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第六話 仮面の下の覇気

Author: 影山御影
last update publish date: 2026-07-10 15:00:00

使者の男に導かれ、朱璃(しゅり)は延明宮の勝手知ったる華やかな回廊を離れ、王宮のさらに奥深くへと歩みを進めていた。

 後宮を区切る重厚な門をくぐり、政治の表舞台である外廷エリアへ。その一角にある、成人した皇子たちが居を構える宮殿の一つ――第二皇子、劉 瑛凱(リウ・エイガイ)の住まう『驍駿宮(ぎょうしゅんきゅう)』が、今回の目的地だった。

​ お付きの侍女として連れてきた春蘭(しゅんらん)は、あまりの厳重な警備と張り詰めた空気に、生きた心地がしない様子で朱璃の斜め後ろを付いてきている。

​ やがて、驍駿宮の奥深くにある、一見すると何の変哲もない、しかし周囲に人の気配が一切ない不気味な一室の前へと辿り着いた。

​「瑛凱皇子殿下。朱璃様をお連れいたしました」

​ 使者の男が扉に向かって低く声をかける。

 一瞬の静寂の後、奥から響いたのは、どこか気だるげで、それでいて不思議と耳に残る低音だった。

​「――入れ」

​ 朱璃は一度、後ろの春蘭を振り返った。怯える彼女を安心させるように小さく頷いて見せると、「ここで待っていなさい」

と静かに告げる。そして、引き締まった表情のまま、一人で部屋の扉を押し開けた。

​「失礼いたします。第二皇子、瑛凱様に拝謁いたします」

​ 入室するなり、朱璃はお妃様としての完璧な所作で膝を突き、深々と頭を下げた。

 龍蘭(りゅうらん)帝国の第二皇子、劉 瑛凱。国民から「優しく賢いお兄ちゃん」として絶大に慕われている太子・劉 瑛良(リウ・エイラ)のすぐ下の弟であり、世間では「身の程をわきまえない、やんちゃでちゃらついた皇子」と噂されている人物だ。

​「面を上げよ。そこに楽に座れ」

​ 投げやりな声に促され、朱璃は静かに顔を上げた。

 視線の先、豪華な椅子に浅く腰掛け、だらしなく片足をひじ掛けにかけながら、退屈そうに金の扇を弄んでいる若き皇子の姿があった。整った容姿にはどこか不真面目な笑みが浮かんでおり、噂通りのちゃらけた風情に見える。

​ ――しかし、朱璃の「武人の目」は騙せなかった。

​(……見事な構えだわ)

 朱璃は内心で息を呑んだ。

 だらしなく座っているように見えて、彼の身体の軸は寸分のブレもない。呼吸は深く、衣服の擦れる音一つ立てていない。いつどの方角から、いかなる暗殺者が襲撃してこようとも、一瞬で腰の剣を抜き、相手を細切れに仕留められる――それほどまでに研ぎ澄まされた、まぎれもない「一流の武人」の身のこなしだった。他王子よりも武術や戦に関して秀でているという噂は、どうやら本物のようだった。

​「いやあ、あの夏の『千涼祭』での剣舞、実に素晴らしかったよ。あんなものを見せられたら、ただの落ちこぼれの落第姫だなんて、とても思えないなぁ?」

​ 瑛凱はニヤニヤとした笑みを浮かべ、朱璃を値踏みするように見下ろしてくる。

 朱璃は臆することなく、真っ直ぐに皇子の瞳を見つめ返した。

​「お褒めに預かり光栄に存じます、瑛凱様。……ですが、殿下こそ、ずいぶんと重い『仮面』を被っていらっしゃるのですね」

​ その言葉が放たれた瞬間、瑛凱の弄んでいた扇がぴたりと止まった。

 彼の細められた瞳の奥から、ちゃらついた光が完全に消え失せる。次の瞬間、部屋中の空気が一気に凍りつくような、圧倒的な「覇気」が室内に満ちた。普通の女人であれば、その気迫だけで呼吸を忘れて腰を抜かすほどの、凄まじい威圧感。

​「――ほう」

​ 瑛凱の口元から、低く愉しげな笑みが漏れた。

「世間の奴らは誰も気づかねえ俺の化けの皮を、一目で見抜くか。やはり、俺の目に狂いはなかったわけだ」

​「お初にお目にかかります、朱璃様」

​ その時、瑛凱の椅子のすぐ傍ら、影のように控えていた一人の男が、楽しそうにクスクスと笑いながら一歩前に出た。

 朱璃はその顔を見て、ハッと目を見張る。

「あっ……あの時の……!」

​ 夏の深夜、最果ての離れの裏庭に音もなく現れ、朱璃の渾身の木剣を平然と受け流した、あの「夜の謎の男」だった。

 男は表向きの顔として、恭しく丁寧な一礼を捧げる。

​「瑛凱皇子殿下の身辺のお世話を任されております、典衛(てんえい)の梁 雲雀(リャン・ユンケ)と申します。夜道では大変失礼いたしました。以後、お見知り置きを」

​ 典衛――すなわち、皇子の側近従者としての肩書きを名乗った雲雀。しかし朱璃は、この男がただの従者(世話係)ではないことを知っている。ただの従者が、あれほどの剣の腕を持つはずがない。

 事実、雲雀の本当の裏の肩書きは、皇帝直属の特務部隊にも匹敵する隠密組織を束ねる『武衛典侍(ぶえいてんじ)』。この驍駿宮の、ひいては瑛凱皇子の「裏の牙」を統括する最高責任者だった。

​「挨拶はそのくらいにしておけ、雲雀」

 瑛凱は椅子から立ち上がると、本来の、低く鋭い切れ者の声音で本音を語り出した。

​「単刀直入に言う。お前はこれから、こいつ(雲雀)の元で、俺の側近として仕えよ。……ただし、妃としてではなく、一人の『武人』としてな」

​ その言葉に、朱璃はわずかに眉をひそめた。嬉しさが込み上げるのを理性で抑え、わざと渋るような声を出す。

「……しかし、私は後宮の妃。いくら夜間とはいえ、そのような身分で驍駿宮や外廷を出歩けば、すぐに近衛の検問に捕まります。何より、妃が男のふりをして王宮を歩くなど、あまりに無謀ではございませんか?」

​「ふっ、お前がそんな初歩的なことで怯むタマじゃないことくらい、分かっているさ」

​ 瑛凱は不敵に笑うと、懐から一つの小さな木札を取り出し、朱璃の足元へと放り投げた。カラン、と軽い音が部屋に響く。

 朱璃がそれを拾い上げて表面を見つめると、そこには自分の本名ではなく、見知らぬ他人の名前と役職が、見事な達筆で刻まれていた。

​――『驍駿宮直属・見習い近衛 高 漣(ガオ・レン)』――

​「それは、ここで働くための偽の通行証だ。お前はこれから夜の間だけ、その名前と役職を名乗り、ここで働くのだ」

​ 雲雀が補足するように、細い目をさらに細めて笑みを深める。

「お妃様としての身分は、夜の間だけ私がお預かりいたします。王宮の武官たちには、私が直々に連れてきた期待の新入り(見習い)だと紹介しますので、ご安心を。……な? 高見習い」

​ 高 漣。見習い近衛。

 木札に刻まれたその文字を見つめる朱璃の胸の奥で、かつて倭国(日本)で剣を握っていた頃のような、熱い衝動が跳ね上がった。

(男として……一人の武人として生きるチャンス。この窮屈な鳥籠を、夜の間だけでも抜け出して、自分の力で戦える!)

​ 朱璃は木札を強く握り締め、真っ直ぐに瑛凱皇子を見据えた。

​「――承知いたしました。これより夜の間は、驍駿宮の見習い近衛『高 漣』として、殿下の盾となり、矛となりましょう」

​「いい返事だ。近いうちに最初の任務を与える。精々、俺を楽しませてくれよ」

​ 瑛凱の満足げな笑みを背に受けながら、朱璃は一礼し、部屋を退出した。

​ 重い扉が閉まった瞬間、外の廊下で生きた心地がしないまま待っていた春蘭が、弾かれたように駆け寄ってきた。

​「朱璃様……! お、お怪我はありませんか!? 一体、皇子殿下から何を言われたのですか……!?」

​ 涙目になりながら自分の身体をペタペタと触って確かめてくる忠実な侍女に、朱璃は懐の木札をそっと衣の奥へと忍ばせながら、普段通りの穏やかで美しい微笑みを浮かべた。

​「ええ、大丈夫よ、春蘭。少し、秋の祭りのお手伝いのお話をね。……さあ、延明宮へ戻りましょう。みんなが待っているわ」

​ 優しくはぐらかしながら歩き出す朱璃の背中を、春蘭はまだ不安そうに見つめている。

 しかし、前を見据える朱璃の瞳には、かつてないほど鋭い武人の光が宿っていた。

​(これで本当に、引き返せない二重生活が始まる。私の本当の戦いは、ここからだ――)

​ 秋の乾いた夜風が、王宮の長い回廊を吹き抜けていく。その風は、新しい運命の始まりを告げるかのように、朱璃の黒髪を激しく揺らしていた。

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