中から取り出された茶葉がふわりと湯の中で広がった。その中には、乾燥された可憐な紫色の花びらや生薬が混ざっており、部屋中に甘く華やかな香りが満ちていく。(……内務府の太監が、わざわざ延明宮にこんな豪華なお祝いを……?) 侍女たちが「なんて綺麗なお茶!」と歓声をあげる中、朱璃だけは笑顔の裏で静かに眉の根を寄せた。前夜、正任近衛・高(ガイ)として瑛凱(エイガイ)殿下と密談した際、太監長をはじめとする内務府が皇后派の手先として動く危険性を確認したばかりだ。 やがて、淹れ立てのお茶が運ばれてくる。主である麗華が杯を口にする前に、長年の慣例に従って側近の翠蘭が一口含み、毒味を行った。「……とても香り高く、まろやかなお味でございます、麗華様。」 微笑みながら杯を置いた翠蘭。しかし、次の瞬間だった。「つ……っ!?」「翠蘭……?」 突如として翠蘭が胸をかきむしり、その場に激しく膝をついた。顔からは一瞬で血の気が引き、唇がみるみるうちに紫へと変色していく。
夜の静寂が、重々しく王宮全体を包み込んでいた。 月明かりが石畳を照らす中、巡回を行う近衛兵の靴音や夜警の拍子木が遠くで規則的に響いている。 神凪朱璃(しゅり)は、男装の衣装――『正任近衛・高(ガイ)』の装いに身を包み、堂々とした足取りで通路を歩いていた。王宮全域を守る近衛兵の中でも、見習い時代に第二皇子・瑛凱(エイガイ)殿下が居住する『驍駿宮(ぎょうしゅんきゅう)』周辺の警備部隊に配属されていた朱璃は、このあたりの巡回ルートや警備の隙を熟知している。さらに正任近衛となった今では、夜間に王宮内を移動していても怪しまれることはない。 すると、前方の角から松明を持った数人の近衛兵が歩いてくるのが見えた。朱璃が足を止めると、その先頭にいた見回り隊の隊長――張文(チャン・ウェン)部隊長が目を留めた。 「む、高(ガイ)か。」 「張部隊長。夜間の巡回、お疲れ様です。」 朱璃がすっと背筋を伸ばして礼をとると、張部隊長は満足そうに頷き、その肩をぽんと力強く叩いた。 「見習いを卒業して正任になったそうだな。お前の腕と判断力なら当然だ。ますますの活躍を期待しているぞ。」 「ありがたき幸せにございます。」 部隊長率いる隊がすれ違いざまに去っていくと、その隊の末尾にいた見習い時代の同期――気心知れた見習い近衛の友人二人組が、隊列から少し遅れて朱璃の元へニヤニヤしながら駆け寄ってきた。 「おいおい、相変わらず張部隊長からの受けがいいなぁ、漣(レン)!」 「本当だよ。正任昇格、おめでとう! さすが漣だな!」 声をかけてきたのは、華やかな顔立ちで優しい**明俊(ミンジュン)と、気さくで明るい永和(ヨンファ)**の二人であった。朱璃は苦笑いを浮かべながら声を潜めた。 「声が大きいよ、ふたりとも。……ありがとう。二人もじきに正任になれるさ。」 「へいへい。まあ俺たちはボチボチやるよ。……あ、そういえばお前、こんな時間に何してるんだ?」 永和が不思議そうに首をかしげると、朱璃はごく自然な様子で小さく微笑んで見せた。 「少し寝つけなくてな。夜風に当たるついでに、散歩がてら見回りをしていたんだ。」 「うわー、流石は正任の漣様だねぇ! 俺たちも一回でいいから『散歩がてら見回り』なんて格好いいこと言ってみてぇ
神凪朱璃(しゅり)の「九等嬪から七等嬪への飛び級昇格」という破格の沙汰は、瞬く間に後宮中を駆け巡った。 「朱璃様。七等嬪への昇格、本当におめでとうございます!」 「ふふ、あの皇帝陛下に認められて飛び級だなんて、後宮の歴史に残る快挙ですわね。」 華やかな彩りに満ちた宮殿で朱璃を迎えたのは、貴妃・蓮華(レンカ)様、賢妃・玲鳳(レイホウ)様、そしてもちろん主である麗華(レイファ)様であった。 二人は朱璃の快挙を心から祝福し、貴妃主催のお祝いの茶会を開いてくれたのだ。テーブルには、最高級のシルクの反物や、朱璃が好みそうな珍しい薬草・極上の茶葉といった豪華な祝いの品々が並べられている。 「お二人からの温かいお心遣い、身に余る光栄にございます。……ですが、私の方が位が下でございますのに、皆様に『朱璃様』と呼ばれるのは少し恐れ多く……。」 申し訳なさそうに遠慮する朱璃に、三人はそれぞれの反応を見せる。 「良いのですよ! あなたの淹れてくださるお茶やお菓子、知識には心から敬意を払っておりますの。私にとっては『朱璃様』ですわ。」 「ええ、位など関係ありません。私もそう呼びたいから呼んでいるだけですもの。」 上品に微笑む賢妃様と貴妃様。すると、横で聞いていた麗華様がパッと扇子を広げ、鼻息を荒くした。 「だ、ダメに決まっているでしょうお二人とも! 朱璃は私の延明宮の妃なのですからね! 私以外が気安くそんな……っ、でも、朱璃がすごいのは本当だから。……ふんっ、今回だけは許してあげますわ!」 相変わらずのツンデレを発揮する麗華様に、貴妃様たちは 「ふふっ。」 と笑い声を漏らす。 「いいのですよ、麗華様。困らせてしまい申し訳なかったわね。……それにしても、あの皇后派の苦々しい顔といったら…。…思い出すだけで胸がすくわ。」 悪戯っぽく微笑む貴妃様。楽しい時間はあっという間に過ぎ――。 「それじゃあ、そろそろお開きにしましょうか。朱璃様、またお茶会にご一緒していただけるかしら?」 「もちろんでございます、貴妃様。光栄に存じます。それでは、失礼いたします。」 朱璃はお暇の挨拶を静かに告げ、麗華様と共に離宮へと戻っていった。 * 離宮へ戻ると、留守番をしていた小鈴(シャオリン)が出迎えた。お祝いの品の豪華さに、
皇帝の重々しい一言が落ちた謁見の間。 息を呑むような静寂と張り詰めた空気の中、皇帝はそれ以上多くを語ることなく、静かに手元の杯を置いた。 「……見事であった。下がってよい。」 「はっ。身に余る光栄にございます。失礼致します。」 朱璃(しゅり)は静かに平伏すると、一切の乱れを見せない洗練された動作で立ち上がり、謁見の間を辞した。 その背中を見送りながら、玉座の横に座る皇后は (ふん……別に褒めそやされたわけでもない。ただ一言、気まぐれに言葉を賜っただけではないか) と、胸を撫でおろしつつ冷ややかな鼻笑いを漏らすのだった。 * 「朱璃! どうだったの!?」 「朱璃様! お咎めはございませんでしたか!?」 延明宮(えんめいきゅう)へ戻るなり、待たされていた麗華(レイファ)様をはじめ、小鈴(シャオリン)や翠蘭(スイラン)たちが一斉に駆け寄ってきて朱璃を取り囲んだ。 口々に問い詰めてくる皆に、朱璃が困ったように微笑みながら 「『見事であった、下がってよい。』とのお言葉をいただきました。」 と経緯を話すと、麗華様はほっと胸を撫でおろし、パッと扇子を広げた。 「……まあいいわ! 何も咎められず、皇帝陛下にお茶を召し上がっていただけただけでも上出来ですもの! よく頑張ったわね、朱璃!」 そこへ、侍女頭の桂花(ケイカ)が呆れたようにパンパンと手を叩きながら間に入ってきた。 「これこれ、みなさん。朱璃様がお困りですよ。お聞きしたい気持ちは分かりますが、無事に戻られたのですから少し休ませて差しあげなさい。」 桂花に窘められ、 「はーい……」 と散っていく侍女たち。そんな賑やかで和やかな時間を過ごし、その日は何事もなく平和に過ぎていった。 * ――翌朝。 朱璃が朝の支度をしながら、小鈴や春蘭(シュンラン)と昨日の謁見の思い出話をしていたときのことである。 バタバタバタッ! と廊下を激しい足音が駆け抜けてきた。 「し、朱璃様! 大変です、お客様がお見えです! 急いでお越しください!」 息を切らした侍女が飛び込んでくるなり叫んだ。 何事かと驚きつつも急いで支度を整え、朱璃たちが広間へと向かうと――そこではすでに麗華様がいつになくキリッとした表情で侍女たちにテキパキと指示を出
前夜の極秘の密会を無事に終え、朝を迎えた朱璃(しゅり)。 主である麗華(レイファ)様の元へ向かうと、案の定、麗華様は昨日の貴妃・賢妃との会話を思い出しては、気分が落ち着かないかのようにソワソワしていた。 「もうっ! 今日もあの二人のお姉さま方に朱璃を連れ回されたらどうしましょう。……朱璃は私の延明宮の九等嬪なのですからね!」 「ふふ、麗華様。そんなに怒られず、どうぞお気を鎮めてくださいませ。」 朱璃はくすりと微笑みながら、湯気の立ち上る淹れたてのお茶を麗華様の杯へと静かに注ぐ。 香り高いお茶の匂いが部屋に広がる中、朱璃は言葉を続けた。 「貴妃様と賢妃様お2人ともお茶の伝統や薬効に関心をお持ちなだけですわ。」 「そんなこと絶対にないわ! あの二人も朱璃の魅力に気づいたのよ。……絶対そうよ……!」 お茶を受け取りつつも、「私の朱璃」が他のお姉さま方に奪われてしまうかもしれない焦りから、キッと目を巡らせておこる麗華様。 そんな主の横で、専属侍女の翠蘭(スイラン)が 「まあまあ、麗華様……。朱璃様が他宮のお方からも高く評価されるのは、私共にとっても大変誇らしいことでございますよ。」 と苦笑しながら優しく宥めた。 そんな賑やかな朝のひとときを打ち破るように、宮の外から重々しい足音が近づいてきた。 現れたのは、皇帝直属の太監(たいかん)――侍従長であった。 「――九等嬪・朱璃に、皇帝陛下より勅命である!」 太監の甲高い声が響き渡り、一瞬で延明宮の空気が凍りついた。小鈴(シャオリン)はガタガタと震え出す。 「此度の茶会の噂、陛下の耳にも届いておられる。『泰然(タイゼン)王子を感銘せしめた倭国の茶と菓子を、直ちに御前(ごぜん)にて披露せよ』とのこと。急ぎ道具を整え、謁見の間へ参られたい。」 「えぇっ……。皇帝陛下からのお呼び出しですか!?」 驚く小鈴を余所に、パッと扇子を広げた麗華様は、待ってましたと言わんばかりに誇らしげに胸を張った。 「ふふん、当然ですわ! 朱璃の淹れるお茶やお菓子が世界一なのですから、皇帝陛下がお聞きつけになるのも時間の問題でしたのよ! ほら見なさい、私の朱璃が認められたのですわ!」 パッと扇子を広げて自慢げに胸を張る麗華様。周
「母上! あのような素晴らしいお茶や菓子を作れる朱璃殿が、なぜ九等嬪のままなのですか!? 父上もです! お二人はあの方の凄さを何もお分かりになっておられません!」 茶会が明けた翌日。皇后の宮には、興奮冷めやらぬ第3王子・泰然(タイゼン)殿下の叫び声が響き渡っていた。 「た、泰然……! なにを大声で言い出すのです、おやめなさい!」 「やめません! 私は……私は幼い頃から、倭国の朱璃殿が自分の婚約者になると聞いてずっと楽しみにしておりました! それなのに、いざ後宮へお迎えしてみれば九等嬪の雑用扱いだなんて、あまりに酷すぎます! なぜ私の大切な方をそのような扱いにされるのですか!?」 真っ直ぐな瞳に涙を浮かべんばかりにして、幼い頃からの憧れの姫への情熱と怒りを親にぶつける泰然殿下。 まさか自分の息子からそこまで痛烈に問い詰められるとは思ってもいなかった皇后は、動揺を隠せない。 (くっ……よりによって、この子があの倭国の姫にここまで執着していたなんて……!) 朱璃をハメようと意地悪く罠を仕掛けたはずが、かえって大事な息子の反抗期を引き起こし、隠していた不遇な扱いまで暴露されてしまったのだ。皇后は焦りを隠すように扇を固く握りしめ、厳しく言葉を返した。 「泰然、口を慎みなさい! どのような経緯があろうとも、一度後宮に入宮した者はすべて皇帝陛下の妃なのです。あなたが口を挟むことではありません!」 「ですが――っ!」 「泰然、貴方っ!」 「よい、皇妃。」 親子の激しい喧嘩を制したのは、それまで静観していた皇帝の重厚な声だった。 皇帝はあごに手を当て、どこか感心したように泰然を見つめる。 「ふむ……。そういえば倭国の九等嬪は、元はお前の婚約者として召し出された姫であったな。……泰然がそこまで熱弁を振るうほどのお茶と菓子か。一度、私も味わってみたいものだな」 「あ、えっと……父上……!」 「陛下……!?」 息子の一途な怒りと、それによって「朱璃」という存在に強い興味を抱いた皇帝。 皇后は自らの罠が完全に裏目に出て、息子にも夫にも朱璃の存在感を植え付けてしまったことに、ぐぬぬと唇を噛み締めて歯噛みするしかなかった。 さらに泰然殿下は、その日、同年代の幼い貴族や家臣たちにも 「朱璃殿の『くず餅』と茶は世界一な
神凪の屋敷の庭に、いつものように深い朝霧が立ち込めている。 つい昨日まで、この庭には木剣と木剣がぶつかり合う乾いた音が響いていた。手のひらを痺れさせ、腕を軋ませながら、父の重い一撃を必死に受け止めていたあの時間は、もうない。 代わりに、今朝の静寂を破って重々しく響くのは、旅支度をすべて終えた馬車の車輪が、湿った土を噛む音だけだった。 玄関先には、両親が並んで立っている。 父は武家としての威厳を保つように背筋を厳しく伸ばしているが、その瞳は朱璃を直視できず、どこか遠くの空を向いていた。その隣で、母は顔を伏せ、着物の袖口で小さく目元を幾度も拭っている。 ――家を、売る。 朱璃は
夕暮れの庭に、乾いた音が響いた。 木剣と木剣がぶつかり合い、火花の代わりに鋭い衝撃が空気を震わせる。「甘い」 低い声と共に、主人公の握る木剣が弾かれた。 手のひらが痺れる。 だが主人公――朱璃(しゅり)は、すぐに体勢を立て直した。乱れた呼吸を整えながら、再び父へ踏み込む。 夕日に照らされた長い黒髪が背中で揺れた。 本当なら、切ってしまいたい。 もっと短く。 弟のように。 そんな考えを振り払うように、朱璃は木剣を振るう。 しかし父の一撃は重い。 受け止めた瞬間、腕が軋み、木剣が地へ落ちた。 乾いた音が庭へ響く。「……参りました」 膝をつきながらそう言うと、父は







